そこでヨハネは、洗礼を授けてもらおうとして出て来た群衆に言った。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。 悔い改めにふさわしい実を結べ。」(ルカ3:7~8)
街はクリスマスシーズン。人々の心を浮き立たせる光と色に溢れています。
しかしイエス・キリストの御生誕を待ち望むこの時期は、クリスチャンにとって、自分の生き方や日々の過ごし方を省みる静かな祈りの時となっています。
私は今回、そのような今、洗礼者ヨハネの教えを学ぶことの意味を感じています。
当時のユダヤは旧約聖書にあるダビデ王の栄光ある時代とは異なり、「風前の灯火」の状態でした。宗教指導者らは堕落し、神に仕える大祭司でさえも、商人と手を組んで、エルサレム神殿において儲けを生み出すシステムを作っていました。
そのような時代に、神は、洗礼者ヨハネを登場させます。
今回、ヨハネの洗礼は「宣言」であったと私は知りました。
それは、あくまでも悔い改めのスタートラインにすぎなかったのです。ところが民衆はヨハネの洗礼を誤解しました。洗礼を受けたら許され、神にずっと救ってもらえると…。そのような民衆の愚かな思いをヨハネは「まむしの子らよ、悔い改めにふさわしい実を結べ(3:7-8)」という言葉を使って叱りつけました。
さらに主をお迎えする前に心を整えておきなさい。新しい世では人間は平等になる。不正の道や悪の道に進まないよう気をつけなさいと諭しました。
ヨハネは自分を脇役に徹します。そして「花嫁を迎えるのは花婿だ。花婿の介添え人はそばに立って耳を傾け、花婿の声が聞こえると大いに喜ぶ。だから、わたしは喜びで満たされている。 あの方は栄え、わたしは衰えねばならない。(ヨハネ3:29)」 と語るのです。
私はヨハネの献身、謙遜さの深さを感じると共に、その後私たちのため、新しい世を作られたイエス・キリストの道の厳しさを知ります。
ルカ通読も次回は10回を迎えます。次回も静かに思いを巡らす学びの中で、人として誕生なされたイエス・キリストの姿を辿ります。(Y)