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【ヨハネによる福音書6章26~35節】
6:26 イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。
6:27 朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。父である神が、人の子を認証されたからである。」
6:28 そこで彼らが、「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」と言うと、
6:29 イエスは答えて言われた。「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」
6:30 そこで、彼らは言った。「それでは、わたしたちが見てあなたを信じることができるように、どんなしるしを行ってくださいますか。どのようなことをしてくださいますか。
6:31 わたしたちの先祖は、荒れ野でマンナを食べました。『天からのパンを彼らに与えて食べさせた』と書いてあるとおりです。」
6:32 すると、イエスは言われた。「はっきり言っておく。モーセが天からのパンをあなたがたに与えたのではなく、わたしの父が天からのまことのパンをお与えになる。
6:33 神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである。」
6:34 そこで、彼らが、「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」と言うと、
6:35 イエスは言われた。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。

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「私が命のパンである。」イエスが、こう話す前、5000人もの貧しい人々がイエスのところに集まっていました。そこでイエスは、わずかのパンと魚を彼らと分かち合いました。すると、そこにいた全ての人たちのお腹は満たされました。イエスが奇跡を起こしたということで、この時、イエスの人気は頂点に達しました。そして、人々はこのイエスこそ自分たちの支配者にふさわしいと考え、来るべきユダヤの王として祭り上げようとしました。当時、イスラエル地方はローマ帝国によって支配されていましたので、人々は、イエスがローマの圧政から解放してくれる王となるのではと期待しました。
しかし、イエスはそのような王になるつもりはありません。人々の求めに気がついたイエスは山に逃れます。しかしそれでもなお人々はイエスを追いかけ、探し出して見つけます。パンと魚で自分たちを満たしてくれた、あのイエスを自分たちの王にしようと求めて追いかけてきたわけです。

そのような人々に対してイエスが話した内容が、今日の聖書の言葉です。

イエスは、自分を探している人たちに対し、パンを食べて満腹したから自分を探しているのだろうと語ります。パンは確かに生存に必要不可欠なものであり、イエスはもちろんそれ自体を否定しているわけではありません。単にパンなどよりも大事なものがあると言っているわけでもありません。食べるパンが本当に必要であったからこそ、イエスは5000人とパンを分かち合いました。しかし、お腹を満たした民衆たちはイエスが王として君臨することを追い求めます。もっとパンをということです。
そんな民衆たちにイエスは語りかけます。私こそが命のパンなのだと。私自身の命が人々の間で共有されること。それによって、「誰一人、失わないで、終わりの日に復活させること」、それこそが父なる神のみ心なのだと話します。
 イエスは、人々を一人も失わないため、王として支配することは積極的な意味でしませんでした。むしろ、最も低い立場に立ち、貧しい人たちに徹底して寄り添い、彼自身が貧しさの中でその人生を送り、そして、その激しい愛の行為ゆえに十字架にかけられました。イエスは、自分自身の命を文字通り割き、人々に分け与えられたわけです。
イエス自身が分かち合われるパンであるということは、その命を、自分だけの個別的なもの、パーソナルなものとせず、人々と分かち合い、共有し、提供し、投げ出すということです。そのことによって、私たちは一人も失われることなく、誰一人飢え渇く者はなく、永遠の命へと至らせられる、ということです。

イエスは、今日、ここに集められた私たちに対しても、「私こそ命のパンだ、私は自らを差し出す、だからもはや誰一人失うことはない」と語られます。
様々な不安や痛みを抱える私たちですが、イエスが、「誰一人失うことはない」と私たちを力づけ勇気づけ、その命を私たちに分け与えられ、そのようにして私たちは支えられ生かされていることを覚えたいと思います。
そして、イエス自身が、その生涯を、私たちに、とりわけ貧しい人、飢えている人に分け与えられたように、私たちも自らの生活を自分だけのものとして抱え込むのではなく、人々と分かち合っていきたいと思います。  (チャプレン 相原太郎)


