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カテゴリー:礼拝記録 の記事一覧

昨年、「黙想と祈りの集い」で奏楽を担当してくれたマコちゃんで~す!
大西チャプレンとツーショットでキャワイイ~(笑)

運動会の代休日。何しよっかな~と悩んだところ「柳城短大があるじゃん!」とひらめいて、ホッと一息、静かな時間を過ごしたくなったということです。

嬉しいですね。こういう発想。母校が心のオアシスになってる。

お昼の讃美歌タイムと礼拝後のバイブルタイムにも参加してくれて、こちらも飛び上がるほど楽しかったです(^^♪

こういう機会が与えられ、あらためて、柳城に「清さ」を保つことの大切さを思い知らされた感じです。

主に感謝! (加藤)

 

 

今回は、AHIアジア保健研修所の巡回報告会を兼ねて、研修生のカミール・アンデロス・レイェス・ジュゴ(ミンミン)さんにお話を頂きました。通訳はAHIスタッフの中島隆宏さんです。

ミンミンさんはフィリピンのカピス大司教区社会活動部というNGOに所属するクリスチャン(カトリック)です。まだ20代で、AHIの研修生としては異例の若さだそうです。

そんな将来性を持った彼女ですが、大学生の頃はどちらかというと受け身の構えで、ただ漫然と卒業を目指すようなタイプの学生だったそうです。でも就職先で仕事を任されるほど上司に認められたという経験を得てから、急にスイッチが入ったといいます。

人を認め、その能力を最大限に活かす役割の大切さを感じた彼女は、現在の道に進み、大いに自分の力を発揮します。特に、コミュニティー・オーガナイザーとして、若い人たちの自己啓発を後押ししながら、彼ら/彼女らに地域で活躍できる場を提供することを目指しています。お話の中では、その具体的な事例が2件紹介されました。

こうして、貧困や不便さを抱えた地域でコミュニティつくりに励むミンミンさんですが、彼女はそうした活動の中で自分自身の成長に関心を払うことを忘れません。その謙虚さが彼女の信仰者たるゆえんでしょうか。

ヘブライ人への手紙
13:1 兄弟としていつも愛し合いなさい。
13:2 旅人をもてなすことを忘れてはいけません。そうすることで、ある人たちは、気づかずに天使たちをもてなしました。
ガラテヤの信徒への手紙
6:10 ですから、今、時のある間に、すべての人に対して、特に信仰によって家族になった人々に対して、善を行いましょう。
イザヤ書
1:17 善を行うことを学び/裁きをどこまでも実行して/搾取する者を懲らし、孤児の権利を守り/やもめの訴えを弁護せよ。

こうした聖句を引用しながら、ミンミンさんは力を込めて語ります。
「行動のない信仰は本当の信仰ではありません!」
「私はAHIの経験を通して、人に尽くすことを惜しみません。約束します。」

 

礼拝後に学生食堂で歓談した際にも、彼女は、「もしもAHIの研修生として採用された場合は、今の仕事を続けます」と祈ったことを告白してくれました。隣に座るAHIスタッフの中島さんが、それを聞いて嬉しそうにしていたのが印象的でした。

神のご計画の偉大さと祈りの力をあらためて感じさせてくれた今回の報告会。
名古屋柳城短期大学に集う私たちは、与えられたチャンスをチャレンジに変えられるでしょうか。

主に感謝 (加藤)

礼拝後のお楽しみ会ということで、腹話術ショーを企画しました。

いつも大学礼拝を守ってくれている学生さんへのご褒美かな?
取り計らってくださった神さまに感謝です!(^^)!

出演は、ろごす腹話術研究会の会員で枇杷島教会の信徒さんである犬飼倭子(しずこ)さん。そして相棒のジュンちゃんで~す。

そして、彼女を紹介くださったのは、本学の卒業生で附属柳城幼稚園 元園長の先田泰子さんです。先田さんは犬飼さんから腹話術を学んだというご関係です。

ショーが始まると、生き物のように生々しく(笑)動くジュンちゃんに、皆さん、アッという間に目が釘付け(@_@) 腹話術を初めて間近に見た私も大興奮でした。

犬養さんオリジナルのお話が面白くて、チャペルが笑い声であふれました。神さまも一緒に楽しんでくださったかな?

ショーの後は学生食堂でティータイムを持ちました。

人形に触れさせていただくことで、益々興味がわいてきました。そして、「昔は腹話術が流行っていて…」という話から始まって色々なお話が聞けました。

「毎日6分の練習でよいけど、それがなかなか出来ないのよ~。」
そう話す犬飼さんは、腹話術研究会に入ったのが20年前で、何と50代の時です!
ベテランの域に達している感じは十分するのに「今日は、私のような者ですみません」と、いたくご謙遜。

それでも「せっかくのチャンスを頂きましたので」とチャレンジ精神が旺盛で、気持ちが若い若い(^^♪ 見習わなくっちゃ!

