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【創世記11章1~9節】
11:1 世界中は同じ言葉を使って、同じように話していた。
11:2 東の方から移動してきた人々は、シンアルの地に平野を見つけ、そこに住み着いた。
11:3 彼らは、「れんがを作り、それをよく焼こう」と話し合った。石の代わりにれんがを、しっくいの代わりにアスファルトを用いた。
11:4 彼らは、「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう」と言った。
11:5 主は降って来て、人の子らが建てた、塔のあるこの町を見て、
11:6 言われた。「彼らは一つの民で、皆一つの言葉を話しているから、このようなことをし始めたのだ。これでは、彼らが何を企てても、妨げることはできない。
11:7 我々は降って行って、直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬようにしてしまおう。」
11:8 主は彼らをそこから全地に散らされたので、彼らはこの町の建設をやめた。
11:9 こういうわけで、この町の名はバベルと呼ばれた。主がそこで全地の言葉を混乱(バラル)させ、また、主がそこから彼らを全地に散らされたからである。

今日はセクシャル・マイノリティ(性的少数者)についてお話しようと思います。

2015年にアメリカ全州で、同性結婚が異性結婚と同等の権利を持つことが認められました。日本でも、2016年までに、東京都の渋谷区と世田谷区、三重県伊賀市、兵庫県宝塚市、沖縄県那覇市で、同性結婚の権利を一部認める「パートナーシップ宣誓制度」が開始されています。最近では、今年8月22日に愛知県の豊明市が「LGBT(※)ともに生きる宣言」をしました。

日本が同性結婚に関心を持った背景としては、2020年の東京オリンピック誘致も絡んでいます。2014年に国際オリンピック委員会が性差別の禁止をオリンピック憲章に盛り込んだため、LGBTを差別する国は誘致ができなくなったのです。

私も性的少数者の一人です。元は男として生活していたのですが、途中から女にかわりました。世の中、人と違うと生きにくいものです。たとえば、選挙に行くと、私は「あなた男じゃないの?」と聞かれることがあります。確かに戸籍上は男なのですが。杉原千畝が生まれた岐阜県加茂郡八百津町は、つい最近、住民らの要望に応え印鑑登録証明書から性別欄をなくしました。

さて、今日の聖書は「バベルの搭」で有名な個所です。

シンアルの地に住み着いた人々は、自分たちの町を有名にするために、力を合わせて高い塔を建てようとしました。協力し合うことは良いことですが、それがあまりに行き過ぎて、仕事が画一化して一人ひとりの多様性が失われることもあるわけです。そうなると仕事ははかどりますが、人間のおごり高ぶりに火がついて「神などいらない」という思いが生まれます。

従来、聖書のこの箇所は神の祝福が与えられないケースとして解釈されてきましたが、私はむしろ、人々がバラバラにされることに神の愛の祝福を感じるのです。人々が多様になると、まとまるのに苦労しますが、それは私たちにとって必要な過程なのです。

皆さんも社会に出ると様々な人々に出会いますね。考え方の違う人同士が互いに認め合うこと。そこに楽しみを見出して欲しいものです。保育の仕事でもそうです。多様な子どもに出会うはずです。中にはLGBTの子もいるかもしれません。私も子どもの頃、女の子の服が着たかったのに「変なこと言わない!」と怒られたこともありました。こんな私の様な子どもがいたら、今日のLGBTの話を思い出して、その子と一緒に考えてあげてください。(後藤 香織 司祭:名古屋聖マルコ教会牧師、柳城幼稚園チャプレン)

(※)同性愛者のレズビアン(L)、ゲイ(G)両性愛者のバイセクシュアル(B)、心と体の性が一致しないトランスジェンダー(T)といった性的少数者の総称

 

【マタイによる福音書第20:1~16】
20:1 「天の国は次のようにたとえられる。ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行った。
20:2 主人は、一日につき一デナリオンの約束で、労働者をぶどう園に送った。
20:3 また、九時ごろ行ってみると、何もしないで広場に立っている人々がいたので、
20:4 『あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう』と言った。
20:5 それで、その人たちは出かけて行った。主人は、十二時ごろと三時ごろにまた出て行き、同じようにした。
20:6 五時ごろにも行ってみると、ほかの人々が立っていたので、『なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか』と尋ねると、
20:7 彼らは、『だれも雇ってくれないのです』と言った。主人は彼らに、『あなたたちもぶどう園に行きなさい』と言った。
20:8 夕方になって、ぶどう園の主人は監督に、『労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい』と言った。
20:9 そこで、五時ごろに雇われた人たちが来て、一デナリオンずつ受け取った。
20:10 最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。しかし、彼らも一デナリオンずつであった。
20:11 それで、受け取ると、主人に不平を言った。
20:12 『最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。』
20:13 主人はその一人に答えた。『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。
20:14 自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。
20:15 自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。』
20:16 このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」

聖マタイによる福音書だけに記されている「ぶどう園の労働者」のたとえですが、イエスはこれを通して、神の支配されている世界とはどのようなところか、神が持っておられるお考え、価値観とはどのようなものか、すなわち「天の国」「神の国」についてお教えになりました。

季節はちょうど夏の終わりの今頃です。パレスチナではぶどうの収穫がまっ盛りで、猫の手も借りたいほど多忙な時期です。ぶどう園の雇い主(主人)は朝早くから寄せ場(広場)に出て行って働き手(労働者)を呼び集めます。ぶどう園の主人は人出が足りなかったのか、さらに9時、12時、3時ごろにも、出かけて行って同じようにしました。さらにまた、日暮れ時の5時ごろに行ってみると、まだ立っている人たちを見つけ、「なぜ、何もしないで1日中ここに立っているのか?」と聞くと、彼らは「誰も自分たちを雇ってくれないからです。」と答えます。主人は「あなたたちもぶどう園に行きない。」と言って彼らを送り込みました。