オオスカシバの幼虫

【ヨハネによる福音書第15章5節】
わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。

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【ヨハネによる福音書 2章1~11節】
2:1 三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、イエスの母がそこにいた。
2:2 イエスも、その弟子たちも婚礼に招かれた。
2:3 ぶどう酒が足りなくなったので、母がイエスに、「ぶどう酒がなくなりました」と言った。
2:4 イエスは母に言われた。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」
2:5 しかし、母は召し使いたちに、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言った。
2:6 そこには、ユダヤ人が清めに用いる石の水がめが六つ置いてあった。いずれも二ないし三メトレテス入りのものである。
2:7 イエスが、「水がめに水をいっぱい入れなさい」と言われると、召し使いたちは、かめの縁まで水を満たした。
2:8 イエスは、「さあ、それをくんで宴会の世話役のところへ持って行きなさい」と言われた。召し使いたちは運んで行った。
2:9 世話役はぶどう酒に変わった水の味見をした。このぶどう酒がどこから来たのか、水をくんだ召し使いたちは知っていたが、世話役は知らなかったので、花婿を呼んで、
2:10 言った。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました。」
2:11 イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。

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 カナでの婚礼において、お酒が足りなくなったので水を美味しいワインに変えたというのが、ヨハネによる福音書でのイエスの最初の奇跡物語です。イエスによる奇跡と言ったら、例えば、病人を癒すとか、大勢の貧しい人が少量の食べ物を分け合って満腹になるなどがイメージされます。ですので、最初の奇跡であれば、例えば、水を薬に変えて飲ませたら不治の病から回復したというような奇跡が相応しいのではと思ってしまいます。なぜイエスは最初に、宴会で水をワインに変えるというような奇跡を行ったのか、あるいは、どうして福音書を記したヨハネは最初の奇跡の記録としてこの物語を選んだのでしょうか。

ポイントとなるのが水です。イエスがワインに変えた水がめの水は、本来、清めの水として用いるものでした。清めの水とは何かというと、当時の律法にしたがい、外出した後に家に入る前に手を洗う際などに用いるものでした。外出すると不特定多数の人とすれ違います。その中には、律法を守らない人、守れない人がいました。具体的には、外国人などが想定されていました。そういう人たちは律法を守っていないがゆえに、汚れているとされていました。したがって、外出すると、汚れた人とすれ違っているかもしれないから、外から帰ってきたら手をしっかり洗って清めなければならない、ということになっていました。
清めの水とは、このように、あの人は汚れている、私は汚れていない、だから清めの水で汚れを洗い流し、自分を守るのだという形で、人と人とを分離するものでした。イエスがワインに変えた水とは、そのような清めの水であったことが物語の鍵と言えます。
イエスは、当時差別されていた外国人、障害をもつ人、重い病にある人と、積極的に関わりを持ちました。そして、社会に張り巡らされた人と人とを隔てる壁をなくして、共に生きる神の世界をこの地上に実現されようとしていました。
そんなイエスにとって、人と人との関係を分断する清めの水などは無用でありました。そんな清めの水などいらないのだ、人間を汚れた者と清い者とに分けること自体がそもそも間違いなのだ、ということです。

さて、宴の席でワインがなくなったことを知ったイエスは、この清めの水を飲んでしまおうと提案しました。それはすなわち、人々を分断する水を飲んでしまうということによって、そこでの人々の交わりを真に豊かなものにする、ということです。これこそが、水を極上のワインに変えたということの本質的な意味であるように思います。 イエスはこのようにして、すべての人々が隔てなく一緒に生きることを求め、人々の暮らしや生き方を一変されていくのであり、その最初の事件がカナでの出来事でありました。

 

現代の私たちも、様々な分断の中で生きています。日本人と外国人、女性と男性、障害者と健常者など。そのような分断によって差別も生まれます。カナの婚礼において、分断の象徴であった清めの水が一致の象徴であるワインに変えられたように、現代においても、分断を取り除き、共に生きる喜びが分かち合われることが求められています。全ての人が隔てなく共に支え合って生きること、そのようなヴィジョンに支えられて、歩んでまいりたいと思います。


