【マタイによる福音書27:3-5】
27:3 そのころ、イエスを裏切ったユダは、イエスに有罪の判決が下ったのを知って後悔し、銀貨三十枚を祭司長たちや長老たちに返そうとして、
27:4 「わたしは罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました」と言った。しかし彼らは、「我々の知ったことではない。お前の問題だ」と言った。
27:5 そこで、ユダは銀貨を神殿に投げ込んで立ち去り、首をつって死んだ。
新約聖書の中で、自殺について記されているのは、このユダの自殺だけです。今読みました箇所を一つの手がかりに自殺について考えてみたいと思います。
自殺はわたしには関係のないこと思っている人もいるかもしれませんが、決して他人事ではありません。なぜなら自殺から最も遠いと思われる平和で幸せな状況の中ですら、自殺はあり得るからです。統計によると、どの国でも戦争中に自殺者が少なく、戦後あるいは平和の時代の方がその数が多くなっています。たとえ、それが戦争という間違った行為であっても、国家的な目的のために人心が緊張している時には、犯罪や自殺が少なくなっています。このような事実から、自殺の現代的な問題を取り上げてみると、自殺の原因がよくわからないことや、一見自殺とは無縁な環境の中でもそれは起こり得ると言えるのです。
「自殺してはいけないの?」という質問に対して、適切な答えを見出せませんが、わたしの乏しい経験から次のように言うことができます。「絶対に自殺してはいけないとは言えない。わたし自身何度か自殺を考えたことがあったけれどもしなかった、いや、できなかった。死ぬときの苦痛を思うと恐ろしかったのかもしれない。真剣に考えていなかったのかもしれない。あるいはちょっとしたことで思い止まったといった方が本当かもしれない。一日中、自殺しようと思い詰めて家に帰ると、親しい友人から手紙が届いていた。それを読んだとき『自殺しなくてもいいのだ!』との思いが沸き上がった。」
自殺は自己中心化であり、自分の殻に閉じ籠ることです。自殺を考える人は、自分自身を凝視する、極めて真面目な人だと思います。しかしその自己のあり方は何といっても閉鎖的です。その閉ざされた自己にほんの少しでも窓が開いて、光が射し込み、空気が流れ込めば、それだけですべての解決にはならないとしても、自殺を思いとどまるきっかけになるのではないかと思います。
自己を開いていくもの、それはおもに自分以外の人々との関係です。一人でもよいから、どんなことでも話し合える友人を持つことは、自殺の問題に限らず、あらゆる人生の問題解決に必要なことです。
わたしが自殺せずに今日まで生きてきたのは、やはりそのような大きな存在との出会い、関わりがあったからだと思います。その大きな存在とはイエス・キリストでした。それは何よりもイエス・キリストがわたしと同じ人間でありら、わたしと異なった大きな存在であることに共感したからです。聖書はそのことを、イエスが十字架の上で絶望の叫び声を上げて死に、そしてそれにもかかわらず、生き生きと復活されたと語っています。そのことはわたしにとって、「自殺してはいけない」という禁止命令としてではなく、「自殺しなくてもいいよ、自殺する必要はないよ、わたしが変わって死ぬのだから」という声として響いてくるのです。
イスカリオテのユダがどうして裏切り者になったのか、またイエスから排除されているのかわかりません。実際にはイエスではなく、弟子たちがユダを排斥したのかもしれません。ユダがイエスを裏切った後、後悔し、罪責の念にかられ、味方になったはずの祭司長や長老たちに訴えの取り消しを申し出たところが「勝手にしろ」とはねつけられ、ついに首をくくって死んだということは、同情に値する出来事です。ユダがどのような人間であったにせよ、彼は極めて真面目で誠実な人間であったのではないでしょうか。ユダは自殺しなくてもよかったのです。たとえイエスを裏切ったとしても、そのことによって真実のイエスがわかったとすれば、その瞬間から新しく生きてよかったのです。ユダは自殺によってイエスの十字架の死に出会う者となりましたが、その復活に出会う者にはなりませんでした。
「自殺してもよい、しかし自殺しないだろう」、これがイエスとの関わりの中に生きている者が言うことのできる、矛盾しているけれど自由な生き生きとした答えだと思います。
皆さんには、自殺ということを通して、「生きるということ」の積極的な意味を見出していただきたいと願います。(チャプレン大西 修 主教)
ミニヒマワリとモンシロチョウ