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【マタイによる福音書2:16】
2:16 さて、ヘロデは占星術の学者たちにだまされたと知って、大いに怒った。そして、人を送り、学者たちに確かめておいた時期に基づいて、ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させた。

あけましておめでとうございます。皆さんはどんな思いで新年を迎えましたか。「1年の計は元旦にあり」ということわざもありますが、「きっと今年こそは」と実行計画を心に決めた人もいることでしょう。不言実行でスタートするのもいいかもしれません。

占星術の学者たちが帰って行くと、主の天使が夢でヨセフに現れて言った。「起きて、子供とその母親を連れて、エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデが、この子を探し出して殺そうとしている。(マタイ2:13)           

今日は「わたしの中のヘロデ」という題でお話したいと思います。

ヘロデは極悪非道のヘロデ大王として知られています。彼はローマ帝国がパレスティナを占領した当初はガリラヤ地方の知事でしたがBC37年ごろユダ、ガリラヤ、サマリヤ、ヨルダン川東側地域の王になりました。イエスさまがお生まれになった時は王でしたが、イエスさまがエジプトに逃避しておられた時に死んでいます。(BC4年)

星に導かれて東方の占星術の学者たちがエルサレムに到着し、まず最初に訪ねたのがヘロデ大王の宮殿でした。ユダヤ人の王としてお生まれた方は当然王宮にいると考えたからです。しかし、現実はそうではありませんでした。

ヘロデはメシアとしてイエスさまがユダヤ人の王が生まれたことを知りませんでしたので、早速、祭司長たちや律法学者たちを呼び寄せて詳しく調べさせ、それがベツレヘムの地であることを知り、学者たちを先に行かせ、生まれた場所がわかったら、自分も拝みに行くから、帰りに寄って状況を詳しく知らせるようにと学者たちに伝言します。しかし、学者たちはメシアである幼子を拝んだのち、夢でヘロデのところに寄るなとのお告げを受けたので、ヘロデのところには寄らず帰国してしまいました。

学者たちに騙されたことを知ったヘロデは、大いに怒って、その地方に生まれた2歳以下の男の子を虐殺するという恐ろしいことを断行したのです。

そのとき、主の天使が夢でヨセフに現れ、マリアとイエスさまを連れて、エジプトへ逃れるよう伝えました。イエスさまはヘロデの毒牙を逃れ、ヨセフとマリアに守られながらエジプトへと逃避行されたのです。

さて、2歳以下の男の子を虐殺するという恐ろしいことを断行したヘロデとは一体どんな人物だったのでしょうか。神経過敏で偏執狂的な人物でした。一人の幼子の誕生が、彼をここまで恐怖に落とし入れたのは、衰えつつあった権力支配の座を、ひょっとしたらこの幼子に奪われるのではないだろうかと危うんだからにほかなりません。自分の地位を何が何でも守ろうとする、みじめな自己保身の姿をさらけ出した行動でした。どうすることもできない自分の運命に対する、暴力による最後の悪あがきでした。彼の怒りは自分の思い通りにいかなかったことに対してでもありました。占星術の学者たちに裏切られたという苦々しい思い、自分は絶対であり、誰もが自分の言うことには当然聞き従うに決まっていると思い込んでいた奢り、思い上がりが、彼の怒りを爆発させ、奇行へと走らせたのです。

皮肉なことですが、ヘロデの絶望による言動は、イエスさまによる希望と自由をもたらす新しい時代を到来させました。イエスさまの到来は闇の力、罪の支配のもとにある悪の力が衰退していくことを指し示すものでした。

今日の社会の中におけるヘロデ、わたしの中のヘロデとは何でしょうか。

日本でも法の下に公然となされる死刑執行、妊娠中絶、安楽死、性的不品行、蔓延している汚職のなどの闇の業は、まさにヘロデの業です。これらの闇の業、ヘロデの業が勝利している、勝っているようにさえ見えることが多い現実の社会です。仕方がない、諦めるしかないとわたしの中のヘロデを肯定して、希望を捨てかけてはいないでしょうか。自分の我を通すために、大切な人を無視したり、軽蔑したりしていないでしょうか。ひょっとしたら、知らず知らずのうちに、人を窮地に陥れてはいないでしょうか。