今でも幼稚園や介護施設等で皆さんに喜ばれている腹話術です。
だれか若い人が後を継いでいけるといいですね(年とった方でも、もちろん大丈夫ですけど)。

今回の企画がそのきっかけになり、そして、こういう「ゆとりの文化」が柳城に根付くと嬉しいです(^o^)/ (加藤)

【コロサイの信徒への手紙4:5-6】
4:5 時をよく用い、外部の人に対して賢くふるまいなさい。
4:6 いつも、塩で味付けされた快い言葉で語りなさい。そうすれば、一人一人にどう答えるべきかが分かるでしょう。

✝ ✝ ✝

「塩で味付けされた快い言葉」とは、どんな言葉でしょうか。

「塩で味付けされた言葉」とは、ちょうどよい塩加減であり、その料理のおいしさがじわっと口の中に、もっと言えば体の中に広がっていく、そんな言葉です。

「快い言葉」とは、さわやかで、心地よく、生きる勇気が与えられ、将来への希望が湧き上ってくる言葉です。

わたしはそんな言葉を語っているだろうかと振り返ってみますと、悲しいかな、語っていません。塩は塩でも、しょっぱ過ぎて、なめることさえできず、体中が受け付けず、拒絶反応を起こさせてしまうような言葉を、日ごろ平気で語っている自分に驚いています。また快い言葉ならいざ知らず、相手を不愉快にさせ、気分を悪くさせ、やる気をなくさせ、落ち込ませてしまうような言葉を平気で使っていることも多いのです。

イエスさまが語られた塩で味付けされた快い、素晴らしい言葉を探してみますと、マタイによる福音書5章から7章の「山上の説教」をはじめとして、数えきれないほどたくさんの素晴らしい言葉が福音書には散りばめられています。

直接、弟子や病人、その他行きずりで出会った人々に語られた言葉にも、素晴らしいものがたくさんあります。

「わたしについてきなさい。人間をとる漁師にしよう。」ペテロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレ、そしてゼベダイの子ヤコブとヨハネに語りかけられた言葉、これは彼らの人生を方向づけさせ、生きる希望を与えました。

「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。・・・わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」(4:18-21  9:9-13)

「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」(11:28-30)

「だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である。」(12:50)

「心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。」(18:3-4)

「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。7回までですか。」イエスは言われた。「あなたに言っておく。7回どころか、7の70倍までも赦しなさい。」(18:21-22)

「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」(20:26-28)

「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第1の掟である。第2もこれと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この2つの掟に基づいている。」(22:37-40)

塩で味付けされた快い、素晴らしい言葉は、聞く人の魂を揺さぶります。心を穏やかにします。そしてその言葉を素直に受け入れることを可能にします。その言葉は語る人の全人格と深く関わっています。ですから、その人の身のこなし方、身振りや手振り、表情、目つき、話し方などと切り離すことができません。素晴らしい言葉は時として、口から出る言葉ではなく、表情や目の動きが言葉になっていることもあるのです。それを聞く側は声のない言葉として受け取っているのです。また、言葉数が多いことが良いとも限りません。ひとことふたことの短い言葉の中に、宝石のような輝く言葉が隠されていることもあります。

イエスさまは人との出会いの中で、あまり多くを語られなかったように思います。二人の間に流れるしばらくの沈黙は、イエスさまの言葉を聞く者に自分自身を見つめさせ、省みさせる時間を提供します。それを通して聞く者に一つの決断を促す機会を与えます。優しい言葉は聞く者の心を自然に開かせるのです。あの放蕩息子を迎え入れた父親の言葉は書かれてはいませんが、「おお、良く帰ってきたなー」との一言だけで、あとは言葉にならない言葉がすべて態度に表わされています。(ルカ15:11-32)

徴税人ザアカイの物語も、桑の木に登っているザアカイに下から声をかけ、「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日、ぜひあなたの家に泊まりたい。」という言葉こそ、イエスさまの塩で味付けされた快い、素晴らしい言葉の集大成です。この言葉がザアカイを生まれ変わらせました。(ルカ19:1-10) さらに、十字架上で隣の十字架にかけられていた犯罪者に対する、イエスさまの神への赦しの願い「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」は、十字架上の犯罪人の心を開かせ、自分の罪深さを自覚させ、イエスさまへの信頼へと変えていったのです。(ルカ23:34)

わたしが中学生のころの忘れられない思い出があります。夜遅くまで遊び過ぎて、門限をはるかに超えて家に帰りました。父にきつく叱られることを覚悟の上、おっかなびっくりで玄関の戸を開けました。そこに父が立っていました。まともに顔を見ることもできず、緊張して立っていたわたしに父は優しく「お腹空いたろう。早くお風呂に入ってご飯にしなさい」とひと言だけ言って部屋に戻って行きました。全く拍子抜けしてしましたが、わたしにとって今も忘れられない出来事です。自分が子供を育てる時、似たような出来事が何度もありましたが、その都度、この出来事が思い出され、その場にふさわしい対応をすることができました。父もザアカイの物語がいつも心にあったのだろうかと思います。

