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「受けるよりは与える方が幸いである。」(使徒言行録20:35)

イエス・キリストの言葉として、パウロがエフェソの教会を去る時、伝えた言葉です。イエスさまを模範とする生き方がこの言葉に示されています。

人が人として生きていく上で、受けること(もらうこと)と与えること(あげること)はだれもが体験するとても重要なことです。この体験なしには人は生きていけません。

イエスさまは与えることがどんなに人を生かし、人に喜びを与えるものであるかを、弟子たちと寝食を共にする中で、お教えになりました

しかし、正直なところ、わたしたちは「与えるより受ける方が幸いである」と思っています。だって、あげるよりも、もらう方が得だし、嬉しいし、いいに決まっているからです。それに反して、イエスさまは人が人として生きていく上で、受けるよりは与える方が、本来的な生き方であると言われ、ご自分の命を与えること(十字架におかかりになり死ぬこと)を通して、与えることがどのような意味を持つのかをお示しになりました。

イエスさまはわたしたちに想像できないほどの、大きく、広く、深い愛をお与えくださいました。それが十字架の上で愛する全人類のために死なれたことだったのです。

肉体的にも精神的にも未成熟な乳幼児の時、老齢期を迎え、気力や体力が衰え、援助が必要となる時、また肉体的、精神的なハンディキャップを負って生きる時、さらに経済的に苦しく困難な日々を過ごしている時などは、ある意味で受けることが多く、与えることが少ないと言えるでしょう。

乳幼児はお乳を飲ませてもらい、ご飯を食べさせてもらい、おむつを交換してもらい、お風呂に入れてもらい、抱っこしてもらい、遊んでもらい、寝かせてもらいます。母親、父親からあふれるばかりの愛を注がれて育った乳幼児は、受ける喜びを心身で体得します。

その受けた喜びは、与えることを喜びとする人に成長していく力となります。外見的には弱く、力なく、受けることが多いと思われている人々(乳幼児、お年寄り、ご病人、ハンディキャップを負っている人々など)から、実に多くの目に見えるもの、見えないものを受けていることを忘れてはなりません。

神さまは知らないうちに、どのような人にも与える力をお与えになっています。

4月には2年生へと進級するわたしたちです。喜んで与える人へと成長できるように祈り求めていきましょう。(チャプレン 主教 大西修)

 

【コリントの信徒への手紙一  6:19 】
知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。

「キリスト教の信仰を持つ人には聖霊が宿るのだから、自分の体を神殿だと思って大切にしなさい」と本日の聖書は語っています。今日は、聖霊が宿るその心についてお話をします。

この1年間の学びをまとめる時期に入っていますね。高校までは、どちらかというと進学のための勉強でしたが、柳城では、現場で発揮できる実践的な学びが中心です。授業、実習、礼拝などを通して心が広がったかどうかを今日は考えて欲しいと思います。

心が広いとは、たとえば、色々なタイプの子どもに向かって臨機応変に対応できるか、ということです。心に余裕があると言ってもいいでしょう。全員の子どもに対して一律に教え込もうとしても無理ですよね。でも、心が広いと一人ひとりの状況に対応できるようになります。

自分の心がどうなっているかを客観的に検証する機会はそんなにはないですが、広い心を持つことが皆さんの将来には一番必要ではないでしょうか。

本学の建学の精神である「愛をもって仕えなさい」という心の在り様は、身に付けることがさらに難しいです。でも、その時々のチャレンジが皆さんの成長につながります。どうか励んでみてください。

以上で、私から皆さんへの最後の言葉とします。(名古屋聖マタイ教会 司祭 田中 誠)

プリムラ

12月20日(水)に行なわれた礼拝の模様をお届けします。

●前奏
「牧人ひつじを」…扶瀬ゼミ学生によるハンドベル演奏

 

 

 

 

 

点火の祈り
「大いなる光を造られた主が、豊かな憐れみによってわたしたちの心の闇を照らし、喜びに目覚めさせてくださいますように。光の源である主の輝きによって、救いの光が世の隅々にまでゆきわたりますように。義の太陽であるキリストが皆さんを照らし、行く道の闇を取り除いてくださいますように。」

 

 

 

 

 

 

●聖歌…第69番「もろびとこぞりて」
→司式者団が入場し、中央通路のロウソクが点火されます。

 

 

 

 

 

 

