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カテゴリー:礼拝記録 の記事一覧

【マタイによる福音書 第2章1~2節】
2:1 イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、
2:2 言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」

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【マタイによる福音書 24章36~44節】
24:36 「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存じである。
24:37 人の子が来るのは、ノアの時と同じだからである。
24:38 洪水になる前は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた。
24:39 そして、洪水が襲って来て一人残らずさらうまで、何も気がつかなかった。人の子が来る場合も、このようである。
24:40 そのとき、畑に二人の男がいれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。
24:41 二人の女が臼をひいていれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。
24:42 だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないからである。
24:43 このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒が夜のいつごろやって来るかを知っていたら、目を覚ましていて、みすみす自分の家に押し入らせはしないだろう。
24:44 だから、あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」

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この箇所は世の終わりがテーマになっています。どうして楽しいクリスマス前のシーズンに、こんな箇所を読むだろうと不思議に思われるかもしれません。クリスマスはイエス・キリストの誕生をお祝いする日ですが、イエスの誕生と世の終わりには共通点があると教会では考えられています。その共通点とは、悲しみが喜びに変わること絶望が希望に変わることです。世の終わりがどうして喜びであり希望なのでしょう。

この箇所は、当時のユダヤ地方の政治的・宗教的な中心であったエルサレムの神殿が崩壊するということをイエスが語っている場面です。当時のユダヤの人々は神殿こそ神が住むところと考えていました。したがって、神殿が崩壊するとは、すなわち、信じていた神が消え去ってしまうこと、また、国もなくなり、自分たちの民族も終わってしまうことを意味していました。これは当時の人々の感覚としては、この世の終わりを意味するような出来事でした。したがって、神殿の崩壊などあってはならないことです。
その一方、ユダヤ地方はローマ帝国に支配されていました。そして、その圧制に苦しむユダヤの民衆とローマとは一触即発の状態でした。そんな中で、戦争が起きれば、ローマによって神殿が滅ぼされてしまうかもしれないとも思われていました。そんなこの世の終わりの時が来たら、自分たちはどうなってしまうのだろうとも考えられていました。
この世の終わりというと、恐ろしい終わりの時であり、それにびくびくしながら生きなければならない、と思うかもしれません。あるいは、どうせいつのことか分からないのだから、そんなことはできるだけ考えず、適当に日々を楽しく過ごせばよいと思うかもしれません。
しかし、イエスは、この世の終わりが近づいているのだから、「目を覚ましていなさい」と述べます。この「目を覚ましている」の原語は、「油断しない」とか「注意深くする」といったようなイメージの言葉です。それはすなわち、神から離れた生き方をしないようにする、という意味を持っています。私たちの世界は、この世の支配者を神のように思ってしまったり、あるいは、世俗社会の常識に押し流されてしまったりすることがあります。それらは神から離れた生き方と言えます。そうしたことがないように注意深く生きること、それが目を覚ましているということです。

なぜ、世の終わりに向けて注意深く生きることが求められるのでしょう。キリスト教において世の終わりとは、全てが終わってしまうということを意味していません。世の終わりとは、神の国が到来する、ということを意味しています。神の国の到来とは、神の支配が生と死を超えて完全に実現することです。そして、神の支配とは、別の表現をすれば、全てが神の愛で包まれることです。世界が神の愛で満たされるということです。したがって、世の終わりに向けて、つまり、世界が神の愛で満たされることに向けて、この世の権威や常識にとらわれずに、神の愛のもとで生きること、それが、目を覚まして生きる、ということです。

私たちの建学の精神は「愛をもって仕えよ」です。先ほどの文脈で考えれば、愛をもって他者に仕えることによって、世界が神の愛で満たされること、すなわち、この世の終わりを予め先取りして経験することでもあるということです。
この世界には、「愛をもって仕える」ことと反対の事柄で満ち溢れています。諦めたくなるような出来事が私たちの周りにも数多くあると思います。それは、イエスの時代もそうでありました。そんな中で、イエスはその生涯をかけて、十字架の死に至るまで、悲しむ人々、貧しい人々と共に住み、その涙をぬぐわれました。そのようなイエスとの出会いに、当時の人々は神の姿、神の愛の支配を見出したのでありました。イエスとの交わりは神の支配の先取りそのものでありました。

クリスマスとは、神の愛の実現の先取りとしての主イエスが到来する時です。であるからこそ、私たちも、この世界を諦めることなく、ただじっと現状に目をつぶって耐え忍ぶことなく、私たちの周りで起きている事柄に向き合って目を覚まして生きること、すなわち愛をもって仕えること、そのことを通して、来るべきクリスマスの喜びの時を待ち望みたいと思います。(チャプレン 相原太郎)