さて、このたとえ話の興味深いところは、最後の日暮れ時の5時ごろに来て僅か1時間しか働かなかった人たちにも1デナリオンが渡されたことです。さらには、最後に賃金が支払われたのは、早朝から来て暑い昼(ひる)日中(ひなか)を1日中働いた人たちというおまけつきで「こんな不公平はない、理屈に合わない、おかしい」と彼らは主人に抗議しますが、主人は彼らに「わたしは何も不当なことはしていないし、約束も破ってはいない。わたしがしたいようにしてどうしていけないのだ。わたしの気前の良さを妬ましく思うのか」と答えたというのです。

5時ごろの人たちは1日ぶらぶら遊んでいたわけではありません。働きたくても仕事がない、どこへ行けばいいのか、今夜何を食べ、どのように過ごしたらいいだろう、日暮れ近く、そのような厳しい状況の中にいる人びとの思いを知って、主人は声をかけて招いたのです。この主人こそ、神を指し示しているのではないかと思います。彼らは主人に何を期待したでしょう。ほとんど何も期待していなかったのではないでしょうか。予想すらしていなかった、考えてもいなかった無価値と思われる者への呼びかけと1デナリオンの支払いに、ただただ驚くばかりだったのではないでしょうか。

主人は自分の考えとして「最後の者にも、最初の者と同じように支払ってやりたいのだ」と言います。それが主人の考え方であり、世界を見る目であり、主人の価値観、すなわち「天の国」でのものの見方、考え方、価値観なのです。神の平等はこの世の平等とは明らかに違うこと、そこに、計り知ることのできない神の絶大な恵みがあることをいつも心にとめていたいと思います。

働きたくても様々な要因(身体的、精神的、社会的、その他物理的な要因)で働くことのできない人もいます。「働かざる者は食うべからず」の格言はぶどう園のたとえにはあてはまりません。この格言でいう「働かざる者」とは「働くことが出来るにも関わらず、怠けて働かない者」を指しているからです。

残念ながら、わたしたちは5時ごろ雇われた人の気持ちにはなかなかなれません。何もしないで1日中不安と焦燥の中で立ったまま待っている辛さ、苦しさ、半ば諦めかけて日暮れ時を迎えようとしている人の思いを、わたしたちはどこまで、共有することが出来るのでしょうか。

東日本大震災のために愛する人を失い、傷つき倒れ、住居をはじめ多くの財産を失い、追い打ちをかけるように放射能汚染の恐怖の中に曝され、今なお不安の中で生きている人々、地震・大雨・洪水などにより、多大な被害の中にある世界各国の被災地にいる人々は、まさに5時ごろの人びとと言っていいのではないでしょうか 。

わたしたちは神と共に一緒に歩く者として、いや、神がわたしたちと共に一緒に歩いてくださっていることを信じる時、実は私たち自身が5時に雇われた者ではないかと気付かされるのではないでしょうか。

そのことに気づく時、はじめてこのようなわたしでも、無条件に、何の見返りも無しに愛し、受け入れてくださる神に感謝の思いをもって歩むことができ、苦難の中にいる人と共に一緒に生きていくことが出来るのではないかと思います。(チャプレン大西 修 主教)

ペチュニア

【テサロニケの信徒への手紙一 5:16-18】
5:16 いつも喜んでいなさい。
5:17 絶えず祈りなさい。
5:18 どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです

今読みました聖書は、みんなに親しまれている聖書の言葉が載っているところで、教会の日曜学校の生徒や、付属の幼稚園、保育園の子どもたちもこの聖句が大好きです。

テサロニケの信徒への手紙1は新約聖書の中で最初に、パウロによって紀元50年ごろに書かれました。イエスは十字架の死を遂げ、三日目におよみがえりになり、40日間にわたって弟子たちに現れ、再びこの地上に来られること(再臨)を約束された後、天に昇られました。パウロをはじめイエスを信じる人々は、再び来ると約束なさったイエス・キリストを熱い思いで待ち望んでいました。パウロはテサロニケの信徒たちに、イエス・キリストがいつおいでになってもいいように準備するため、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。」という言葉を書き送りました。 この言葉は復活されたイエスをキリスト(救い主)と信じる信仰に立ち、神の愛と希望に裏打ちされたもので、喜びと祈りと感謝が一つになって、今を生きる人々に力を与えています。

さて第1の「いつも喜んでいなさい。」の聖句で思い出すのは、わたしが園長をしていた幼稚園でのことです。園児のOちゃんがN先生に「先生、わたしのお母さんは毎日お仕事でお出かけなの。先生は毎日遊んでばかりで、お仕事しないの?」と語りかけていました。それに対してN先生はちょっぴり複雑な表情でした。わたしはN先生に言いました。「毎日遊んでばかりで、お仕事しないの?」って言われたことは、素晴らしいことだよ。もし反対に「毎日、お仕事ばかりしていて遊ばないの?」って言われたなら、それは保育者として失格かもしれないよ」と。子どもと一緒になって遊ぶ保育者の姿の中に、いつも喜んで保育者として過ごしている日々を垣間見る思いがしました。

第2は「絶えず祈りなさい。」です。祈りは神様との対話です。わたしの心の思いを神様に語り掛け、時には訴え、ぶつけます。そして神様からの返事を待ちます。神様からの返事は、わたしの思いどおりであるとは限りません。むしろ思いとは別の、あるいは反対のものであるかもしれません。しかしその返事をじっくりと時間をかけて思いめぐらすとき、必ずそこに何かが見えてきます。

祈りに課題があると、その祈りはさらに大きく広がっていきます。例えばあなたが思いを寄せている人と仲良くなりたいと願って祈るとき、その祈りはその人のことだけではなく、自ずからその人の両親、兄弟姉妹、友人のことへと広がっていきます。他の人のために祈るとき心が豊かになり、祈ることが喜びとなり、また他の人にも喜びを与えます。そしてこのわたしが祈られていることを知ったとき、喜びは倍増します。