●ページェント…「キリスト教保育」受講生、有志学生
1 受胎告知
2 ベツレヘムへの旅
3 野の羊飼いと天使
4 み子の誕生と羊飼いの礼拝
5 占星術の博士たちの礼拝

→恒例のイエス・キリスト降誕劇。本日の礼拝の意味が伝えられる大切な時間です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

福音書…ヨハネによる福音書 1:1-5、14
●クリスマスメッセージ…チャプレン 主教 大西 修 →こちらでご覧ください。

●手話コーラス…介護福祉専攻学生、有志学生
「YUME 日和」「Smile」

 

 

 

 

 

 

●ハンドベル演奏…扶瀬ゼミ学生によるハンドベル演奏
「いのちの奇跡」 編曲:扶瀬 絵梨奈

 

 

 

 

 

●演奏…保育専攻学生  伴奏: 内山 尚美
「Ave Verum Corpus」 (W.A. モーツァルト)
「Hail Holy Queen 」映画「天使にラブ・ソングを」から(Traditional)

 

 

 

 

 

聖歌…第76番「かいばおけの干し草に」
●奉献の祈り
●聖歌…第91番「荒野のはてに」
●聖歌…「おほしがひかる」
→聖歌の間にロウソクの火がすべて灯されます。

 

 

 

 

 

主の祈り(主イエス・キリストが教えてくださった祈り)

天におられるわたしたちの父よ、
み名が聖とされますように。
み国が来ますように。
みこころが天に行われるとおり地にも行われますように。
わたしたちの日ごとの糧(かて)を今日もお与えください。
わたしたちの罪をおゆるしください。
わたしたちも人をゆるします。
わたしたちを誘惑におちいらせず、
悪からお救いください。
国と力と栄光は、永遠にあなたのものです。アーメン

 

 

 

 

 

●諸祈祷
・名古屋柳城短期大学のための祈り
・東日本大震災と熊本地震を受けて―祈りをともに
・アッシジの聖フランシスの祈り

主よ、
あなたの平和を人々にもたらす道具として、
わたしをお使いください。
憎しみのあるところに愛を、
不当な扱いのあるところにはゆるしを、
分裂のあるところには一致を、
疑惑のあるところには信仰を、
誤っているところには真理を、
絶望のあるところには希望を、
暗闇には光を、
悲しみのあるところには喜びを、
もっていくことができますように。
慰められることを求めるよりは慰めることを、
理解されることよりは理解することを、
愛されることよりは愛することを、
求める心をお与えください。
私たちは自分に死ぬことによって自分を見いだし、
自分自身に死ぬことによって
永遠のいのちをいただくのですから。

 

 

 

 

 

 

祝祷
●聖歌…第81番「神には栄え」
→聖歌の間に司式者団が退場します。

 

 

 

 

 

後奏

この後、今年のクリスマスプレゼントが紹介されて、礼拝は無事終了となります。

 

 

 

 

 

 

いくつかの出し物に彩られた、すてきなクリスマス礼拝だったと思います。イエス・キリストご誕生の意味がすべての参加者の心に届く、そんな礼拝を求めて、柳城短大のチャレンジはこれからも続くことでしょう。(加藤)

「このようにあなたたちも、外側は人に正しいように見えながら、内側は偽善と不法で満ちている。」(マタイによる福音書23:28)

【入試広報課ブログもご覧ください】

【ヨハネによる福音書 1:1-5、14】

初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。

 

 

 

 

 

 

クリスマス~受けた愛に答える時

「神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3:16)

今年もクリスマスを迎えようとしています。柳城では早目の今日、お祝いしていますですが。

わたしの記憶に残っているだけでも、これまで60回を越えるクリスマスを経験してきました。それら一つ一つを思い出すことはできませんが、同じクリスマスは一度もなかったことだけは確かです。毎年毎年、違う思いをもってこの日を迎えてきました。

ことのほか、この日が待ち遠しくて、楽しくて、嬉しくて仕方がなかったのは小学生の時までだったでしょうか。サンタクロースからのプレゼントを、宝物のように大切にして過ごした日々がそれでした。

中学、高校時代は教会で日曜学校(教会学校)のお手伝いをしたり、新米の教師をしたりする中で、自分よりも小さな子たちにいっぱい楽しんでもらいたいという熱い思いに満たされ、クリスマスの喜びを共に分かち合うことの素晴らしさを学びました。

