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カテゴリー:活動記録 の記事一覧

今日はマルコ通読十二回目が行われました。

今回心に響いた御言葉は・・・

そこで、イエスは言われた。「それほど言うなら、よろしい。家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘からもう出てしまった。」女が家に帰ってみると、その子は床の上に寝ており、悪霊は出てしまっていた。「(マルコによる福音書 7:29~30)

イエスは静かに祈るため、また体を休めるためにユダヤの地を離れたのでしょう。

ところが、汚れた霊に取りつかれた幼い娘を持つギリシア人の女が、娘から悪霊を追い出して欲しいと言いながらイエスの足もとにひれ伏し願います。

イエスは異邦人である彼女たちを「小犬」にたとえられました。たぶん、その幼い娘は家に飼われている子犬をいじめていて、その話を彼女はイエスにしたのでしょう。私はそこに人間イエスのユーモアを感じます。

その女も、そんなイエスに親しみを覚え、そして「イエスは慈しみをお与えくださる方なのだ」と直感したのではないでしょうか。

異邦人である自身の立場を理解しながらも謙虚に、彼女はイエスに願い続けます。
イエスは、そのようにすがる思いに、そして弱い立場の人間に、どのような時にも手をさしのべてくださるのでした。

私はイエスの慈しみを感じるたびに、その存在の大きさに包まれ、瞳から安心します。異邦人の女と同じように…。

これからもバイブルタイムをとおし、そのイエスの御跡を学んでいきます。
ただひたすら目の前のイエスの御心を信じて。(Y)

今日はマルコ通読十一回目が行われました。

今回心に響いた御言葉は・・・

それから、イエスは再び群衆を呼び寄せて言われた。「皆、わたしの言うことを聞いて悟りなさい。 外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである。(マルコによる福音書 7:14~15)

ファリサイ派の人々と数人の律法学者たちが、イエスを監視しようとエルサレムからやって来ました。それは弟子たちの日常生活にまで及びました。

イエスはいつものように彼らの質問に付き合わず、神の真理を解いて、逆に彼らの矛盾をつこうとされます。

私は今回伝えられた御言葉から、神から離れ、慣習に基づいた「人間の論理」を大切にし過ぎることの愚かしさを感じました。そんなものをいくら声高々に清いとしたところで、しょせんは人間が解釈したものに過ぎません。

その証拠にイエスは「人から出て来るものこそ、人を汚す」(7:20)と語ります。

神の真理に解釈を入れず、ひたむきに、信じ求めることの大切さを教えてくださるイエスに、私は畏敬の念を感じます。そして、それほどの栄光を与えてくださる方なのだと嬉しくなります。

イエスは幾度となく「悟りなさい」と仰っています。それは、かたくなな「現状維持」ではなく、神の光の「進化」へと私を導いてくださる。

師であり父のように…。(Y)

ハナダイコン

今日はマルコ通読十回目が行われました。

今回心に響いた御言葉は・・・

弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、幽霊だと思い、大声で叫んだ。皆はイエスを見ておびえたのである。しかし、イエスはすぐ彼らと話し始めて、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われた。イエスが舟に乗り込まれると、風は静まり、弟子たちは心の中で非常に驚いた。パンの出来事を理解せず、心が鈍くなっていたからである。(マルコによる福音書6:49~52)

またしても弟子たちはイエスを恐れ、おののきます。

イエスにただひたすら救いを求め集まった、五千人もの民衆にお腹いっぱいのパンや、魚をお与えになられた奇跡を目の当たりにしたはずなのに…。

私はこの記事から、人とは自身の体験にそぐわないことを無意識に封じ込み、恐れるもの(=イエス・キリスト)から「逃れたい」という性質があるのだと思いました。

そして、弟子たちを通して人が見えない光を無意識に心から「信じきる」ことの難しさも痛感しました。

一方、私は今回伝えられた御言葉から「信じられる」存在に出会えたことの喜びも感じます。今の私にとって、言葉をどれだけ上手く操られても、行動を伴わない状況には心が動くことはありません。

イエスは私たちに「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」との御言葉とともに、その姿で私たちに生きる希望を与えてくださいます。

頼りない私であっても、イエスは常に私の前に光の道を連ねてくださる✨

「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」

信じることの喜びこそ、信仰の道。

今回の通読により、私はその思いを一段と重ねることになりました。
御言葉から学びつつ、信じるその道をひたすら歩んでいきます。

まっすぐに、前を見つめて…。
主に感謝。(Y)

