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カテゴリー:礼拝記録 の記事一覧

新型コロナウイルス感染者が日本で最初に確認されたのが2020年の1月15日。
その年の3月に開催予定だった2019年度卒業式は、未知なるウイルスへの脅威を重く受け止めて中止となりました。続く2020年度は感染予防を徹底したうえでの開催となり、そして、今年度は第6波の最中ではありましたが、昨年と同様な体制で開催をしました。

✝ ✝ ✝

●開始前
今年も聖歌が歌えないため、式開始前のBGMに有名な聖歌を使いました。
気持ち、伝わったかな?

●前奏
壇上のローソクに火が灯されます。

●聖語
「神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。」【ヨハネの手紙一 4:16】

●特祷
祈りましょう。
すべての力の源である神よ、本日、卒業・修了の日を迎える学生たちをこれまで守り、無事にすべての課程を終えさせ、その目的を遂げさせてくださったことを感謝し、み名をほめたたえます。また、学生たちがそれぞれの賜物をもってこの学院を豊かにし、友人たちや教職員に多くの喜びをもたらしてくれたことのゆえに、また今日まで学生たちを育んできた多くの人々の愛の業のゆえに、あなたに感謝を捧げます。

どうか、この学生たちにあなたの豊かな恵みを注ぎ、これからの歩みを祝福してください。一人一人がみ心にかなう日々を歩み、幸いの時も災いの時も喜びの時も悲しみの時も、愛をもって仕える者として生涯をおくることができるように導いてください。わたしたちの主、イエス・キリストのみ名によってお願いいたします。

●聖書朗読
新約聖書は、コロサイの信徒への手紙 第3章12節より。

あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです。また、キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。いつも感謝していなさい。キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、諭し合い、詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい。そして、何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行い、イエスによって、父である神に感謝しなさい。

●第68回 保育科 卒業証書授与
保育科 102名

 

●第24回 専攻科保育専攻 修了証書ならびに学位記授与
専攻科保育専攻15名

●式辞(名古屋柳城短期大学 学長 菊地伸二)
こちらでご覧ください。

 

●送辞

●答辞

●卒業生による記念品贈呈

●一般社団法人 全国保育士養成協議会 会長表彰

●祝電披露

●平和の挨拶
主の平和が皆さんとともに
また、あなたとともに
平和の挨拶を交わしましょう。

●主の祈り
天におられるわたしたちの父よ
み名が聖とされますように
み国が来ますように。
みこころが天に行われるとおり地にも行われますように。
わたしたちの日ごとの糧を今日もお与えください。
わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人をゆるします。
わたしたちを誘惑におちいらせず、悪からお救いください。
国と力と栄光は、永遠にあなたのものです
アーメン

●名古屋柳城短期大学のための祈り
全能の神よ、わたしたちはただ主の賜物によってまことの知恵を得ることができます。どうか、み名によって建てられた名古屋柳城短期大学に恵みを下し、教える者と学ぶ者を祝福して、共に知識を深め、主の真理を悟り、愛をもって互いに仕え、謙遜な心で唯一の神を仰ぐことができるようにしてください。主イエス・キリストによってお願いいたします。
アーメン

●派遣の祈り
神よ、今、新しい道に歩み出そうとしている一人一人を祝福し、お守りください。これからもあなたに与えられたそれぞれの賜物を豊かに用いることができますように。そのために必要なものを必要なときに備え、共に道を歩む友を与え、あなたが一人一人を呼び出しておられる道をお示しくださいますように。これからの一人一人の歩みの上に、あなたの聖なる霊を共に臨ませてください。そして、まことの道であり、真理であり、生命である主イエス・キリストと共に旅する者として、一人一人をあなたの愛するこの世界に遣わしてください。わたしたちの主、イエス・キリストのみ名によって。
アーメン