大学時代には教会から外に出て、現実の世界に目を向け、歳末の町でキャロルを歌い、クリスマスの案内を道行く人々に手渡したり、救世軍の慈善鍋に倣って募金活動をしたりしました。また、少年刑務所に行って、入所している人たちと一緒にクリスマスソングを歌うひと時を送ったこともありました。

神学校に学び、卒業後は教会の牧師として、また時には教会付属の幼稚園・保育園の園長として各地で迎えたクリスマスは、都市化し、世俗化し、人間関係が希薄化する中で、教会と関わりのある諸施設、学校、幼稚園、保育園でクリスマスをお祝いする意味、意義はどこにあるのだろうかと絶えず自問しつつ過ごす時でもありました。

よくクリスマスを「苦しみます」と言ったりしますが、自分でそのことを体験することも多くありました。満面の笑みを浮かべて登園して来る園児たちの姿を思い浮かべながら、園児たちにどんな喜びがあげられるだろうか?と思案しながら、夜遅くまで一人一人のプレゼントに名前とメッセージを書いて、包装したこと、夜明け前の園庭に出て、1m以上降り積もった雪かきをし、汗びっしょりになって通園路の確保に腐心したこと、野宿を余儀なくされている人々の越冬炊き出しのお手伝いや、夜回りに行ったこと、洪水、地震による多くの被災者の支援活動を進めていくため、オープンスペースを教会や保育園に開設したことなど、考えてみればこのような「苦しみます」と思える事柄と、クリスマスの出来事・主イエスの御降誕の情景が重なり合うとき、不思議に「苦しみます」と思える事柄がいつの間にか喜びへと変えられていく経験を何度もしました。神様はいついかなる時にも、どこにおいても一緒にいてくだり、見守り、支えてくださるお方です。

主イエスの御降誕は飼い葉桶の中に眠る幼子が、厳しい貧困の現実の只中で、ひたむきに生きる羊飼いたちに生きる喜びを与えました。この世界から全く孤立し、顧みられなかったような羊飼いたちが、天使の呼び掛ける歌声に答えることを通して生きる意味を見出したのです。

神によってこの世に遣わされた幼子は、貧しく、小さく、か弱い姿で、わたしたちに呼びかけてこられます。「あなたは愛されている。神から、そしてわたしから。あなたは与えられた大切な命を惜しみなく用いなさい。あなたの命はかけがえのない命、何ものにも代えがたい命なのだから」と。その声に耳を傾け、その声を聴き取り、それに答える人に、クリスマスの喜び、救い主キリストの到来の喜びが現実のものになるのです。

皆さん、クリスマスおめでとうございます。(チャプレン 大西 修 主教)

【マタイによる福音書2:13-16】
2:13 占星術の学者たちが帰って行くと、主の天使が夢でヨセフに現れて言った。「起きて、子供とその母親を連れて、エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデが、この子を探し出して殺そうとしている。」
2:14 ヨセフは起きて、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトへ去り、
2:15 ヘロデが死ぬまでそこにいた。それは、「わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した」と、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。
2:16 さて、ヘロデは占星術の学者たちにだまされたと知って、大いに怒った。そして、人を送り、学者たちに確かめておいた時期に基づいて、ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させた。

クリスマスをお祝いしたわたしたちの思いは、もう年末年始へと向かっていますが、

教会ではクリスマスの期間を12月25日から1月6日(東方の占星術の学者がやってきたことを覚える日。顕現[公現]日~エピファニーデイと言います)まで守ります。ですから,

クリスマス・ツリーなどの飾りなどもその期間飾っておいておかしくありません。日本人にはピンとこないかもしれませんが、キリスト教を背景にする国ではメリー・クリスマスとハッピー・ニューイヤーが重なっています。

さて、わたしたちはイエス様のお誕生の出来事についてはよく知っていますが、その直後のことについてはあまり聞く機会がないので知らない人もいるかと思います。今読んでいただいたところから続けて先を読んでみますと、イエス様は両親であるヨセフとマリアに守られてエジプトへと逃避行されます。それは、ヘロデが自分の王位を守り続けるため、その地位を危うくする、次の王になる可能性のある幼子の虐殺断行を逃れるためでした。