本日は「マルコ通読」の九回目が行われました。

今回響いたイエスの御言葉は…
ところが、多くの人々は彼らが出かけて行くのを見て、それと気づき、すべての町からそこへ一斉に駆けつけ、彼らより先に着いた。 イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。そのうち、時もだいぶたったので、弟子たちがイエスのそばに来て言った。「ここは人里離れた所で、時間もだいぶたちました。人々を解散させてください。そうすれば、自分で周りの里や村へ、何か食べる物を買いに行くでしょう。」これに対してイエスは、「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」とお答えになった。(マルコ6:33~37)

イエスは「出かけて行って悔い改めさせるために宣教した(マルコ6:12)」使徒たちをやさしい眼差しでお迎えになられました。

「自分たちが行ったことや教えたことを残らず報告した」(マルコ 6:30)
その様子は、夕に親鳥のもとに帰り一日の報告をする小鳥たちのようです😊✨
私はそこに使徒たちの宣教において経験した達成感と「喜び!」を感じました。こうやってイエスの使徒たちは自立の一歩を踏み出したのです。

一方、民衆たちも、使徒たちと同様に熱い思いを持ってイエスのもとに駆けつけます。
「イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。」(マルコ6:34)

今回の記事ではイエスの有名な奇跡―五千人の給食―を知ることが出来ます。私は初めてこの奇跡に触れた中学生の時「イエスさまは何でも形にしてしまわれる、すごい方なのだなぁ」と思いました。

そして、現実としてイメージできなくても不思議に「信じられる」気持ちが沸いてきました。そして私のイエスへの親愛はここで既に生まれていたのだと今、嬉しく感じられます。

五つのパンと二匹の魚。
これらを象徴とする奇跡をどのように捉えるのかを、福音書は私たちに問いかけています。
それは「目で見えるものと、見えないもの双方を与えられた上で、信頼、真理の拠り所を自分自身で勝ち取れ!」と、私たちに突きつけているように感じます。

光輝くイエスは何度も問いかけます。
そして…、実生活に流され、移ろいやすい私たちの心を導いてくださいます。

「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」(マルコ6:37)
このイエスのお答えに励まされた私は、保育者としてどのように考え行動し生きていくのかをバイブルタイムを通して熱く学んでいくつもりです。

今、私自身が喜びに包まれ益々イエスを頼る「子羊」そして「小鳥」となっていることに…恵みを感じます。

主に感謝。

本日は「マルコ通読」の八回目が行われました。

今回響いたイエスの御言葉は…
イエスは、「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである」と言われた。そこでは、ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、そのほかは何も奇跡を行うことがおできにならなかった。そして、人々の不信仰に驚かれた。(マルコ6:4~6)

イエスは弟子たちを従えて故郷ナザレにお帰りなりました。
会堂でお話になられると、人々はその教えやお姿に大変驚き「この人は大工ではないか(マルコ6:3)」とイエスを訝(いぶか)りました。

そのような故郷の人々の様子を、マルコは「人々はイエスにつまずいた(マルコ6:3)」とあらわしています。

彼ら彼女らはイエスを昔馴染みの「俺たちの知っているイエス」と見てタカをくくったのですね。イエスはそんな人々の姿をご覧になり、彼らの信仰心の無さに驚かれ、奇跡をおこされることなく故郷を離れられました。

私はこの記事より、心から純粋にイエスを欲し慕う信仰心こそがその人を救うのだ…、そんな思いを持ちました。

そしてイエスを信じる信じないの差はどこから来るのだろう。そんな問いかけを与えられたと感じています。

私たち人間では計り知れない愛と力をお持ちになられるイエス…。

そのようなイエスの御業を私はこれからも福音書から学び続けます。

それは真理につながる光、深い生き方への道しるべだと信じて😊✨

主に感謝。

本日は「マルコ通読」の七回目が行われました。

今回響いたイエスの御言葉は…
女は自分の身に起こったことを知って恐ろしくなり、震えながら進み出てひれ伏し、すべてをありのまま話した。イエスは言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」(マルコ 5:33~34)

この長血の女は社会より拒絶され孤独に苛まれていました。宗教指導者らから「汚れた者」として扱われていたからです。

そんな彼女がイエスの存在を知ったとき、どれほど純粋に畏敬の念を持ったのか…。私は、その思いをじっくり体感することに集中しました。

「この方の服にでも触れればいやしていただける。」(マルコ5:28)
彼女は押し迫る群衆を横目に、言葉を発することなく、彼にただすがりました。

イエスは言われた。
「娘よ。あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」(マルコ5:34)

そんな彼女の思いに応え、イエスは彼女の願いを体で感じて、すぐさま癒しを与えられました。人に近づくことも家族と交わることも絶たれていた彼女にとって、唯一の「希望」が信仰であったことを、イエスは一瞬にしてお気づきになられたのです。