●祝祷
主があなたがたを祝福し、あなたがたを守られるように。主がみ顔をもってあなたがたを照らし、あなたがたを恵まれるように。主がみ顔をあなたがたに向け、あなたがたに平安を賜るように。父と子と聖霊なる全能の神の恵みが、常に皆さんとともにありますように。
アーメン

●後奏

●閉式後
チャペルで卒業写真を撮影するまでの順番待ちの間、会場にJ-POP卒業ソング集を流しました。

✝ ✝ ✝

「今泣いている人々は、幸いである、
あなたがたは笑うようになる。」(マタイによる福音書6:21)

こう語るイエス・キリストは、苦しむ人々に向かって愛を示し、新しい時代がやって来ることを約束しました。

これから子どもの前に立とうとする柳城生の一人ひとりが、このイエスの愛を子どもたちにも示していけるよう、主の導きに期待したいと思います。
保育は愛です。それが柳城の存在意義なのです。(K)

【ガラテヤの信徒への手紙5:13~15】
5:13 兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。
5:14 律法全体は、「隣人を自分のように愛しなさい」という一句によって全うされるからです。
5:15 だが、互いにかみ合い、共食いしているのなら、互いに滅ぼされないように注意しなさい。

✝ ✝ ✝

 私たちは、人との関わりの中で生きています。すなわちそのことは、私たちが、自分自身の人生、自分自身の時間、自分自身の命を、他の人と少しずつ分かち合いながら、あるいは削りながら生きている、ということです。人は、ただ、生物学的な自分自身の命を、ただ長引かせるために生きているわけではありません。
今、ウクライナで大変なことが起きています。ロシアによる軍事侵攻の即時停止を求めます。そして、皆様も、少しでも自分にできることはないか、と思っているのではと思います。例えば、募金をする、SNSで発信する、デモに参加する、ウクライナの人々を覚えて祈る、と言ったことも、自分の時間を使って、自分を削って、自分を他者のために用いる、ということでありましょう。

自分を他者のために用いることの大切さを、長い生涯において家族以外の場で初めて見出すのはどこでありましょう。それは、おそらく、多くの人にとっては、これからみなさまの多くが働かれる、保育や幼児教育の場ではないかと思います。
他人に出会わなければ、傷つかずにすみます。オンラインであれば、隣に誰がいるかを気にしなくていいかもしれません。誰とも会わなければ、あるいは、短い間だけの接触であれば、大変な思いをしている人がいるという現実が、直接、自分の生活に入り込んでくることもないかもしれません。
人と人とが出会い、長い時間を一緒に過ごせば、意見のすれ違いもあります。傷つくこともあります。しかし、それでも、私たちは、人と出会うことによって、喜びを分かち合い、悲しみを共有します。自分自身だけの心地よさを超えて人と向き合うとき、自分を他者のために用いること、共に生きることの素晴らしさ、豊かさを知ることができます。そのようなことを、最初に味わう場所、それこそが、幼稚園や保育園でありましょう。

自分の時間、自分の命を度外視して、隣人を大切にする、というのは、キリスト教でいう「愛」ということでもあります。そして、その「愛」とは、親しい家族や仲間だけを大事にする、ということではありません。隣人を愛する、ということは、自分の損得勘定を超え、自分にとって都合がよくない人をも大切にする、ということです。また特に、この社会の中で隅に追いやられている人を、あるいは弱い子どもたちを、たとえ自分の命が、あるいは命の一部が、あるいはまた、自分の貴重な時間の一部が損なわれても、かけがえのない人として大事にする、ということです。

そして、このことは、この2年間、自らの感染リスクと向き合いながら、それでも本学で学び続け、実習をしてこられたみなさんが、体験的に学ばれてきたことです。これまでの卒業生とは、次元の異なる、大変な学びの経験をされたことを、どうぞ大切にしていただきたいと思います。 (チャプレン 相原太郎)