現在でも国境を越え、海を渡り、他国へ逃れる世界各地の多くの避難民の現実の姿には本当に心が痛みます。生まれて間もないイエス様もそのような避難民として、エジプトへ逃れ、そこで幼少期を過ごされたのです。誰もが想像もしなかった劣悪な環境の家畜小屋でお生まれになり、さらに生まれたばかりの幼子としてエジプトでの避難民生活をされたことは、世界の底辺で生きる人々のつらい思いと苦しい体験を共有される方として、幼子の時からイエス様が神の子として人々と共に歩まれたことを物語っています。

皆さんが4月からこの12月までの9か月の日々を振り返ってみる時、楽しく有意義な時も多かったことでしょう。でも一方では、自分の予想以上に大変で、しんどくて、落ち込んでしまう、そんなはずではなかったという経験をしたかもしれません。一見、マイナスと思われるそのような出来事を体験することを通して、わたしたちは一回り大きな人間へと成長させてもらえます。わたしの大変で、しんどくて、落ち込むような経験は、そのような思いを持っている人に対して、深い同情と共感を寄せることができる暖かな優しい人格を築き上げていくことと思います。

わたしはつらく、苦しく、しんどい思いをしたとき、いつもイエス様のことを思い浮かべます。そうするとイエス様は「大丈夫だよ。わたしが一緒にあなたのつらく、苦しく、しんどい思いを担ってあげますから。」と語りかけ励ましてくださることを信じています。

今日12月27日は福音記者使徒聖ヨハネ日という教会の祝日です。ヨハネはイエス様の弟子であり、「愛の使徒」と呼ばれ、ヨハネによる福音書を書いた人です。彼は「愛」についてたくさんのことを教え、書き記しています。「神は愛である」ことも教えています。その愛はイエス様の生き方、教えに示されています。

今年もあと4日、新しい年を、柳城が拠って立つみ言葉「愛をもって仕えなさい」の具体的実践の年として迎えたいと思います。(チャプレン大西 修 主教)

寒さに耐えるペチュニア

「その1」の続き

【有志学生さんの感想】

ピアノを人前で弾くことはあまりないから緊張しましたが、今回はこのような企画に参加できてとてもいい体験ができました。中高生のときとはまた違い、より静かな空間の中でお祈りができてよかったです。普段礼拝に来ない人も多いし、この日も学生が少なかったのはとても残念だけれど、久しぶりにシスターにもお会いできたし嬉しかったです。(N)

私は朗読係を担当しました。緊張しましたが、来てくださった皆さんと同じ時を過ごせて嬉しかったです。お越しくださった皆様、開催に協力いただいた学校やマタイ教会の皆様、この集いに一緒に取り組んだ皆様、本当に有難うございました。(H)

祈りの集いに御誘い頂けたこと感謝します😌 誘われなければ出会わなかった方達もいます。私の歌声を評価してくださり、ありがとうございました。とても嬉しかったです。そして楽しかったです! この集いで感じたこと、みんなと過ごしたことを忘れません😂(T)

みなさんとともに祈りの思いを分かち合うができました。上から見たキャンドルの美しさと清らかな空気を忘れることはないでしょう。賛美する喜びを知った日となりました。ありがとうございました。(Y)

クリスマスツリー点灯式の記念企画を2年前から行ってきましたが、今年はテゼの楽曲を用いた「黙想と祈りの集い  ~テゼの歌とともに」にチャレンジしました。保育科2年の学生さん4名による有志企画です。

きっかけは八事聖霊修道院の「賛美の集い」にセンタースタッフ1人が2年程前からプライベートで参加していたことでした。この清くて静寂な集いを柳城でも実現させたいという気持ちが高ぶり、ずっとアイディアを温めてきたのです。それで、今年のXmasミニコンサートが残念にも開催不可能になったことが逆にチャンスとなり、本企画を実現させようとの動きに繋がったというわけです。

幸いにも本学で洗礼/堅信の恵みに預かった学生さんの協力が得られ、話が一気に現実味を帯びてきました。これが今年の7月頃のことです。この学生さんにとっては洗礼を受けたことへの証にもなるということで、彼女は積極的に仲間を募ってくれました。そして10/3に4名からなる準備チームが結成され、特設LINEも立ち上がったのでした。

