マルコ15:31「他人は救ったのに、自分は救えない。」
今回はキリスト教の奥義とも言える「自己犠牲に徹するイエス・キリストの愛」について学びました。
記事の箇所はイエスが十字架刑に処された場面です。イエスは、そこを通りかかった人々や祭司長、律法学者たちに代わる代わる罵倒を浴びせられました。そこには、傲慢、いじめ、悪ふざけ、無知、権力志向、裏切り、ねたみ、不信仰、事なかれ主義…など、人間の持つ罪の醜さが渦巻いていました。
でも、その中にあって「他人は救ったのに、自分は救えない」という罵りだけは、実は、イエスにとっては最大級の褒め言葉だったことに、私たちは気づかないといけません。クリスチャンとは、このような自己犠牲的な愛をイエスから学び、そして実践することが神の御心に適うことだと信じる者だからです。
こうしてイエスは、私たちの罪を帳消しにするために、十字架の上で「いけにえ」として死んでくださったのです。私はその計り知れない大きい愛を感じる時、言葉を失います。そして「イエス・キリストについていきたい」と心から思います。
ところで今回、お話の中で「もし自分がその場にいたとしたら、どうするだろうか?」そんな問いかけをいただき、続いて「きっと私たちも記事の人間たちと同じように、イエスを見放すだろう」との言葉に胸がつまりました。
聖書の記事をこのように自分の身に置いて感じ、自分に与えられている問題として考えることは重要な学びです。
私はあらためて、イエスを殺した二千年前の人間たちと、現代の私たちとの精神構造は同じであり、つながっていることを知りました。技術や制度は進歩していますが、「心」は二千年前と同じかもしれません。そう、私たちと同じ仲間の「人間」が、イエスを十字架の上で殺したのです。そういう意味でも、福音書は人類にとって永遠に必要な書物だと言えます。
今回の学びから、私は本学院の理念「愛をもって仕えよ」の本当の意味を見出したと思っています。自己犠牲と自戒。これからも、その教えを大切にしながら、日々進んでいきたいと思います。(Y)