クリスマスローズ

【コロサイの信徒への手紙 3:12~14】
3:12 あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。
3:13 互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。
3:14 これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです。

✝ ✝ ✝

 本学の今年の聖句は、「愛は、すべてを完成させるきずな」でありました。この「きずな」という言葉を聞くと、何かその人と仲良くなる、あるいはその人のことを好きになる、というようなイメージを持つかもしれません。
しかし、「きずな」あるいは「愛する」というのは、好き嫌いといったことではなくて、相手の存在を大切にするということです。逆に、「きずな」、「愛する」の反対語とは、嫌いになる、ということではなくて、関わりを持たないこと、無視すること、無関心でいること、無責任であること、ということであると思います。

私たちは、人と出会うとき、この人は自分には関係ない、あの人は部外者だ、と判断してしまうことがよくあると思います。そして、自分に直接関係がある人、あるいは自分に役立ちそうと思う人、そんな人ばかりを大事にしてしまいます。だとすると、結局、人との関係は自分中心であり、自分の中に閉じているということであり、自分のためでしかなくなってしまいます。相手に関心を持っているようで、実は関心は自分にあり、相手そのものには無関心であったりします。そのような関係は「きずな」とは言えません。
「きずな」とは、自分に利益があろうがなかろうが、出会った人のこと、あるいは隣人に、損得勘定抜きに、関心を持つことだと思います。そして、好き嫌いとは無関係に、一人一人を、かけがえのない人として理解すること。そうした中での関係こそが、「きずな」であり、柳城が大切にしている、「愛」ということでありましょう。

聖書で示される神が、まさにそのような方です。神は、その存在全てをかけて、損得勘定抜きに、私たちに関わってくださいます。
神の子であるイエスは、自分の立場が、そして自分の命そのものがどうなろうとも、この世の誰からも見向きもされない人に常に寄り添い、徹底して大切にされました。そして、最後には、十字架によって命を落とされ、神の子でありながら、苦しみと死を経験されました。

そのようにして、神は、世界のあらゆる人を一人残らず、部外者にすることなく、かけがえのない人として大切にしておられます。そのような、神からの愛を受けている者として私たちは、出会う人、隣にいる人、一人一人を、損得勘定抜きに、関心を持ち、大切にし、愛すること。そのようにして、きずなを深めていくことができたらと思います。  (チャプレン 相原太郎)


キンカンとラズベリー

【ローマの信徒への手紙 第8章18、24~25節】
8:18 現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います。
8:24 わたしたちは、このような希望によって救われているのです。見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。
8:25 わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。

〈アイコンをクリックすると下原太介チャプレンのお話が聞けます〉

【コリントの信徒への手紙一 12章4~11節】
12:4 賜物にはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ霊です。
12:5 務めにはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ主です。
12:6 働きにはいろいろありますが、すべての場合にすべてのことをなさるのは同じ神です。
12:7 一人一人に“霊”の働きが現れるのは、全体の益となるためです。
12:8 ある人には“霊”によって知恵の言葉、ある人には同じ“霊”によって知識の言葉が与えられ、
12:9 ある人にはその同じ“霊”によって信仰、ある人にはこの唯一の“霊”によって病気をいやす力、
12:10 ある人には奇跡を行う力、ある人には預言する力、ある人には霊を見分ける力、ある人には種々の異言を語る力、ある人には異言を解釈する力が与えられています。
12:11 これらすべてのことは、同じ唯一の“霊”の働きであって、“霊”は望むままに、それを一人一人に分け与えてくださるのです。