有志4名は総指揮&BGM、独唱、伴奏、朗読の4パートに分かれ、個人がそれぞれの練習に入りました。なお、シナリオはセンタースタッフが担当しました。全体リハーサルを4回行い12/7の本番に備えました。その間、キャンドル作りやBGMの選曲、チャペルの雰囲気作りなど細々とした作業も続きましたが、伴奏楽器の選択に一番苦労しました。チャペルのオルガンでは音が大き過ぎたからです。結局、キーボードに頼ることにしました。テゼの集いでは、ギターを使うのが一般的ですが、今回は聖霊修道院に準じました。まあ、人間の声がメインですので、伴奏は手軽な方が企画としては長続きしそうですね。

今回は日本聖公会中部教区の名古屋聖マタイ教会と教区センターのご協力も得られました。特に教区センターのスタッフの方には集いのお手伝いと宣伝をしていただきました。感謝です。

なお、開催当日、八事聖霊修道院から8名のシスターさんにご出席いただいたおかげで、集いが一層清らかなものになりました。終了後に設けたティーパーティーにも参加していただき、準備チームリーダーの手作りアップルパイも飛び出して、何だかすべてが満たされた感じがしました。

さて、今回の集いのテーマは「イエス・キリスト降誕の意味」です。キーワードは「わたしの息子なら敬ってくれるだろう(マルコ12:6)」。「ぶどう園と農夫のたとえ」(マルコによる福音書12:1-9)を用いて、神が私たちの成長に期待をかけてくださっていることが強調されました。信徒/未信徒の区別なく、イエス・キリストを人として見つめ、その教えのヒューマニズム的要素を学ぶことがどれほど重要か。有志学生メンバーは全員、主から与えられた力を十二分に発揮して、このメッセージを見事に参加者へ届けてくれました。

闇の中に美しく輝くキャンドルと清らかに響くテゼの歌。この雰囲気の中で流れる黙想と祈りの時間は、それを繰り返すことで人を人格的に整えてくれるはずです。柳城短大の重要イベントに成長するよう願ってやみません。主に栄光 (加藤)

★「その2 スタッフさんの感想」はこちら

「ぶどう園と農夫」のたとえ(マルコによる福音書12:1-9)

12:1 イエスは、たとえで彼らに話し始められた。「ある人がぶどう園を作り、垣を巡らし、搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て、これを農夫たちに貸して旅に出た。
12:2 収穫の時になったので、ぶどう園の収穫を受け取るために、僕を農夫たちのところへ送った。
12:3 だが、農夫たちは、この僕を捕まえて袋だたきにし、何も持たせないで帰した。
12:4 そこでまた、他の僕を送ったが、農夫たちはその頭を殴り、侮辱した。
12:5 更に、もう一人を送ったが、今度は殺した。そのほかに多くの僕を送ったが、ある者は殴られ、ある者は殺された。
12:6 まだ一人、愛する息子がいた。『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』と言って、最後に息子を送った。
12:7 農夫たちは話し合った。『これは跡取りだ。さあ、殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる。』
12:8 そして、息子を捕まえて殺し、ぶどう園の外にほうり出してしまった。
12:9 さて、このぶどう園の主人は、どうするだろうか。戻って来て農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるにちがいない。

今年はトートバック。「By Love Serve St.Mary’s College, Nagoya」の文字がちょっぴりおしゃれです。布地がしっかりしているので色々と使えそうですね。愛知県セルプセンターさんのご協力により、今回もスムーズに準備できました。

これを製作してくださったのは豊田市障がい者総合支援センター「けやきワークス」さんです。ここは少数の注文に強いらしくて、本学からの540という注文数に最初は不安を感じたということです。「でも何とかなると思って企画書をセルプさんに送ったんですよお~」と明るく話してくださいました。働く他の方々もそうでしたが、ここは明るさで満ち溢れている感じがしました。施設自体も広々として日光が差し込み、利用者さんの描いた絵画もすこぶる色彩豊か。

さて、布地に文字を入れる作業を私の訪問に合わせて実演してくだったのは、実際に今回の注文に対応された方でした。その嬉しい配慮と、小型のプレス機で一枚一枚丁寧に仕上げるその根気の良さは、この施設の底力を表しています。

最後に。あるスタッフの方の娘さんがウチの附属豊田幼稚園の園児さんだと分かり、けやきワークスさんがより一層好きになりました(笑) (加藤)

今年もカラフルに仕上がりました!