皆さんが保育者として、あるいは子供の親として子供の前に立つ時、どのような言葉がけをしますか。本当に子どもを愛し、子供のことを考えているならば、朝のひとときを大切にすることであると言われています。あるお母さんは朝の食卓に、いつも花を飾るようにしているそうです。一輪の花が飾られた朝の食卓の情景を思い描いてください。そこに豊かで暖かなゆとりある思いに溢れた家庭の様子がうかがえます。服装を身ぎれいにし、髪の手入れをし、笑顔で朝の挨拶を交わし、ちょっとした励ましの言葉をかけることは、子供の精神の健全な成長に欠かせないものです。園や学校での子供の情緒不安定は、朝、出かける前の家庭の空気に大きく影響されます。これは大人であるわたしたちにも言えることです。わたしたちは朝、これだけの気持ちの余裕を持っているでしょうか。

塩で味付けされた快い、素晴らしい言葉を使うことはなかなか難しいですが、いつもイエスさまを見つめること、聖書を開き、読んでみることで、少しでもそれが実現できるようにしたいものです。

終わりに渡辺和子シスターの言葉を引用します。

「女性を美しく、好もしくするものは、昔も今も変わることなく、あたたかいほほえみ、美しいことば、さりげない心くばり、礼儀正しさ、そして恥じらいを知る慎み、と覚えておきたいものである。」(「愛をこめて生きる」より)(チャプレン 大西  修)


ゴーヤの花

【ルカによる福音書 16:19-31】
◆金持ちとラザロ
16:19 「ある金持ちがいた。いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。
16:20 この金持ちの門前に、ラザロというできものだらけの貧しい人が横たわり、
16:21 その食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていた。犬もやって来ては、そのできものをなめた。
16:22 やがて、この貧しい人は死んで、天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。
16:23 そして、金持ちは陰府でさいなまれながら目を上げると、宴席でアブラハムとそのすぐそばにいるラザロとが、はるかかなたに見えた。
16:24 そこで、大声で言った。『父アブラハムよ、わたしを憐れんでください。ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの炎の中でもだえ苦しんでいます。』
16:25 しかし、アブラハムは言った。『子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ。
16:26 そればかりか、わたしたちとお前たちの間には大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこからわたしたちの方に越えて来ることもできない。』
16:27 金持ちは言った。『父よ、ではお願いです。わたしの父親の家にラザロを遣わしてください。
16:28 わたしには兄弟が五人います。あの者たちまで、こんな苦しい場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。』
16:29 しかし、アブラハムは言った。『お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい。』
16:30 金持ちは言った。『いいえ、父アブラハムよ、もし、死んだ者の中からだれかが兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう。』
16:31 アブラハムは言った。『もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。』」

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「金持ちとラザロのたとえ」はイエスさまが、当時のユダヤ教の宗教的指導者であるファリサイ派の人々、律法学者たち、そして弟子たちにお話しになったものです。彼らは貧富の差があるのは神のご意思なのだから、その状態を変える必要はない、富は神の愛のしるしであり、貧しさは神の裁きのしるしである。その理由は神だけが知っておられることであり、人間はそのことに関わる必要はない、そう信じていました。

このような考え方に対する一つの挑戦としてこのたとえをお話しになりました。

イエスさまは富と貧しさの現実を無視して、愛と平等と平和を説くことはなさいませんでした。ルカによる福音書では富と貧しさの問題を大切な事柄としてよく取り上げています。有名な「マリアの賛歌」ではマリアが、生まれてくるイエスさまをこの世界に送られる神の働きを「主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、飢えた者を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます。」(1:51~53)と歌いました。

神の望まれる世界は貧乏や不幸が否定され、無くなる世界です。神は貧しい者の味方であり、貧しさを追放されるお方です。「主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、あなたがたが彼の貧しさによって富む者になるためです。」(Ⅱコリント8:9) 神はイエスさまを通してご自身を貧しい者として表されました。すべて貧しい者を富ませるために、貧しい者の味方になられたわけです。ですから貧しい者に目を向けず、ただ自分だけが富んでいることに満足している者は神の目にはふさわしくないのです。「金持ちとラザロのたとえ」はこのことを語っています。

このたとえの中では対照的な二人の人物が登場します。金持ちは立派の家に住み、高価な着物を身につけ、贅沢に遊び暮らす生活によって、神から与えられたものを自己満足のためにだけ用いました。働くこともできず食べていけない人間と、食べて有り余るほどゆとりのある人間とが対照的に描かれています。金持ちが豊かであることが罪であるとは言われていません。金持ちが持っているもので隣人とどのような関わりを持って生きていたかが問題とされています。多くのお金を持つことは罪ではありません。しかし、多くのお金を持ちながら玄関先にいる貧しい人と関わりを持たないことが罪なのです。金持ちは信仰深かったから富が与えられ、ラザロは不信仰だったから、神の罰として貧しくなったとは言われていません。隣人とどのように関わるかが信仰の問題です。その意味で金持ちは信仰深くありませんでした。信仰を誤って理解していたのです。

わたしたちのすべての生活と豊かさが、ただ単に自分を富ませ、満足させるためにだけあるのではありません。「財産のある者が神の国に入るのは、何と難しいことか。金持ちが神の国に入るよりは、ラクダが針の穴を通る方がまだ易しい。」(ルカ18:24~25)とイエスさまは言われました。富は魔物です。時としてわたしたちの良心を麻痺させることもあり、隣人とその魂を見失わせ、さらには神さえ見失わせてしまいます。