✝ ✝ ✝

私は柳城に勤めた最初の年に東日本大震災の話しをさせてもらい、今日はこうして、柳城での最後の年に話す機会が与えられました。このような配慮を有難く思います。

さて、最近思っていることですが、こうして年を重ねてくると、自分の時間とか人生に関する感覚というか考え方が変化していることを感じます。例えば、時間の経過が加速度的に速く感じたり、人生のゴールを想定してゴールから物事を考えたりするとかです。また、「年寄りの繰り言」と言われる通り、年を取ると、同じ話や昔話を何度も繰り返すようになるのですが、それは死というものを意識するような年齢になると自分の人生の意味を考えるからだと心理学的に説明されていて、ごく自然なことなんだと自分でも納得しています。ちなみにエリクソンはこの現象を「老年期における自我の統合」という言葉で表現しています。さらに、人には「レミニッセンス・バンプ」とか「記憶のこぶ」といって、強く記憶に残っている時期があります。もちろん最近のことは誰でも良く覚えていますが、10代後半から20代の思春期・青年期の頃を特に良く思い出すようです。たとえば、認知症の方でも自分が輝いていたこの時代に戻ることがあります。

ということで、私自身も今日の話しのテーマを「私のたからもの」にして、自分を振り返ってみたいと思った次第です。

私は子どもの頃から「人は使命を持って生まれてくる。では、自分の使命は何だろう、どう生きたらいいのだろう」と考えるようになり、信念とか使命という言葉に憧れていました。そんな思いで自分の道を長年探しながら、私は多くの人と出会い、豊かな時間をいただきました。というのも、私は、たまたまですが、色々な学校で学び、いくつかの町に住み、多様な職場、特に看護・保健・介護の分野、つまり対人援助職という分野で働く過程で、多くの人と出会い、様々な方の人生に触れながら豊かな時間を過ごすことができたのです。これが私のたからものだと今では思っています。

そういう中で、私は自分の使命として看護の道を最初に求めましたが、看護学生になっても自分の道に確信が持てなくて悩んで別の道を探したこともあります。それでも、看護の最初の実習が始まり、その時出会った忘れられない患者さんがいます。血液内科に再生不良性貧血で入院していた若い重症患者さんです。廊下側のベッドにいて、私たちにさわやかな笑顔を見せ冗談も飛ばすような方でしたが、突然次の日にそのベッドが空いていたのです。10代後半で、それまで死に向きあったことのない私には非常にショックでした。また、その実習で、必修ではない解剖にも立ち会ったのですが、解剖室に横たわっている人は私には蝋人形にしか見えず、うまく言えませんが、解剖の最中は悲しいなどといった感情がわいてこない状態でした。でも、解剖が終わったときに、実習のメンバーの一人が泣き出し、それがきっかけになって、私にも一気に感情が戻ってきて、解剖されたのは亡くなった人だったんだとやっと感じることができて、涙が出ました。

その後も、人の生とか死について答えのない問いが私の心に残りましたが、看護の実習を重ねるうちに、体育教師になるのが夢だった白血病の中学生とか、1型糖尿病で幼少期からおやつを我慢してきた若い女性とかに出会いながら、この道でよかったんだなと自然に思えるようになりました。ただ、私には病院よりも地域で働きたいという思いが強かったので、保健師の資格を取ったりもしました。ここにいる皆さんも対人援助職に就こうとしているわけで、これから色々な人に出会うと思います。私も次の場所でどんな人と出会えるのかが楽しみです。

最後に皆さんへお伝えしたいのは、無力感に陥ったり、理不尽だなと思うような時の対応についてです。そんなケースに出会った時には、そのままを受け入れて耐えていくことも時には必要だと、私は最近感じるようになりました。自分の道がこれでよかったと思えるなら、耐える力も生まれるということでしょうか。実は、この力には名前がついていることを私は数年前に知りました。それはネガティブ・ケイパビリティ(答えの出ない事態に耐える力)という言葉です。本日は、この言葉でもってお話を終わりたいと思います。

(名古屋柳城短期大学 教授 芝田郁子)