クリスマスシーズンにチューリップ? 全くのミスマッチですみません。でも本学の方針ですので、どうかお許しください。

今年採用されたその「この一年の写真」は中庭花壇の風景でした。保育科の大学にふさわしいシンプルで美しい姿が多くの学生さんの心をとらえたようです。

詳しくはカードに載せられた以下のコメントをお読みください。(加藤)

写真は、本学の園芸サークル・マーガレットが管理している花壇です。日本園芸協会主催の第20回JGS全国ガーデニングコンテスト2017で特別賞(地域振興賞)をいただきました。学生さんから「柳城の顔だね」と評価されるくらいにキレイでしたよ。生き物が「顔」だなんて、「保育/介護の柳城」らしいなあと思いました。「栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった(マタイ6:29)」。イエス・キリストの言葉が心にしみます。

【ルカによる福音書1:26-38】
1:26 六か月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。
1:27 ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった。
1:28 天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」
1:29 マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。
1:30 すると、天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。
1:31 あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。
1:32 その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。
1:33 彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」
1:34 マリアは天使に言った。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」
1:35 天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。
1:36 あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。
1:37 神にできないことは何一つない。」
1:38 マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」そこで、天使は去って行った。

初期ルネッサンス期に、イタリア人の有名な画家フラ・アンジェリコ(天使のような修道士の意味、本名はグイ―ド・ディ・ピエトロ1395-1455~ドミニコ会の修道士)が描いた代表作「受胎告知」を知っている人は多いと思います。現在はこの絵はフィレンツェのサン・マルコ美術館(修道院)にあります。

この絵は今読んでいただいてルカによる福音書1:26-38が素材になっています。天使ガブリエルがガリラヤ地方の町ナザレのマリアのもとに、神から遣わされ、次のように告げます。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。」

天使ガブリエルは口元に微笑みをたたえ、祝福に満ちた優しいまなざしでマリアを見つめて素晴らしいメッセージを伝えています。そしてマリアは胸に両手を交差させて、厳粛な面持ちでメッセージを受け入れているように描かれ、またその両手は胎内に宿る命を優しく守っているようにも見受けられます。

そのほかにも「受胎告知」の絵画は、フィレンツェのウフィツィ美術館に所蔵されているレオナルド・ダ・ビンチとアンドレ・デル・ヴェロッキオによるものなどが有名です。(大塚国際美術館にその陶板画があります。)

美術作品としての「受胎告知」はとても美しく、優雅な情景として描かれていますが、聖書の告げる「受胎告知」は、思いも寄らないほど厳しく、想像をはるかに絶する苦しみと過酷な現実をわたしたちに提示しています。なぜならば、まだ結婚もしていない十代の一人の乙女のところに、天使が現れ、「あなたに赤ちゃんが生まれます」と告げたのです。しかも「恵まれた方、おめでとう」とまで言うのです。マリアが驚かないわけがありません。寝耳に水、何がおめでとうですか。ふざけないでくださいと言ってもいいくらいな、当時(2000年前)ではとても考えられない、まず生きていけないほどのスキャンダラスな出来事だったのです。マリアの小さな胸は張り裂けんばかりであったでしょう。ですから「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに」と天使に答えているのです。

マリアが神の子を身ごもることは、彼女の意志ではなく、神の御計画であり、神があなたをお選びになったのだと天使は告げます。マリアは小さな田舎町の一女性であり、地位も身分も財産も、学歴もなく、また人間として特別に秀でていたわけではありませんでしたが、不可能を可能にする神を信じ、その神に自分自身を委ね、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように」と答えました。マリアのどこまでも謙遜で従順な姿が、イエスをこの世に送り出す器とされたのです。神がイエスを人間としてこの世にお遣わしになり、マリアは神であるイエスの母として生きる光栄を与えられたのです。クリスマスは、神が一人の乙女マリアを通して、人間の世界に直接関わってこられた出来事であり、この出来事をわたしたちは「おめでとう」という挨拶で受け入れます。

わたしには到底信じられないようなことを信じる決断をする時、そこに不思議な出来事、すなわち奇跡が起こります。マリアが世界中の人々から親愛の情をもって現在も崇敬されているのは、彼女が一人の人間として思い悩み、迷いつつも、最終的には神にすべてを委ねる生き方を信仰によって決断したからに違いありません。

クリスマスはまさに奇跡です。わたしたちには到底信じられないようなことが起こったからです。このイエス誕生の出来事を信じるとき、わたしたちは「主が共におられる」大きな喜びを、間違いなく体験できるのです。(チャプレン大西 修 主教)

ラベンダー

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