*
カテゴリー:礼拝記録 の記事一覧

【マタイによる福音書5:9】
「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。」

先日のチャプレンタイムの時、高校の修学旅行で沖縄に行った人がかなりいることを知りました。どうだった?と感想を聞くと、楽しいはずの修学旅行が戦跡巡りをした日の夜は、暗く重い気持ちになり、なかなか眠れなかったという返事が返ってきました。

「百聞は一見に如かず」のことわざ通り、沖縄戦から70年以上経過しているとはいえ、今なお各所に残る戦跡を訪れ、そこで戦争体験者の証言を聞くとき、想像を絶する悲惨な、むごくおぞましい現実を垣間見る思いがし、人を人として見ることすらできなくしてしまう戦争という恐ろしい人間の歴史の一端を知らされます。

「知らないことは罪である」という言葉があります。1+1=2を知らない、漢字を知らない、英語の単語を知らないといった類の知らないではなく、「わたしたちの生きている現実と深く関わっている歴史的な出来事とその出来事が持つ意味」を知らないことを指します。具体的に言えば、沖縄戦のこと、その持つ意味を知らないことは罪であると言えるのです。なぜなら、「本土防衛のため、本土の捨て石」となった沖縄に住む人々の大きな犠牲の上に、本土にいる今のわたしたちは生きているからです。1945年4~8月までの間に沖縄県民約60 万人の4分の1にあたる15万人が犠牲になりました。沖縄が本土に復帰したのが1972年、戦後27年たってからでした。そのころでもガマと呼ばれる自然の洞窟には遺骨がまだまだ残っていました。また、チビチリガマや嘉渡敷島での集団自決の事実を知りました。

語り部でもある石原絹子司祭(現在81 歳)は「沖縄戦を語り継ぐ」~地獄からの魂の叫び~ を書かれました。その中で、父母と3年生の兄、1年生の彼女と 3歳と1歳の妹の6人家族のうち、彼女一人を残して5人が皆次々に死んでいくすさまじい状況を読んだとき、言葉を失いました。しかし、生きていた祖母に迎えられ、悲しみにむせび泣く中で強く抱きしめられ言われた言葉、「戦争さえなければ、皆幸せに暮らせたのに。でも、どんなにつらくても家族のため、生きて平和のためにお手伝いできる人間になるのですよ」が、彼女のその後の生きる道を決めるきっかけになったのです。

平和を実現する人として彼女は、恒久平和を求める沖縄の心「命どぅ宝」(ぬち どぅ たから)~命こそ宝~を叫び続けておられます。「人間の尊厳を何よりも重視し、相手を尊び、お互いに支え合い活かし合い、戦争につながる一切の行為を否定し、平和を求める人間性の発露である沖縄の心」の大切さを訴えておられます。「平和は黙って向こうからやって来るものではない。どんな小さなことでも平和を実現するための努力を惜しまず、また戦争につながるようなことは、どんなに小さくてもその芽を早く摘み取りたいものである。多くの犠牲の上に成り立った平和憲法を守り抜き、二度と戦争をしない、平和を愛する国であることを国の内外に示すことが肝要かと思う」との言葉を心に深く刻みたいと思います。(チャプレン 主教 大西 修)


琉球新報 2018/6/23より

【ペテロの手紙第一 5:7】
あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。」(新改訳)

わたしは20歳のクリスマスに「自分中心ではなく、神さまを中心にする生き方をしていきたい」と願い、洗礼を受けました。今日は洗礼に至る道のりと、その後に「変化した/しなかったこと」に焦点をあてます。その歩みを振り返ると一本の道にみえますが、実際にはたくさんの分岐点で立ち止まり、その都度「どちらの道を行くのか/行かないのか」を選んできました。わたしが道を選ぶときに働いた「不思議な力」は、そっと背中を押してくれるような、迷い悩むわたしを支え、励ます、ささやかで優しい力でした。

キリスト教に興味を持ったのは、クリスチャンであった伯母の葬儀。当時、わたしは10歳でした。快活で朗らかで、みんなに愛された伯母は43歳で亡くなります。この「伯母の死」が、自覚している「神さまとの出会い」です。伯母は美しい讃美歌と真っ白な花に送られて旅立ちました。そのとき、わたしの葬式はキリスト教式で、みんなに讃美歌を歌ってほしいと思いました。さあ、死んだ後のことが決まったので、次は「どうしたらキリスト教の葬式をあげてもらえるか」、つまり「どう生きるのか」が課題です。