芝生のショウリョウバッタ

【マルコによる福音書 第8章31~33節】
8:31 それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。
8:32 しかも、そのことをはっきりとお話しになった。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。
8:33 イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」

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【ヨハネによる福音書 9章1~12節】
9:1 さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。
9:2 弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」
9:3 イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。
9:4 わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。だれも働くことのできない夜が来る。
9:5 わたしは、世にいる間、世の光である。」
9:6 こう言ってから、イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになった。
9:7 そして、「シロアム――『遣わされた者』という意味――の池に行って洗いなさい」と言われた。そこで、彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰って来た。
9:8 近所の人々や、彼が物乞いをしていたのを前に見ていた人々が、「これは、座って物乞いをしていた人ではないか」と言った。
9:9 「その人だ」と言う者もいれば、「いや違う。似ているだけだ」と言う者もいた。本人は、「わたしがそうなのです」と言った。
9:10 そこで人々が、「では、お前の目はどのようにして開いたのか」と言うと、
9:11 彼は答えた。「イエスという方が、土をこねてわたしの目に塗り、『シロアムに行って洗いなさい』と言われました。そこで、行って洗ったら、見えるようになったのです。」
9:12 人々が「その人はどこにいるのか」と言うと、彼は「知りません」と言った。

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 今日の箇所は奇跡物語の一つとされています。奇跡というと、いとも簡単に病気を治したりするようなイメージがあるかもしれません。しかし、今日の箇所のイエスの行動はどうも様子が違います。「イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになった」と書かれています。
両目に土を塗るわけですが、目に塗っても土が落ちないようにするためには、粘り気のある土が必要です。そのためには相当な量の唾を土にたらさなければなりません。さらに、その唾と土を手で混ぜて泥にし、そしてようやくできたその泥を、ドロドロになった手で、必死になって、その目の見えない人の目に塗るわけです。このように具体的にイメージしてみますと、この奇跡物語は全然スマートではありません。泥だらけの、不恰好なものでした。

福音書の記者は、イエスの奇跡物語を、もっとスマートに描くこともできたはずです。例えば、「イエスが、その人の目に手をかざして祈ると、たちどころに目が見えるようになった。」このように描けばよかったわけです。それなのに、わざわざ地面に唾を吐いて泥を作ったと記しています。ここには、イエスの人々への関わりが、どのようなものであったかが表現されているように思います。イエスの関わり方とは、効率性や生産性、社会的な評価や成果とは無縁でした。イエスは、出会った人、一人一人と具体的に、必死に、全身全霊をかけて、他人からどう見られようとお構いなしに、関わっていきました。この「唾で泥を作って目に塗った」という様子は、そのことを象徴的に表現しているように感じます。

しかも、それを塗ったからといって、その場ですぐに目が見えるようになったわけではありませんでした。これも私たちがイメージする奇跡とはどうも様子が違います。イエスは、目に泥を塗った上で、今度は、「池に行って洗いなさい」と言いました。イエスが手を引いて連れていき、彼の目を洗ってあげてもよさそうです。しかし、イエスは、彼自身の力で行かせました。すると、彼は目が見えるようになって戻ってきました。
イエスの必死な振る舞いに応答して、今度はその人自身が自らの足で池に行き、自らの手で泥を洗い流したわけです。聖書に出てくる奇跡の実現のプロセスには、この見えない人自身に力が与えられ、エンパワーされることに大事なポイントがあるようです。

彼が池から帰ってくると、近所の人々や、物乞いをしていた姿の彼を知っている人たちが集まってきました。すると、口々に「彼は物乞いをしていた人なのか」「違うだろう」「似ているだけだ」と言いました。すると本人は、「わたしがそうなのです」と彼らに言ったのでした。
これまで、彼は、通りの傍らでひっそりと物乞いをし、見向きもされませんでした。当時の社会では、こうした人々は物乞いをするくらいしか生きる道はありませんでした。そして、街の人たちは、そんな彼の存在には気にも止めず、関わりを持とうともしませんでした。彼自身もまた、このような境遇に陥っているのは、自分の罪の結果だと受け止めてしまっていました。

