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クリスマスは「イエス・キリストの誕生をお祝いする日」のことで、クリスチャンにとっては喜び極まる時であり、その歓喜がノンクリスチャンにも伝わって、日本でも今や国民的なイベントとして定着しているところです。神のご計画の素晴らしさ!

本学のクリスマスカードの表紙を飾る写真は、この「喜び」をテーマに、学内から公募した「今年の一枚」を採用しています。イエス・キリストご降誕の喜びが12/25だけはでなく、1年中続くといいなあという思いが、そこには込められています。

今年のカードに記載された説明文を、以下に掲載しておきます。

写真は、10月14日の大学礼拝後の様子です。AHIアジア保健研修所からパキスタン出身のゲストをお招きして、礼拝中にメッセージを頂きました。「平和を実現する人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる」(マタイ5:9)という聖書の言葉に導かれた現地での豊かな活動が紹介され、本学にとって大きな恵みとなりました。主に感謝です。詳しくはウェブで。「柳城 AHI」で検索してみて下さい。(加藤)

 

言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。(ヨハネによる福音書 1:1-5、14)

先ほどのクリスマスページェントの登場人物の中で、羊飼いらは、貧しい者も含めた全人類がイエスによって救われる事を、一方、3人の博士らは、救い主イエスの誕生が疑いもない事実であった事を、それぞれ表しています。

神の前にあっては、この世の権威とか権力は打ち砕かれるものですが、イエス誕生の当時、ユダヤの人々はローマの支配下で苦しめられていました。救い主の誕生が強く期待されていたゆえんです。神はそれに応えてイエスをこの世に送って下さいました。でも、イエスの登場によってユダヤの社会が劇的に良くなったわけではなく、それ以後、2000年の長きに渡って、十字架上のイエスを仰ぎ見ながら人類は社会を徐々に良い方向へと変えてきたのです。今の世界はまだまだ発展途上ですが、私たちはこの世の不幸に関心を持って、全人類の平和の実現に向けて努力を重ねていきたいものです。先ずは身近な課題から。そして全世界的な視野へと広げていきましょう。

「全世界」と言われてもなかなかピンと来ないかもしれません。その点、宇宙から地球を見た人々はどうでしょう。私は以前、『宇宙からの帰還』という映画を見て、この全世界を少しだけ実感した事があります。真っ暗な宇宙に浮かぶ美しい青い地球が大きなスクリーンに映し出されます。そこに全ての自然界が息づいている。まさに奇跡。地球を見た宇宙飛行士の中から宣教師が誕生したという、その理由が分かるような気がしました。貴重な存在である地球の中で、すべての人々が平和に助け合いながら暮らしていけたらと願います。宗教間の対立などという事がよく言われますが、本当でしょうか。すべての宗教は愛と平和を求める中で一致できるはずなのに、人間の勝手な解釈で、それが歪められてしまっているのではないでしょうか。

神の真意や、イエスがこの世に誕生した意味を考える、そんなクリスマスにしたいものです。
(田中チャプレン)

 

今年も子どもたちの歌声が学内に響きました。附属柳城幼稚園による恒例のキャロリングとトーンチャイムの演奏です。

今回の舞台は本学の体育館です。大学礼拝の直後に、保護者の皆さんも見守る中、園児さんらに入場してもらいました。30名の年長組の皆さんたちです。体育館が広過ぎたせいか、リハーサルの時から顔がやや引きつった感じの子もいましたが、本番では、元気な歌声と、トーンチャイムの一生懸命な響きが私たちの気持ちを潤してくれました。胸に十字架のついた衣装をまとった子どもたちは、ホント、「かわいい」の一言につきます。練習も大変だったろうなと思うと、引率の先生方にも感謝しなければなりません。毎年、名古屋柳城短期大学のためにありがとうございます。

ちなみに、今年の曲目は、「かみさまのおやくそく」、「かいばおけにねむる」(以上、キャロル)と、「もろびととこぞりて」(トーンチャイム)でした。子ども用の讃美歌は、そのシンプルな歌詞とメロディーゆえの価値が光ります。

むかしユダヤのひとびとは
かみさまからのおやくそく
とおといかたのおうまれを
うれしくまっておりました
(「かみさまのおやくそく」1番)

年を重ねても、子どもの歌に親しみたいですね。ここに載せる聖書の言葉は次のものしか思い浮かびません。(加藤)

イエスは言われた。「子供たちを来させなさい。わたしのところに来るのを妨げてはならない。天の国はこのような者たちのものである。」 (マタイ19:14)

Xmasツリーの点灯式の後、18:20からチャペルでXmasミニコンサートを開きました。

本学の同窓会のご協力を得て、他大学から5名の演奏者をお招きできました。皆さん、音楽の専門教育を受けておられる方ばかりで、そのみごとな演奏に、本学の音楽担当教員も絶賛されていました。ステージの出で立ちも優雅でしたし、仮面やXmas衣装の小道具がスパイス的に効いていました(掲載した写真の出来栄えが悪くてすみません)。