洗礼に直接つながる出会いは、大学のときのこと。わたしは国際基督教大学(ICU)で森本あんり先生(宗教学の先生で当時の大学教会・主任牧師)に出会います。洗礼準備会で「まだ聖書を全部読めていないし(読むと眠くなる)、仏教もいいなと思っている」と話し、キリスト教をもっと理解してからでないと洗礼を受けちゃいけないんじゃないかという悩みを伝えました。先生のお答えは、こんな感じだったかと思います。

1)「これまで」どう生きてきたかというより、「これから」どう生きていきたいかが大事
2)「全て理解してから洗礼を」と言っていたら、きっと、生きている間に洗礼は受けられない
3)理解してから信じるのではなく「信じてからわかることもある」
4)「祈り」は、自分の都合の良いお願いではない
5)「祈り」は集中であり、集中して祈ることは難しく、祈りに集中すれば自ずと道が見える
6)「祈ること」は「的を外さずに生きること」であり、「祈りはおこないである」
7)罪の本質は「自己中心」で、それは「自分を神さまのように扱うこと」

そして、先生は「あなたが神さまを選ぶのではない。神さまが既にあなたを選んだから、あなたは今ここにいるのではないか」と仰いました。あぁ、それならば、わたしなどには到底知る由もないご計画を信じ、いっさいを御手にゆだねようと思いました。こうして10歳で「死に方」が、20歳で「生き方」が決まります。

では「洗礼を受ける前と受けた後」で、わたしはどう変わったのでしょう。わたしの場合、受洗後は間違うことなく常に神さまを仰ぎながら生きてきた…はずもなく、相変わらず自分中心に物事を考え、何度も失敗し、何度も悲しみにくれています。鶏が鳴く前に、3回、イエスを知らないと言ったペテロは、まさにわたしでした。自分の無力を思い知ったとき、「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとへ来なさい。あなたがたを休ませてあげよう」(マタイ11:28)という聖句がうかび、「まことにこの人は神の子であった」(マタイ27:54)という言葉も響きます。

わたし「が」なんとかしよう、という「が」の強い自分を手放すのは難しく、「自分は欠けだらけの土の器だ、本当にそうだ」と今、ここで強く思っているのに、ふと気づくと、自分を中心に考え、例外をつくり、言い訳を繰り返しながら、自分の言動を正当化して振る舞う弱さを抱えています。わたしの弱さは、洗礼によってさっぱり洗い流されてしまうものではありませんが、クリスチャンとして生きることは、自分の力で自分を変えることすらできない自分に絶望することなく、その弱さに注がれる神さまの愛と、弱さも豊かに用いて下さる神さまの働きを喜ぶことなんだろうと思います。

「弱さこそが恵みであり、弱いからこそ、強い」。20歳のクリスマスに、わたしは今日の讃美歌の一節「寒い冬の中 春は目覚める」にあるような「逆転の発想」を会得し、「信じる人」になりました。これまでの悲しいことや辛いこと、これから経験する苦しみや痛みも、わたしは恵みとして両手で丁寧に受け取り、祈りの中で喜びにかえることができます。…一緒に信じる人になりませんか? (勝間田 明子 本学教員)

【コリントの信徒への手紙一 3:6-7】
3:6 わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。
3:7 ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です。

6月に入りそろそろ梅雨の時期を迎えようとしています。この時期、園では子どもたちが花壇や植木鉢、プランターなどにひまわりや朝顔の種を蒔いたり、きゅうりやトマトの苗を植えたりします。毎日お当番が喜び勇んで水をあげたり、時には肥料を施したりしながら、それらが花を咲かせ、実を結ばせる日を楽しみに待っている姿を見ていると、とても嬉しくなってきます。

けれども、連休明けに登園して来た子どもたちは、心配そうな顔をして草花や野菜の様子を見に行き、元気に成長しているのを見届けてひと安心します。そしておもむろに尋ねます。「先生、お休みの間、お水あげなかったのにどうして枯れなかったの?」と。