【マタイによる福音書 2章1~12節】
2:1 イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、
2:2 言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」
2:3 これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。
2:4 王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。
2:5 彼らは言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。
2:6 『ユダの地、ベツレヘムよ、/お前はユダの指導者たちの中で/決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、/わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」
2:7 そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。
2:8 そして、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と言ってベツレヘムへ送り出した。
2:9 彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。
2:10 学者たちはその星を見て喜びにあふれた。
2:11 家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。
2:12 ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。

✝ ✝ ✝

 イエスの誕生を祝い、大切な宝を差し出したのは、ユダヤ人ではなく、むしろユダヤ人にとっては、あまりイメージのよくない、東のほうから来た外国人の博士たちでした。この物語において、重要なポイントとなるのが、ユダヤ人が長い間、心待ちにしていた救い主の誕生を祝ったのが、実はユダヤ人ではなかった、ということです。
その博士たちとは逆の振る舞いをしたのが、ユダヤのヘロデ王です。ヘロデは、新しい王が誕生した、という情報を聞きます。すると、自分が築いてきた王としての立場が失われるかもしれないと、不安に陥ります。不安を抱いたのは、ヘロデ王だけではありませんでした。エルサレムの人も同様に不安を抱いたことが描かれています。救い主の誕生に不安を抱いたのは、エルサレムの人々全体の共通認識でした。
エルサレムは、ローマ帝国の支配の中で、さまざまな問題があるものの、表向きには日々の生活が成り立っていました。そんな中で、救い主が現れると、現在の自分たちの暮らしが大きく変化してしまうかもしれないと考えました。だからこそ、ヘロデ王だけでなく、イスラエルの人々も、メシアの登場を恐れたわけです。

そのような不安な気持ちとは、まったく異なる行動を取ったのが3人の博士たちでした。救い主、メシアとは、ユダヤ人の王となる人物です。しかし、博士たちはユダヤ人ではありません。博士たちが、わざわざ異国の地に赴くということは、その星が示すメシアが、ユダヤ地方の単なる民族の王としてのメシアを、超えるような存在になるかもしれないと考えたのかもしれません。異国の地にまで赴いた博士たちの行動には、これまでの生活が変わるかもしれないという、覚悟のようなものが感じられます。

ところが、そんな博士たちに意外な光景が待ち受けていました。星をたよりに、新しい王の誕生を探し求めて旅をすると、ついに星が止まりました。しかし、そこはヘロデ王がいるような王の宮殿ではなく、貧しい寒村の小さな家でした。そして中に入ってみると、そこにいたのは若き母マリア、そして幼子イエスでした。

博士たちは、ユダヤ王国の権力の頂点にいるヘロデ王から送り出されて、ベツレヘムに向かいました。博士たちは、ユダヤの王の姿がどういうものかを、実際に会って理解しているわけです。そして、そのヘロデ王を超えていくような王の登場を想定したわけです。しかし、星をたよりに旅をすると、そこにあったのは、ただの家でありました。そして、中に入ってみたら、若い母親、そしてその横に幼子がいるだけでした。普通に考えれば、これが本当に王なのかと、疑問に思うかもしれません。

しかし、博士たちは、そこから驚くべき行動に出ます。博士たちは疑問に思うどころか、その幼子の前にひれ伏し、幼子を拝んだのでした。そして、それまで大事にしてきた黄金、乳香、没薬を贈り物としてイエスに献げたのでした。

幼子はそこにただ寝ていただけかもしれません。泣いていただけかもしれません。ただの幼子としてこの世に生まれ、マリアに頼らなければ何もできないイエス。しかし、星の知らせ、言い換えれば、神からのメッセージを通じて、その何もできない無力な幼子こそ、救い主であるという決定的な価値の転換が博士たちに起きたのでした。それゆえに博士たちは、これまで最も大切にしてきたものを手放しました。

神は、私たちのためにその独り子を無力な者として私たちに差し出されました。そのようにして、神は神ご自身をこの世に差し出されました。しかも、何もできない幼子として、この世に投げ出されました。だからこそ、博士たちにも決定的な価値転換が起こり、これまで大事だと思っていたものを、投げ出すことが可能となったわけです。