演奏後の感想を出演者に尋ねたところ、一つはチャペルの雰囲気、もう一つは聴衆の大多数である本学の学生さんがアットホームであった点を挙げながら「本当に心地よかった」というお返事をいただきました。

主催者側からは、次の聖句によるXmasメッセージをエンディングに付け加えさせていただきました。この箇所はたいへん重要で、聖書の中心であると考える人も多い所です。

神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。(ヨハネによる福音書3:16)

わたしたちが信じる/信じないに関わらず、神は全ての人々を愛しておられます。その徴として神はイエス・キリストをこの世に送って下さいました。空気みたいな存在である(つまり、生きるに不可欠な割には意識されにくい)この愛に気付くことができるような、そんな本当のクリスマスを迎えたいものですね。

今宵のコンサートも、まさしく神の愛によるプレゼントでした。感謝です。(加藤)

 

 

16:45から玄関ホールにてXmasツリーの点灯式を行いました。

祈りと聖歌が神に捧げられました。用いられた聖書は「ヨハネによる福音書」の1章1節からです。

1:1 初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった。
1:2 この言は、初めに神と共にあった。
1:3 万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。
1:4 言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。
1:5 光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。
1:6 神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。
1:7 彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。
1:8 彼は光ではなく、光について証しをするために来た。
1:9 その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。

最初の1節は、ご存知の方も多いのではないでしょうか。この「言」はギリシャ語の「ロゴス」を訳したもので「宇宙の摂理」といった内容です。著者のヨハネは、このロゴスを「神」、「命」、「光」、「イエス・キリスト」といった言葉に置き換えながらイエス・キリストのご生涯とその存在意味を私たちに伝えようと一生懸命でした。目に見えない世界の話を伝えるのですから、文章が詩的になって分かりにくくなるのは仕方がないことでしょうね。

クリスマスシーズン中、あちこちで見かけるロウソクやLEDのイルミネーションは、混沌とした世間の暗闇をさまよう私たちを真実へと導く、イエス・キリストからの道しるべの象徴です。その光を灯す意味を、今一度心に留めた今日の点灯式でした。主に感謝です。(加藤)

 

 

【マタイによる福音書 1:20-23】
このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。 マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」 このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。 「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」 この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。

今の時期、キリスト教の暦ではアドベント(降臨節)を迎えています。これは、12月25日のクリスマスまでに心の準備をするという期間で、古くは、洗礼の準備に当てていたといいます。どちらにしても、自分を振り返って神の事を考える期間です。

クリスマスといえばプレゼントを連想しますが、信仰的にいうと、プレゼントは「幸福を互いに分かち合う」手段です。

フィリピンは長い間スペインの植民地であったこともあり、キリスト教の精神が日常に浸透していますが、クリスマスシーズンになると、たとえば、信号待ちの車に群がる貧しい人々に、運転手がお金を与えるシーンをよく見かけるようになります。ある時など、信号で止まっている最中のジープニー(乗合バス)に、目の見えない子どもが突然乗せられ、お金を集めた後、その親と共に去っていく場面に出くわしたこともありました。

「分かち合い」は「互いに愛し合う」行為ともいえます。この言葉が聖書には何度も登場します。私たちも分かち合いに心がけ、特にこの時期は近くの人だけではなく、会ったことも見たこともない人に対しても「クリスマス献金」という形で助け合いの気持ちを表したいものです。

人を愛し、互いに分かち合うクリスマスを! (チャプレン)

ガーデンシクラメン

 

 

 

今日は学生さんらと一緒にXmasツリーの飾り付けをしました。

他大学さんの豪華な電飾系の物に比べると、何ともささやかなツリーではありますが、本学にとっては宝物。けっこう高価なオーナメント(装飾品)を丁寧に飾り付けました。

キリスト教の暦によると、11/30に一番近い日曜日(今年は11/29)からアドベント(降臨節)の約4週間がスタートします。この間、クリスチャンは自らの信仰のあり方を問いつつ、イエス・キリストの誕生に思いをはせながら、その喜びに浸るのです。ノンクリスチャンの方も普通にクリスマスを待ち焦がれる昨今ですが、その喜びの源は、実は神のお恵みにあるといえましょう。そのお恵みは空気のような存在なので、ハートの「メガネ」を使わないと見えません。

全ての人々に平等に与えられている神からのお恵みに、一人でも多くの方が気づくような、そんな2015年のクリスマスにしたいですね。(加藤)

神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。(ヨハネによる福音書3:16)

柳城学院の創立117周年記念礼拝が行われました。柳城の創立記念日は11月1日ですが、主日礼拝が行われる日曜日に当たるため、今年度の記念礼拝は10月31日(土)となり、2部構成で午前中いっぱいかけて行われました。

