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可愛い天使たちが今年も柳城短大を訪れてくれましたよ。

附属柳城幼稚園の年長さんたちと和やかなひと時が持てました。主に感謝です。トーンチャイムの演奏とクリスマスソングのお歌が元気いっぱいチャペルに響き渡ります。

舞台に立ちながらも、お母さんの目の前で満面の笑みを見せる園児さんがとても印象的でした。クリスマスの思い出がこの子たちの胸に一生生き続けるよう、主にお願いしたいです。

 

 

 

 

 

 

●お話「クリスマスの備え」~愛あるところに神います~
【マタイによる福音書25:34-40】
25:34 そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。
25:35 お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、
25:36 裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』
25:37 すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。
25:38 いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。
25:39 いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』
25:40 そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』

今週からクリスマスの準備に入りました。そこにある4本のローソクは日曜日ごとに1本ずつ点灯されていきます。クリスマスは私たちを嬉しい気持ちにさせてくれますね。

さて、よく知られた話に『靴屋のマルチン』というのがあります。幼稚園児もよく知っているこの物語は、愛のあるところに神様もおられることを伝えようとしています。その幸せを伝えるために神様はイエス様を地上に送って下さいました。

「わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれた」と今日の聖書には書かれています。私たちが人をそのように愛する時、それを神様はよくご存知です。ただ、それがごく自然な気持ちからではなくて、何か打算的に働く時、神様は本当にはお喜びにはなりません。

私たちが知る知らないに関わらず、神様はいつも働いて下さいます。イエス様をこの世に送って下さったのもその表れです。神様の愛で満たされたクリスマスを喜んで迎え入れ、周りの人々にもその喜びをおすそ分けしたいものです。(チャプレン大西 修 主教)

Xmasツリーの点灯式は、今年も静かに行われました。

最近のスマホは実に写真の出来がよくて、私の様な素人でもこんな感じに撮れてしまいます。もちろん、肉眼でこんなふうには決して見えません。

ネット上で写真が飛び交う時代です。メラビアンの法則は誤解されて流布されているそうですが、それでも、視覚に訴える情報には確かに説得力があります。

イエス・キリストは偽善を嫌いました。見た目よりも心を大切にされた方です。

クリスマスのこの時期、彼の誕生を祝うとともに、彼のお人柄を心静かに思い起こす日々を過ごしたいものです。(加藤)

律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。白く塗った墓に似ているからだ。外側は美しく見えるが、内側は死者の骨やあらゆる汚れで満ちている。
このようにあなたたちも、外側は人に正しいように見えながら、内側は偽善と不法で満ちている。【マタイによる福音書23:27-28】

記念企画の方もご覧ください

 

晴天の恵みの中、今年も無事に創立記念行事を終えることができました。主に感謝です。以下、式の模様を簡単にお知らせします。

■学校法人 柳城学院  創立119周年 記念礼拝 (午前9時30分~ 短大体育館)

 

 

 

 

 

前奏:司式者団が入場します。

 

 

 

 

 

聖歌:367番「イスきみはいとうるわし」【創立者愛唱歌】
●詩編:第23編
創立119周年記念の祈り
聖書:ガラテヤの信徒への手紙 第5章1節、13~14節
この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません。兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。律法全体は、「隣人を自分のように愛しなさい」という一句によって全うされるからです。

 

 

 

 

 

 

聖歌:498番「主われを愛す」
●平和の挨拶

 

 

 

 

 

主の祈り
●諸祈祷
名古屋柳城短期大学のための祈り:全能の神よ、わたしたちはただ主の賜物によってまことの知恵を得ることができます。どうか、み名によって建てられた名古屋柳城短期大学に恵みを下し、教える者と学ぶ者を祝福して、共に知識を深め、主の真理を悟り、愛をもって互いに仕え、謙遜な心で唯一の神を仰ぐことができるようにしてください。主イエス・キリストによってお願いいたします。アーメン

