【ガラテヤの信徒への手紙 5:13‐14】
兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。 律法全体は、「隣人を自分のように愛しなさい」という一句によって全うされるからです。
柳城での学生生活は、どのようなものでありましたでしょうか。さまざまな期待と不安を胸に、柳城に入学し、それ以来、みなさんは、たくさんのことを学び、経験されたことと思います。
一方で、昨年の4月以降、学生生活の締めくくりとしては、あまりにも予想外の出来事が起こりました。「ステイホーム」、「ソーシャル・ディスタンス」と言われる中での学生生活は、本当に大変だったと思います。また、いろいろと心残りのこともきっとあろうかと思います。
さて、この1年の間、私たちがこれまで耳にすることがなかった言葉で、急速に注目された概念に「エッセンシャル・ワーカー」がありました。私たちの日常生活を営む上で、欠かせない仕事に従事している人々のことです。例えば、健康や生命を担う医療・福祉の従事者、生活必需品を販売するスーパーやドラッグストアの店員さん、人や物の移動に関係するバスやトラックの運転手、私たちが出すゴミを回収する清掃局の方々のことです。私たちが、ステイホームやオンラインの暮らしができるのは、こうしたエッセンシャルワーカーがいるからに他なりません。これまで、こうした形で省みられることがなかったエッセンシャルワーカーの大切さ、重要性を、この1年を通じて認識させられたわけです。
そして、卒業される皆様の多くは、子どもたちの保育・幼児教育に携わることになると思いますが、その働きも、いうまでもなく、このエッセンシャルワークの重要な働きの一つに他なりません。
このエッセンシャルワーカーにとって大切なことはなんでしょう。
それは、接する相手によって、サービスの提供をしたりしなかったりする、ということがあってはならない、ということです。誰に対しても、拒否せずに、サービスを提供しなければならない、ということです。
例えば、お医者さんが、目の前にいる患者さんによって、この人は治療するけれど、この人は治療しない、ということがあってはなりません。スーパーの店員さんが、人を区別して、食料品を売ったり売らなかったする、などということがあってはなりません。
これは、保育の世界でも同様です。この子は優秀だから大事にしようとか、この子は先生の言うことをよく聞かない子どもだから、置き去りになってもしょうがない、などということがあってはなりません。皆さまは、コロナ禍の中で、このエッセンシャルワークの重要性・特質を、体験的・感覚的に学ばれました。
名古屋柳城短期大学の建学の精神は、「愛をもって仕えよ」という聖書の言葉です。隣人を愛することは、キリスト教の中心的メッセージですが、誤解される言葉でもあります。
隣人を愛することとは、仲間を大事にするということではありません。自分の隣にいてくれる人だけを愛するということではありません。自分の言うことを聞いてくれる人、自分にとって都合のいい人だけを愛するというのであれば、それは、キリスト教の愛とは関係ありません。
キリスト教の愛とは、むしろ、そういった自分の損得勘定を超えて、人を大切に愛していくこと、また、この社会の中で隅に追いやられている人を、たとえ自分の立場が危うくなったとしても、かけがえのない人として大事にすることです。
そして、このことは、先ほどお話ししました、エッセンシャルワーカーにとって、なくてはならないことでもあります。
今後、皆様が働かれる場におきましても、保育の平等や質ということと、組織・事業の効率性を天秤にかけ、この子の面倒は見切れない、など、そういった場面に、出くわすこともあるかもしれません。そんな時に、いやいや、この子こそ、大切にされなければならない、と主張するのは、なかなか言い出しにくいかもしれません。保育以外の道に進まれる方もいらっしゃると思いますが、こうしたことは人間の組織であれば、どこでも起きうることです。
そんな時に、ぜひ思い出していただきたいのが、自分の損得を超えて人々を分け隔てなく大切するということ、また、社会の隅に追いやられてしまう人こそ大切にされなければならないということこそ、エッセンシャルワーカーの特質であり、柳城で学んだ愛の精神である、ということです。そして、何よりも、神様が、誰一人排除することなく、全ての人たちを、ここにいるお一人お一人を、愛し、大切にしておられるということです。
忘れようとしても忘れることのできないコロナ禍での、この卒業の時。そのことを、むしろ深く思い巡らしながら、これからを歩まれることを願っております。 (チャプレン 相原太郎)