ところでこのたとえの共通点は二人が死ぬこと、死を迎えることです。単なる犬死であろうが、有名な大病院で最大限の医療処置を施されて死に、盛大な葬儀がなされ、故人の遺徳が称えられようが、いずれにせよ例外なく平等に二人は死ぬのです。死はどこまでも平等です。金持ちが金銀財宝を携えて死後の世界に行くこともできなければ、ラザロができ物を背負ってそこへ行くこともありません。この世の価値観で、この世で通用する財産によって死後の世界を決めることもできません。死後の世界で残るものは、生前持っていた富をどのように用いて、隣人といかなる関わりを持っていたかということです。神の前で問われるのはこのこと、この世での生き方です。天国や地獄の状況は一つのたとえとしてここに描かれています。

このたとえの核心は、今、わたしたちの前にある現実にしっかり目を留め、それをどう受けとめ、それとどう関わりながら生きていくかということにあります。

このたとえは、イエスさまが今、わたしに、そしてあなたに向かって語りかけておられるのです。わたしたちはまさか自分をラザロの側に置くことはしないでしょう。だからと言って金持ちの側に置いて考えることもしないのではないでしょうか。どちらでもない第3者の立場に自分を置いていないでしょうか。しかしそのような立場に立つことは許されません。

イエスさまはあなたを金持ちの立場に置いて語りかけておられます。また、地上で残された生活を楽しんでいる5人の兄弟にたとえてもおられます。あなたはその中の一人ではないですかと…。わたしたちは答えるでしょう。「いや、わたしはそんなに金持ちじゃないし、贅沢に遊び暮らしてもいない。ごく平凡な生活をしている一市民だ」と。

しかし、ラザロはわたしたちの門前にいます。飢え渇いて、死を目前にしているラザロが世界中、特に東南アジアの国々、中東、アフリカの国々に何億人といます。日本の中にもたくさんいることを知っていますか。数え上げればきりがありません。神はそのような人々を愛され、大切にされるお方です。「ラザロ」という名前は「神はわたしの助け」という意味です。神は「ラザロ」を助けられると共に、「ラザロ」の神なのです。そしてこの「ラザロ」の姿こそ、地上を歩まれたイエスさまのお姿なのです。

貧しい家畜小屋に生まれ、見捨てられた人々の友として生涯を過ごされ、自らも人々に見捨てられ、ゴルゴタの丘で盗賊と共に犯罪者として十字架につけられ死んだイエスさま。神はこのイエスさまを貧しい人、病気の人、悩む人の友としてお遣わしになり、その復活・よみがえりによって本当の慰めと開放と自由を与えてくださったのです。

わたしたちはまた、イエスさまによって自分自身を「ラザロ」に置き換えることが許されています。わたしたちは正義のゆえに、貧しく虐げられた人間として損をし、倒れ、傷つき、失敗したことがあるかもしれません。そんな時にこそ、神はあなたを「ラザロ」として支え、励まし、助け、あなたの味方になってくださることを信じましょう。(チャプレン大西 修)


学生食堂に飾られた折り紙作品

タレントという言葉を聞くとわたしたちはすぐ有名な俳優や歌手、今売れている芸人、テレビのタレントなどを思い起こします。タレントはもともとギリシャ語のタラント(タラントン)が語源で、重さを表す単位でしたが、イエスさまの時代には貨幣の単位として使われるようになりました。今読んでいただいたタラントンのたとえも貨幣の単位として使われています。今日ではタレントを才能、能力の意味で使い、特別に才能ある俳優、歌手、芸人などをタレントと呼んでいます。

このたとえ話では、主人が長い旅に出る時、自分の財産を僕たちの才能、能力に応じてひとりには5タラントン、もう一人には2タラントン、3人目の僕には1タラントンを預けました。5タラントン預かった僕はその5タラントンで商売をし、2倍の10タラントンにしました。2タラントン預かった僕はその2タラントンで商売をし、2倍の4タラントンにしました。1タラントン預かった僕はその1タラントンを穴を掘って隠しておきました。

長い年月が経って、主人が返って来て、僕たちと預けたタラントンの清算を始めました。5タラントンを預かった僕は10タラントンを差し出しました。それに対して主人は「忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。」と言いました。 2タラントンを預かった僕は4タラントンを差し出しました。それに対して主人は「忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。」と5タラントンを預けた僕に言った同じ言葉で彼を誉めました。

1タラントンを預かった僕はその1タラントンを穴から掘り出し、主人に「あなたは蒔かないところから刈り取り、散らさないところからかき集められる厳しい方だと知っていましたので、恐ろしくなり、土の中に埋めておきました。これがあなたのお金です。」と言って1タラントンを差し出しました。これに対して主人は「怠け者の悪い僕だ。わたしが蒔かないところから刈り取り、散らさないところからかき集めることを知っていたのか。それなら銀行に入れておくべきであった。そうしておけば、帰って来たとき、利息付きで返してもらえたのに。さあ、そのタラントンをこの男から取り上げて、10タラントン持っている者に与えよ。」と言ったというたとえです。