あの残虐極まりないヘロデが、今、わたしの中で生きて働いていることに気づくことが重要です。そんなヘロデもまだほんの幼子に過ぎなかったイエスさまの光によって、その心が恐怖でいっぱいになったのです。イエスさまはわたしの中のヘロデに気づかせ、新しく立ち上がり、再出発する力をくださいます。

幼子イエスさまはわたしたちの周囲にいます。皆さんが実習に行ったり、職場として働く保育の場、幼稚園、子ども園、保育園などの幼児の中に幼子イエスさまはいらっしゃいます。わたしの中のヘロデに気づきを与えてくれる存在、それが幼児たちです。幼子から学ぶ姿勢を常に忘れずに進んで行ってください。(チャプレン大西 修)

12月18日(火)に行なわれた礼拝の模様をお届けします。

●前奏:扶瀬ゼミ学生によるハンドベル演奏「牧人ひつじを」

 

●点火の祈り
「義の太陽であるキリストが皆さんを照らし、行く道の闇を取り除いてくださいますように。」

 
 

●聖歌  第69番「もろびとこぞりて」

●ページェント:柴田ゼミ学生、「キリスト教保育」受講生

1 受胎告知
2 ベツレヘムへの旅
3 野の羊飼いと天使
4 み子の誕生と羊飼いの礼拝
5 占星術の博士たちの礼拝

 
 
 
 
 
 

●福音書【ヨハネによる福音書 1:1-5、14】
1:1 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。
1:2 この言は、初めに神と共にあった。
1:3 万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。
1:4 言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。
1:5 光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。
1:14 言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。

 

●クリスマスメッセージ:チャプレン 主教 大西 修
こちらでご覧ください】

●ハンドベルによる演奏:扶瀬ゼミ学生
「いのちの奇跡」
フルート:中西 美月 マリンバ:広瀬 美月 編曲:扶瀬 絵梨奈

 

●聖歌 第76番「かいばおけの干し草に」

●奉献の祈り

●聖歌 第91番「荒野のはてに」

●聖歌「おほしがひかる」

 

●主の祈り(起立のまま)
天におられるわたしたちの父よ、
み名が聖とされますように。
み国が来ますように。
みこころが天に行われるとおり地にも行われますように。
わたしたちの日ごとの糧(かて)を今日もお与えください。
わたしたちの罪をおゆるしください。
わたしたちも人をゆるします。
わたしたちを誘惑におちいらせず、
悪からお救いください。
国と力と栄光は、永遠にあなたのものです。アーメン

●諸祈祷(起立のまま)

・名古屋柳城短期大学のための祈り
・東日本大震災と熊本地震を受けて―祈りをともに
・アッシジの聖フランシスの祈り
あなたの平和を人々にもたらす道具として、
わたしをお使いください。
憎(にく)しみのあるところに愛を、
不当な扱いのあるところにはゆるしを、
分裂のあるところには一致を、
疑惑のあるところには信仰を、
誤っているところには真理を、
絶望のあるところには希望を、
暗闇(くらやみ)には光を、
悲しみのあるところには喜びを、
もっていくことができますように。
慰(なぐさ)められることを求めるよりは慰めることを、
理解されることよりは理解することを、
愛されることよりは愛することを、
求める心をお与えください。
私たちは自分に死ぬことによって自分を見いだし、
自分自身に死ぬことによって
永遠のいのちをいただくのですから。

●祝祷

●特別活動奨励奨学生・課外活動団体の表彰式(一同着席)

●聖歌 第81番「神には栄え」

●後奏

 

✝ ✝ ✝

福音書を読めば分かる通り、イエス・キリストは約3年間の宣教活動を通して、人類にまことの愛を教えてくださいました。だから、クリスマスはその愛を一年で一番熱心にチャレンジする日ではないでしょうか。たとえイエスを知らなくても、この日に何らかの愛が実践できれば、クリスマスの意味は理解できていることになります。

その意味で、礼拝案内でも紹介した次の言葉は、たいへん参考になるでしょう。

『クリスマスがやってくるといつも思うんですが、神の名と起源に畏敬の念をいただくことは置いといても、クリスマスはクリスマスなりにいいものだと思うんですよ。親切になり、許しあえ、慈悲ぶかく、楽しいときでしょう。』

今年も11月の初旬から町のあちこちにイルミネーションが輝き始め、年の瀬の1大イベントとしてのクリスマスを迎えようとしています。

神のみ子である救い主イエスさまが全人類の救いのために、人間の姿をとってこの世にお生まれになった御降誕(クリスマス)の出来事を、心からの感謝と喜びをもってお祝いし、また再び来られる救い主イエスさまを、祈りのうちに待ち望む備えの時として、降臨節(アドベント12月1日から24日まで)を過ごしています。