さて第3は「どんなことにも感謝しなさい。」という聖句です。感謝・ありがとうはわたしたちの生活の土台になるものです。しかし、それをなかなか素直に言葉と態度に表わすことができません。Thank youはThink youからきていると聞いたことがあります。「あなたのことを考えること、思うこと」すなわち「神様のことを考えること、思うこと」が感謝の土台にあるのです。天地万物をお造りになった神様に思いを寄せ、感謝すること、ことに神様はわたしたち人間一人一人にかけがえのない尊い命を与えてくださっていることを覚えましょう。次に衣食住が与えられていること(ただし、富める人間の貪欲な罪のため、世界中の多くの国の人々の必要を満たすことができません。日本でも現在、衣食住にこと欠いている人々がいることを忘れてはなりません。)、わたしたちは多くの人々との緊密な交わりの中にあって生かされていることも心に留めたいものです。現代ほど、物の豊かな時代はこれまでになかったと言われています。確かに欲しいものは、少し余分にお金さえ出せば手に入る時代です。簡単に思いが叶うなら、心も満たされているかと言えば、そうでもありません。物の豊かさと心の豊かさは比例しないようです。ひょっとしたら、物の豊かさが心の豊かさを奪い取っているのではないかとさえ感じます。本当の感謝は有り難い(ありがたい)ところに見られるのかもしれません。それはわたしたちの目には見えにくくされ、隠され、見過ごしにされている人々や、弱く、小さくされた人々の中に見られるのではないかと思います。

わたしたちがやりたくない、したくない仕事を担っている人々、その人々のご苦労によってわたしたちがどれは多くの恩恵を受けているか、そのことに気づき、どれほど感謝しているでしょうか、そんな自分自身の態度をふり返ってみたいものです。

「どんなことにも感謝しなさい」、そんなこと無理、無理と思っているわたしたち。でも感謝できないと思える事柄に、素直に感謝の思いを抱いて「ありがとう」と言ってみると、自分が今ここに生かされている意味、そして意外と自分にも優しい心が与えられていることに気づかされるに違いありません。(チャプレン大西 修 主教)

ポーチュラカ

【コロサイの信徒への手紙3:12-17】
3:12 あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。
3:13 互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。
3:14 これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです。
3:15 また、キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。いつも感謝していなさい。
3:16 キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、諭し合い、詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい。
3:17 そして、何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行い、イエスによって、父である神に感謝しなさい。

今年も8月を迎えました。8月は平和を願う熱い祈りと思いと行動の月として過ごしていきたいものです。

第2次世界大戦後72年が経過しました。1945(昭和20)年8月6日には広島、9日には長崎に原爆が投下され、そして8月15日には敗戦の日を迎えました。今ではこの戦争を知らない人々が大半を占めるようになりました。このような現実の中で、戦争は世界をどのように変えてしまうものか、戦跡を訪ね、戦争がもたらす悲惨な現実の一端を見、数少ない体験者の方からお話をお聞きし、戦争を追体験することは大変意義あることだと思います。そして、平和がいかに大切であるか、真の平和とは何かを考える時が持てたらいいなと思います。

機会があれば、沖縄、広島、長崎などを是非訪ねて行ってほしいと思います。

長野市の松代というところを知っていますか。真田幸村の兄信之が最初藩主となった松代藩の城下町です。有名な佐久間象山、松井須磨子(新劇女優、カチューシャの唄 1919没38歳)、草川 信(ゆりかごの歌、夕焼け小焼け、緑のそよ風、どこかで春が、などの作曲者)の出身地でもあります。

この松代の町にワゴン車が楽に通れるような地下壕が三ケ所、硬い岩盤を縫って碁盤の目状に総延長13キロにわたって掘られています。1944(昭和19)年11月11日、午前11時に開始されたこの工事は9ケ月間、延べ300万人とも言われる人々(その中には朝鮮半島から強制連行されてきた約7,000人の人々も含まれます)によって進められ、たくさんの犠牲者を出しました。 敗色の濃くなった日本軍はこの地下壕に、大本営と天皇の御座所を東京の皇居から移す計画を立てていましたが、8月15日の敗戦を迎え、工事は計画半ばで終結し、皇居を移すことはありませんでした。松代の地下壕は「松代大本営の保存をすすめる会」によって保存運動が推進され、現在、見学することもできます。長野へ行った折には是非立ち寄って見学してきてください。戦争がもたらす過酷な状況を垣間見ることができます。戦争は戦地で戦う人たちだけではなく、一般の人々にも銃後の戦いと言われる厳しい深刻な状況をもたらすことが手に取るようにわかります。

今日でもなお続いている中東の戦争などは、平和からはほど遠いものがあります。現実に戦争によって心身に被害を受け、苦しんでいる人々、弱い立場にいる老人、子ども、障害を持っている人々、婦人たちの窮状は大変深刻です。

パウロはローマの獄中から書いたコロサイの教会の信徒への手紙の中で、「キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。」と言っています。また主イエスは「平和を実現する人々は、幸いである」(マタイ5:9)と言っておられます。

主イエスやパウロが語る「平和」とは一体どのようなものなのでしょうか。

聖書では「平和」を静かで、平穏で、落ち着いた変わらない状態、あるいは、じっと待っていればやがてやって来るものとしてとらえてはいません。「平和」は既に出来上がっているものではなく、実現するもの、作り出すもの、動的なものとしてとらえられています。

ギリシャ語で「平和」を「エイレイネー」と言います。神学校の時に勉強したギリシャ語は大半忘れてしまいましたが、不思議に今も覚えている単語の一つが「エイレイネー」(平和)です。なーんでか?と言いますと、「エイレイネー」を「えーれーねー」、(豪いねー、大変だねー)とこじつけて覚えていたからです。平和を実現することは、エイレイネー、大変だねー、しんどいことだねーと覚えたわけです。