第1部では、田中誠チャプレンの司式の下、創立記念礼拝が執り行われました。

渋澤一郎理事長、新海英行学長の式辞の後、永年勤続者表彰が行われ、第1部の最後には、2年次前期の成績上位者に贈られる特別給付奨学金の表彰が行われました。成績優秀者をたたえる拍手と歓声があがる中、9名の学生が一人ずつ新海学長から表彰状と奨学金を授与されました。

第2部では、立教女学院理事長・立教女学院短期大学学長である若林一美先生が「種まく人として」と題して講話を行ってくださいました。若林先生は、わが子を亡くした親たちが集う「ちいさな風の会」を主催しており、そうした親たちのグリーフ・ケアも行っています。若林先生が人間を理解するために、ジャーナリストとして末期のがん患者、不治の病の方々などと関わってきた経験、「ちいさな風の会」に集う親たちの言葉を交えてお話されました。講演を通じて、悲しみに寄り添うことのむずかしさと重要性、そして私たちを支える見えないものの大切さについて考える機会をいただきました。会場の学生は皆、先生のお話に熱心に耳を傾けていました。

同日の午後からは、名古屋市の八事霊園にある日本聖公会中部教区の共同墓地に向かい、柳城の創設者マーガレット・ヤング先生をはじめとする柳城学院の関係者の前で、お祈りを捧げ、献花を行いました。晴天のもと、田中誠チャプレンの司式で、理事・教職員と学生宗教委員とサーバー学生が参列しました。(村田)

イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。」(ヨハネによる福音書11:25)

 

本日の大学礼拝の奨励(礼拝中のお話の時間)は、日本国際ギデオン協会の近藤さんにお願いをしました。

国際ギデオン協会は、全世界で聖書を無料配布することを主な働きとする団体です。ホテルなどで机の引出に「ギデオン協会」と記されたエンジ色の聖書を見かけた方や、学校の正門などで文庫サイズの聖書をもらったという方も多いのではないでしょうか。(ホームページはこちらで)

今日のお話では、聖書の素晴らしさが熱く語られました。二つほどご紹介しましょう。

その1:コンゴで出会ったタクシーの運転手さんが、バックミラーに聖書をぶら下げていたので「お守り代わりかな」と思ってたずねたところ、「お客さんに怒鳴られたりバカにされることもあるが、そんな時、この聖書を読むと心が落ち着くんだ」という答えが返ってきた。

その2:マーク・トウェインは「人生には大切な日が二つある、一つは誕生日、もう一つは生きる意味を知った日だ」と語ったが、聖書は、その生きる意味を知る上での最適の書物である。

近藤さんはご自身の幼稚園時代を振り返り、「青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ。(コヘレトの言葉12:1)」という聖書の言葉を導かれました。人生を豊かにしてくれる聖書。世界でダントツ一位のこのベストセラーを、一生に一度くらいは通読するのも決して時間の無駄にはならないでしょう。

名古屋柳城短期大学に集う学生さんや私たち教職員全員が、聖書が記すイエス・キリストのお心に触れて大きく成長できるようにと祈りたい、そんな気持ちにさせてくれた今回のすばらしい奨励でした。主に感謝です。(加藤)

 

 

 

 

大学礼拝の特別企画として、現在AHI(アジア保健研修所)に留学中のズバイダ・シャミム・デワンさんのお話を聞く機会に恵まれました。
(AHIについてはこちら

デワンさんは、パキスタン出身の女性で、現在、NGO「世界的健康への取り組み(global healing initiative)」の代表も務めています。その活動を中心に、スライドを使いながら、通訳の方のわかりやすい日本語を通して、そのメッセージは私たちに伝えられました。

パキスタンは自然豊かな国ですが、地震や洪水などの天災もあります。また、複数の民族から成り立っていて、貧しい人びとも多く、さまざまな政治、経済、社会問題を抱えています。人口のわずか2%にすぎないクリスチャンは、ほとんどがイスラム教徒の社会の中では、冷遇されることも少なくありません。保健をめぐる問題、女性に対する暴力の問題などが重なりあう中で、「パキスタンでクリスチャンとして生きる」という講演のタイトルは、一人のパキスタンのクリスチャン女性の話という意味合いをはるかに超えて、とても重い課題を私たちに投げかけてきます。

そのような中にあって、「平和を実現する人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる」(マタイによる福音書5:9)という聖書の言葉に動かされながら、いろいろな次元での「平和の実現」のために生き続けるデワンさんの生き方には、大いに心を動かされるとともに、実にたくさんのことを教えられました。

今回の講演を受けて、学生たちは授業で振り返る機会を持つことになっていますが、多くのメッセージが込められた話の中から、少しでも大切なことを吸収するとともに、これまでの自分の生き方を省みながら、明日からの生き方につなげてほしいと切に願っております。(菊地)

 

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