使徒言行録9章を読みますと、紀元30年代の中頃、熱心なユダヤ教徒であったサウロはキリストを信じる者を捕縛するためダマスコへ向かう途中、復活された主イエスに出会い、劇的な回心をし、熱心なキリストを信じる者となります。その後、パウロと呼ばれ、1世紀中頃、ギリシャ・ローマ世界へ伝道活動をして歩き、ギリシャのアテネ、コリントという当時の商業文化の盛んな都市に教会の基礎を築きました。コリントの教会ではパウロが去った後、信徒の中に妬みや争いが起こり、「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロにつく」などと言って、何人かの指導者の名を掲げた分派が生まれました。これに対してパウロはこの手紙を書きました。「アポロとは何者か。また、パウロとは何者か。この二人は、あなたがたを信仰に導くためにそれぞれ主がお与えになった分に応じて仕えた者です。わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です。」と。

パウロもアパロもコリントの教会の指導者として大切な役割を担ってきました。けれども、彼らはどこまでも神のために力を合わせた働く同労者であり、自分が最も優れているなどとは全く考えていませんでした。なぜなら、彼らにとって主イエスをこの世に遣わしてくださった神こそすべてであり、その神によって自分たちが生かされていると信じて疑わなかったからです。パウロはわたしやアポロを見てそこに留まるのではなく、わたしたちが示す神を、主イエスを見て歩むことが最も大切なことであると訴えました。

コリントの教会の出来事を通して教えられることは、わたしたちはいつも自分を中心に、自分を基準にして物事を考え、行動していないだろうかということです。少しでも学力や知能が他者より優れていると、皆から注目され、敬われていると思い込み、いつの間にか舞い上がって、自らを誇る言動に出てしまいがちです。わたしたちは自分の言動が高く評価されることを期待します。「わたしが植えたから成長したのよ」「うそ~、わたしが水をあげたからこそ成長したのよ」と、各々自分のしたことをPRします。自己PRは時として自己主張となり、さらには自己正当化へ、そして他者を否定する危険にもつながる要素を持っています。このことは保育の現場、学内においても言えることではないでしょうか。

「父母(保護者)が植え、保育者(教師)が水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。大切なのは父母(保護者)でも保育者(教師)でもなく、成長させてくださる神です。」と、言葉を置き換えてみてはどうでしょうか。わたしたちは目に見えない神さまの大きな力に見守られ、保育者(の卵)として現在生かされていることを自覚しつつ、常に謙遜さを身にまとうことを忘れないようにしたいものです。

「先生、お休みの間、お水あげなかったのに、どうして枯れなかったの?」と質問してきた子どもに、あなただったらどのように答えますか。(チャプレン大西 修)

ビオラとツマグロヒョウモン

今年度から、希望者に対して「誕生日の祈り」を礼拝直後に執り行うことになりました。

今日は6月生まれの5人の学生さんがこの恵みに預かりました。恥ずかしくて、なかなか前に出てこなかったというハプニングもありましたが、皆、チャプレンから頭に手を置いてもらい嬉しそうでしたよ。勇気を出した5人に拍手です(^o^)/

未信徒のカップルさんがキリスト教スタイルで結婚式を堂々と挙げる時代です。愛を誓う儀式をキリスト教式でやってもらえるだけでも、クリスチャンにとっては嬉しいことです。

同様に、誕生日のお祝いや自分自身を振り返る黙想をキリスト教式に行なうのも、何ら不思議ではない気がします。キリスト教は意外に懐が深いのです。(加藤)

【詩編19:2】
「天は神の栄光を物語り、大空は御手の業を示す。」

レイチェル・カーソン(アメリカの海洋生物学者、1907~1964年、56歳で死去)のわたしたちへの贈り物は、「センス・オブ・ワンダー」(彼女の遺作)です。1965年に出版され、最初に邦訳されたのは1991年、死後25年以上たってからでしたが評判を呼び、若い母親や幼稚園、保育園、小学校の先生たちにも注目され、50年以上たった現在も必読書として読み継がれている名著です。

「センス・オブ・ワンダー」とは、すべての子どもたちに備わっている天性で、自然界の美しいもの、未知で神秘的で不思議なものを、驚きの目をもって見つめる感性のことです。これはわたしたち大人がいつの間にか、身に着けてしまった知識や経験、常識や習慣などの既定の基準にとらわれない、物事の本質を見極める生命力の原点とも言えます。