パウロはキリストの平和を実現するために、ローマで獄中生活を送りました。獄中の日々は本当に大変だったと想像しますが、彼は喜びをもって獄中から教会へ手紙を書いています。それは彼の心をキリストの平和が支配していたからに他なりません。キリストの平和はわたしたちを新しい第一歩へと導いてくれます。

復活された主イエスは、弟子たちのいる家の中にその姿を現され、「あなたがたに平和があるように!」と言われました(ヨハネ20:19)。この平和は「キリストの平和」です。家の戸に鍵をかけ、中にいた弟子たちを外へ連れ出し、勇気をもって新たな行動へと導いていく力が「キリストの平和」です。

カトリックの塩田 泉神父が作詞作曲された聖歌、「キリストの平和がわたしたちの心の、すみずみにまで行き渡りますように」を後で歌います。この聖歌を歌うたびに、アッシジの聖フランシスの祈りの一節「主よ、あなたの平和を人々にもたらす器として、わたしをお使いください。」を思い出します。キリストの平和を人々にもたらす器として、働いてきた多くの人々(シュヴァイツアー博士、マルチン・ルーサー・キング牧師、シスター・マザーテレサなど)は、苦難や困難の多い、厳しく険しい道(人生)を、喜びのうちに選び取っていきました。キリストの平和は忍耐をもって勝ち取るもの、臆病で自信のないわたしに勇気を与え、困難だと思われる道へとわたしを押し出して行きます。神によって与えられている尊い人々の命を奪おうとする悪の力に対して、勝利を信じ、勇気をもって立ち向かっていくことこそ、平和を実現する初めの一歩です。

この夏休み、どんな小さなことでもいいです、平和を実現するための働きを考え、実行してみましょう。(チャプレン大西 修 主教)

★本日は聖歌伴奏に管楽器が初参加です!
フルート(2)・クラリネット(1)(以上、保育科1年生の皆さん)・ホルン(1)(奏楽担当の柴田先生)の四重奏。やんわりとした雰囲気がチャペルいっぱいに漂いました。礼拝参加者も新鮮な気分でお祈りできたことでしょう。このチャレンジ、大切に大切にしていきたいです(^o^)/

 

【ローマの信徒への手紙12:9-15】

12:9 愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れず、
12:10 兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。
12:11 怠らず励み、霊に燃えて、主に仕えなさい。
12:12 希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい。
12:13 聖なる者たちの貧しさを自分のものとして彼らを助け、旅人をもてなすよう努めなさい。
12:14 あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません。
12:15 喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。

「平和を守る」というテーマでお話をします。

今日のテーマを選んだわけは、元沖縄県知事の大田昌秀(おおたまさひで)さんがこの6月に、そして、中国の民主活動家の劉暁波(りゅうぎょうは)さんが7月にそれぞれ亡くなられたからです。どちらも非暴力運動を通して自由とか人権を守るために身をささげた方です。劉さんは服役中の刑務所の病院で亡くなっています。

人が愛をもって上下関係に関わりなく平等に付き合えば、世の中は平和になります。大切なことは、「私たちは誰でも平等であるべきだ」という気持ちを持ち続けることです。その例がアメリカにあります。

50年前にマーティン・ルーサー・キング牧師がアメリカの黒人差別に反対して公民権運動を起こしました。彼は途中で暗殺されてしまいましたが、彼の非暴力運動はその後も長く受け継がれ、ついには、黒人系のオバマ前大統領が誕生するに至ったのです。「人は誰でも平等だ、正しいことは正しい」と多くの国民が言い続けたからこそ、アメリカの社会は変わったのです。

自由にものが言える社会は日本では当たり前かもしれませんが、世界には、そういうことができない国もまだあります。でも、そんな国にも周囲の国々からの影響を受けて、いつかは平等な社会が実現するかもしれません。

こういった意識を持って本日の聖書箇所を読んでみるといいでしょう。皆さんが平等への強い関心を持ち続けてくれることに期待したいです。(田中 誠 司祭:名古屋聖マタイ教会)

【ガラテヤの信徒への手紙 6:1-4】

6:1 兄弟たち、万一だれかが不注意にも何かの罪に陥ったなら、“霊”に導かれて生きているあなたがたは、そういう人を柔和な心で正しい道に立ち帰らせなさい。あなた自身も誘惑されないように、自分に気をつけなさい。
6:2 互いに重荷を担いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになるのです。
6:3 実際には何者でもないのに、自分をひとかどの者だと思う人がいるなら、その人は自分自身を欺いています。
6:4 各自で、自分の行いを吟味してみなさい。そうすれば、自分に対してだけは誇れるとしても、他人に対しては誇ることができないでしょう。

みなさん、こんにちは

今日は「人の心と心理学」というテーマでお話をさせていただきます。

人の心は移り変わるものですが、その時々の心の状態がその人の言動から分かる場合があります。それをいくつかご紹介しましょう。

①癖で髪とか指をいじる人を見かけますが、これは自分の不安を解消したいために、自分自身の体に触れて緊張感を和らげたいという行為です。こういった癖を代償行為と言います。体に触れることで子どもを落ち着かせるのも、こういった心理を使う点では同じです。

②「楽しい」と口では言いながら貧乏ゆすりをしている人がいますが、本当は、関心がないというサインなのです。他にも、ボールペンをカチカチさせる、腕を組む、頬杖をつく、居眠りするなども同じです。

③自慢話が好きな人がいます。度々だと避けたくなりますね。こういう人には切れ易いタイプが多いです。他には、立場の弱い人には威圧的だが目上には低姿勢、人前でクレームを言う、好印象を与える行動を取るなんていうもの自慢話が好きな人に多いです。元々、強い劣等感があるために自分を誇示するわけです。それを知ると、自慢する相手を許す気にもなりませんか?