しかし、イエスによって癒された彼は、堂々と道の真ん中を歩いて帰ってくるのでした。その彼の姿に、人々は混乱しました。彼は一体誰なのだろうかと。
彼は、そんな人々に向けて、「わたしがそうなのです」と言いました。彼のこのセリフは、次のような意味を持ちました。すなわち、「私は、みなさんがこれまで気にもとめず、関わりを持とうとしなかった者、そしてまた、それが罪の結果だと自ら思い込み、自ら社会の片隅でひっそりと暮らしていたあの人物です。あの人物こそ、今、ここに皆さんの前に立っている私なのです。」彼はこのように宣言するのでした。
この時、彼と街の人たちとの関係は大きく変わったのでした。目の見えない人自身が自らの尊厳を回復していくこと、人々との関係が変わっていくこと、それこそがこの奇跡物語のハイライトでありましょう。

このように考えていきますと、こうした物語は、私たちの現代においても、そして、私たちの身の回りにおいても、起きているのではないかと思います。
イエスの時代、社会から取り残され、一人寂しく物乞いをしていたあの彼のように、この現代においても、そうした境遇にある人たちは少なくありません。そしてまた、時に私たち自身も、社会の中で、孤独に追いやられているように思うこともあると思います。
そんなとき、イエスは、必死になって私たちのために泥まみれになって私たちにかかわってくださるのであり、そして、私たちが自分の足で歩けるように促してくださっています。

そのことを覚えながら、私たちも、この世界の中で、差別や偏見、孤独に追いやられている人々、そしてまた、保育の現場で出会う子どもたちに、具体的に愛をもって仕えることによって、そんな奇跡に出会うことを、求めてまいりたいと思います。                (チャプレン 相原太郎)

 


花壇のオーナメント

【ルカによる福音書 4章16~21節】
4:16 イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。
4:17 預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった。
4:18 「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、/主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、/捕らわれている人に解放を、/目の見えない人に視力の回復を告げ、/圧迫されている人を自由にし、
4:19 主の恵みの年を告げるためである。」
4:20 イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。
4:21 そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。

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 今日の箇所は、ナザレという村で大工として暮らしていたイエスが活動を開始する場面です。イエスは、開始に際して、自分のミッションがどんなものかについて、聖書を引用して宣言します。それはすなわち、捕われている人が解放され、目の見えない人の視力が回復し、圧迫されている人が自由になるということ、そして、そのように書かれた聖書の言葉が、今日、実現する、ということです。この「今日、実現した」という発言は何を意味するのでしょうか。

イエスが引用した聖書の箇所はイザヤ書でした。イエスが属していたユダヤの民は、かつて国を滅ぼされ、諸外国に支配され、人々に自由はありませんでした。そんな中でイザヤ書は、救い主が私たちを解放してくれるのだという希望を語ります。イエスの時代も、このイザヤ書のメッセージが何度も読まれたことでありましょう。人々は、いつの日か救い主が来て自分たちをローマ帝国の圧政から解放してくれるという希望を抱いていました。

ところがイエスは、「この言葉は、今日、実現した」と言い出したのでした。人々はこの発言に驚きます。イエスは、イザヤが夢見た解放が今日こそ実現するのだと言うのです。聞いていた人たちは、夢でしかなかったユダヤの解放を誰がどのようにして実現するのだろうか、もしかしたらイエス自身が救い主となって成し遂げようとしているのかと、あれこれ思い巡らしたことでありましょう。

当時の人々は救い主の到来を待ち望んでいましたが、その頃の一般的な救い主のイメージとはダビデ王の再来でした。ダビデ王とは、かつてイスラエル王国が最も繁栄していた頃に、優れた政治的リーダーシップを発揮した国王です。そして、このダビデ王こそ、イエスの時代においての救い主のイメージでした。ローマ帝国の圧政で苦しむユダヤの人々にとって、ローマ帝国の支配から脱して再びイスラエル王国を築く、その先頭に立つ者こそが救い主でありました。

