「ルカによる福音書23:26-47」
23:23 ところが人々は、イエスを十字架につけるようにあくまでも大声で要求し続けた。その声はますます強くなった。
23:24 そこで、ピラトは彼らの要求をいれる決定を下した。
23:25 そして、暴動と殺人のかどで投獄されていたバラバを要求どおりに釈放し、イエスの方は彼らに引き渡して、好きなようにさせた。
23:26 人々はイエスを引いて行く途中、田舎から出て来たシモンというキレネ人を捕まえて、十字架を背負わせ、イエスの後ろから運ばせた。
23:27 民衆と嘆き悲しむ婦人たちが大きな群れを成して、イエスに従った。
23:28 イエスは婦人たちの方を振り向いて言われた。「エルサレムの娘たち、わたしのために泣くな。むしろ、自分と自分の子供たちのために泣け。
23:29 人々が、『子を産めない女、産んだことのない胎、乳を飲ませたことのない乳房は幸いだ』と言う日が来る。
23:30 そのとき、人々は山に向かっては、/『我々の上に崩れ落ちてくれ』と言い、/丘に向かっては、/『我々を覆ってくれ』と言い始める。
23:31 『生の木』さえこうされるのなら、『枯れた木』はいったいどうなるのだろうか。」
23:32 ほかにも、二人の犯罪人が、イエスと一緒に死刑にされるために、引かれて行った。
23:33 「されこうべ」と呼ばれている所に来ると、そこで人々はイエスを十字架につけた。犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけた。
23:34 〔そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」〕人々はくじを引いて、イエスの服を分け合った。
23:35 民衆は立って見つめていた。議員たちも、あざ笑って言った。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」
23:36 兵士たちもイエスに近寄り、酸いぶどう酒を突きつけながら侮辱して、
23:37 言った。「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」
23:38 イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王」と書いた札も掲げてあった。
23:39 十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」
23:40 すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。
23:41 我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」
23:42 そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。
23:43 するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。
23:44 既に昼の十二時ごろであった。全地は暗くなり、それが三時まで続いた。
23:45 太陽は光を失っていた。神殿の垂れ幕が真ん中から裂けた。
23:46 イエスは大声で叫ばれた。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」こう言って息を引き取られた。
23:47 百人隊長はこの出来事を見て、「本当に、この人は正しい人だった」と言って、神を賛美した。
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キリスト教の教会では屋根や玄関、礼拝堂の正面などに十字架が設置されています。また祭壇の上に安置されているところもあります。屋根の十字架などは「ここが教会です」という目印になっています。韓国に行くと、その十字架の多いことに驚かされます。それだけたくさん教会があり、クリスチャンがいるということです。日本は100人に1人、韓国では3~4人に1人がクリスチャンです。
十字架はキリスト教のシンボル、教会のシンボルです。十字架は神ではありませんからそれを拝むことはしません。十字架は言うまでもなく、イエスさまがエルサレム郊外のゴルゴタの丘(されこうべの場所)ではりつけの刑に処せられた出来事に起源を持ちます。十字架を仰ぎ見るたびにわたしたちはその出来事を思い起こします。それは、罪のない神の子であるイエスさまが、死ななければならない者に代わって死んでくださった2000年前の歴史的な出来事です。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」(ヨハネ15:13)と、死を前にして弟子たちにお話しになったイエスさまは、そのとおりの生き方をなさいました。そこに神の愛がはっきりと示されました。ですから、十字架は神の愛のシンボルとされるのです。
ローマ教皇、枢機卿、修道士、修道女、わたしたちの聖公会の主教などは、胸に大きな十字架をかけています。神の愛のシンボルである十字架をかけることによって、十字架を背負い、イエスさまに従って生きていく決意を日々新たにするのです。
わたしたちの周りでも多くの人が十字架のネックレスやイヤリングを「かっこいい!」と言って身につけています。もともと十字架はかっこいいものではありません。とても見るに忍びない、むごたらしいものでした。それがかっこいいものになるためには、それを身につける人が、十字架の持つ本来の意味を十分理解して用いることが必要です。
十字架の縦の線は英語の大文字のI (わたし)です。横の線はI(わたし)を切ること、すなわち、kill(殺す)こと、切ること(cutすること)を意味します。自分を殺して(自分に死んで)、他者を生かすこと、ここに十字架の持つ本来の意味があります。十字架の縦の線は神とわたしの関係を、横の線は人間関係(人のつながり)を表します。その縦横の線の接点が神とわたしたち人間が出会う接点であり、十字架の意味が鮮やかに示されるところです。
イエスさまの十字架によって示された神の愛を、生涯の歩みの中で実践していった弟子たちのうちで、十字架にかけられて殉教したと伝えられている人がいます。バチカン市国のサン・ピエトロ大聖堂に葬られているペトロがその一人です。彼は逆さ十字架につけられました。また、アンデレは斜めの十字架にかけられました。このXの十字架をアンデレクロスと言います。アンデレクロスはスコットランドの国旗や、山梨県清里高原にある聖アンデレ教会に近い清泉寮の正面玄関にも見ることができます。
ちなみに今年2019年は4月19 日(金)が聖金曜日(受苦日)と言って、イエス・キリストが十字架におかかりになった日、3日後の4月21 日(日)が復活祭(復活日)、イエス・キリストがおよみがえりなった日で教会の最大の祝日です。(チャプレン大西 修 )