④私たちの好きな噂話。「誰にも言わないでね」とささやかれると余計に言いたくなりますよね。でも結果は悲惨で、どんどん尾ひれが付いて周囲に伝わっていきます。その点では伝言遊びと全く同じです。ちなみに、噂話で人を褒めることは稀ですね。

人間は不思議です。人のある特定の評価を何度も繰り返し聞いていると、そのうちに、それが正しいと思えてきます。でも、それが本当どうかは、自分自身の目と耳で正確な情報を得て判断するまでは分かりません。

今日、こういった話を皆さんと共有できたことを神様に感謝します。(本学教員 山脇眞弓)

【ルカによる福音書 23:32-35、43-46】
23:32 ほかにも、二人の犯罪人が、イエスと一緒に死刑にされるために、引かれて行った。
23:33 「されこうべ」と呼ばれている所に来ると、そこで人々はイエスを十字架につけた。犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけた。
23:34 〔そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」〕人々はくじを引いて、イエスの服を分け合った。
23:35 民衆は立って見つめていた。議員たちも、あざ笑って言った。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」

23:43 するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。
23:44 既に昼の十二時ごろであった。全地は暗くなり、それが三時まで続いた。
23:45 太陽は光を失っていた。神殿の垂れ幕が真ん中から裂けた。
23:46 イエスは大声で叫ばれた。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」こう言って息を引き取られた。

人が死ぬとき最後にどんな言葉を残していくのでしょうか。6月22日、乳がんのため34歳で亡くなった小林麻央さんは最後に夫の市川海老蔵さんに「愛してる…」と言って、息を引き取ったとのこと、この言葉は多くの人々の心を打ちました。

「苦しい、早く死にたい、殺してくれ!」「お母さん!」「死にたくない!」 意識がはっきりしている人は、このような言葉を残していったかもしれません。声が出ない、出せない人は顔の表情で思いの一部を現わしていったことでしょう。

4年前、わたしが大阪で主教として働いていた時、一人の牧師(わたしの2歳上の司祭)が救急車で病院に搬送されました。数日後、一つの決断を迫られる状況になりました。手術をすれば回復する可能性はあるが、このままにしておけばあと一週間しか生命は持たないと宣告されたのです。彼は病床に付き添うお連れ合い(妻、奥さん)に、手術をする決断を伝え、彼女もそれに同意しました。そして、彼は「この40 年間、本当によく僕を支えてくれたね。ありがとう!。ひょっとしたらもう話せなくなるかもしれないし、これが最後になるかもしれないからね。」と優しい微笑みを浮かべて彼女にそっと手を触れ、感謝と別れを告げ、手術に向かいました。わたしは二人の近くに立っていましたので、胸が締め付けられ、目頭の熱くなるのを覚えました。手術後、昏睡状態のまま意識は戻らず、3ケ月後に召されました。お連れ合いへの言葉が最後の言葉になってしまいました。もし自分だったら、どうしただろうかと改めて考えさせられました。

ではもし、あなたがそのような立場に立ったとしたら、どんな言葉を残していきますか。想像できないかもしれませんね。そんなこと、わたしにあるわけがないと思っていませんか。特別、カッコいい言葉を残せないでしょうし、何を言おうかなんて考える余裕もないかもしれません。その人が常日頃、心のうちに大事にしている思い、本音が、その時、自然に口をついて出てくるのではないかと思います。相手の本心がわかるのがその時なのかもしれません。そうだとすると、ちょっと恐ろしい気もします。

三浦綾子さんは自伝「明日をうたう」(亡くなった1999年[平成11年]、77歳の年・刊行)の中で「遺書は二通書いた。…要約すれば、「ありがとう」と「ごめんなさい」という言葉だった。人間の生活はつきつめれば、誰しも感謝と謝罪の二語に尽きるのではないか。それが人間のあるべき姿と言えるかも知れない。」と言っています。

わたしは朝出かける時やどこかへ主張する時、妻に必ず心を込めて「行ってきます」と挨拶します。その時いつも「これが最後の言葉になるかもしれないな」と思うからです。ですから、時々「これが最後の言葉になるかもしれないね」と言います。そして本当にそうだったとしたら、それはそれでとても素晴らしいのではないかと思っています。

また、わたしは毎晩寝る前にお祈りをします。こう祈ることによって、もし仮に、そのまま目が覚めなかったとしても、何も思い残すことはないからです。「神様、きょうも一日あなたのみ守りのうちに、過ごすことができ感謝いたします。今日もし人々との関わりの中で、気づかずに犯した誤りがありましたら、どうぞお赦しください。わたしの中にいつも人々を思いやる心と、赦すことのできる本当の愛をお与えください。すべての人々に今夜も安らかな眠りをお与えください。主イエス・キリストのみ名によって アーメン。」

さて、聖書にはイエス様が十字架の上で最後に言われた言葉がいくつか記されています。「父よ、彼らをお赦しゆるしください。自分が何をしているか知らないのです。」(ルカ23:34)

無実のイエス様を十字架につけ、殺そうとしている人々に対して、神様にどうか彼らを罪に定めず、罰せず、赦してください。彼らは自分が何をしているかが見えていないのです、気づいていないのです、わかっていないのです。こう言って父なる神に赦しを願っておられます。また、自らの非を認めた死刑囚には「はっきり言っておく。あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる。」(ルカ23:43)神があなたを赦してくださり、わたしと共に天国への道を行けることを約束されました。そして「成し遂げられた」(ヨハネ19:30)、あなたがわたしに託された任務は終わりました。「 父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」(ルカ23:46)安心して私のすべてをあなたにおゆだねいたします。こう言って息を引き取られました。