そんな中でふと考えることがあります。クリスマスって一体何なの、一体どこにあるのだろうかと。心の目をしっかり見開いて、静まって見つめないとクリスマスが見えてこないのではないかと思います。ひょっとしたらキリスト教の精神を掲げているわたしたちの学院においても、クリスマスを祝う意味が薄らぎつつあるのではないか、そんな不信仰ともいえる思いが脳裏をかすめるのです。自己満足に陥り、自分だけのしあわせを追い求め、今年もクリスマスを当たり前のことのように迎えようとしている、そんな生き方でいいのかと、今わたしたちに問われているのではないでしょうか。

東日本大震災からやがて9年を迎えようとしている今この時にもなお、寒さの中で多くの不安を抱きつつ、厳しい生活を余儀なくされているたくさんの被災された人々に思いを馳せる時、そのような人々の中にこそ、本当のクリスマスが目に見えないけれども確かにやって来ているのではないかと思うのです。なぜなら人間には想像も出来ないような方法・手段をもって、人類の歴史に働きかけてこられる神が、インマヌエル(神は我々と共におられる)と呼ばれるイエスさまをキリスト(救い主)としてこの世にお遣わしになったからです。

なぜ、イエスさまは臭気漂う、薄暗く、むさ苦しい家畜小屋にお生まれになったのでしょうか。イエスさまは、路上に過ごす人々や、避難所や仮設住宅で生活する人々、孤独な人、痛み、苦しみ、数々の悩みや病いの中にある人々、愛に飢え渇いている人々、家庭内暴力に脅えている子供や婦人たちと共におられ、一緒に歩まれるお方だからです。

飼い葉おけに寝かされている乳飲み子の姿の中に、神がどれほど深く人類を愛しておられるかを窺い知ることができます。神が人となられてこの世に来られ、人には見えにくい影の部分に愛をもって入ってこられ、人と同じ生き方をなさるためにおいでになったのです。

ルカによる福音書では、最初に、救い主誕生の知らせが野宿して羊の番をしていた羊飼いに伝えられました。これは、大変意味深いことです。

その当時、羊飼いは貧しく、卑しい身分の者とされていました。ローマ帝国の圧政下にあって、苦悩の中にあえぐ人々を象徴するような存在でした。救い主誕生の知らせは身分の高い王侯貴族などにではなく、低い身分に追いやられ、差別され、弱い立場にある人々に伝えられ、その人々のために救い主が来られたことを教えているのです。

マタイによる福音書には、闇を照らす光として来られたイエスさまをキリスト(救い主)と信じ、東方の国から遠路はるばるベツレヘムにやって来た占星術の学者たちの話があります。

ところで、クリスマスの話は夜(闇)と深い関わりがあります。イエスさまが夜半に生まれたかどうかは定かではありませんが、イエスさまの到来が闇との関わりの中で受けとめられていることは確かです。ヨハネによる福音書はイエスさまを人間を照らす光とし、「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである」と記しています。

闇の中に生きる人間にとって、イエスさまこそ光であり、人類の闇を照らす光そのものなのです。闇とは人々の心の闇、人生の悲哀、貧しさ、病気、孤独、罪のしがらみ、不正な社会における差別の現実などを指します。イエスさまが来られたのは、そのような闇の現実に光を当て、白日のもとにさらすことによって、闇を退け、闇から人々を解放するためでした。

その光であるイエスさまにお会いするため、羊飼いたちは家畜小屋へと急ぎ、占星術の学者たちは遠路はるばる旅をしたのです。そのためには苦しみと忍耐に立ち向かう大決断を必要としました。

今夕はキャンドル・サービス(ろうそくの火による礼拝、サービスとは礼拝の意味です)が行われています。闇を照らす光としてこの世においでになったイエスさまを、わたしたちのうちに感謝と喜びをもってお迎えする礼拝です。

本当の喜びを味わうためには、必ず、苦しみと忍耐が伴います。

皆さんが教育実習、保育実習で本当の喜びを味わいたいならば、きっと苦しみと忍耐が必要になるに違いありません。それを避けることはできません。

本当のクリスマスを迎えるわたしたちに最も必要なことは、マザー・テレサの次の言葉に要約されます。

イエスさまが、わたしを愛してくださったように、
互いに愛し合いなさい。
イエスさまは、わたしたちのために、命をささげてくださいました。
それは、ちいさなことではありません。
ですから、わたしたちも、自分にとっていちばん大切なものを
差し出さなければなりません。

みなさん、クリスマスおめでとうございます!