ハーブにチャレンジ

【ルカによる福音書 第1章28節】
天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」

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【マタイによる福音書 22章34~40節】

22:34 ファリサイ派の人々は、イエスがサドカイ派の人々を言い込められたと聞いて、一緒に集まった。
22:35 そのうちの一人、律法の専門家が、イエスを試そうとして尋ねた。
22:36 「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」
22:37 イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』
22:38 これが最も重要な第一の掟である。
22:39 第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』
22:40 律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」

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 「心を尽くして、精神を尽くして、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」これは当時のユダヤ教徒が毎日の朝夕に祈りの中で唱える言葉でした。ユダヤ教徒にとって間違いなく最も大切な掟です。つまり、イエスがこれを口にした時、誰もがそれは当然だと思ったということです。
しかしイエスは、続いて「隣人を自分のように愛しなさい」と述べ、これが最初の掟と同じように重要だと語ります。神を愛することと隣人を愛することは切り離せないというわけです。これこそがイエスの発言の最も特徴的なところです。そして、このことは当時のユダヤ教の指導者たちにとって大変厳しい批判となるものでもありました。

当時、ユダヤ教の律法には600以上の細かな掟があり、彼ら指導者たちはそれに従って生活をしていました。そして、彼らは、律法を守っているという自負がありました。それ故に、その裏返しとして、律法を守ることのできない人たちを軽蔑し、神から見放された者として、その人たちと交わることすらしませんでした。というのも、神が人間に対して要求していることは、律法の個々の掟を一つずつ忠実に守ることだと考えていたからです。だから律法を守らない人、守れない人は、神から離れた罪人だとしたわけです。宗教指導者たちは、いわば自分が神から愛されるために、律法の文言を頑なに守ろうとしました。また、隣人の範囲を自分たちと同じ価値観を持つ人たちに限定しました。

これと対照的なのがイエスでした。イエスは、律法から外れた罪人とされた人たち、つまり、神から愛されていないとみなされていた人たちに寄り添いました。イエスが、「隣人を自分のように愛しなさい」と指導者たちに語った時、イエスは具体的な人々の顔を思い起こしていたに違いありません。それは、イエスが、ガリラヤで伝道を始めて以降、出会ってきた人たち、すなわち罪人としてユダヤ社会における「隣人」という枠組みから排除された人たちのことです。イエスは、そうした人たちの顔を思い浮かべながら、あの彼ら彼女たちこそが私たちの隣人なのだ、神を愛することとは、彼ら彼女たちを隣人として、神から愛されているかけがえのない人として大切にすることにほかならないのだ、と語っているわけです。

イエスは、十字架の死に至るまで、ガリラヤで出会った人々の苦しみや悲しみを放っておくことは決してされませんでした。だからこそ、イエスは、宗教的政治的指導者のいる中心地であるエルサレムで、彼らと対決せざるをえませんでした。それは、ひとえに、イエスが彼らを隣人として自分のように愛したからにほかなりませんでした。そのようにして、神がすべての人を愛しておられることを示されました。

神はすべての人を愛され、悲しみにある人、悩みの中にある人を決してそのままにすることはありません。全ての人ですので、もちろん、今ここにいる私たちも、含まれます。ですので、私たちは、隣人を自分のように愛そうとするその基礎として、自分自身が神に愛されているということを今日確認したいと思います。そして、イエスが当時の社会から排除されていた人たちを隣人として大切にしていかれたように、私たちも、誰一人排除することなく、隣人を自分のように愛する働きを、ご一緒に担っていければと思います。
(チャプレン 相原太郎)


フレーベルの折り紙

【マタイによる福音書 6章25~34】
6:25 「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。
6:26 空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。
6:27 あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。
6:28 なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。
6:29 しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。
6:30 今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。
6:31 だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。
6:32 それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。
6:33 何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。
6:34 だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」

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 この話は、有名な山上の説教、「心の貧しい人々は、幸いである」から始まるイエスの教えに含まれるものです。その説教の冒頭に次のように書かれています。「イエスはこの群衆を見て、山に登られた。」。山上の説教は、この群衆に語りかけたものですが、それがどんな人達なのかについてその直前に書かれています。
「人々がイエスのところへ、いろいろな病気や苦しみに悩む者、悪霊にとりつかれた者、てんかんの者、中風の者など、あらゆる病人を連れてきたので、これらの人々を癒やされた。こうして、ガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤ、ヨルダン川の向こう側から、大勢の群衆が来て、イエスに従った。」
山に集まってきたのは、このような人たちでした。彼ら彼女たちは、祝福された人生、恵まれた人生とは、縁遠い人たちでした。自分たちのことを、神様の恵みや祝福から見放された者だと思っていました。