附属幼稚園のための祈り:天の父よ、あなたのみ名によって建てられた幼稚園、ことに名古屋柳城短期大学の附属幼稚園である柳城幼稚園、豊田幼稚園、三好丘聖マーガレット幼稚園を覚えて祈ります。どうか、子どもたちと教職員を祝福し、豊かな出会いと交わりを通して、ともに光の子として歩むことができるようにしてください。主イエス・キリストによってお願いいたします。アーメン

創立者及びこれまでの仕え人たちのための祈り
本学院に関わるすべての逝去者のための祈り

式辞:理事長 ペテロ 渋澤 一郎 主教

マーガレット・ヤング先生が1898年に自宅で保母養成を始めてから119年を迎えました。今年もこうして記念礼拝を行なえること、あらためて神様に感謝したいと思います。柳城学院も変革期を迎えています。新たな気持ちでスタートしましょう。

今日11/1は聖公会の教会歴で「諸聖徒日」に当たります。色々な聖人らを覚える日ですが、ヤング先生ほか、柳城に関わったすべての人々を覚える日としてもふさわしいのではないでしょうか。

本日の講師である西原廉太司祭は、教会を「鳥の巣」に例えておられます。小枝やビニールなどの様々な物が組み合わさって作られている巣ですが、これが意外に頑丈です。柳城も同じですね。建学の精神である「愛をもって仕えよ」という気持ちで互いに心で強く結ばれて、鳥の巣のように丈夫な柳城を作っていきたいものです。

 

 

 

 

 

 

式辞:学長 長縄 年延

すばらしい天気になりました。今日を祝ってくれているようです。

来年の120周年記念に向けてキャンパス整備工事が始まりました。正門にあった桜とメタセコイヤが切られてすっきりはしましたが寂しさも残ります。1期工事として来年3月までに学食とラーニングコモンズを有する棟が完成し、それに伴ってキッズルームは3号館へ移設されます。続く2期工事では、来年度、1、2号館をつなぐ棟が完成することでロッカー室が広くなりピアノ個人練習室も増えます。学生満足度調査を踏まえたベストな案ではないかと思っています。工事によって学生の皆さんにもご迷惑をおかけしますが、将来の柳城のためにご協力をよろしくお願いします。

40名から始まり100、150、200と定員を増やしてきた本学ですが、卒業生の総数は7961名で、保母養成校の時代の318名を加えると更に増えます。この大変な数の皆さんが地域の子育てや保育に貢献されてきました。それと共に、これらの方々のお陰もあって本学の就職率は100%を維持しております。

少子化の影響で入学者の確保が難しい時代になりました。それでも1人ひとりが神からいただいた命です。大切に育ててまいります。

建学の精神を胸に、これからも愛と奉仕の業に歩んでいって欲しいと思います。

 

 

 

 

 

 

聖歌:417番「あなたの平和の」
●永年勤続者表彰

 

 

 

 

 

 

●感謝の祈り:天の父よ、み子イエス・キリストは幼子を祝福し、神の国はこのような者の国であると教えてくださいました。どうかみ名によって建てられた柳城学院に恵みを下し、ここに集うわたしたちが主のみ旨に従って、心もからだも健やかに成長し、信仰の道を学び、主に仕えてみ栄を現すことができるようにしてください。主イエス・キリストによってお願いいたします。アーメン

●祝福
●校歌
●後奏:司式者団が退場します。

 

 

 

 

 

●来賓紹介
●名古屋柳城短期大学 特別給付奨学金 2年次奨励奨学生表彰

 

 

 

 

 


■第2部 創立119周年記念  特別講演

「創立120周年を迎えるにあたって」-聖公会の中での柳城学院の存在-
学校法人立教学院 副院長 アシジのフランシス 西原 廉太 司祭

本講演の要旨は「597年から続く聖公会の輝かしい歴史の時間と空間の中で、名古屋柳城短期大学は他の聖公会関係学校と共存にしているので、皆さんには、この事実を胸に、誇りを持って歩んでいって欲しい」というものでした。歴史に裏打ちされた権威なるものが、かなり強調されていたように感じました。保育/介護という美しい「草の根的世界」で頑張ろうとする柳城生の心にどれほど響いたでしょうか。