したがって、今日実現したとイエスが宣言した時、人々はイエスがダビデ王の再来として、政治的軍事的リーダーシップを力強く発揮し、ローマ帝国の支配を打ち倒し、イスラエルの解放を成し遂げると期待したかもしれません。

ところが、その後、実際にイエスがしたこととは、そのような王として君臨しようとすることはありませんでした。イエスのしたことは、王のいる首都エルサレムではなく、ガリラヤという辺境の地で、ひたすら貧しい人々、病の中にある人々、差別された人々に向き合い、一緒に食事を囲む、ということでした。そのようにして、イエスと出会った人々は、人間としての尊厳を取り戻していくのでありました。これこそが、イエスのミッションそのものでした。

この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたときに、実現した。

ここで語られる「今日」とは、当時の今日だけでなく、この福音書を現代において聞いている私たちにとっての今日という意味も含まれます。現代において、私たちの身の回りにおいて、私たち自身において、今日、聖書の言葉が実現するのだということです。2000年前、イエスが人々と共に分かち合った福音の出来事は、現代に生きる私たちの間でも起きている、ということです。

イエスは、人々のさまざまな困難、痛みの現場に共におられ、自ら痛み、傷つく者となりました。そのようにして、神自らが仕える者として共に苦悩しておられるということを、身をもって証されました。

現代においても、さまざまな形で、多くの人たちが貧しくされ、あるいは囚われ、あるいは圧迫されています。そしてまた、私たち自身もさまざまな形で困難や苦悩を抱えています。神は、そのような私たちの痛みの場に共にいてくださいます。そのようにして神が支えてくださる時、そしてまた、私たち自身が人々の痛みに愛をもって仕える時、聖書の言葉は実現されるのだ、ということを覚えたいと思います。
(チャプレン 相原太郎)


メランポジューム(右端の列)

 

【マルコによる福音書 第7章1~8節、及び18~23節】
7:1 ファリサイ派の人々と数人の律法学者たちが、エルサレムから来て、イエスのもとに集まった。
7:2 そして、イエスの弟子たちの中に汚れた手、つまり洗わない手で食事をする者がいるのを見た。
7:3 ――ファリサイ派の人々をはじめユダヤ人は皆、昔の人の言い伝えを固く守って、念入りに手を洗ってからでないと食事をせず、
7:4 また、市場から帰ったときには、身を清めてからでないと食事をしない。そのほか、杯、鉢、銅の器や寝台を洗うことなど、昔から受け継いで固く守っていることがたくさんある。――
7:5 そこで、ファリサイ派の人々と律法学者たちが尋ねた。「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか。」
7:6  イエスは言われた。「イザヤは、あなたたちのような偽善者のことを見事に預言したものだ。彼はこう書いている。『この民は口先ではわたしを敬うが、/その心はわたしから遠く離れている。
7:7 人間の戒めを教えとしておしえ、/むなしくわたしをあがめている。』
7:8 あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている。」

7:18 イエスは言われた。「あなたがたも、そんなに物分かりが悪いのか。すべて外から人の体に入るものは、人を汚すことができないことが分からないのか。
7:19 それは人の心の中に入るのではなく、腹の中に入り、そして外に出される。こうして、すべての食べ物は清められる。」
7:20 更に、次のように言われた。「人から出て来るものこそ、人を汚す。
7:21 中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである。みだらな行い、盗み、殺意、
7:22 姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、
7:23 これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである。」

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【ルカによる福音書 6章20~23節】
6:20 さて、イエスは目を上げ弟子たちを見て言われた。「貧しい人々は、幸いである、/神の国はあなたがたのものである。 
6:21 今飢えている人々は、幸いである、/あなたがたは満たされる。今泣いている人々は、幸いである、/あなたがたは笑うようになる。 
6:22 人々に憎まれるとき、また、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いである。 
6:23 その日には、喜び踊りなさい。天には大きな報いがある。この人々の先祖も、預言者たちに同じことをしたのである。 