(チャプレン主教 大西 修)

 

今年の表紙には、折り紙で作られた壁面作品が選ばれました。カードに記載された説明書きは以下の通りです。

✝ ✝ ✝

このクリスマスツリーは折り紙で作られています。「幼児教育の祖」と言われるフレーベルが教育に取り入れた折り紙を基本にして、園芸美化サークル(当時は総務課園芸ボランティア)のメンバーが工夫を凝らしました。本学院の創設者であるマーガレット・ヤング宣教師はこのフレーベルの教育方法を取り入れて保姆養成所と柳城幼稚園を開設し、キリスト教的な人間教育を母子に施すことを通して日本のために献身しました。このツリーは、その意思を光り輝かせるための作品でもあります。

鐘と聞くと皆さんは何を連想しますか。わたしは牧師なので、すぐ教会の塔の上にある鐘を思い浮かべます。チャペル(マタイ教会)の塔にも鐘があります。夕焼け小焼けで日が暮れて山のお寺の鐘の鐘が鳴ると歌われているお寺の鐘、除夜の鐘、ミレーの晩鐘なども思い出されます。昨日の朝授業の前に、第一学生ラウンジからきれいなハンドベルの音が響いてきました。クリスマス礼拝の時の練習のようでした。

鐘は時を告げる大切な役割をこれまで担ってきました。少なくなってしまいましたが、今でもまだその役割を果たしているところは残っています。けれどもいつの頃からか、鐘の音は騒音だと言われるようになりました。教会の礼拝の開始を告げる鐘の音や、お寺の朝夕定まった時を告げる鐘の音も消えつつあります。除夜の鐘も騒音扱いを受け、近隣に住宅が建て込むよりはるか以前からその地にあるお寺さんも例外ではありません。マタイ教会も塔の鐘を鳴らすのをやめてから50年以上になります。わたしが小学生の頃、鐘を撞くお手伝いをしたことを懐かしく思い出します。

ところで、皆さんは和田アキ子という歌手を知っていますか。知らないよねえ~。多分皆さんのおじいさん、おばあさんなら知っていると思いますが。2019年までにNHKの紅白歌合戦に39回出場、連続30 回出場、紅組のトリ7回、司会3回 もこなしているベテラン歌手です。

彼女のヒット曲で1972年にレコード大賞を受賞した「あの鐘を鳴らすのはあなた」(安久 悠作詞)があります。歌詞は次のとおりです。

あなたに逢えてよかった
あなたには希望の匂いがする
つまずいても 傷ついても 泣き叫んでも
さわやかな希望の匂いがする
町は今 眠りの中  あの鐘を鳴らすのはあなた
人はみな 悩みの中  あの鐘を鳴らすのはあなた

あなたに逢えてよかった
愛し合う心が戻ってくる
やさしさや いたわりや ふれあうことを
信じたい心が 戻ってくる
町は今 砂漠の中  あの鐘を鳴らすのはあなた
人はみな 孤独の中  あの鐘を鳴らすのはあなた
町は今 眠りの中  あの鐘を鳴らすのはあなた
人はみな 悩みの中  あの鐘を鳴らすのはあなた

わたしが最初にこの歌詞を読んだとき、すぐにイエスさまのことが浮かび上がってきました。聖書に記されているクリスマスの出来事、そしてイエスさまのご生涯に思いを馳せました。

あなたとは誰? それは神さまがこの世にお遣わしになったイエスさまです。イエスさまに逢えた喜びと嬉しさを伝える歌詞としてこれを読むことができます。多くの人々がイエスさまに遭ってよかったと心底思いました。つまづきから立ち上がることができ、心と体の傷が癒され、泣き叫ぶ苦しみから解放され、生きる希望が与えられました。砂漠のように渇いた心と悩みと孤独の闇の中でイエスさまに逢えたのです。

愛し合う心、やさしさ、いたわり、ふれあい、信じたい心がイエスさまに逢うことによって取り戻すことができたのです。社会の底辺で呻吟していた羊飼いたちがその代表者でした。