講演で語られた膨大な情報のすべてをここでは紹介できませんが、要点だけをかいつまんでお知らせしておきましょう。

・アメリカのウィリアムズ宣教師が日本への宣教を開始した1859年を日本聖公会の元年としている。彼は立教学院の創始者であり、日本聖公会の初代主教でもある。

・イギリスのバチェラー宣教師は、1877年に北海道(函館)伝道を始めたことを契機にアイヌ民族と深く関わることになる。歌集『若きウタリに』の著者であり聖公会の伝道者でもあったバチェラー八重子は彼の養女である。また、聖公会のクリスチャンでユーカラの伝承者であった金成(かんなり)マツは彼の設立した学校に入学している。『アイヌ神謡集』を著した知里幸恵(ちりゆきえ)はマツの妹の娘である。知里も聖公会のクリスチャン。

・講師が管理牧師を勤める岡谷聖バルナバ教会は、カナダ聖公会から派遣された司祭によって建てられた。当時、製糸業で過酷な労働を強いられていた工女さんらは、この教会で癒され救われていた。

・597年、教皇グレゴリウス1世から派遣されたオーガスティンが、英国カンタベリーに修道院を建てたのが聖公会のそもそものルーツである。カンタベリー大聖堂は全世界聖公会の総本山で、そこの主教座は権威のシンボル的存在。その権威は椅子から座る者へとインストールされるとみなされている。現カンタベリー大主教は第105代ジャズティン・ウエルビー。

・トレント、ヤング、ボーマン、ホーキンスと続くカナダ聖公会の女性宣教師の活動で今日の柳城があるといえる。彼女らの当時の記録や手紙などから、日本人へそそがれた彼女らの愛の深さや、資金を調達しながら学校運営に励んだ姿がうかがい知れる。

 

 

 

 

 

 

■学校法人 柳城学院  創立者記念墓地礼拝
(午後1時~ 日本聖公会中部教区 共同墓地(八事霊園内))

 

 

 

 

 

●聖語:イエスは言われた。「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとえ死んでも生きる。また生きていて、わたしを信じる者は、いつまでも死なない」(ヨハネ  11:25-26)
●聖歌 第181番「主 生きたまえば」(ヤング先生埋葬時に使われた聖歌)
●詩編 第139編
●聖書  ヨハネによる福音書 第14章1~6節
「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」トマスが言った。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。

●お話し:チャプレン大西 修 主教
(抜粋)今年もまた諸聖徒日を迎え、こうして柳城に関わりを持つ皆さんと共に墓地礼拝を守ることができ、大変嬉しく思います。イエスをキリストと信じ、イエスに従い、その生涯を全うした数多くのキリスト者を覚え、その生きざまに目を向けることにより、今を生きるわたしたちの信仰がもう一度見つめ直され、問い直される時にいたしましょう。

今日、わたしたちがこうして生かされているのは、イエスに信頼し、彼を一心に見つめて走り続けていったおびただしい信仰の証人の群れに囲まれているからにほかなりません。彼らによってイエスを信じる信仰が、今このようにしてわたしたちに伝えられていることを実感する時、深い感謝の念が内から湧き上ってくるのを覚えます。

柳城119年間の歴史の中に、信仰の先達による物心両面にわたる大きな信仰の遺産を受け継いでいます。その上に現在のわたしたちが立っています。

昨今、わたしたちの周囲を見回す時、残念ながら明るい話題が少ないです。しかし、いつの時代でも人が人として真剣に生きていこうとする時、必ず数多くの難問に遭遇し、そこで呻吟します。今がまさにそのような時代なのです。だからこそ、わたしたちの使命は「世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ28:20)と約束されたイエスを一心に見つめながら、「おびただしい証人の群れに囲まれ、」「神の栄光にあずかる希望」(ローマ5:3)を与えられている者として前進していくことなのです。

 

 

 

 

 

 

●主の祈り
●諸祈祷
●祝福
●聖歌 第495番「イスよ わが神よ」
●献花

 

 

 

 

 

(加藤)

【申命記16:16-17】
16:16 男子はすべて、年に三度、すなわち除酵祭、七週祭、仮庵祭に、あなたの神、主の御前、主の選ばれる場所に出ねばならない。ただし、何も持たずに主の御前に出てはならない。
16:17 あなたの神、主より受けた祝福に応じて、それぞれ、献げ物を携えなさい。