さてこのたとえ話はわたしたちに何を語りかけているのでしょうか。

まず、タラントンですが、1タラントンは6,000デナリオン。1デナリオンは1日分の労働賃金に当たりますから、現在の貨幣価値でおよそ1万円に相当します。ですから1タラントンは およそ6,000万円、6,000日分(16年分)の賃金です。2タラントンは1億2,000万円、5タラントンは3億円に相当します。主人が僕に預けたタラントンとは、神から与えられ、預かっているわたしたちの才能、能力のことです。人それぞれにふさわしい才能や能力が与えられ、それをわたしたちは預かっているのです。1タラントンは大金です。5タラントンは驚くなかれ、何と3億円です。こんな大金を僕に預ける主人がこの世にいるでしょうか。預かった僕はどう思ったのでしょうか。主人は言います。「忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。」と。「少しのものに忠実であった」と主人は言います。3億円を少しのものと言い、1億2,000万円も少しのものと言う主人とは、一体どんな方なのでしょうか。わたしたちの考える価値観では測れない、驚くべき主人の懐の深さと寛大さを知らされます。

わたしたちの持っているタラントンは神の目から見れば、ほんとに小さいもの、僅かなものなのですが、わたしたちの目には、とても大きなものです。それを最大限に生かす時、自分では想像もできないような素晴らしい結果が生まれることが約束されています。

「あなたもタレントさんですよ」と皆さんは声をかけられています。保育者の卵としてのタレントを持っています。教育実習、保育実習へ行って、自分のタレントに気づかされましたか、目覚めさせられましたか。1タラントンという神さまから預かったとても大きな才能、能力を土に埋めて眠らせてしまった僕は、「怠け者の悪い僕だ。」と主人からお叱りを受けました。皆さんはどうですか。大切なタラントを怠けて埋めたままにしていませんか。人はそれぞれ違ったタレントを神さまから預かっています。あなたとわたしを比べる必要はありません。わたしはわたしにふさわしい才能、能力を生かして用いることがいちばん大切なことです。自分にはそんなタレントはないと決めてかかっているようなところがないでしょうか。わたしたち一人一人に与えられているタレントは想像できないほど、大きなものです。その大きなものに気づき、それを大切に生かして用いていくとき、皆さんは間違いなく保育のタレントさんへと成長していきます。

聖書の人間観は、人間の目で判断した能力の有る無しで、人間の優劣を決めません。自分に与えられている能力、才能をどれだけ真剣に誠実に用いたかが問われているのです。

このたとえ話をそのような視点からもう一度読んでみてほしいと思います。  (チャプレン 大西 修)


アゲハチョウ

【マタイによる福音書 25:14-30】
◆「タラントン」のたとえ
25:14 「天の国はまた次のようにたとえられる。ある人が旅行に出かけるとき、僕たちを呼んで、自分の財産を預けた。
25:15 それぞれの力に応じて、一人には五タラントン、一人には二タラントン、もう一人には一タラントンを預けて旅に出かけた。早速、
25:16 五タラントン預かった者は出て行き、それで商売をして、ほかに五タラントンをもうけた。
25:17 同じように、二タラントン預かった者も、ほかに二タラントンをもうけた。
25:18 しかし、一タラントン預かった者は、出て行って穴を掘り、主人の金を隠しておいた。
25:19 さて、かなり日がたってから、僕たちの主人が帰って来て、彼らと清算を始めた。
25:20 まず、五タラントン預かった者が進み出て、ほかの五タラントンを差し出して言った。『御主人様、五タラントンお預けになりましたが、御覧ください。ほかに五タラントンもうけました。』
25:21 主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』
25:22 次に、二タラントン預かった者も進み出て言った。『御主人様、二タラントンお預けになりましたが、御覧ください。ほかに二タラントンもうけました。』
25:23 主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』
25:24 ところで、一タラントン預かった者も進み出て言った。『御主人様、あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方だと知っていましたので、
25:25 恐ろしくなり、出かけて行って、あなたのタラントンを地の中に隠しておきました。御覧ください。これがあなたのお金です。』
25:26 主人は答えた。『怠け者の悪い僕だ。わたしが蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集めることを知っていたのか。
25:27 それなら、わたしの金を銀行に入れておくべきであった。そうしておけば、帰って来たとき、利息付きで返してもらえたのに。
25:28 さあ、そのタラントンをこの男から取り上げて、十タラントン持っている者に与えよ。
25:29 だれでも持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。
25:30 この役に立たない僕を外の暗闇に追い出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。』」

【マルコによる福音書13:32-37】
◆目を覚ましていなさい
13:32 「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存じである。
13:33 気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたには分からないからである。
13:34 それは、ちょうど、家を後に旅に出る人が、僕たちに仕事を割り当てて責任を持たせ、門番には目を覚ましているようにと、言いつけておくようなものだ。
13:35 だから、目を覚ましていなさい。いつ家の主人が帰って来るのか、夕方か、夜中か、鶏の鳴くころか、明け方か、あなたがたには分からないからである。
13:36 主人が突然帰って来て、あなたがたが眠っているのを見つけるかもしれない。
13:37 あなたがたに言うことは、すべての人に言うのだ。目を覚ましていなさい。」