子どもたちが生まれながらに持っている素晴らしい感性の力を、いつも新鮮に保ち続けるためには「わたしたちが住んでいる世界のよろこび、感激、神秘などを子どもといっしょに再発見し、感動を分かち合ってくれる大人が、少なくともひとり、そばにいる必要があります。」と彼女は言っています。

残念なことに、わたしたちの周囲を見回すとき、日に日に自然環境が破壊され、環境汚染が進んでいます。自然界のありのままの姿が人間の誇る科学の力によって破壊され、修復できない状況にまで至っています。レイチェルは「センス・オブ・ワンダー」を書いた数年前に「沈黙の春」を書きましたが、その中で、すでにこのことが起こることを予測し、警告を発したことにより注目されました。

子どもとともに大人がまず、自然をじっくり見つめることから始める必要があります。子どもが自然界に生きる大小の動植物に驚きの目を見張り、それに触れて歓声を上げ、喜びを全身で表現すること、また夜空に輝く月や星を見て神秘の世界に没入することなどを、大人のわたしたちもいっしょになって追体験することにより、これから新たに保育者として子どもとかかわりを持ち、触れ合っていく基本的な準備ができるのではないでしょうか。大人が保育者が、子どもに優しく寄り添うことは、子どもに安らぎと安心感と信頼感を与え、心豊かな成長を助け、出会う人々との優しい関わりを豊かなものにしていきます。

このように他の命に対する率直で優しい子どもの感性こそ、人と人、国と国の関わりだけでなく、自然界のあらゆる命の全地球的な調和のとれた平和を作り出す礎になりうるとレイチェルは信じていました。

個性豊かでいつもキラキラ輝いている感性を持った子どもたちと向き合う保育者、保護者の働きがいかに大切であるかを思わされます。自然の中に身を置いて、「天は神の栄光を物語り、大空は御手の業を示す。」(詩編19:2)のみ言葉を通して、「人間を超えた存在」を感じとることができれば、最高です。 (チャプレン 主教 大西 修)

ドクダミ

【マタイによる福音書6:7-13】
6:7 また、あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。
6:8 彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。
6:9 だから、こう祈りなさい。『天におられるわたしたちの父よ、/御名が崇められますように。
6:10 御国が来ますように。御心が行われますように、/天におけるように地の上にも。
6:11 わたしたちに必要な糧を今日与えてください。
6:12 わたしたちの負い目を赦してください、/わたしたちも自分に負い目のある人を/赦しましたように。
6:13 わたしたちを誘惑に遭わせず、/悪い者から救ってください。』

「主の祈り」はイエスさまが教えてくださった祈りで、一番基本的で大切な祈りです。マタイによる福音書6章9節―13節とルカによる福音書11章2節―4節に記されています。それはイエスさまの言われたこと、なさったことの要約でもあります。

「主の祈り」は1,900年前から今日まで、教会の礼拝の中で絶えず祈り続けられてきました。わたしたち柳城の水曜日の礼拝でもいつも用いられています。

有名な神学者マルティン・ルターはとても大切な「主の祈り」が非常に粗末に軽く扱われていることを憂い、「主の祈りこそ教会史上、最大の殉教者である」と言いました。

「主の祈り」の内容は(1)呼びかけ~呼びかける相手がはっきりしている。(2)神(あなた)についての祈り~前半の三つ(3)人間(わたしたち)についての祈り~後半の三つ から成り立っています。

(1)    祈りは神さまとの対話です。ですから、必ず対話の相手である神さまに、天におられるわたしたちの父よ、と呼びかけます。相手が分からなくては呼びかけられません。その相手(神さま)を本当に信じていなければ、祈りにはなりません。

(2)    そして、信じている神さまの偉大な力と素晴らしさをすべての人がほめたたえ、賛美し、あなたによる正義と平和と愛がこの地上にも実現しますようにと祈ります。

(3)    最後に、わたしたちについての祈りがあります。

日本人の多くは、神さまへの祈願(お願い)=祈りと考えています。祈願=祈りではなく、祈願は祈りの一部です。「主の祈り」の大切なところは「わたしの祈り」ではなく「わたしたちの祈り」であることです。全人類のための祈りと言ってもいいと思います。