11月23日は勤労感謝の日です。様々の分野で良き働きをされた人々を覚え、感謝する日です。教会ではこの日に近い日曜日(降臨節前主日)に収穫感謝の日を守る習慣があります。

勤労感謝の日は働く人々に対して感謝する日ですが、収穫感謝の日はすべてのものをお与えくださる神さまに感謝する日です。教会では果物や野菜などを持ち寄って、大人も子どもも一緒に集まって収穫感謝の礼拝を捧げ、神の恵みに感謝します。

旧約聖書の出エジプト記23章、申命記16 章などを見ますと、イスラエルには三つの大きなお祭りがありました。その一つに取り入れの祭り(仮庵の祭り)があり、秋の収穫物を神さまにお捧げし、「神さま、こんなに多くの地の産物が取れました。ありがとうございました。」と感謝しました。これがもともとの感謝の日ですが、今日教会で守っている収穫感謝の日の起源は、今から約400年ほど前、日本では徳川家康の時代にさかのぼります。

1620年9月6日、イギリスから神を信じ、イエス・キリストを信じる人々102人(男78、女24)が新天地を求め、メイ・フラワー号という船に乗って、アメリカに向かいました。12月21日,アメリカの東海岸プリマスに上陸し、そこに丸太小屋を建てました。その冬の厳しい寒さと飢えのために半数近くの人が死んでしまいました。翌年、親切な先住民に助けられ、トウモロコシを作り、僅かでしたがその秋トウモロコシを収穫することができました。人々はこの収穫を心から喜び、3日間にわたって神さまへの感謝のお祭りをしました。

これが今日守っている収穫感謝の日の始まりです。アメリカ合衆国ではリンカーン大統領が1864年、11月第4木曜日を収穫感謝の日と定め、国の祝日として記念しています。

わたしたちはこの日を、日々の糧が与えられていることへの感謝と共に、今なお多くの飢餓の中に苦しんでいる世界各国の多くの人々を覚える日として、大切にしたいと思います。申命記14:22―27では、神さまに捧げられたものを隣人と共に分かち合うことの大切さが強調されています。わたしたちが収穫感謝の捧げものなどを、施設に入っておられる方々、ご病人やお年寄り、孤独な人々にお届けし、感謝と喜びを分かち合うことは意義あることです。

神さまと人々に心から感謝すること、ありがとうございますと言うこと、それが今のわたしたちに一番欠けています。感謝より不平のほうが多い日々です。ですから、日々の生活の中で、意識して感謝の気持ちを態度に表していくようにしたいものです。

来週からの保育実習の現場で実際にやってみてください。(チャプレン大西 修 主教)

ローズマリー

ただ今マタイ教会のチャペルではクリスマス展が開催されています。

先日、朝のお祈りタイムのお時間を小礼拝堂にて大西チャプレンとご一緒させていただいた後、このクリスマスの可愛らしい人形やモコモコの羊たちを見ていたのです。

すると大西チャプレンより「これはクリブと言うんだよ。飼い葉桶という意味なんだ」と教えていただきました。

膝を床につけ両腕を机に。そのやわらかく伸ばした腕に右、左と順に顔をつけ、そのKrippeの世界にひたります。子どもの目線で。

「子どもたちは、こんな美しい世界をいつも見ているんだね」

そう…私たちこそ、子どもになる。

柳城のクリスマス。

Krippeは今年も私たち学生を見守り、待っていてくれます。(岩付)

【マルコによる福音書4:30-32】
4:30 更に、イエスは言われた。「神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか。
4:31 それは、からし種のようなものである。土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、
4:32 蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る。」

神様の国はからし種のようなもの。土に蒔く時には、地上のどんな種よりも小さいが、蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作ることができるほど、大きな枝を張る。

わたしの小さな、からし種のような出来事を、今日はお話ししたいと思います。私は20代の時、自分の進路に悩み、苦しんでいました。ある時、ボランティア募集の広告を見て、近くにある福祉施設を訪問しました。