あの鐘とは神様からのメッセージ、良いおとずれ(福音)、イエスさまのお誕生のことです。その鐘を鳴らす(イエスさまのお誕生を告げ知らせる)お手伝いをしたのが、野原の羊飼いたちに現れた天使たちとそれに加わった天の大群でした。イエスさまのお誕生が、喜びと希望と愛の鐘を鳴らさせ、人々に眠りから覚めるべき時を告げたのです。

わたしたちが生きているこの世界は今、深い眠りと孤独との闇の中に漂っていないでしょうか。イエスさまのお誕生を記念するクリスマスは、一体わたしたちに何を呼びかけているのでしょうか。静かに考えてみたいものです。(チャプレン大西 修)


干し柿作り

16:30から1号館玄関ロビーにて、恒例の点灯式を行いました。

命の象徴であるツリーに「灯」を入れることで、クリスマスの意味を再確認しながら、イエス・キリストの誕生の恵みに対して感謝の祈りをささげました。

このツリー以外にも、学内では、クリスマス展がすでに開催されているし、クリスマスリースやアドベントカレンダー、折り紙クリスマスツリーなども飾られていて、ムードはすでにクリスマスを迎える準備に入っています。

さて、大西チャプレンからは、このツリーが、創世記に登場する「命の木」につながっているとのお話がありました。

場所はエデンの園。その中央に生える「命の木」と「善悪の知識の木」は特別な樹木です。「善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。(創世記2:17)」という神の命令に違反したアダムとエバに対して、神は「人は我々の一人のように、善悪を知る者となった。今は、手を伸ばして命の木からも取って食べ、永遠に生きる者となるおそれがある。(同3:22)」と判断して二人を園から追放します。

「永遠の命」はイエスが語る大切なテーマの一つです。なかなか実感できない言葉ですが、死が間近に迫る時には、かなり真剣に意識できるかもしれません。そんな時になって慌てないよう、日頃からイエスの言葉に耳を傾けておきたいですね。(加藤)

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネによる福音書3:16)

11月中旬から2週間にわたって行われた、1年生の幼稚園や子ども園での教育実習、2年生の保育園での保育実習が終わり一息ついたところですね。どうでしたか。とても長く感じた。楽しくて短く感じた、もっと続けたかった。思ったようにいかなくて、自信をなくしそう、しんどかった。子どもたち、先生方、保護者の方とのコミュニケ―ションがとても難しかった。ピアノがうまく弾けなかった等々、たくさんの感想、そして反省点が見つかったのではないでしょうか。その貴重な経験をプラスに考えて次の機会に生かしてください。2年生は4月から現場の保育士、幼稚園教諭としての働きが始まります。残された4か月を大切に準備の時として有意義に過ごしてください。

さて、キリスト教の教会には教会暦というカレンダーがあります。このカレンダーはクリスチャンの生活にとって大切なものです。なぜなら教会暦というカレンダーに従ってクリスチャンは1年を過ごすからです。このカレンダーの中で皆さんがよく知っているものがあります。12月25日のクリスマスイエス・キリストのお誕生を祝う日)、復活日(イエス・キリストの復活を祝う日、3月21日以後の満月の後の最初の日曜日)、キリスト教と関係なく日本で有名になった2月14日の聖バレンタイン日(バレンタインデー)、母の日(5月の第2日曜日)など、そのほかにもたくさんあります。

教会暦はクリスマスと復活日を軸にして、1年間に約50ある主日(日曜日)で組み立てられています。

教会暦のお正月(新年)は今年で言うと12月1日(クリスマス前の4つ目の主日~降臨節第1主日~)です。残る3つの日曜日(12/8、12/15、12/22)を経て、クリスマスを迎えます。言い換えると、教会暦はクリスマスを迎える準備の時から始まります。この4週間をアドベント(降臨節、降待節)とも言います。アドベントとは「来る、接近する」という意味のラテン語です。クリスマスは言うまでもなく神の御子イエスがキリスト(救世主、救い主)として、人類に平和をもたらすためにお生まれになったことを喜び祝う日です。