✝ ✝ ✝

9月に入り、後期が始まったとたん、 台風21 号のため昨日は臨時休校になりました。

各地に台風による被害がありましたが、被災地の皆さんが、大変な状況の中で復興に向かって歩みだしていく力が与えられることを願い、心から声援を送りたいと思います。

9月は台風をはじめとする災害の多い月です。

今から95年前の1923(大正12)年9月1日には関東大震災があり、10万5千人を超える死者、行方不明者を出しました。

台風を挙げてみると1934(昭和9 )年9月21日の室戸台風(死者約3千人)、1945(昭和20 )年9月17日の枕崎台風(死者約3,700人)、今から59年前の1959(昭和34 )年9月26日に5,000人を超える死者、行方不明者を出した伊勢湾台風(台風15号)が大きな台風であり3大台風と呼ばれています。そして今回の台風と同じコースを通った1961(昭和36 )年9月16日の第2室戸台風(死者192人)などがあります。

また2001(平成13)年9月11日には、アルカイダによるハイジャック、自爆テロであるアメリカ同時多発テロ事件が起こりました。(死者約3,000人、負傷者約6,300人)

わたしたちを襲う災害には天災とされる、いわば不可抗力なものと人災とされる避けることのできるものとがあります。アメリカ同時多発テロ事件などはまさに人災です。

台風、地震、津波などの自然災害などは、科学の進歩した現代、以前に比べればはるかにそれを予知し、それに備えるための対策をすることができるようになりました。

とはいえ、人間は自然界を完全にコントロールすることはできません。なぜなら、人間はこの世に存在させられている者、生かされている者、聖書の言葉で言えば、神によって創造された者、創られた者であり、この世を創造した者、創った者ではないからです。

「気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたには分からないからである。」

「備えよ、常に!」はボーイスカウトの標語です。何が起こっても慌てふためくことがないように常に備えをし、準備しておくことが大切ですという標語です。

わたしたちは災害のために、どれだけ備えをし、準備しているでしょうか。間違いなくやってくることがわかっている目の前の災害に対して、わたしたちは驚くほど鈍感です。後になって、あの時やっておけばよかったと後悔することが多いのです。

わたしたちの人生においても同じ事が言えるのではないでしょうか。わたしたちは必ず、人生の最後に死を迎えます。その死を迎えるための備えをどれだけしているでしょうか。いつ死んでもいい、そんな準備ができていれば素晴らしいと思いませんか。今はまだ死ねない、死にたくないと思っていても、今日死ぬかもしれないし、明日死ぬかもしれないのです。

伊勢湾台風という一つの災害にしっかり向き合った時、そこから新しい生き方が生まれてきたのです。その具体的な例として名古屋キリスト教社会館の誕生に見ることができます。

名古屋キリスト教社会館は伊勢湾台風を契機に生まれ、今年で59周年を迎えます。被災した人々の悲しみや苦しみを忘れず、人々に生きる希望を与えるための働きとして、地域になくてはならない施設として、神様の力に支えられて、人々の苦しみ、悲しみに寄り添いながら、今日まで続けられています。被災者の救援活動のため、名古屋のキリスト教各派が集まり、名古屋YMCAを拠点に始められた救援活動が、全国各地からのボランティアによって続けられ、大人たちが復興作業に集中できるように、子どもたちを預かる託児所の働きが始められ、それを母体に社会館の設立へと進んでいきました。今日では社会福祉法人として保育園、障がい者の通所施設、お年寄りのデイサービスその他の働きに200人以上の職員が関わっています。

「目を覚ましていなさい」との呼びかけに答えることは、目の前にある現実、一つの「災害」としっかり向き合うことではないでしょうか。 (チャプレン大西 修)


台風21号の暴風によってめくり返ったペチュニア

【ルカによる福音書18:15-17】
18:15 イエスに触れていただくために、人々は乳飲み子までも連れて来た。弟子たちは、これを見て叱った。
18:16 しかし、イエスは乳飲み子たちを呼び寄せて言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。
18:17 はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」

イエスさまは弟子たちの常識的な考え方を覆されました。小さく弱くこの世で無視されているような者への深い思いと行動こそが、神の愛の働きであると教えられたのです。

子供のようになるとはどういうことでしょうか?

「そんな子供っぽいことをして!」と叱られたことはありませんか。それとは逆に「もっと大人になりなさい。」と言われたこともあるのではないでしょうか。この言葉の中に大人は子供より偉い、優れているといった先入観があるように思われます。

子供が持っている特性をいくつか挙げることができます。バプテスト連盟東山キリスト教会の牧師であり、教育評論家であった玉木 功先生(2012.1.28.逝去、84歳)の「子どもの声が」という教育エッセイの中にそれが書かれています。