天気は薄曇りで、小雨が降っていました。広い敷地には物音もせず、静まり返っていました。私は帰ろうとしました。その時、

「こんにちは。どこから来たの。また来てね」

と声をかけてくれた方がいました。その方は知的なしょうがいをお持ちの方でした。手を差し出してくださるので、私も手を握り、「また来ます」と言いました。

帰宅後、「また来る」という約束をしてしまった…と思いました。約束を思い返し、もう一度その施設を訪れることになりました。そこで私は、施設を利用する子ども達や、大人のみなさんと、様々な出会いをし、スタッフとしてそこで働くようになりました。そこは聖公会の施設でしたので、わたしはチャペルに通うようになり、洗礼を受けました。

あの時の、手を差し出してくれた方との出会いがなかったら、私は今、ここにいません。出会いの不思議さを思います。

詩人・塔和子さんの詩に、「胸の泉に」という作品があります。

「人はかかわることからさまざまな思いを知る/子は親とかかわり/親は子とかかわることによって/恋も友情も/かかわることから始まって/かかわったが故に起こる/幸や不幸を/積み重ねて大きくなり/くり返すことで磨かれ/そして人は/人の間で思いを削り思いをふくらませ/生を綴る」

わたしは自分の胸の中に、施設や教会で出会った、たくさんの人達の面影があることを感じます。そしてそれらの人達が今も私を励まし、支えてくれていると、実感しています。

みなさんは今、子ども達にかかわり、共に生きるための準備をしています。これから磨かれていく、宝石の原石として、一生懸命に毎日を送っています。これからたくさんの人と出会い、たくさんの人と別れ、喜び、泣きながら生きていくことでしょう。それらすべての出会いは、みなさんの「胸の泉」を豊かにしてくれます。いつか、気付く時が、必ず来ます。「あの、からし種のような小さな出会いが、私を深く豊かにしてくれたのだ」と。

みなさんも自分の「胸の泉」に、たくさんの人の思いを集め、そして他の人の「胸の泉」に、たくさんのものを手渡して、心の広い、大きな人になってください。その木陰で鳥が巣を作り、休めるような、深い思いを持った人になってください。(大和孝明さん:中部教区センター職員)

【マルコによる福音書6.45-51】
6:45 それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸のベトサイダへ先に行かせ、その間に御自分は群衆を解散させられた。
6:46 群衆と別れてから、祈るために山へ行かれた。
6:47 夕方になると、舟は湖の真ん中に出ていたが、イエスだけは陸地におられた。
6:48 ところが、逆風のために弟子たちが漕ぎ悩んでいるのを見て、夜が明けるころ、湖の上を歩いて弟子たちのところに行き、そばを通り過ぎようとされた。
6:49 弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、幽霊だと思い、大声で叫んだ。
6:50 皆はイエスを見ておびえたのである。しかし、イエスはすぐ彼らと話し始めて、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われた。
6:51 イエスが舟に乗り込まれると、風は静まり、弟子たちは心の中で非常に驚いた。

今日の聖書箇所は、有名な、そして不思議なお話です。

イエスの弟子たちが、夜、湖の真ん中で、手漕ぎ船に乗ったまま、嵐に襲われて激しい逆風の中で進めなくなってしまった。夜が明ける頃、イエスが水の上を歩いて近寄っていかれ、弟子たちの船に乗られると激しい嵐が収まった、というお話です。

そのときイエスは、幽霊が来たと思って怖がって叫んでいる弟子たちに「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と語りかけます。夜の湖で、しかも激しい逆風で進めなくなってもう沈むかもしれないという大ピンチの中で、いよいよ最期のときか、向こうから来るのはお化けか幽霊か、と思ったら、救いの主だったわけです。今日読んだ『マルコによる福音書』の記述はこれで終わっていますが、同じ記述がある『マタイによる福音書』では、そのあとでペトロが同じように水面を歩こうとして沈みかけて「信仰の薄い者よ」と言われてしまうという場面もあります。