当たり前のこととして毎日3度の食事をとっているわたしたちが、「わたしたちの日ごとの糧を今日もお与えください」と祈るのはなぜでしょうか。それは現在でも世界で1日に25,000人もの餓死する人がいるからにほかなりません。その人たちのことも覚えて祈るのです。

「わたしの罪」ではなく「わたしたちの罪をおゆるしてください。わたしたちも人をゆるします」と祈ります。わたしたちは神さまの思いをしばしば裏切りますが、わたしたちを愛しておられる神さまは、そんなわたしたちをゆるしてくださいます。ゆるされた喜びを知った人は、他者をゆるすことができる人へと変えられていきます。

誘惑とは、わたしたちを常に神さまの思いから引き離し、自己中心的な生き方へと引き寄せる力、「サタン」「悪魔」の働きのことです。現代のように物質的に豊かな社会では、物質的な欲望への刺激や、性的な誘惑などが巨大化しています。このような中でわたしたちは日々、自己中心的な決断をし、隣人を無視、黙殺し、苦しみ、悲しみ、悩む人々を冷たく切り離しています。そのように悪におちいりやすく弱いわたしたちを支え励ましてくださいと願い、祈ります。

「アーメン」は「そうです、そのとおりです、本当に」の意味です。 (チャプレン大西 修)

【ルカによる福音書 5:27-32】
5:27 その後、イエスは出て行って、レビという徴税人が収税所に座っているのを見て、「わたしに従いなさい」と言われた。
5:28 彼は何もかも捨てて立ち上がり、イエスに従った。
5:29 そして、自分の家でイエスのために盛大な宴会を催した。そこには徴税人やほかの人々が大勢いて、一緒に席に着いていた。
5:30 ファリサイ派の人々やその派の律法学者たちはつぶやいて、イエスの弟子たちに言った。「なぜ、あなたたちは、徴税人や罪人などと一緒に飲んだり食べたりするのか。」
5:31 イエスはお答えになった。「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。
5:32 わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。」

「スマホ廃人」(石川結貴著、文春新書)という本の中で「ママのスマホになりたい」(のぶみ作WAVE出版)という絵本が紹介されています。シンガポールの少年が書いた作文をもとにした絵本です。スマホばかり見ているママに自分を見てほしいと願う物語。自分がスマホになれば、ママに見てもらえる。だからママのスマホになりたいという切ない願いは、現代の日本の子どもたちは勿論のこと、小・中・高校生をはじめ、大人にも通じるものがあります。

SNSは現代のわたしたちにとってはなくてはならないものになりました。文明の利器としてとても便利で役立つことは事実です。スマホなどは、電車やバス、新幹線に乗ると大半の人が手にして操作しています。手にしていないと不安になるという一種のスマホ依存症になっているとも言えます。わたしも最近少しその傾向があるようです。

スマホの過度な使用は次のような多くのリスクがあると言われています。①睡眠時間不足 ②体力が落ちる ③学力低下 ④視力減退 ⑤脳機能へのダメージ ⑥コミュニケーション能力の低下。そして1日3時間使用する人は、何と1年365日のうち45 日間(1ケ月半)をスマホと過ごしていることになります。使用者の約3分の1がこれに当たります。

SNSはいろいろなニュースや情報を知ったり、連絡事項を一斉に伝達したり、音楽を聴いたり、ゲームを一人でしたりするために、大いに役立ちます。

けれども、このような状況の中で、わたしたちが一番気をつけなければならないことは、SNSでは人の心や気持ちや思いを十分に伝えることが困難だということです。機械を通して伝えることのできる事柄には限界があります。事務的な事柄であれば、十分伝えられるでしょう。心の内にある深い思いは、電子媒体では伝えられません。メールでどんな装飾文字や記号、そして絵を使って送信したとしても、それによって人の心の思いは十分に伝わらないでしょう。

もう少し進んだ方法として、ラインの動画と音声によって話せば、思いも以前よりは伝わるでしょうが、何といっても心の思いが確かに相手に伝わる最善の方法は、直接出会って、相手の表情を見ながら、対話することに勝るものはありません。