✝ ✝ ✝

 富んでいる人、満腹な人、笑っている人が幸せ、というのが世界の常識でありましょう。でも、イエスは、ここで、それとまったく逆のことを言っています。
イエスが、「貧しい人々は、幸いである」と、語った場所は、ガリラヤ湖の近くです。この地域は、死海周辺と同様に世界で最も標高が低い場所の一つで、海抜マイナス200メートルに位置しています。
イエスは、社会的にもそして地理的にも最も低いこの場所に降りていき、貧しい民衆たちを、そしてこの社会を、この世界を、見上げながら語りかけました。イエスは、上から目線で、上から教えを述べたのではなく、低いところから叫ぶように、こう言ったのでありました。「貧しい人々は、幸いである。」
聖書の中で貧しい人とは、文字通り、食べる物や寝る場所など基本的な衣食住に事欠く人たちです。あるいは、病気の人たちや外国人など、当時の社会から排除された人たちも、貧しい人たちということができます。人々から無視され、軽んじられている人たちが貧しい人たちでありました。

そのような人たちがイエスのもとに集まっていました。イエスは、そんな彼らに対して、貧しく小さくされてしまった皆さんこそ幸いなのだ、と語りました。
彼らは貧しいゆえに、なんの拠り所もありませんでした。頼りになるお金はもちろんのこと、社会的な地位も名誉も、何もありませんでした。そんな彼らは当時の社会から、そして宗教から、罪人というレッテルを貼られ、神からも見放された人々と考えられていました。

しかし、イエスは言います。そうではないのだと。皆さんは、社会から見放されてしまっているかもしれない、しかし、神は、そうした皆さんのところにこそ、共におられるのだと、断言するのでした。
イエスは、貧しい田舎の肉体労働者の息子として生まれ、持たざる者として成長しました。そして、そこから自分だけが助かろう、逃げようなどとはせず、貧しい者、社会から見放された者、罪人とされた人たちと共に生き、あなたがたは罪人などではないのだと、人々を慰め、癒す活動をしました。そしてそのために十字架で処刑されました。
そのようなイエスであるからこそ、神は貧しい者とともにおられる、ということを心底理解し、そのことを確信していたのでありました。
あなた方、貧しい者こそ幸いだ、あなた方にこそ神はともにおられるのだ、というイエスの発言は、自分がどうなろうとも、私はいつもあなたがたと一緒にいる、という決定的な愛による覚悟と決意の表れでもありました。
イエスは、抽象的に、幸福について解説したのではありません。目の前にいる人たち、日々の生活に苦しむ人たち、社会で困難な中にあり、決死の思いでイエスのもとに集まってきた人たち、その一人一人を目の前にして、あなたこそ幸いなのだ、神は決してあなたを見捨てることはないのだと語り、人生をかけて、そのことを生き方として示したのでありました。

イエスが自らの身を挺して発したこのメッセージは、私たちにも向けられています。
今、不安の中にある人、悲しみの中にある人、辛い思いをしている人に、イエスは言います。あなたがたは幸いだ、神の国はあなたがたのものだ、と。イエスは、その生涯を通して、人々の悲しみ、痛み、苦しみを自ら経験されました。そして、自ら悲しむ者、痛み苦しむ者としてのイエスが、今、神は必ずあなたとともにおられると、語ってくださいます。

大学生活の中で、またそれぞれの生活において、そしてまたコロナ禍という中で、さまざまな不安、疎外感、孤独に苛まれることがあると思います。イエスは、そうした、一人一人の具体的な苦しみの中に、自ら低くなって、身をしずめ、身を挺して、ともにおられ、幸いだ、神はあなたとともにおられるのだ、とメッセージを発しておられることを覚えて、歩んでいくことができればと思います。   (チャプレン 相原太郎)


ポーチュラカ

 

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