激しい逆風は、私たちが生きていく中でも吹き荒れることがあります。なるべく避けたいことですが、真っ暗な湖の真ん中で、どちらが岸なのか方向もわからなくなって、吹き荒れる逆風に沈みそうになる、といった場面に似た状況が人生の中で訪れることがあるかもしれません。本当にそうなってしまったとき、それでも沈まないで何とか進んでいくために、誰かの助けが必要となるようなときがあるかもしれません。

ピンチのとき、今にも沈みそうなときに、あなたに手をさしのべてくれそうな人たちが、きっとまわりにいます。そんなとき、その人たちの心の言葉をよく聞いてください。中には、甘く優しい言葉で近寄ってくるけれども、あなたを助けるよりも自分の利益を求めてあなたを利用したり、あなたを陥れたりする人もいるかもしれません。一方で、怖そうな顔であなたに厳しい言葉を投げかけながら、ほんとうにあなたのことを助けたり励ましたりしてくれる人もいるかもしれません。

私にとって、大学時代からずっとお世話になってきた先生が、まさにそのような人でした。卒業論文の下書きを「こんなのでは全然ダメだ」と突っ返され、大学院を出ても仕事先が見つからないでいたら「大学で教えていないのか? それじゃダメだ」と怒り、それでも、ご自身の非常勤講師の職を譲ってくださった方です。そして、これ以上は続けられない、もうダメだ、と思ったときに、「投げ出さないで研究をしなさい」と叱って、やがて今の職場に呼んでくださいました。ほんとうに厳しくて怖い方でしたが、私を生かしてくださった方です。私にとって、一番怖い人が、一番、助けてくれた人でした。

沈みそうになり、折れそうになっている人の傍らに歩み寄って、その人を助けてくれる存在は、必ずあります。でも、それがいつも優しく親切な表情で近寄ってくるとはかぎらないので、気づかないこともあるでしょう。ですから、沈みそうなときには、よく耳を澄ませてください。あなたを叱ったり怒ったりしているように聞こえる声が、ほんとうは「安心しなさい。私だ。もう大丈夫だ」と手を差し伸べてくれる人の声だということが、あるのです。ウィリアム・ジェイムズは人生を一本の鎖にたとえて、こう言っています。

「一本の鎖は、その鎖のいちばん弱い環ほどにも強くはない。そして、人生とは要するに一本の鎖なのだ。」(『宗教的経験の諸相』第六・七講「病める魂」)

一番弱っているとき、それでも何とか砕けないで自分自身を明日につないでいくようなぎりぎりの弱さが、その人のほんとうの強さです。そして、そういう強さは、その人の中からではなく、外から来ていることが多いように思います。あなたの人生の鎖の中で、ある輪が今にも砕けそうになったとき、必ず、あなたの人生という一本の鎖のなかの、そのもっとも弱い環をめがけて、嵐の中を歩いて助けにきてくれる存在があります。でも、それはときには怖そうな外見で、きつい言葉で、語りかけてくるかもしれません。ですから、心の耳でしっかり聞いてください。厳しい表情や怖そうな外見の裏側で「安心しなさい。私だ」と語りかけてくるようなそんな存在がきっといます。(村田)

【ヨハネによる福音書3:1-6】
3:1 さて、ファリサイ派に属する、ニコデモという人がいた。ユダヤ人たちの議員であった。
3:2 ある夜、イエスのもとに来て言った。「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。」
3:3 イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」
3:4 ニコデモは言った。「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」
3:5 イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。
3:6 肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。

本日の礼拝の中で、一人の姉妹の洗礼堅信式が行われます。この式が柳城の礼拝の中で行われることは多分初めてのことと思います。これはとても素晴らしい出来事です。

ほとんどの皆さんは洗礼堅信式という言葉を初めて聞くし、勿論見たこともないでしょう。

ですから今日はしっかり見て、なるほどこういうことなのかという体験をしてください。

洗礼」とは神様の子どもとして新しく生まれるために行われるキリスト教の一番大切な式です。今までの自分本位な古い生き方に死んで、わたしは神様に生かされているのだという自覚のもとに、新しく生まれ変わらせていただくため、イエス様がお残してくださったものが洗礼です。洗礼には目に見える外のしるしとして「水」を使います。

