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大学礼拝「気前の良さをねたむ」2024/5/1

カテゴリー:大学礼拝

【マタイによる福音書20章1~16】
20:1 「天の国は次のようにたとえられる。ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行った。
20:2 主人は、一日につき一デナリオンの約束で、労働者をぶどう園に送った。
20:3 また、九時ごろ行ってみると、何もしないで広場に立っている人々がいたので、
20:4 『あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう』と言った。
20:5 それで、その人たちは出かけて行った。主人は、十二時ごろと三時ごろにまた出て行き、同じようにした。
20:6 五時ごろにも行ってみると、ほかの人々が立っていたので、『なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか』と尋ねると、
20:7 彼らは、『だれも雇ってくれないのです』と言った。主人は彼らに、『あなたたちもぶどう園に行きなさい』と言った。
20.8 夕方になって、ぶどう園の主人は監督に、『労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい』と言った。
20:9 そこで、五時ごろに雇われた人たちが来て、一デナリオンずつ受け取った。20:10 最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。しかし、彼らも一デナリオンずつであった。
20:11 それで、受け取ると、主人に不平を言った。
20:12 『最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。』
20:13 主人はその一人に答えた。『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。
20:14 自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。
20:15 自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。』
20:16 このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」

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今日のお話で、気前が良いのは神さまのことなのですが、わたしたち人間はなんで、ねたむのでしょうか? 生物学的には子孫をより良い形で残すための機能の一つなのだそうですが、現代では無用な、というより不用な感情の一つのようです。でも、この感情がある以上、わたしたちがこの「ねたみ」という感情とうまく付き合っていくことが、生きていく上で必要なことのようです。この妬みという感情は、人との比較によって生じてきます。そもそも人との比較でしか、自分の大切さを確認できないことが、問題なのですが、比較してしまうのはなぜなのでしょうか?

わたしたちは思います。あの人は、わたしよりも能力が劣る、だから与えられるものは少なくて当然である。責任を果たしていないのだから、権利ばかり主張するな。神の愛を受けるにふさわしくない人だから、大切にされなくても仕方がない、と。
今日のたとえ話にも、そんなわたしたちの思いが、反映されています。わたしはあの人より長い時間がんばっている。だからあの人より報酬がいいはずだ。あの人より愛される価値があるのだ、と。わたしはあの人たちより役に立つ、間に合う人間である、と。だからこのたとえ話を、すなおに聞くことが出来ません。

このお話しを聞いて、「みんな一デナリオンもらえて良かったな。」と思った方いらっしゃいますか? 「朝から一生懸命ずっと働いていた人が約束通り1デナリオンもらえて、最後に来て1時間も働かなかった人も1デナリオンもらえて、みんな1デナリオンもらえて良かったな…」と思った方、いらっしゃいますか? 多分いないのではないでしょうか?
今日のお話は、わたしたちがどこに、誰に自分を重ねて、この物語を聴いたのかということが、ポイントになってくるようです。わたしたちが自分を重ねて物語を聴いたのは、朝早くから雇われて、夕方まで汗水垂らして一生懸命に働いた、その人たちだったと思うのです。わたしたちは、ある意味その人たちに自分を重ねることが出来る一人一人なのだと言うことが出来ます。

今日のぶどう園の主人は、朝早くから人を雇いに行って、さらに12時頃と3時頃、そして夕方5時にまだ仕事が見つからず、広場に残っていた人々までも雇っています。労働時間が終わる6時まで、もうそんなに仕事をさせることが出来るはずもないにも関わらず、主人は雇ったのでした。これには、ブドウの収穫の後にすぐ雨期がやってくることもあって、収穫を急がなければならず、多くの労働力が必要だったという事情がありました。
それは良いとしても、このぶどう園の主人は賃金を支払う場面で、監督に『労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい』と指示しているんですね。おかしな話です。この指示さえ無ければ、みんな喜んで1デナリオンを受け取って帰って行ったのだと思います。しかし、まさにこの指示によって、朝早くから働いていた人たちは、最後に来て1時間も働かなかった人たちも、自分たちと同じ1デナリオンを受け取ったことを知って、不満を感じることになったのです。
※「1デナリオン」は当時の一日分の賃金だといわれています。
わたしたちは、最初に雇われた人たちに自分を重ねていますから、そんなことがあって良いものかと、気前の良い主人に不満を募らせます。

このぶどう園の労働者のお話しは、いわゆる日雇い労働者と呼ばれる人たちのお話であります。収穫の時には、働き手が必要ですので、仕事にありつくことが出来るかも知れません。しかし、そうではない仕事があまりない時期には、仕事に就くことが出来ずに、その日の食べ物にも事欠いてしまう。そのような人たちの物語です。
まだ名古屋の「笹島」という所に、職安・ハローワークがあった頃のお話しですが、朝早くに笹島に行きますと、現場で働く人たちを雇うために、ワゴン車が何台も止まっていました。その仕事を求めて、沢山の人たちが集まって来ます。そこでその情景に佇んでいますと、やはり最初に雇われていくのは、より若くて、体が丈夫そうで、力があってよく働きそうな人たちなのです。わたしたちの社会は競争社会ですので、そのように雇われる基準は明確です。いわゆる「生産性」が判断基準です。仕事に必要な人員が満たさせれば、ワゴン車は出発をし、後に残されるのは、高齢の方や体のどこかを怪我していたりする人たちなのです。折角朝早くから、仕事を求めてやって来ていても、雇ってもらえずに、寝床へと帰って行くことになるのです。
早起きしましたので、多くの人たちが通学・出勤する時間帯に、それぞれの寝床で一升瓶に入れた水を飲んでいる姿は、朝から酒を飲んでいるというような誤解を生じさせることになるのです。

この福音書のお話しでも、夕方の5時に雇われた人たちというのは、わたしたちの時代の年を取っていて、体が丈夫では無いために、仕事に就くことが難しく、日常的に生活の糧を得ることが難しい人たちの姿と重なって見えてくるのでは無いでしょうか? わたしたちは朝から晩まで一日一生懸命に働くことが出来る、生産性の高い人たちに自らを重ねてお話しを聞くことが出来るのですが、日常的に仕事に就くことが難しい、一日の食事も充分に摂ることが出来ない人たちにとっては、今日の物語は、みんなが同じように1デナリオンを貰うことが出来た、とても素晴らしい良い出来事のお話として、響いたのではなかったでしょうか?

今日のお話は「天の国は次のようにたとえられる。」と語り始められていました。天の国では朝から晩まで、ただ雇われることを願いながらも、この世の価値判断によって、存在を認めてもらうことすら出来なかった人たちが、他の人たちと同じように神さまから抱いてもらえたお話しなんだと思います。ですから主人からかけられた「あなたたちもぶどう園に行きなさい」という言葉は、とても大きな喜びをもたらしたのだと思います。

この物語を聴いて「まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。」と、つぶやくわたしたちは、生産性で人を判断するその価値観の転換を促されているのでしょう。神さまの「この最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。」』という眼差しに、わたしたちの視線を重ねて、すべての人間は平等でかけがえのない存在であることを心に留めて、自己中心的なわたしたちの歩みを方向転換し、一人の人をありのままに、その存在自体で受け入れることが出来る、神の国の到来を喜ぶことが出来る一人一人に変えられて参りたいと思います。(チャプレン 後藤香織)

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