素晴らしい日を迎えるためには準備が必要です。ですから、クリスマスを本当に素晴らしい日として迎えるために、わたしたちがなすべき準備は、心をきれいにすること、悔い改めることです。神さまの前に自分の罪を告白し、それを赦していただき、自己中心的な生き方から、他の人々にも思いを寄せる生き方へと変えていただくのです。そうすることによって、心が美しくなり、クリスマスがもっともっと素晴らしい日になります。教会ではこの準備の期節に祭色として紫色を使います。祭壇や説教壇にかけられている聖布、聖職が着る祭服やストールも紫色です。紫は慎み、悔い改め、懺悔などを表わす色です。そしてこの4週間は祭壇に花を飾りません。クリスマスに心から大きな喜びを表わすための準備の時をそのようにして過ごします。クリスマスは勝利と祝福と喜びを表す白の祭色を用い、きれいな花を飾ってお祝いします。復活日はキリスト教での最大のお祝いの日ですから、祭色は勝利と祝福と純潔と喜びを表す白、花は復活のシンボルである百合の花を飾ることが多いです。

この復活日を迎える準備の期節を教会暦では大斎節(受難節、四旬節)~レント~と呼んでいます。やはり祭色は紫を用います。イエスが捕らえられ、鞭うたれ、十字架につけられた出来事(聖金曜日、受苦日)もこの時にあたりますが、この日の祭色は血の色である赤を用います。

ところで今、花屋や街のあちこちに真っ赤なポインセチアが美しく飾られています。ポインセチアは日の光を受けて成長しますが、昼間12時間は明るい所で、そして夜間12時間は真っ暗なところで1か月間を過ごすことによって、あのように目の覚めるような赤い色になるのです。何気なく見ていますが、そのように目に見えない大変な準備の時があって、あのようにきれいな赤になるのです。

わたしたちの生活もしっかり準備され、計画されたカレンダーがある時、人生の実りある結果を手にすることができます。教会暦というカレンダーは、わたしたちが何を目標に歩んで行けばよいのかという指標を与えてくれるものです。そしてなぜ生きるのか、生きる意味は一体なんなのかを、絶えず考えさせてくれるものです。

皆さんはどんな暦(カレンダー)に従って日々の生活をしていますか。(チャプレン大西 修)


創立記念講演会

爽やかな秋空の恵みの中、今年も主にあって創立記念行事を無事に終えることができました。感謝です。以下、式の模様をお伝えします。

■学校法人 柳城学院  創立121周年 記念礼拝 (午前9時30分~ 短大体育館)

●開始前
座席に配布された「柳城学院百二十周年記念誌」を読む学生さんたち

●前奏(扶瀬 絵梨奈 講師)と司式者団入場
 

●聖歌 第367番「イスきみはいとうるわし」【創立者愛唱歌】

●詩編 第23編
23:1 【賛歌。ダビデの詩。】主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。
23:2 主はわたしを青草の原に休ませ/憩いの水のほとりに伴い
23:3 魂を生き返らせてくださる。主は御名にふさわしく/わたしを正しい道に導かれる。
23:4 死の陰の谷を行くときも/わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖/それがわたしを力づける。
23:5 わたしを苦しめる者を前にしても/あなたはわたしに食卓を整えてくださる。わたしの頭に香油を注ぎ/わたしの杯を溢れさせてくださる。
23:6 命のある限り/恵みと慈しみはいつもわたしを追う。主の家にわたしは帰り/生涯、そこにとどまるであろう。

●創立121周年記念の祈り

永遠にいます全能の神よ、わたしたちのすべての時はあなたのみ手の内にあります。今、この学院が創立121周年を記念する時を迎えることができましたことを感謝いたします。この歴史の中で、あなたはわたしたちのさまざまな努力を最も良いものとして受け入れ、さまざまな出来事を達成へと導いてくださいました。また、わたしたちがあなたのみに頼ることを知るようにと、さまざまな失望や失敗をも与えられました。これらすべての出来事のゆえに感謝いたします。どうか、この学院がこれからも変わることなく、あなたのいのちに満たされ、学ぶこと、見いだすこと、叡智を求めることに熱心でありますように。また、教える者と学ぶ者に共に恵みを与え、すべての真理の源であるあなたを見いだすことができますように。主イエス・キリストによってお願いいたします。

●聖書 ガラテヤの信徒への手紙 第5章1節、13~14節

この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません。兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。律法全体は、「隣人を自分のように愛しなさい」という一句によって全うされるからです。

●聖歌 第498番「主われを愛す」

●平和の挨拶

●主の祈り
天におられるわたしたちの父よ、
み名が聖とされますように。
み国が来ますように。
みこころが天に行われるとおり地にも行われますように。
わたしたちの日ごとの糧を今日もお与えください。
わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人をゆるします。
わたしたちを誘惑におちいらせず、
悪からお救いください。
国と力と栄光は、永遠にあなたのものです。 アーメン