今日読んだルカによる福音書5章27節以下では、徴税人レビがイエスさまに声をかけられ、従って行った話が記されています。勿論、その時代SNSなどありませんでしたが、イエスさまはレビに直接出会い、彼の顔を見ながら愛をもって声をかけられました。レビはその声に応え、従って行き、勇気をもって新しい行動を起こしました。イエスさまの愛ある行動がいかに大切であったか、そして、レビには想像もしなかったような大きな喜びの人生が始まったことを教えています。

わたしたちは日々の生活の中でいつも出会う友人・知人に対して、SNSに頼らず、直接向き合い、声をかけ、心を込めて対話することの大切さを再認識しましょう。(チャプレン主教 大西 修)

ニーレンベルギア

 

年に一度のカレーサービスの日(笑)

キリスト教センターのスタッフと学生さんが一生懸命作ってくれましたよ(^o^)/ 感謝

お味のほうは、お子様大好きカレーって感じで、ドンドン食べれちゃう。サラダもしっかり付いていて嬉しかったなあ~(^^♪

もちろん、やることはキチンとやりました。学生宗教委員としての心構えなどを皆でチェック! 学生の皆さん、今年もよろしくお願いします。

食事会が大好きだったイエス・キリストの席も設けておくべきでしたか。(加藤)

人の子が来て、飲み食いすると、『見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ』と言う。しかし、知恵の正しさは、その働きによって証明される。」(マタイによる福音書11:19)

 

【マタイによる福音書 25:14-30】
「タラントン」のたとえ
25:14 「天の国はまた次のようにたとえられる。ある人が旅行に出かけるとき、僕たちを呼んで、自分の財産を預けた。
25:15 それぞれの力に応じて、一人には五タラントン、一人には二タラントン、もう一人には一タラントンを預けて旅に出かけた。早速、
25:16 五タラントン預かった者は出て行き、それで商売をして、ほかに五タラントンをもうけた。
25:17 同じように、二タラントン預かった者も、ほかに二タラントンをもうけた。
25:18 しかし、一タラントン預かった者は、出て行って穴を掘り、主人の金を隠しておいた。
25:19 さて、かなり日がたってから、僕たちの主人が帰って来て、彼らと清算を始めた。
25:20 まず、五タラントン預かった者が進み出て、ほかの五タラントンを差し出して言った。『御主人様、五タラントンお預けになりましたが、御覧ください。ほかに五タラントンもうけました。』
25:21 主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』
25:22 次に、二タラントン預かった者も進み出て言った。『御主人様、二タラントンお預けになりましたが、御覧ください。ほかに二タラントンもうけました。』
25:23 主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』
25:24 ところで、一タラントン預かった者も進み出て言った。『御主人様、あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方だと知っていましたので、
25:25 恐ろしくなり、出かけて行って、あなたのタラントンを地の中に隠しておきました。御覧ください。これがあなたのお金です。』
25:26 主人は答えた。『怠け者の悪い僕だ。わたしが蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集めることを知っていたのか。
25:27 それなら、わたしの金を銀行に入れておくべきであった。そうしておけば、帰って来たとき、利息付きで返してもらえたのに。
25:28 さあ、そのタラントンをこの男から取り上げて、十タラントン持っている者に与えよ。
25:29 だれでも持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。
25:30 この役に立たない僕を外の暗闇に追い出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。』」


「自分の賜物を用いて生きる」 <タラントンのたとえから>

タラントンはそもそも重さの単位から次第に貨幣の単位に代わっていきました。

そして今日ではTVタレントとかいうタレントの語源でもあり、才能や能力または才能豊かな人を表してもいます。

ある主人が三人の下僕達にそれぞれ5タラントン、2タラントン、1タラントンを預け、それを元手に商売をするように命じて旅に出掛けます。そして主人が帰宅しそれぞれに下僕たちを呼んで精算をしながら、儲けた下僕を褒めますが、1タラントン預けられた者は失敗を恐れて土の中に埋めておき、また掘り出して主人に報告しますが、主人にきつく叱られてしまいます。何故叱られたのでしょう・・・。

皆さんは疑問に思ったことはありませんか?

どうして世の中に美人と不美人がいるのか、みんな美人ならいいのに!