「水」はものを洗い流します。汚れを落としてきれいにします。洗礼で頭から水を注がれることが、見えない心の中の醜いものを洗い流していただく神様の恵みのしるしとなります。そこに神様の見えない力(聖霊)が働き、罪が洗い清められ、古い自分は死に、新たに生まれ変わるのです。洗礼をバプテスマと言いますが、バプテスマとは水の中に浸して一度死ぬことを意味しています。ですからバプテスト教会ではその名の通り、全身水に浸かる形の洗礼が行われています。

洗礼は「入信の式」と言われ、イエス様を信ずる教会(共同体)のメンバー、神の家族になる式です。私たちは家に入る時、土足では入りません。教会に入る時、入口で心をきれいにしてから入るために、洗礼盤は一番後ろに置かれており、そこで洗礼を受けます。

洗礼を受けるとき先ず「教名」(洗礼名、クリスチャンネーム)を付けていただきます。この名前は、この世でも、死んだのちにも神の国(天国)で通用する名前です。今、私たちが持っている名前はこの世での名前(俗名)で、死ねばなくなる名前です。

そして「教父母」(ゴッドファーザー、ゴッドマザー)が与えられます。成人の場合、男女一人ずつの教父母です。教父母は洗礼を受けた人の信仰上の両親となり、その人の相談役になったり、良きアドバイザーにもなります。

洗礼を受ける人は「捨てること」「信じること」「守ること」を、日々の生活の目標にします。「捨てること」とは、罪の虜であった自分を捨てること、新しい自分になることです。「信じること」とは、イエス・キリストを信じることです。イエス・キリストの父なる神様、そして今も歴史を通して働いておられる聖霊なる神様を信じることです。さらにすべての人々を信じることです。

「守ること」とは、モーセの十戒、イエス・キリストの愛のおきて、神を愛すること、自分を愛するように、隣人を愛することです。これらを自力でクリアーすることはできません。ですから、この微力な私を支え、励まして下さる神様の力に信頼していくとき、これを達成できるのです。

堅信式」は洗礼を受けた人が、主教様に頭に手を置いていただき、聖霊なる神様の力をいただき、それぞれ与えられた場所へと進んでいけるよう、励まし祈っていただく式です。

これらのことを思い浮かべながら、今日の礼拝に出席してくださるようお願いいたします。(チャプレン大西 修 主教)

【イザヤ書42:9-10】
42:9  見よ、初めのことは成就した。新しいことをわたしは告げよう。それが芽生えてくる前に/わたしはあなたたちにそれを聞かせよう。
42:10 新しい歌を主に向かって歌え。地の果てから主の栄誉を歌え。海に漕ぎ出す者、海に満ちるもの/島々とそこに住む者よ。

今日のお話は「ミャンマーの女性と子ども」というテーマで、AHI(アジア保健研修所)2017年度研修生ナウ・イヴ・ナン(Naw Eve Nan)さんにお願いをしました。通訳はAHIスタッフの中島隆宏さんです。今年で3年目になったこの企画。今回は通常の巡回報告会と日程が合わず、特別に柳城短大他のためにご用意していただいたものです。AHIの皆さんの温かい心配りに、あらためて感謝いたします。

ミャンマー出身のイヴナンさんは、現在、ミャンマーYMCA同盟の人財開発部長をしておられます。少数民族に生まれたことで、幼い頃より様々な差別やいじめを受けて来たそうですが、学校の勉強を頑張ることで友人から一目置かれるようになってからは、それらがなくなったということです。大学では少数民族の文化を周囲に語り続けました。卒業後、苦労した末に今のYMCAに就職できたのですが、キリスト教関係の団体を望んでいたわけではなく、本当は精神科の医師になりたかったそうです。でも、YMCAへの道は神のご計画だったことを、彼女はのちに気づくのでした。今日の聖書の箇所は自分への約束だったと・・・。「少数民族として生まれた自分を見捨てることなく、神は私を強め助けて正義の手で守り、そして、自分に相応しい仕事を用意してくれた」とイヴナンさんは熱く語ります。