〇諸祈祷

名古屋柳城短期大学のための祈り
附属幼稚園のための祈り

創立者及びこれまでの仕え人たちのための祈り
本学院に関わるすべての逝去者のための祈り

●式辞 理事長 ペテロ 渋澤 一郎 主教

柳城学院の歴史は、121年前にカナダ聖公会のヤング先生が保姆養成を開始したことからスタートしました。本日はヤング先生と最初に行動を共にした杉浦いねさんについて触れたいと思います。

18歳のいねさんは日本語の教師としてヤング先生に接しています。先生はいねさんに幼児教育者としての資質を見たのかも知れません。養成所の最初の生徒になるように勧めますが、いねさんには別の夢があったようです。幼児教育に関心はなく、準備も整ってない幼稚園に勤めることに不安もあったのでしょう。それでもヤング先生は熱心に説得しました。こうして、人、金、物も整わずに柳城幼稚園はスタートしました。

このエピソードは私たちに、気が進まない時でも「やってみよう」と思えば、そこに成長があることを教えてくれています。自分に与えられた道を進むことで新しい展望が開けるということです。

121年目を迎えて、四年生大学の新設、こども園への移行、新校舎建設など、柳城は新しい時代に順応した学院に変わりつつあります。今後とも、ご支援、ご協力、よろしくお願いいたします。

●式辞 学長 長縄 年延

・一人だけの保姆養成、8名の園児の柳城幼稚園。これが柳城学院の始まりでした。それ以来、子どもに寄り添い、親と共に歩む姿勢が柳城の原点です。時代が変化する今だからこそ、「子どもに学ぶ」という初心に帰りたいと思います。

・来年度から定員70名の四年制大学が開設されて、定員130名の短期大学と併設されます。私たちは身を引き締め、力を貯めて真正面から進んでいきます。相撲界で最近話題の炎鵬は168cmと小兵ながら、重心を低くして正面から相手にぶつかっていきますが、私たちもそうありたいものです。

・ミュンヘン国際音楽コンクールのチェロ部門で日本人として初めて優勝した佐藤晴真さんは、実は兄と共に柳城幼稚園の卒園生です。このニュースを知り、将来性のある子どもを預かる仕事の大切さを私は改めて感じました。そして、神から与えられた無限の可能性を秘めた子どものために、これからも初心に帰ってしっかりと前に歩みたいと思います。ご支援とご協力をどうかよろしくお願いいたします。

●聖歌 第417番「あなたの平和の」

●永年勤続者表彰

●感謝の祈り
天の父よ、み子イエス・キリストは幼子を祝福し、神の国はこのような者の国であると教えてくださいました。どうかみ名によって建てられた柳城学院に恵みを下し、ここに集うわたしたちが主のみ旨に従って、心もからだも健やかに成長し、信仰の道を学び、主に仕えてみ栄を現すことができるようにしてください。主イエス・キリストによってお願いいたします。アーメン

●祝福
計り知ることのできない神の平安がキリスト・イエスにあって皆さんの心と思いを守り、ますます深く父とみ子を知り、かつ愛させてくださいますように。父と子と聖霊なる全能の神の恵みが、常に皆さんとともにありますように。

    

●校歌

●後奏(一同黙想)

■第2部 創立121周年記念  特別講演

「創立者~私たちのヤング先生~」
名誉教授 尾上 明子

「ヤング先生は120年前の昔の人ではありません。彼女の精神は私たちの近くに今も息づいています。それを感じていただければ、私の今日の目標は達成されたことになります。」 こう始まった今回の講演。聴衆のすべてにとって、柳城学院の原点を振り返り、自分に与えられた使命を考えるには実に良い機会だったと思います。

そして最後は、「柳城はこのヤング先生の精神を忘れずに、互いに愛し合って進んで行って欲しいと思います」と締められました。以下、この「ヤング先生の精神」に焦点を絞って、その要点を書き留めておきます。

 

・意志の強い信念の人だった。その厳格さは神に由来し、人間味溢れるものであった。

・神と人とを愛した人だった。肺の病にかかった青年を資金援助するために日本語教師として雇い、良い物を食べさせて病からの失望から救った、などという記録がいくつも残っている。