この問いには色々なことが含まれているように思います。全部の人が美人であれば、この世に美人という言葉すら無いでしょうし、美人とはどういう人のことなのか、幸福とは一体何かという問題につながるテーマでありましょう。この素朴な疑問は、なぜこの世の中に不公平や不平等が存在するのかということですが、しかしこれは、長い人間の歴史の中で常に問われ続けている大きな疑問でもあり、課題でもあります。人種や国籍の違い、性別の違い、生まれながら病弱な人もいれば頑健な人もいます。その他多くの違いの中で私たちは生きています。その違いが社会の中で力関係として働く時、そこに「差別」が生まれます。本人の責任以外のことで全てが規定されてしまいます。なぜ人生の出発点で、本人の意思とは関係なく、生存の諸条件が異なるのかという根源的な問いなのです。

私たちはついつい自分にもっと才能や能力があればもっと上手く出来るのにと愚痴を言ってしまいます。他人と比較し、足りない少ないと不平を言うだけで、何もしない口実にしてしまっていませんか? もしこの1タラントン預けられた者が商売に失敗していたら主人はどうしたでしょうか? はやりこの下僕を今度は打ち叩いたりしたでしょうか? この主人は彼に預けた物を使わなかった、埋もれされてしまうだけで用いなかったことを叱責したのではないでしょうか?

では皆さんは自分には何が預けられているのか、どんな能力や才能が預けられているのか、と思いますよね。考えても分からないかも知れませんね。かく言う私もまだ十分自覚しているとは言い切れませんから・・・。

ここでひとつの詩を紹介したいと思います。
事故で麻痺が生じたある青年医師の詩です。

「あたりまえ
こんなすばらしいことを、みんなはなぜよろこばないのでしょう
あたりまえであることを
お父さんがいる お母さんがいる
手が二本あって、足が二本ある 行きたいところへ自分で歩いてゆける
手をのばせばなんでもとれる 音がきこえて声がでる
こんなしあわせはあるでしょうか
しかし、だれもそれをよろこばない あたりまえだ、と笑ってすます
食事がたべられる 夜になるとちゃんと眠れ、そして又朝が来る
空気を旨いっぱいにすえる 笑える、泣ける 叫ぶことができる
走りまわれる みんなあたりまえのこと
こんなすばらしいことを、みんなは決してよろこばない
そのありがたさを知っているのは、それを失くした人たちだけ
なぜでしょう
あたりまえ」

皆さんが幼児教育にたずさわろうとされたその志をどうぞ全うされますよう心から願い、お祈りしています。

皆さんがその志を胸に、子どもたちをいっぱい好きになって、そして、子どもたちからいっぱい好かれる先生になってくださいますように。(一宮聖光教会司祭 中尾志朗)

礼拝後に、ゴスペルシンガーの江崎理子さんをお招きしてゴスペルを満喫しました!(^^♪
(前回の様子はこちらで)

シッカリと発声練習から始まったところが「さすが!プロ」という感じ。この時点から理子ワールド炸裂です。ぶれない発声と自由自在なピアノさばき・・・。素人の私にはその凄さは計り知れませんが、とにかく彼女は自然体。魂の開放であるゴスペルを体に染み込ませている雰囲気でした。

今回取り上げられた曲は、
This little light of mine(私の中の小さな光)
Down by the riverside(川岸に重荷を下ろして)
Make us one(私たちを1つにしてください)
We shall overcome(我ら打ち勝たん)

どれもがシンプルで歌いやすく、ゴスペルに親しむにはピッタリな曲でした。

演奏の合間に披露されるウンチクがまたすばらしくて、たとえば・・・

「読み書きができなかった黒人らは、実は頭がたいへん良くて、教会で聞いたシンプルなメッセージをキッチリ覚え、それに節をつけて、仲間が覚えやすいよう工夫して伝えた。」

ゴスペルの原風景が見えるようですね。

学生さんも随分リラックスしてノリノリだったみたいです。喜びの宗教であるキリスト教の一面を肌で感じたんじゃないかな?(^J^)

それを楽しく伝えてくださった理子さんに、心から拍手です。そして、この企画をプレゼントしてくださった同窓会(のぞみの会)にも、心から感謝です。(加藤)

新しい歌を主に向かってうたい/美しい調べと共に喜びの叫びをあげよ。(詩篇33:3)

このページの先頭へ