イエス様は最後の最後まであらゆる人々に心を寄せられ、彼らの幸せを願い、祈り、行動されました。

わたしたち一人一人は、神様からたった一つの掛け替えのない、尊い命を与えられ、多くの人々に愛され、励まされ、支えられ、こうして共に生きてこられたことを感謝する思いを常に持って歩んで行きたいものです。  (チャプレン 主教 大西 修)

ロベリア

【マタイによる福音書 19:16-22】
 19:16 さて、一人の男がイエスに近寄って来て言った。「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか。」
19:17 イエスは言われた。「なぜ、善いことについて、わたしに尋ねるのか。善い方はおひとりである。もし命を得たいのなら、掟を守りなさい。」
19:18 男が「どの掟ですか」と尋ねると、イエスは言われた。「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、
19:19 父母を敬え、また、隣人を自分のように愛しなさい。』」
19:20 そこで、この青年は言った。「そういうことはみな守ってきました。まだ何か欠けているでしょうか。」
19:21 イエスは言われた。「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」
19:22 青年はこの言葉を聞き、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。

「若い」とはどんなことをいうのでしょうか。これを青春と言い換えてもいいかもしれません。皆さんは自分自身で、あるいは友人同士で「若いということ」「青春とは何だろう」ということについて考えたり、話し合ったりしたことがありますか。

もちろん、一言で若いとは、青春とはこんなことだ、というには、あまりにも複雑で難しいことです。けれども若い時、青春の特徴を2つ3つ挙げることができます。そのことについて考えてみたいと思います。

第一は「焦燥感」です。いらいらした気分、自分自身に対するいらだたしさ、そしてこの社会、自分の住んでいる世界、生きている世界に対する不満、怒りなどがそれです。すべてのことに対して何か物足りなさを感じ、何とかならないのか、あるいはまた、何とかしなければ・・・という気分を抱いています。

「わが青春に悔いなし」という言葉がありますが、悔いのない青春は多分ないと思います。過ぎ去った青春を振り返ってそのように言えたとしても、現に今、青春真っ只中にいる人には、その言葉は当てはまらないでしょう。あらゆる点において青年から大人へと移り行く時期、この時期は言い換えれば、汗と怒りと不眠と不安の時期、苦しい戦いの時期ともいえるかもしれません。青春時代は腹の立つことも多い時です。親の言うことが癪に障り、友人の態度が気にいらず、またこの世界に向かって、言いようのない怒りをぶちまけてみたくなるそんな時ではないでしょうか。何か漠然とした、言いようのない憤りを覚える時でもあります。このようなエネルギーは考え方によれば、消極的で、非建設的、非生産的なもののように思われますが、必ずしもそうとは言えません。確かに、ある明確な対象に向かって発散されるエネルギーは、積極的、建設的で生産的なものに違いありません。

しかし、言葉では到底言い表せない部分、わたしたちの心の奥深くに潜んでいる焦燥感、あるいは欲求不満といったものを、どのように自分の中で蓄え、生産的なエネルギーにしていくか、この点に青春の生き方の重要さがあります。

第二は「挫折」です。青春には挫折がつきものです。挫折することは若さの一つの表れと言ってもいいでしょう。

二十歳になる一人の男性がいました。彼の前途は洋々としており、たくさんの可能性に満ちていました。洋服屋の前を通ると、自分も将来あんな最新流行のスーツを着ることができるのだと思い、本屋の前を通ると、よーし、あらゆる本を読破してやるぞと考え、きれいな女性を見ては、今にあんな女性と結婚するぞと憧れる、そんなバラ色の日々でした。

そして、五年経ち彼は苦労してやっと就職しましたが、低賃金のため安い吊るしのスーツしか着ることができず、大学卒業後は漫画以外の本は読まず、せいぜい通勤電車の中で週刊誌を読む程度、家に帰ればテレビを見て寝てしまうという疲れた毎日でした。恋愛から結婚へという甘い夢は無残にも消え、今までの女性観(女性を見る目)があまりにも理想的過ぎたことに気付きました。

これはほんの一例ですが、現実の青春とは大なり小なりこのようなものではないかと思います。わたしたちの人生は挫折の連続です。けれどもその挫折の一つ一つにどのように対処し、戦い、耐え、それを生かしていくか、そこに青春の道が開けていくか否かの分岐点があるように思います。

なぜ、このようなことを話してきたかと言いますと、最初に読まれた聖書の箇所がそのことを教えているからです。ここに登場する青年はイエス様のところへ来て質問しました。「先生、永遠の生命を得るには、どんな善いことをすればいいのでしょうか」と。彼は礼儀正しい優秀な青年で、真剣にどうしたら本当に幸せになれるかを尋ねました。永遠の命を得るという、とても真面目な、宗教的、倫理的な質問でした。イエス様はモーセの十戒・隣人愛の教えを守るようにとおっしゃいました。それに対して「それらはすべて守ってきました。まだ何か欠けているのでしょうか」と、青年は聞き返しています。彼にはすべての教えを守ってきたという自負の念はありましたが、まだどこか満たされない気持ちがあったのではないかと思われます。青年の熱心さの中に、確かなものをつかみ取りたいという焦燥感を見ることができます。

イエス様の次の言葉によって、この青年の志は無残にも打ち砕かれ、挫折してしまったのです。「もし完全になりたいのなら,行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」