「真剣な祈りから発せられる願いは、まさに信仰の証」
私はイエスの御言葉を真理だと確信して喜びを感じています。

さて✨バイブルタイムではその時代の地図を手もとに、イエスの軌跡を辿っています。また難解な言語である古代ギリシャ語に触れるチャンスもいただいています。

好奇心と真実に満ちた学び。
次回も真摯に理解できる私でありますように…✨

主に感謝。

本日は「マルコ通読」の六回目が行われました。

今回響いたイエスの御言葉は…
また、イエスは言われた。「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。 」(マルコ 4:26~29)

イエスは引き続きたとえを用いて民衆に話されますが、今回は「信じること」の大切さを噛み締めながら読み進めました。それは前回の学びから「神の国の秘密は素直に信じることで知ることができる」と感じたからです。

ブログを投稿するにあたり御言葉を何度も何度も繰り返し読んでいた私は、ハッとしました。

「御言葉の深さを読みきれない、このような今の私であっても。ひたすら真理を知りたいと願い、神さまを信じ、全てをおまかせしても良いのだ…。神さまはそんな幼い私の育ちをも、いつも見守ってくださるのだ」と。

私は小さい種…ひとりでに実を結ばせる…。
そんな私は「どうしてそうなるのか知らない種」なのです。

つまり、全てをおまかせし生きるのみです!

今喜びと共に一日一日が安心に包まれています。そしてバイブルタイムを重ねるごとに「師」としてのイエスへの憧れが増していきます。

また、今回は頭が爆発しそうな程、難しい宿題をいただきました😊✨

イエスさまの道をたどる旅は続きます…✨

主に感謝。

「マルコ通読」の五回目が行われました。

今回響いたイエスの御言葉は…

「種を蒔く人は、神の言葉を蒔くのである。」(マルコ 4:14)

イエスはどんな時も民衆の日常生活を題材にしたたとえを用いて話されました。まるで子どもたちに説いて聞かせるような柔らかいイメージです。

一方、弟子たちにたとえについて尋ねられた時のイエスの空気は全く異なっています。それは神の国の秘密を伝える唯一の指導者としての厳しい姿でした。

私はその姿に、「神の国の秘密は素直に信じることで知ることができるのだ」と伝えられているように感じました。

主の御言葉が自分の血となり肉となるためには信念を持って聞くことが重要ではないかと私は思いました。

また御言葉を知った後も繰り返し味わうことが必要なことも教えられました。

種を蒔く…

マルコ通読では毎回のように蒔かれる主の御言葉が、これからも楽しみです。

主に感謝。

本日は「マルコ通読」の四回目が行われました。

今回響いたイエスの御言葉は…

「また、まず強い人を縛り上げなければ、だれも、その人の家に押し入って、家財道具を奪い取ることはできない。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。」(マルコ3:27~29)

律法学者たちはイエスの存在に恐れを抱き右往左往して邪悪な考えを持ちます。でも、そんなことには無頓着なイエスは、稲妻のような光で世を照らし続けるのです。まさに光と闇。私はここに、イエスの深い霊性を感じました。

「あの男は気が変になっている」(マルコ3:21)

当時の風習や律法に縛られて頭でっかちになっていた人々はイエスの言動は理解できません。でもイエスに心を開放された人々は深いイエスの霊性を信じて癒されていったのです。

私は今回もイエスから大きな恵みをいただきました。それは明確なゴールを掲げ、霊的に進み続けることの強さと、その喜びです。

進化を待ち望み、常に前向きに。

これからもバイブルタイムではイエスの御言葉に学び、生きる喜びをいただいていきます。

心にも滋養を😊✨。

主に感謝。

本日は「マルコ通読」の三回目が行われました。

今回、私はファリサイ派の律法学者の含みある問いかけに主がお答えになられた「新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。」(マルコ2:22)
が印象に残りました

記事を深めると、その場には徴税人をはじめ「罪人」と呼ばれる人々やヨハネの弟子たちもおり、なりゆきを見守っていた様子がうかがえます。

私はこのお言葉から「人はいつでも悔い改め、赦され、そして生き直すことができるのだ」と感じるとともに、私自身の洗礼によって得られた喜びを重ねました。

新しいぶどう酒とはイエス・キリストの福音であり、また新しい革袋とは古い体制から解放され新しく生きていく人たちをあらわしていると思います。

主は、私たちに常に呼びかけられておられると私はこの回でも感じました。
「真の福音は新しい意識のもとでこそ得られる。素直な心でその意識を呼びおこせ…と。

次回もさらなる学びが続きます。

主にお赦しをいただいた喜びを常に忘れることなく、これからも学んでいきます。

主に感謝

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