私たち人間は、どこまでも自己中心的で、自己保身に走ってしまいます。隣人を愛するよりも、自分を愛することを優先してしまいます。そんな私たちに人間に対して、神自身が、あえて人となられました。しかも、幼子、無力な者となられました。それはすなわち、神ご自身がその立場を自ら捨てたということです。そのようにして、神は人間に徹底して寄り添い、私たちが、自分だけでなく、隣人を自分のように愛することが可能であることを示されました。

クリスマス。神は、その愛のゆえに、自ら身を差し出して、イエス・キリストを幼子としてこの世に遣わされます。それゆえに、博士たちは、それまで最も大切にしてきたものを差し出します。私たちも、また、自分自身を差し出して、愛によって人に仕える道へと旅立つ、そんなクリスマス、そして来るべき2022年になればと思います。  (チャプレン 相原太郎)


スイートアリッサム

12/21(火)に体育館で行われた礼拝の模様をお届けします。

時間割の都合で昼休みを挟んでの開催となりましたが、例年同様にシンプルで美しい礼拝に仕上がったと思います。主に感謝です。

ただ、新型コロナウイルスの感染予防のため、学生さんの参加をクラスごとに2名までと制限した点は大変残念でした。

参加できなかった学生の皆さん。
本学からのクリスマスプレゼントで、少しだけでも心を癒してもらえませんか。

●前奏 奏楽: 三輪 雅美  准教授

●聖語

神はその独り子を賜ったほどに、この世を愛してくださった。それは、み子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。(ヨハネによる福音書3:16)

●初めの祈り

主よ、わたしたちの口を開いてください
わたしたちは、主の誉れを現します
栄光は父と子と聖霊に
初めのように、今も、世々に限りなく アーメン
主をほめたたえましょう
主のみ名をたたえます

●マリアの賛歌 ルカ 1:46-55

1 わたしの魂は主をあがめ|| わたしの霊は救い主である神を喜びたたえる
2 神はこの貧しい女にも|| 目を留められた
3 今から後、いつの世の人も|| わたしを幸いな女と呼ぶ
4 力ある方が|| わたしに偉大なみ業をなさったから
5 主のみ名は聖|| その憐れみは世々、主を敬い畏れる人に
6 主はみ腕の力を振るい|| 思い上がるものを打ち散らし
7 権力を振るう者をその座から下ろし|| 身分の低い人を引き上げ
8 飢えた人を良い物で満たし|| 富んでいる人をむなしく追い返される
9 神は父祖アブラハムとその子孫に|| 永遠に約束されたように
10 憐れみを忘れず|| 僕イスラエルを助けられた
栄光は|| 父と子と聖霊に
初めのように、今も|| 世々に限りなく アーメン

●聖書

その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。 すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。 天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。 あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」 すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。

「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」

天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合った。 (ルカによる福音書 2:8-16)

●クリスマスメッセージ:チャプレン 司祭 ヨハネ 相原太郎

サンタクロースのイメージの一つに、プレゼントを渡すために一軒一軒を訪ねるというものがあると思います。空を飛んで世界中の家に贈り物を届けるサンタ。しかし、そんなサンタさんが、わざわざ一軒一軒をたずねること。このようなサンタのイメージは、クリスマスの本来の物語につながるものだと思っています。

サンタクロースは、クリスマスイブの夜、全世界の家にプレゼントを配ります。魔法のようです。しかし、サンタさんは魔法を使って空から一気にプレゼントを配ることはありません。宅配便を使うこともしません。あるいは、自分のいるところに来なさいと、サンタがみんなを呼び集めることもありません。サンタクロースは自ら一軒一軒を探し出し、訪ね歩いてプレゼントを渡します。

