【コロサイの信徒への手紙 第3章12節‐14節】
あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。
互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。
これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです。
今年度の年間聖句は、「愛は、すべてを完成させるきずな」です。
絆とは、どんな関係でしょうか。例えば、この人との関係は自分の将来に役立ちそう、だから大事にしておこう、みたいなことを考えることがあるとします。あるいは逆に、この人との関係は自分にメリットがなさそう、自分の立場にマイナスになりそう、だからこの際、自分に都合のいい人に取り替えてしまおうと考えるとします。これだと、その相手との関係は、あくまでも自分の利益、自分自身のためにあります。これでは、その関係は、「絆」とは、言えません。
「絆」とは、こういう考え方とは正反対です。たとえ自分にとって都合の悪いことがあったり、あるいは、自分の中の何かを変えざるをえなくなったとしても、その相手を機械の部品のようにではなく、取り替えることのできない人として、関わりを持つこと、言い換えれば、自分の生活を、自分の立場を、自分自身を賭けて、その人と関わること、それが、「絆」、ということだと思います。
そしてこのように、人間一人一人を、取り替えの効かない人、かけがえのない人として、自らの存在を賭けて関わること。こうした「絆」の関係こそ、キリスト教が大切にしている、愛ということでありましょう。
保育とは、子どもたちの命を守り、養うのが、その仕事の根底にあります。そしてそれは、何よりもまず自分自身をかけて関わるということが、その基礎にあるように思います。こんな話をすると、いやいやそんな、自分を賭けて関わるなんて、とても私にはできませんと思われるかもしれません。あるいはどこか遠くの、特別な話のように聞こえるかもしれません。
しかしそうではありません。自分自身を賭けて関わるとは、何よりもまず、目の前にいる具体的な一人一人の子ども、一人一人異なった名前を持ち、異なったパーソナリティを持つ子どもを、かけがえのないもの、取り替えの効かないものと理解して接する、ということです。
保育の現場では、この子がいるとちょっと面倒だなあと思ってしまうことがあるかもしれません。しかしそこで、その相手を切り捨てることなく関わりを持ち続けること、また、その相手をロボットのように自分の言いなりにさせるのではなく、自分と異なる一人の他者として向き合っていくこと、こうしたことこそ、自分自身を賭けて関わるということであり、それが、「絆」ということになっていくと思います。
親子の関係を考えてみると分かりやすいかもしれません。我が子を取り替えてしまおうと考える親は、まずいないと思います。そして、我が子のために自分の生活を賭ける、その賭けるというのは、瞬間的、一時的なものではなく、いわば生涯にわたるものになるわけですが、自分の生活を、自分の立場を、自分自身を賭けて関わるということは、そんなに遠くの話ではないと思います。
このような「絆」の関係を大切にしたいと思いますが、そこでぜひ覚えたいことがあります。それは、聖書が語っている神の姿です。聖書が語る神の姿は、まず神こそが、その全存在を賭けて私たちに関わっているということ、いわば、究極の「絆」の関係にある、ということです。主イエスは、自分の立場、自分の命がどうなろうとも、この世の誰からも見向きもされない人の味方になり、徹底して一人一人を大切にされました。そのように、神は世界のあらゆる人を、そして、ここにいる一人一人を、機械のパーツのように取り替えることなく、かけがえのない人として大切にされているということです。
そのような神からの愛を受けている私たちであるからこそ、私たちもまた、その存在を賭けて出会う人、一人一人を大切にする、愛する、そのような絆を求めていきたいと思います。 (チャプレン 相原太郎)
1号館南のサクラ