イエス様の言葉はいつもわたしたちの予想しない思いがけない方向からやってきます。この青年は所有していた財産が、彼にとってあまりにも大きな前提になっていたので、そのことに気づかず生活していたのです。イエス様はこの青年に観念上の問題としてではなく、一番身近な物質の問題を投げかけ、彼が気づいていない点をつかれました。自分の身に何の痛みも危機も感じない愛の行為はないのです。青年は見事にここで挫折しました。多くの場合、予想していないときに挫折という事態が起こります。ですから事態が意外であればあるほど、挫折の傷跡は深いのです。この青年が悲しみながら立ち去った姿を想像することはさほど困難なことではありません。そして、この挫折が彼にとって実に貴重な体験であったということができます。今まで何の問題もなく上昇志向でいた人間が、ここで初めてつまずき倒れるという経験をしたのです。この挫折こそ、青年が真の人間になるために、どうしても必要な条件でした。おおよそ傷つくこともなく、痛みを感じたことのない人間はまだ子どもであり、青年とは言えません。この青年にとって、イエス様の言葉による挫折を契機として、一段と飛躍するエネルギーを燃え立たせることが彼の青春なのです。

彼はイエス様と出会うことによってつまずき、倒れ、突き放されてしまいました。けれども、イエス様に引きつけられた青年が、逆にイエス様によって突き放され、去って行くということは、表面的な、またその時点だけでのことです。イエス様による拒否とこの青年の挫折という出来事の中に、青年の新たな立ち直りが暗示されており、またイエス様によって受け入れられることが約束されています。そのことは「そうすれば、天に宝を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」という受け入れを約束する言葉が示しています。

さて、「若さ」の特徴を「焦燥感」と「挫折」というマイナスのイメージで語ってきましたが、積極的な面を挙げるならば、「自立」、自分で立つということにあると思います。

「自立」、「独立」こそ青年の積極的な面です。そしてそれは多くの場合、精神的な自立、独立を意味します。

現代の青年の多くはこの精神的な自立、独立という点でやや遅れているのではないかと思います。精神の植民地化ということが言われています。例えばそれは、親との関係に見られます。大学の入学試験、入学式、卒業式、そして就職などが親がかりでなされていないでしょうか。それだけでなく青年の精神が全く親の支配下にあるという事実に、皆さんは何とも感じませんか。親の言いなりなる子どもが一概に良い子どもとは言えません。勿論、親に反抗する子どもがいい子どもであると言っているのではありません。

イエス様の青年に対する応答の中に、おのずからこの青年の精神的な自立を促そうとする意図が働いていたのではないでしょうか。

わたしたちも自分自身をこの青年の立場において、イエス様の言葉をもう一度聞き直してみましょう。(チャプレン 大西 修 主教)

夏の花壇
6/14と比較

【創世記11:1~8】
11:1 世界中は同じ言葉を使って、同じように話していた。
11:2 東の方から移動してきた人々は、シンアルの地に平野を見つけ、そこに住み着いた。
11:3 彼らは、「れんがを作り、それをよく焼こう」と話し合った。石の代わりにれんがを、しっくいの代わりにアスファルトを用いた。
11:4 彼らは、「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう」と言った。
11:5 主は降って来て、人の子らが建てた、塔のあるこの町を見て、
11:6 言われた。「彼らは一つの民で、皆一つの言葉を話しているから、このようなことをし始めたのだ。これでは、彼らが何を企てても、妨げることはできない。
11:7 我々は降って行って、直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬようにしてしまおう。」
11:8 主は彼らをそこから全地に散らされたので、彼らはこの町の建設をやめた。

現代のように複雑で多岐にわたる対人関係の中で生きていくことは、だれにとっても大変なことです。多くの人々が対人関係で悩み、心を痛め、時には傷つきながら日々を過ごしていると言っても過言ではありません。

ある人は親しい友人がほしくても、なかなかできないと言い、またある人は、人を愛することができず、人から愛されないと言って悲しみ、さらに、人は自分の考えをなかなか理解してくれないと言って嘆きます。

これらの悩みを一つ一つ数え上げたら限りがありません。「対人関係で悩むことは、生きている証拠だから・・・」と言ってみても、問題の解決にはなりません。

ところでわたしたちが悩むのは、一体どんな時でしょうか。それは自分の考えが、なかなか思い通りに他者に伝わらない場合が多いようです。人間は元来とても自己中心的です。自分中心に物事を考えることに慣れていますから、思った通りに事が進まないと面白くありません。自分の考えを通すことに急なため、他者の意見を十分に聞くことをせず、他者の気持ちを損なっていることにも気付かず、対人関係をダメにしてしまっている場合がよくあります。

旧約聖書の一番初めの創世記(2~3章)には、有名な「アダムとエバ」の物語が記されています。神が「とって食べてはいけない」と二人に命じられたエデンの園に植えられた「善悪の知識の木」の実を、蛇にそそのかされたエバが取って食べ、アダムもエバから渡されたその実を食べてしまいました。「取って食べるなと命じた木から食べたのか?」と神から問われたアダムは「あなたがわたしとともにいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました。」と答え、エバは「蛇がだましたので、食べてしまいました。」と答えました。

アダムとエバの信頼関係は、神からの叱責を逃れ、自分の立場を守るために自己弁護し、他者に責任転嫁することによって、失われてしまいました。「だれだれさんがやれと言ったのでやったら、こんな結果になってしまったんだ」と言って悔やんだことはありませんか。責任転嫁とは自己弁護し、自分では責任を負わず、その責任を他者になすりつけることです。これまではうまくいっていた対人関係が、何となく気まずく、おかしくなったと思われるとき、その原因を探ってみると、案外、自分の中に隠れている責任転嫁という代物が原因であることが多いようです。

わたしたちが自分の立場を頑なに守ろうとしたり、弁護したりせず、他者の前で自分のありのままの姿を見せることは、とても勇気のいることです。なぜなら、それは自分を曝け出し、相手に自分を開放してしまうことになるからです。けれどもそれができたとき、これまでとは全く違った新しい生き方が生まれてきます。自分の殻を打ち破ることによって、自分の中に新しいものを取り入れることができるのです。

今、東京上野の東京都美術館で開催されている16世紀オランダ(ネーデルランド)の画家ブリューゲルの「バベルの塔」展が人気を博しています。言うまでもなく、この絵の基になっているのは、創世記11章の「バベルの塔」の物語です。