信頼、素直さ、純粋さ、優しさ、感受性、環境への順応、開放性などがそれです。これらは成長してから身につける学問や知識にもまして、神の国で喜ばれるものです。

信頼とは疑わないこと。大人はまず疑います。子供は疑いませんので、全幅の信頼を大人に、ことに母親父親に、そして教師、保育者に寄せます。

素直さとは愛情を素直に受け入れること。人の愛情を目の動きで、言葉(口)で、体の動き(行動)で受け入れていきます。

純粋さとはありのままを受け止めること、こうすればああなる、だからやめておこうなどといった損得勘定をしたり、利害関係にとらわれないことです。

優しさとは小さな命に対する心のこもって思いやりと溢れる優しさ。踏みつけて殺してしまいそうな小さな虫をも大切に守り育てることなど。

感受性が豊かなこと。身の回りのどんな小さなことにも、驚きと感動の態度を示します。大人が忘れてしまったTHE SENSE OF WONDERをしっかり保持しています。

環境への順応が早い。親や保育者・先生の態度(言葉遣い~しゃべり方、イントネーション、身のこなし方)が似てきて、身についてくる。親は自分の姿を子供から教えられます。

開放性とはいつも何かにとらわれず、生き生きとしていること。

これらの特性を認めることは、子供のすべてが素晴らしいということではありません。これらの特性を持っている子供の成長を見守りながら、共に歩むことが保育の営みです。子供の特性に触れつつ、そこから教えられ、大人は子供と共に生き成長していきます。

教育実習、保育実習、施設実習の機会を通して、これらのことを実際の現場で経験していってほしいと願っています。(チャプレン大西 修)


ポーチュラカとアシナガバチ

【ルカによる福音書15:11-32】
15:11 また、イエスは言われた。「ある人に息子が二人いた。
15:12 弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。
15:13 何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄遣いしてしまった。
15:14 何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた。
15:15 それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。
15:16 彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。
15:17 そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。
15:18 ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。
15:19 もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』
15:20 そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。
15:21 息子は言った。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』
15:22 しかし、父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。
15:23 それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。
15:24 この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた。
15:25 ところで、兄の方は畑にいたが、家の近くに来ると、音楽や踊りのざわめきが聞こえてきた。
15:26 そこで、僕の一人を呼んで、これはいったい何事かと尋ねた。
15:27 僕は言った。『弟さんが帰って来られました。無事な姿で迎えたというので、お父上が肥えた子牛を屠られたのです。』
15:28 兄は怒って家に入ろうとはせず、父親が出て来てなだめた。
15:29 しかし、兄は父親に言った。『このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。
15:30 ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる。』
15:31 すると、父親は言った。『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。
15:32 だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。』」

イエスさまが話された「放蕩息子のたとえ」から少し考えてみましょう。

①このたとえはどんな時に、誰に向かってお話になったものでしょうか。

徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスのもとに近寄って来た時、ファリサイ派の人々や律法学者たちが「イエスはこの人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言い始めた。彼らと共に食事をしたり、交わりを持つことは、不浄であり、神を汚すものであると考えていたファリサイ派の人々や律法学者たちへの答えとして、このたとえをお話になった。

②登場人物3人(父と2人の息子、弟と兄)について考えてみましょう。

放蕩息子のたとえと呼ばれているが、実はこのたとえの主人公は父であり、放蕩息子(弟)ではなく、兄でもないことを覚えておくことが大切です。兄と弟は対照的な人物として描かれているが、勿論、人間を2つのステレオタイプに分類できない。しかし、わたしたちが持っている特徴的な性格の2面をこの兄弟に見ることができる。

弟は物事に対して積極的、行動的、挑戦的であり、父から財産の分け前をもらい、一旗揚げようとして出かけたが、放蕩に身を持ち崩しすべてを使い果たしてしまう。どん底まで落ちて初めて自分の本性に気づき、父のもとに帰り一から出直そうと決断する。

一方、兄は堅実で真面目、与えられた仕事は忠実にこなすが、冒険的な生き方はしない、できない性格である。しかし、弟の生き方をどこかでうらやましく思うところがある。弟の帰宅を知り、心の中の不平不満が爆発する。今までの自分の生き方が報われず、自分と弟への父の対応は不公平極まりないと直訴する。この二人には共通点がある。二人には真の喜びがないことと父から離れていることである。

生きている喜び、生かされている喜びを二人共に感じていない、弟は父から距離的に遠く離れて生活してきたし、兄は父の近くに住んではいても、その心は父から遠く離れていた。父は弟と兄のすべてをありのままに受け入れる。決して叱らない、責めない、それぞれの心と体の痛みを優しく包みこみ、優しく諭す。決して父親の権威を振りかざさない。父の最大の特徴は喜びである。このたとえの中で二人の息子の父は神を表わしている。

③このたとえを通してイエスさまは何を伝えたかったのでしょうか。

死んでいたのに生き返り(再生)、いなくなっていたのに見つかる(再発見)ことが、父である神の最大の喜びであること、神にとっては罪人の再生と最発見こそ、何ものにも勝る喜びであり、それを祝うのは当然なのです。「神は悪人の死を喜ばない」(エゼキエル書33:11)、再生を喜ぶことを教えている。「子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。」すべての人の父である神は、神のもとに来る者は誰をも拒まず、喜んで迎え入れてくださる。一人でも多くの人が、どんな時にでも神が共にいてくださり、すべてのものを与えてくださっていることに気付くよう望んでおられる。( チャプレン大西 修)