自己紹介の後は、ミャンマーのお国柄やイヴナンさんの現在の働きなどが紹介されました。いただいた多くの情報から、いつくかを以下にピックアップします。

●「Min Ga Lar Bar」(ミンガラーバー)、ミャンマー語の「こんにちは」には「私はあなたに一番良い物をプレゼントする」という意味があるとのことです。

●「ミャンマーの国家顧問兼外相であるアウンサンスーチーを私は尊敬しています。」(世界的に名の通った尊敬できる政治家がいるなんて、羨ましいですね。)

●ミャンマーには今でも人身売買が行なわれていて、その背景には貧困と法整備の遅れがあるとのこと。YMCAは人身売買撲滅に向けて草の根運動を続けているそうです。

●貧困層の子ども達のために、YMCAは休日に様々な子どもプログラムを実施しているようです。その活動は「神が作ったものは美しい」との信仰に基づいた、笑顔を作る環境作りだともイヴナンさんは語ります。

●「他人を変えるには、その前に自分自身を変える必要があることをAHIの研修を通して学んだ。私は人事の担当として、今まで、どうしたら他人を変えられるのかだけを考えてきた。」

「人生をエンジョイ、家族をエンジョイ、社会をエンジョイ、国をエンジョイ、平和と健康がすべての人々にありますように」と、話を笑顔で締めくくられたイヴナンさんがたいへん印象的でした。謙虚で明るく、信仰的で前向きな指導者の存在が、私にはまぶしかったです。通訳の中島さんも、いつも一生懸命にありがとうございました。(加藤)

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【ルカによる福音書19:1-10】
19:1 イエスはエリコに入り、町を通っておられた。
19:2 そこにザアカイという人がいた。この人は徴税人の頭で、金持ちであった。
19:3 イエスがどんな人か見ようとしたが、背が低かったので、群衆に遮られて見ることができなかった。
19:4 それで、イエスを見るために、走って先回りし、いちじく桑の木に登った。そこを通り過ぎようとしておられたからである。
19:5 イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」
19:6 ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた。
19:7 これを見た人たちは皆つぶやいた。「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった。」
19:8 しかし、ザアカイは立ち上がって、主に言った。「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」
19:9 イエスは言われた。「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。
19:10 人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」

今日の福音書に出てくるザアカイの物語は、絵本や紙芝居にもなっている易しい話ですが、これには深い意味があります。

ザアカイという名前には純潔/純粋という意味があります。日本式の名前でいうと清とか純子という感じになりますか。ザアカイの親はこのような名をつけて自分の子どもに期待をかけたはずです。でも、彼は徴税人の頭になりました。当時、支配者だったローマにユダヤは税金を払っていたのですが、それを集めていたのはユダヤ人でした。それを徴税人といいます。金の取り立て役ですから好かれてはいなかったでしょう。ザアカイはその中の「頭」ですので相当の嫌われ者だったはずです。本人も不正を働いて稼いでいたでしょうから当然かもしれません。

そんな金持ちのザアカイですが、自分自身に満足してなかった。背が低かったこともあるでしょう。だからエリコの町に来たイエスに興味が出てイチジク桑の木に登ったのです。葉が大きいので、隠れてこっそり眺めようという気持ちもあったはずです。

ところが、イエスから「ザアカイ」と突然呼びかけられた。これにはザアカイも驚いたことでしょう。「何で私の名前を知っているのか」と。さらにイエスから「ぜひあなたの家に泊まりたい」と言われる。「あくどいことをするな」と叱られても当然なのにイエスから優しく声をかけられたのです。周囲の人も「何であんな奴の家に泊まるのか」と驚いたことでしょう。

イエスの声掛けによって、ザアカイは自然に反省する気になりました。「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します」と。

イエスは上を見上げてザアカイに声をかけられました。英語で「理解する」はunderstandですが、文字通りunder(下に)stand(立つ)ことでイエスはザアカイを理解し、この嫌われ者に寄り添ったのです。イエスは、私たちの下に立って私たちを理解し寄り添ってくださる方です。

「嫌われ者に寄り添えられるか」。ザアカイの物語は私たちにそう問いかけています。(チャプレン大西 修 主教)

マリーゴールド

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