一つの言語によって生きていた人間は、高慢にもその知恵によって、神のおられる天にまで達する塔を建てようと企てました。これは神によって創造された人間が、自ら神の地位に就こうとする計画に他なりませんでした。神はこの計画を止めさせるため、その塔を破壊し、人間の意志伝達手段である言葉を通じなくされました。「バベル」とは混乱という意味です。わたしたちが対人関係で悩むのは、相手との意志の疎通を欠くことによります。

素晴らしく立派で高い塔を建てる時、上の方で働く人は下の方で働く人の思いを忘れがちです。同様に下で働く人も上で働く人の思いはよくわかりません。そんな時、相手の立場や気持ちを考えると見方が変わってきます。相手の立場に立つ、身を置くことによって、思いやりや優しさが生まれてきます。下で働く人は、上で働く人の大変さに思いを寄せ、上で働く人は、同じように下で働く人の大変さに思いを寄せる時、お互いが理解し合えるようになるのです。

あなたが対人関係で思い悩んでいる時、「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟(おきて)である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」(ヨハネ15:12~13)と言われ、その言葉通り、十字架への道を歩んで行かれ、十字架の上でわたしたちのために死んでくださったイエス様に目を向けてください。イエス様を見つめることによって、きっとあなたの悩みを取り去ってくださる希望の光が差し込んでくることでしょう。(チャプレン 大西 修 主教)

カシワバアジサイ

【マタイによる福音書27:3-5】
27:3 そのころ、イエスを裏切ったユダは、イエスに有罪の判決が下ったのを知って後悔し、銀貨三十枚を祭司長たちや長老たちに返そうとして、
27:4 「わたしは罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました」と言った。しかし彼らは、「我々の知ったことではない。お前の問題だ」と言った。
27:5 そこで、ユダは銀貨を神殿に投げ込んで立ち去り、首をつって死んだ。

新約聖書の中で、自殺について記されているのは、このユダの自殺だけです。今読みました箇所を一つの手がかりに自殺について考えてみたいと思います。

自殺はわたしには関係のないこと思っている人もいるかもしれませんが、決して他人事ではありません。なぜなら自殺から最も遠いと思われる平和で幸せな状況の中ですら、自殺はあり得るからです。統計によると、どの国でも戦争中に自殺者が少なく、戦後あるいは平和の時代の方がその数が多くなっています。たとえ、それが戦争という間違った行為であっても、国家的な目的のために人心が緊張している時には、犯罪や自殺が少なくなっています。このような事実から、自殺の現代的な問題を取り上げてみると、自殺の原因がよくわからないことや、一見自殺とは無縁な環境の中でもそれは起こり得ると言えるのです。

「自殺してはいけないの?」という質問に対して、適切な答えを見出せませんが、わたしの乏しい経験から次のように言うことができます。「絶対に自殺してはいけないとは言えない。わたし自身何度か自殺を考えたことがあったけれどもしなかった、いや、できなかった。死ぬときの苦痛を思うと恐ろしかったのかもしれない。真剣に考えていなかったのかもしれない。あるいはちょっとしたことで思い止まったといった方が本当かもしれない。一日中、自殺しようと思い詰めて家に帰ると、親しい友人から手紙が届いていた。それを読んだとき『自殺しなくてもいいのだ!』との思いが沸き上がった。」

自殺は自己中心化であり、自分の殻に閉じ籠ることです。自殺を考える人は、自分自身を凝視する、極めて真面目な人だと思います。しかしその自己のあり方は何といっても閉鎖的です。その閉ざされた自己にほんの少しでも窓が開いて、光が射し込み、空気が流れ込めば、それだけですべての解決にはならないとしても、自殺を思いとどまるきっかけになるのではないかと思います。

自己を開いていくもの、それはおもに自分以外の人々との関係です。一人でもよいから、どんなことでも話し合える友人を持つことは、自殺の問題に限らず、あらゆる人生の問題解決に必要なことです。

わたしが自殺せずに今日まで生きてきたのは、やはりそのような大きな存在との出会い、関わりがあったからだと思います。その大きな存在とはイエス・キリストでした。それは何よりもイエス・キリストがわたしと同じ人間でありら、わたしと異なった大きな存在であることに共感したからです。聖書はそのことを、イエスが十字架の上で絶望の叫び声を上げて死に、そしてそれにもかかわらず、生き生きと復活されたと語っています。そのことはわたしにとって、「自殺してはいけない」という禁止命令としてではなく、「自殺しなくてもいいよ、自殺する必要はないよ、わたしが変わって死ぬのだから」という声として響いてくるのです。

イスカリオテのユダがどうして裏切り者になったのか、またイエスから排除されているのかわかりません。実際にはイエスではなく、弟子たちがユダを排斥したのかもしれません。ユダがイエスを裏切った後、後悔し、罪責の念にかられ、味方になったはずの祭司長や長老たちに訴えの取り消しを申し出たところが「勝手にしろ」とはねつけられ、ついに首をくくって死んだということは、同情に値する出来事です。ユダがどのような人間であったにせよ、彼は極めて真面目で誠実な人間であったのではないでしょうか。ユダは自殺しなくてもよかったのです。たとえイエスを裏切ったとしても、そのことによって真実のイエスがわかったとすれば、その瞬間から新しく生きてよかったのです。ユダは自殺によってイエスの十字架の死に出会う者となりましたが、その復活に出会う者にはなりませんでした。

「自殺してもよい、しかし自殺しないだろう」、これがイエスとの関わりの中に生きている者が言うことのできる、矛盾しているけれど自由な生き生きとした答えだと思います。

皆さんには、自殺ということを通して、「生きるということ」の積極的な意味を見出していただきたいと願います。(チャプレン大西 修 主教)

ミニヒマワリとモンシロチョウ

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