クチナシ

【ルカによる福音書10:25-37】
10:25 すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」
10:26 イエスが、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と言われると、
10:27 彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」
10:28 イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」
10:29 しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」と言った。
10:30 イエスはお答えになった。「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。
10:31 ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。
10:32 同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。
10:33 ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、
10:34 近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。
10:35 そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』
10:36 さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」
10:37 律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」

ルカによる福音書15章25 節から37節は「善いサマリア人のたとえ」と呼ばれ、イエスさまのたとえ話の中で有名なものの一つです。

サマリア人とは紀元前721年、北のイスラエル王国がアッシリアによって侵略された時、外国人と結婚するようになった民族で、その当時、一般のユダヤ人はサマリア人を混血ゆえに軽蔑、差別し、付き合わず、旅行する時もサマリア人の住む土地を避けて行きました。このような民族間の憎悪、差別の感情を背景に、このたとえ話が成り立っています。

また、登場する律法学者はユダヤ教のパリサイ派という宗派に属し、モーセの律法に大変忠実かつ厳格でしたが、多くの場合、律法を形式的で欺瞞に満ちた守り方をしたため、イエスに彼らは偽善者と呼ばれました。

ある時、一人の律法学者がイエスに「何をしたら永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」と質問しました。何をしたら永遠に残る本当のしあわせをつかむことができるかという生きる上での本質に関わる質問を、イエスを試すためにしました。それによって自分の虚栄心、イエスへの敵愾心を満たそうとしました。イエスはその質問に対して直接答えず、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と逆に質問されました。律法学者は聖書の専門知識をいかんなく発揮し、「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。(申命記6:5) また、隣人を自分のように愛しなさい。(レビ記19:18)』」と答えました。これは、聖書の全内容を「神への愛と隣人への愛」という2点に要約した模範解答でした。それに対してイエスは「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば、命が得られる。」と言われました。この言葉は律法学者にとって、実に不愉快な、痛いところを突かれた言葉でした。なぜなら、彼にとって聖書の知識は誰にも引けを取らないほど豊かでしたが、聖書のみ言葉を知っていることと、聖書のみ言葉を実行することとは別のことであったからです。しかし、自分を正当化しようとして、では「わたしの隣人とはだれですか」と質問しました。そこには律法学者の自分を変えずに、相手だけを変えようとする自己中心的な思いがありました。

「善いサマリア人のたとえ」をこれに答えるものとして話されたのです。イエスは「わたしの隣人とはだれですか」との質問には答えず、「あなたはこの三人の中で、誰が追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」と問い返されています。

律法学者は「自分が愛すべき対象はだれか」をイエスに問い、愛すべき対象を自分の同胞であるユダヤ人に限定しました。愛する対象を自分の好む人に限定するならば、愛することは簡単なことです。

ところが、イエスの「誰が追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」との質問は、律法学者の質問「わたしの隣人とはだれですか」とは正反対のことを言っています。

あのユダヤ人から軽蔑され、敵対視されているサマリア人が、傷つき倒れているユダヤ人に近づき、自分の身の危険も顧みず、親切の限りを尽くしたのです。イエスの質問はわたしたちをちょうど追いはぎに襲われた人の立場に立たせます。わたしたちを愛する側ではなく、愛される側に、傷つき倒れている半死半生のユダヤ人の側において「だれがこの傷つき倒れ苦しんでいるあなたの隣人なのか」と尋ねられます。わたしたちは往々にして、自らを苦しむ者、悩む者の側に置くことを避け、同情者、あるいは一段高い立場に置いて、人に親切にし、愛の行動をし、それに満足して、いつの間にか本当の愛の姿から遠ざかってしまいがちです。自分自身を変えることなしに、人を本当に愛することはできません。そうでなければ、愛の押し売りによる自己満足だけが残ります。

イエスはこのたとえ話の中で、わたしたちを低く、倒れ、傷つき、苦しんでいる者の側に置いて問いかけています。「一体だれが、このように苦しみのうちにあるあなたに近づき、あなたを心から愛した人なのですか」と。わたしたちは自分自身が本当に苦しむ者の側に立つことなくしては、苦しむ者を愛することができません。愛とは苦しみを共に担うことです。愛とは決して観念的抽象的なものではなく、具体的な人間としての出会いを通して生まれてくるものなのです。

イエスの十字架に見られる愛の姿には、神への全幅の信頼と、真に自分を投げ捨て、自分を否定することによる隣人への愛が交差し合っています。イエスの十字架の苦しみと死は、わたしたちの苦しみ、悩み、重い罪を背負ってくださることであり、血の滴るような現実の苦しみがそこにあります。イエスは「行って、あなたも同じようにしなさい。」と、わたしたちを苦しみの真っただ中へと押し出していくお方でもあります。

わたしたちが目をそむけ、避けて通りたい誘惑にかられる時、あえてその現実の中へ「行って、あなたも同じようにしなさい。」と、呼びかけられるのです。あの善いサマリア人と同じように、苦しみ、悩みの中にある人の側に立ち、それを共に負いなさい。「あなたはそれを一人で負うのではありません。わたしもそこに一緒にいます。」そう呼びかけておられるお方の声をこのたとえ話から聴き取りましょう。(チャプレン 大西 修)


ベゴニア

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