そして大事なことは、サンタクロースは良い子のところだけ、世間的に評価されている人にだけ、プレゼントを持っていくのではないということです。というのも、サンタクロースのイメージ、原型、オリジナルは、聖ニコラスだからです。

聖ニコラスは、現在のトルコのミュラという町でキリスト教の指導者として活躍した人物です。彼の伝説の一つに、生活苦に陥っていた貧しい家族の子どもたちのことに心を痛め、夜、その家を訪ね、窓から布に包んだ金塊を投げ入れた、というものがあります。これが、現在のサンタクロースのイメージの元となっている伝説と言われています。

このように、サンタクロースは、世間的には見向きもされない人、価値の低いと思われている人、あるいは、良い子と思われない子どものことを知り、心を痛め、そして、出向いて行ってプレゼントを贈ること、それが本来のサンタクロースの姿でありましょう。どんなダメな子のところにも訪れる、むしろ、ダメな子と思われている子を探し出して、あなたは大切な存在なのだ、というしるしとして、贈り物をするというのが、サンタクロースの本質とも言えます。

先ほど、読まれました聖書は、羊飼いたちにイエス・キリストの誕生が知らされたという場面です。キリストの誕生が真っ先に神さまから知らされたのは、野宿をしていた羊飼いであったということです。羊の番をしている羊飼いと言いますと、のどかで優雅に暮らす人々というイメージを持つかもしれません。しかしながら、当時の羊飼いたちの暮らしはそういうことではなかったようです。

羊飼いたちは野宿をして羊の番をしていました。野宿とは文字通り外で寝ることです。つまり彼らは、現代風に言えば路上生活者です。実際彼らは、羊に餌を食べさせるため、常に牧草を求めて移動しなければならず、どこかに家を構えて定住することができませんでした。また、羊飼いは生き物の死体を扱うことにもなるため、汚れた存在とも見られていました。このようなことで、羊飼いたちは人々から見下され、諦めと自己否定、恐れと不安の中で過ごしていました。

しかし、救い主であるイエスが誕生したという喜びの知らせを、神さまが真っ先に知らせたのは、このような羊飼いたちでありました。人々から見下され、孤立し、辛く寂しい思いをしていた羊飼い。そんな羊飼いたちを神は自ら探し出し、喜びの知らせを告げたのでありました。

神の使いが近づくと、羊飼いたちは恐れました。羊飼いたちは、まさか、こんな自分たちのところに神の使いがわざわざ訪ねてくるはずがない、そんな輝かしい知らせが自分たちのところに来るはずがないと思いました。しかし、神の使いは羊飼いたちに「恐れるな」と語りかけます。それはすなわち、あなたたちはもう恐れないでいい、あなたたちのためにこそ救い主は生まれるのだ、神はあなたたちと共におられるのだ、ということを意味します。暗闇の中にあった羊飼いたちに、あなたたちはもう一人ではないと、神の使いは告げるわけです。

サンタクロースからのプレゼントも本来そのようなものであると思います。クリスマスの日、サンタクロースによってプレゼントが届けられたとき、その人は自分が一人ではないということを知らされます。自分のことを大切にしてくれる、愛してくれる人がどこかにいて、見守っていてくれる、そして、こんな私をわざわざ探し出して尋ねてくれる。そのことが、サンタさんからのクリスマス・プレゼントのエッセンスでありましょう。

今年1年も、私たちはコロナ禍に悩まされ、不安な日々を過ごしてきました。そして、今も、様々な不安、悲しみ、痛みを負って、孤独のうちに過ごされている方もいらっしゃると思います。そんな一人一人を神様は自ら探し出し、そして、あなたは一人ではないというメッセージを届けます。それがクリスマスの出来事です。皆様お一人お一人が、よいクリスマスの時を過ごされることをお祈りしております。