そんな彼らに語ったのが今日の言葉でした。この言葉は、抽象的な世間一般に対して語ったものではありません。あるいは、それなりの暮らしをしている人たちに対して、もう少し質素になろうと述べているものでもありません。この言葉は、貧しい人たち、差別や病によって生きる希望を失った人たちに対して向けられたものです。そんなわけですので、その人たちを前にして、たとえば、もっと質素に生きようと語ったとは考えられません。彼らはすでに十分すぎるほど質素に生きています。

では、イエスがここで大事にしたいこととは、なんだったのでありましょう。空の鳥は、種を蒔くこともしないが、父は鳥を養ってくださるとは、どういうことか。それはすなわち、働く人も、そして、働かない人、働けない人も、神によって生かされているのであり、生きていていいのであり、生きるべきなのだ、ということです。全ての人は、生きることが赦されているのであり、鳥がそうであるように、あるいは、野の花がそうであるように、何の条件もなしに、きちんと食べることができる、この世界は、この社会はそのようにあるべきだ、ということです。

種も蒔かず、働くこともなく、そんな鳥や花たちに対して、神は、食べ物を与えない、雨を降らせない、などということがあろうか。同じように、あなたがたも、様々な理由で社会から排除されているが、神の目から見て、生きる資格がない、生きる意味がない、などと言うことはありえない。神は全ての人を大切にされる。だから全ての人間は無条件で生きていてよいのであり、生きられるようにすべきなのだ、と述べられたわけです。

現代に生きる私たちも、イエスが、あの山の上で語られた言葉を、今、ここで聞いています。イエスは言います。空の鳥を見よ、野の花を見よ、あなたも、生きていていいのだ、神から大切にされているのだ、誰からも、生きる資格がない、生きる意味がない、などと言われてはならないのだと、イエスは語りかけておられるはずです。

空の鳥を見るとき、野の花を見るとき、それらが神様によって生かされていることを思い、そして、私たちもまた、神様によって無条件に生きることが赦されているのだ、ということを思い巡らしながら過ごしたいと思います。    (チャプレン 相原太郎)


パンジーとチューリップの植付

【エズラ記(ラテン語) 第7章3節】
わたしは言った。「わが主よ、お話しください。」天使は言った。「海は広い場所に置かれていて、深く限りない。

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【ルカによる福音書 15章1~7】
15:1 徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。
15:2 すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。
15:3 そこで、イエスは次のたとえを話された。
15:4 「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。
15:5 そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、
15:6 家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。
15:7 言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」

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このたとえ話のポイントの一つは、必死に探しているのは誰か、ということです。必死に探しているのは、迷い出た一匹の羊ではなく、羊飼いです。羊飼いが迷い出た羊を探しています。迷い出た羊は、たとえば、「見つけてもらうために努力した」など、何らかのアクションを起こした形跡がありません。一方、羊飼いのほうですが、あの迷い出た羊はこういう優秀な羊だから探そうなど、羊について何か条件を付けることもありません。つまり、羊はまったくの受け身、無条件です。
このたとえにおいて、羊飼いは神を意味します。そして、羊は私たち人間です。つまり、この物語のポイントは、探しているのは、迷い出た私たち人間ではなく、あくまでも羊飼い、すなわち神である、ということです。
私たち人間は、たとえば、どのようにして神を見つけることができるか、あるいは、どうしたら神に救われるか、と考えがちなところがあります。これは、自分たちが神を探す側にいると思っているからだと言えます。しかし、このたとえの構造はそうなっていません。このたとえの中においては、探しているのはあくまでも羊飼い、すなわち神です。私たち人間が、神を見つけるのではなく、神が私たちを見つける、ということです。私たちは、見つける側ではなく、見つけもらう側にいるわけです。

ここで示されている神の姿とは、何があろうと、徹底して私たち人間を探し出す神神から離れたと思い込んでいる人を見つけ出す神少数の立場においやられた人の立場に立とうとする神です。