・独身であったが、後に、保姆養成所の卒業生の子どもを養子として引き取って大切に育てた。彼(清水正高氏)は後にピアニスト・オーガニストとして活躍し、ヤング先生の葬儀の際には奏楽を担当している。

・当時まだ貧しかった日本の、特に、女性と子どもに対する温かい眼差しがキンダーガルテン(幼稚園)を生み出した。

・ヤング先生の保育の中心には、「神の愛を伝える」と「フレーベルの教育思想に従う」という二つの柱があった。

・聖書の言葉として、「神は愛です。(Ⅰヨハネ4:16)」、「青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ。(コヘ12:1)」、「心の清い人々は、幸いである。(マタ5:8)」がよく用いられた。

・「柳城幼稚園保姆養成所」は幼稚園の附属施設としての性格が強かった。すなわち、子どもと共に大人が学ぶ養成所だったということである。現在の「名古屋柳城短期大学附属○○幼稚園」という名称と比較すると「幼稚園」の位置が逆になっているところが注目される。

・幼稚園の庭から年間プログラムのすべてが導かれている。そこには「神の存在を知る」という明確な目的が示されていた。

・卒園証書には鉢植えパンジーが添えられた。

・1903年に柳城幼稚園に「母の会」が作られた。そこでは、栄養や健康の指導、料理教室、教育やしつけ、洋裁、刺しゅうなど様々な事柄が扱われた。

・決して偏愛されないこと、その博愛的な心、そして、正義心と豊かなる奉仕、また祈りの人であり、その信仰が実生活に生きていること。例えば、ご自分の意見が間違っていたと気がつかれたとき、直ちに心からその誤りをお詫びられた。その代わり、ご自分が正しく神のみ旨にかなっていると思われたときは、最後の一人となるまで、決して主張をまげられず、毅然として突進なさった。人との交わりは、決して一時的なものではなく、一度深く交わればその交わりは永遠なものでした。聖書を学ばれ、常に祈りによって、日々新たなる命の種をお受けになっておられた。先生の思想は、実に気高く聖いものでした。(ボーマン先生によるヤング先生への追悼文より)

 

■学校法人 柳城学院  創立者記念墓地礼拝
(午後1時~ 日本聖公会中部教区 共同墓地【八事霊園内】)

 

 

 

 

 

【マルコによる福音書1章16節より】
1:16 イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。
1:17 イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。
1:18 二人はすぐに網を捨てて従った。
1:19 また、少し進んで、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、
1:20 すぐに彼らをお呼びになった。この二人も父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った。

始める前に、今回の「黙想と祈りの集い」が生まれた経緯がスライドを使って説明されました(こちらがその参考になります)。

「祈り」の中身については次のファイルをご参照ください。
025R【導かれる】人間をとる漁師にしよう

また、礼拝後に簡単なアンケートを実施しました。その中で「ちょっとあやしい」と感じたという回答もありましたが(決して怪しくはありません‼ 念のため(笑))、次のように、今日の礼拝の意義をしっかりと理解した学生さんもいたことをご紹介しておきます。
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「私の天職は愛」、「自分自身を甘やかしておきながら、子どもたちを教え導こうなどという傲慢さは、子どもたちに対して失礼」「子どもたちに対して恥ずかしくない人生を歩むための努力」という言葉がとても心に残りました。最近、中だるみで寝坊が多かったので、今日の礼拝を機に心新たに頑張るつもりです。
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主に感謝。

 

 

 

 

保育経験40年という榎戸裕子先生のお話は、あふれる実務体験がよどみなく流れ出るといった感じで、聞いていて心地良かったです。そして、その確かな実績には説得力がありました。だから、お話の最後に出てきた「私は愛をもって仕えます!」という言葉が完璧に耳に残りました‼ このような感覚はまったく新鮮でした。

以前、オープンキャンパスで出会った高校生の母親が「結局、By Love Serveなんですよね‼」って、ご自分の母校である柳城を誇らしく語ってくれたことが思い出されます。

榎戸先生のお話の内容は、後日、「ちゃぺるにゅーす」でご紹介しますので、お楽しみに(^^♪ 今回はひとまず、建学の精神が柳城にとっては何よりの宝であることを改めて感じさせてくださった先生について、感謝の気持ちを込めてご報告しました。「By Love Serve」を宗教などという枠に押し込めないで、日常会話でもっと使えるように訓練したいものです。それこそが本学の社会的役割だと確信するからです。(K)

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