●聖歌 第81番「神には栄え」

●奉献の祈り

全能の父なる神よ、この信施を受け、主のみ業のために用いてください
すべてのものは主の賜物。わたしたちは主から受けて主にささげたのです アーメン

●点火の祈り

大いなる光を造られた主が、豊かな憐れみによってわたしたちの心の闇を照らし、喜びに目覚めさせてくださいますように
アーメン
光の源である主の輝きによって、救いの光が世の隅々にまでゆきわたりますように
アーメン
義の太陽であるキリストが皆さんを照らし、行く道の闇を取り除いてくださいますよう
アーメン

●主の祈り

天におられるわたしたちの父よ、
み名が聖とされますように。
み国が来ますように。
みこころが天に行われるとおり地にも行われますように。
わたしたちの日ごとの糧を今日もお与えください。
わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人をゆるします。
わたしたちを誘惑におちいらせず、
悪からお救いください。
国と力と栄光は、永遠にあなたのものです。 アーメン 

●降誕日特祷

全能の神よ、み子の訪れによってわたしたちを清め、心の闇を照らしてください。主が来られるとき、主にふさわしいみ住まいを、常にわたしたちのうちに備えることができますように、父と聖霊とともに一体であって世々に生き支配しておられる主イエス・キリストによってお願いいたします。
アーメン

●平安のため

すべての聖なる望み、良い思い、正しい業のもとである神よ、この世の与え得ない平安をわたしたちにお与えください。わたしたちがみ心にすべてをゆだね、み力によりあだを恐れず、安らかに日々を過ごすことができますように、救い主イエス・キリストのいさおによってお願いいたします。
アーメン

●諸祈祷

名古屋柳城女子大学・名古屋柳城短期大学のために祈りましょう
全能の神よ、わたしたちはただ主の賜物によってまことの知恵を得ることができます。どうか、み名によって建てられた名古屋柳城女子大学・名古屋柳城短期大学に恵みを下し、教える者と学ぶ者を祝福して、共に知識を深め、主の真理を悟り、愛をもって互いに仕え、謙遜な心で唯一の神を仰ぐことができるようにしてください。主イエス・キリストによってお願いいたします アーメン

新型コロナウイルスや東日本大震災の自然災害によって被害に遭われた方々を思い、ともに祈りましょう
慈しみ深い神よ、新型コロナウイルスや相次ぐ自然災害によって命を失った人々のために祈ります。どうか彼らがあなたの御手の中で安らかに憩うことができますように。家族を失った人々に主の慰めが与えられますように。また、今もなお苦しみ、不安の中にある人々に、勇気と希望をお与えください。そして、わたしたちも、この人々のことをいつも思い出し、助け合う心を持つことができますように。主イエス・キリストによってお願いいたします アーメン

●祝祷

●聖歌 第74番「きよしこの夜」

●後奏

今年はかなり気合の入った(?)品になりました。

ロザリオです。

カトリック教会ではよく見かけるもので、柳城が属している聖公会でもアングリカン・ロザリオという形式のものが使われています。今回は、このアングリカンの方を手作りしてみました。

依頼先は、いつもお世話になっている愛知県セルプセンターさんで、そこが新規で立ち上げた「あいセルプ支援センター(就労継続支援B型事業所)」に通う方々にハンドメイドで1本ずつ丁寧にこしらえていただいたのです。

セルプさんもロザリオを作るのは初めての経験だったので、私と何度も事前打ち合わせを重ねました。

市販されているものを参考にしながら、ビーズの色、光沢、そして大きさを合わせていきました。要になる十字架のパーツもいつくか取り寄せてもらいました。

手に入る各パーツの種類には限りがあったにもかかわれず、手作りというレベルでは想像以上の出来栄えだったと、私は心から感謝感激しています。

なお、ロザリオに添えられているのは、愛知セルプセンターさんの紹介文とロザリオの使い方を示した説明文です。ロザリオについては札幌キリスト教会(日本聖公会北海道教区主教座聖堂)さんのHPから引用しました(快くご承諾いただき、ありがとうございました)。」

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