イエスは、貧しさや不治の病などの理由で、当時、罪人とされていた一人一人を探し出し、一緒に食事をしました。イエスは、一緒に食事をすることで、その人の尊厳が回復されていくということを、何よりも喜びとしました。そのようにしてイエスは、罪人とされた人々との深い交わりを続け、その結果イエス自身も罪人と断罪され、十字架で処刑されるに至りました。それほどまでに、イエスは、自分の生死をも顧みず、一人一人を探し続けました。
このように、聖書が示す神は、私たち一人一人を、とりわけ、弱い立場にある人々を、無条件に、徹底して愛し、探し続ける神です。
先ほどお読みしました箇所に、羊飼いが羊を見つけたら、「喜んでその羊を担いで、家に帰り」とあります。羊飼いが羊を肩に担いだように、神が私たちを見つけた時、喜んで私たちを担いでくださるわけです。その時、それを一番喜んでいるのは、このたとえにあるように、他でもない神自身です。
神自身が、常に私たちを探し続け、そして、私たちを見つけることを喜びとしてくださっていることを覚えたいと思います。  (チャプレン 相原太郎)


アメジストセージ

今年度の式典の模様をお届けします。

コロナ禍が続く中、参加者は昨年度と同様に、その人数に制限がかけられました。

結果、学生さんは各クラスで2名の宗教委員のみ。教職員は全員でしたが、役員さんは講演者の土井司祭さんだけでした。参加者は以上が全てです。

この程度の人数なら、体育館で行う必要もなかろうということで、式典の場所は大教室に移ったくらいです。実に寂しい式典となりました。

でも、それは見た目だけで、内容は例年同様の充実ぶりだったと思います。これが伝統のチカラということでしょうか。神からの憐れみを受けて、私たちは今年も学院創設者のマーガレット・ヤング宣教師への思いと未来への決意を新たにした次第です。

以下、写真とともに式の様子を振り返ってみます。

【学校法人 柳城学院 創立123周年 記念礼拝 (午前9時30分~ 231教室)】

■前 奏 (扶瀬 絵梨奈 本学講師)

■登 壇
■詩 編  第23編

■創立123周年記念の祈り

永遠にいます全能の神よ、わたしたちのすべての時はあなたのみ手の内にあります。今、この学院が創立123周年を記念する時を迎えることができましたことを感謝いたします。この歴史の中で、あなたはわたしたちのさまざまな努力を最も良いものとして受け入れ、さまざまな出来事を達成へと導いてくださいました。また、わたしたちがあなたのみに頼ることを知るようにと、さまざまな失望や失敗をも与えられました。これらすべての出来事のゆえに感謝いたします。どうか、この学院がこれからも変わることなく、あなたのいのちに満たされ、学ぶこと、見いだすこと、叡智を求めることに熱心でありますように。また、教える者と学ぶ者に共に恵みを与え、すべての真理の源であるあなたを見いだすことができますように。主イエス・キリストによってお願いいたします。

■聖 書 (相原チャプレン) ガラテヤの信徒への手紙 第5章1節、13~14節

この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません。兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。律法全体は、「隣人を自分のように愛しなさい」という一句によって全うされるからです。

■式 辞 理事長・学長:菊地伸二  →こちらでご覧ください。

■特別講演 「天国へ生まれ出る」
日本聖公会中部教区 主教補佐 テモテ 土井宏純 司祭 →こちらでご覧ください。

■平和の挨拶

■主の祈り

天におられるわたしたちの父よ、
み名が聖とされますように。
み国が来ますように。
みこころが天に行われるとおり地にも行われますように。
わたしたちの日ごとの糧を今日もお与えください。
わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人をゆるします。
わたしたちを誘惑におちいらせず、
悪からお救いください。
国と力と栄光は、永遠にあなたのものです。 アーメン

■諸 祈 祷
◇名古屋柳城女子大学・名古屋柳城短期大学のための祈り
◇附属幼稚園のための祈り
◇創立者及びこれまでの仕え人たちのための祈り
◇本学院に関わるすべての逝去者のための祈り

■感謝の祈り

天の父よ、み子イエス・キリストは幼子を祝福し、神の国はこのような者の国であると教(おし)えてくださいました。どうかみ名によって建てられた柳城学院に恵みを下し、ここに集うわたしたちが主のみ旨に従って、心もからだも健やかに成長し、信仰の道を学び、主に仕えてみ栄を現すことができるようにしてください。主イエス・キリストによってお願いいたします。

■祝 祷

計り知ることのできない神の平安がキリスト・イエスにあって皆さんの心と思いを守り、ますます深く父とみ子を知り、かつ愛させてくださいますように。父と子と聖霊なる全能の神の恵みが、常に皆さんとともにありますように。

■後奏

【礼拝終了後、永年勤続者表彰式が行われました】

【マルコによる福音書 第12章41節~】

イエスは賽銭箱の向かいに座って、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられた。大勢の金持ちがたくさん入れていた。

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【ルカによる福音書 17章11~19節」
17:11 イエスはエルサレムへ上る途中、サマリアとガリラヤの間を通られた。
17:12 ある村に入ると、重い皮膚病を患っている十人の人が出迎え、遠くの方に立ち止まったまま、
17:13 声を張り上げて、「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と言った。
17:14 イエスは重い皮膚病を患っている人たちを見て、「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と言われた。彼らは、そこへ行く途中で清くされた。
17:15 その中の一人は、自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た。
17:16 そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。この人はサマリア人だった。
17:17 そこで、イエスは言われた。「清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。
17:18 この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか。」
17:19 それから、イエスはその人に言われた。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」

✝ ✝ ✝

 イエスの一行がサマリアの間を通って入ったある村には、特別に汚れているとされていた重い皮膚病を患った10人の人たちが共同生活を送っていました。その10人の中には、ユダヤ人とサマリア人が含まれていました。当時の社会では、サマリア人はユダヤ社会から差別を受け、ユダヤ人とサマリア人が一緒に暮らすことは通常ではありえませんでした。しかし重い皮膚病を患っているこの10人は、それぞれユダヤ人の社会、また、サマリア人の社会から追放されて自分の町に住むことができなくなったからか、追い出された者同士が身を寄り添って住むことになったようです。イエスは、そんな行き場を失った人達の暮らす村に立ち寄りました。
イエスは10人に「祭司に体を見せなさい」と言います。そこで彼らはその言葉に信頼して祭司のもとに向かいます。するとその途中で体は既に清くなっていました。しかし、当時のユダヤ社会では、重い皮膚病が治り、元の社会に戻るためには、ユダヤ教の祭司に見せて、その回復を証明してもらう必要がありました。だからこそ、道の途中で清くなったとしても、ユダヤ人は祭司に見せに行く必要がありました。しかし、サマリア人にはそれが許されていません。サマリア人はユダヤ社会から排除されており、ユダヤ教の祭司に見せたところでユダヤの共同体に戻ることができませんでした。
一方、サマリア人を除く他のユダヤ人9人は祭司のもとに喜んで向かったに違いありません。そして、祭司に自分たちの体が清くなったことを誇らしげに見せ、そして祭司に、もうあなたたちは重い皮膚病を患った人ではない、もう罪人ではない、あなたたちはユダヤ社会の正しい一員であると、認めてもらったことでありましょう。そして、彼らは喜び勇んで自分のもといたユダヤ人の共同体に帰っていったことでしょう。しかし、それは何を意味するのでしょうか。それは、すなわち、自分たちはもう重い病を負った罪人ではなく、サマリア人とは異なり、正しいユダヤ人として生きることができるのだということです。つまり彼らは、せっかく病気から回復したのに、ユダヤ社会の古い枠組みにしばられたままで、病者に対する偏見、外国人に対する差別感情は、もとのままであったということです。

他方、サマリア人ですが、清くなったのに祭司にもユダヤ社会の一員として認めてもらえず、トボトボと残念そうにイエスのもとに帰ってきたでしょうか。そんなことはありませんでした。彼は明るく自信に満ちた姿で帰ってきました。祭司に認めてもらう以上の、すなわち、ユダヤ社会に入れてもらう以上の喜びを感じているようです。というのも、彼は、イエスとの出会いを通じて、これまでの戒律に縛られた古いユダヤ社会の枠組みから解き放たれ、自分がもはやユダヤ教の祭司によって認めてもらう必要もないのだ、自分は自分のままで神に祝福され、ありのまま生きていていいのだ、ということに気付かされたからでした。

イエスはサマリア人に言います。「立ち上がって、行きなさい。」あなたは、もう大丈夫だと。なぜならば、あなたの信仰があなたを救ったからだと。神はあなたの存在をそのまま祝福される。あなたはそのことを既に理解している。だから安心して行きないと、告げられるのです。

今日、イエスは私たちにも同じように呼びかけておられます。「立ち上がって、行きなさい」と。あなたの存在を神はそのまま祝福しておられる。だから大丈夫だ、安心して行きなさいと。すべての人々に神が働いておられることに信頼し、感謝しつつ歩んでまいりたいと思います。
(チャプレン 相原太郎)


1号館南

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