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カテゴリー:大学礼拝 の記事一覧

【フィリピの信徒への手紙3:8
3:8 そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。

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【マタイによる福音書5:13-16】
5:13 「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。
5:14 あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。
5:15 また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。
5:16 そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」

                     ✝ ✝ ✝

今日の箇所は、山上の説教とか、山上の垂訓と呼ばれている箇所の一部で、イエスが教えを述べた、大変有名な箇所です。

地の塩。塩は、私たちの食生活、そして、私たちの生命維持にとって必要不可欠なものです。かといって、塩を単独で食べることはありません。なにか他のものに、混ぜ合わされ、なじませることによってこそ塩です。

イエスは「あなたがたは地の塩である」と語ります。私たちが地の塩として生きるとは、何を意味するのでしょう。

それは、私たちが、他者、隣人の間にあって、他者に仕えること、隣人を愛すること、大事にすることによって、その人々の人生が、無味乾燥なものから、豊かなものになること、本来その人が持つ個性が引き出されること、一人ひとりの固有の人生が大切にされることを意味します。

当時、このイエスの教えを聞いていた人たちは、たとえば社会で大きな責任を担っている人とか、学校で勉強したエリートとか、そういう人たちではありませんでした。もし、イエスの教えを聞いた人たちが、たとえばエリートだったとしたら、地の塩として生きるとは、社会のリーダーとして人々を導く、というふうにも理解されたかもしれません。

ところが、今日の話はだいぶ趣が違います。イエスがこの話を誰にしていたかというと、社会のリーダーなどではなく、むしろ、その反対でした。貧しい人たち、病気の人たち、政治的宗教的に差別されていた人たちでありました。今日の箇所の直前で、イエスは、心の貧しい人、悲しむ人、義に飢え乾く人、迫害される人は、幸いだ、と述べています。そして、イエスは、そういった人たち、貧しい人たち、悲しむ人たちに対して「あなたたちこそが、地の塩だ」と述べるわけです。

しかも、とりわけ重要と思えるのは、あなたたちは、努力すれば塩になれる、努力して塩になりなさい、とか、将来、地の塩となって頑張るべきだ、というふうにはイエスは言っていないということです。そうではなく、あなたたちは、そのままで、すでに地の塩なのだ、と断言されている、ということです。

イエスは、今、悲しんでいる人、今、貧しい人、今、病気の人、孤独の中にいる人、そういうあなたこそが、そのままで地の塩なのだ、と言っているわけです。塩は、生活にとって必要であり、人間の命に必要不可欠なものです。そのように、あなたがた一人ひとりは、この地上、この世界にとって、必要不可欠な存在、取り替えが不可能な存在なのだ、ということです。

私たちは、今、この社会に生きる中で、様々な不安を抱えています。イエスのメッセージは、そういった不安を乗り越えて、不安を振り払って、地の塩になりなさい、ということではありません。立派な人物になって周りをリードしなさいということではありません。そうではなく、不安をかかえる、困難を抱える一人ひとりの存在そのものが、地の塩なのだ、大切なのだ、神から愛されている存在なのだ、ということです。様々な痛みや悲しみをいだいているあなたがたこそ、愛をもって仕える人なのだ、ということです。

イエスは、今、ここにいるお一人お一人に、「あなたがたは地の塩である」と語りかけておられることを覚えたいと思います。(チャプレン 相原 太郎)

 


ワイルドフラワー畑

【テトスへの手紙 3:14】
3:14 わたしたちの仲間も、実際に必要な物を賄うために、良い行いに励むことを学ばねばなりません。実を結ばない者とならないためです。

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【マルコによる福音書9:30−37】
9:30 一行はそこを去って、ガリラヤを通って行った。しかし、イエスは人に気づかれるのを好まれなかった。
9:31 それは弟子たちに、「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する」と言っておられたからである。
9:32 弟子たちはこの言葉が分からなかったが、怖くて尋ねられなかった。
9:33 一行はカファルナウムに来た。家に着いてから、イエスは弟子たちに、「途中で何を議論していたのか」とお尋ねになった。
9:34 彼らは黙っていた。途中でだれがいちばん偉いかと議論し合っていたからである。
9:35 イエスが座り、十二人を呼び寄せて言われた。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」
9:36 そして、一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われた。
9:37 「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」

✝ ✝ ✝

今、お読みしました聖書の記事は、この柳城はもちろんのこと、様々な教会付属の幼稚園や保育園などで大切にされていきた箇所の一つであると思います。

イエスが子どもを抱きかかえるシーン。とても微笑ましい光景でありましょう。

イエスの時代、子どもは、半人前として扱われ、その評価は低いものでした。そんな時代においてイエスは、大人たちが自分たちの中で誰が一番偉いのか、などと議論している、その真ん中に子どもを連れてきて、抱き上げます。そして言います。

「このような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。」子どもを受け入れることは、神を受け入れることなのだ、とイエスは語ります。

大人たち、社会の中で自分がいかに高いポジションにつけるか話す中、社会の隅に追いやられていた子どもを真ん中に招き、抱き上げて高める、そのような光景に、神の働きのダイナミズムを見ることができます。

さて、ここでイエスに抱き上げられている子どもについて、どのようなイメージを持たれますでしょうか。青い空の下、笑顔で、目を輝かせて、イエスを見つめる無邪気で元気な少年・少女、そんなイメージを持たれるかもしれません。

しかし、当時の社会について考えてみますと、ここで登場する子どもたちは、そのようなイメージとはかなり異なっているかもしれません。

イエスの時代、出生時の死亡率は30パーセントに及び、16歳になるまでには、子どもたちの実に60パーセントが亡くなっていたそうです。加えて、飢饉、戦争、社会の混乱の中で、真っ先にその被害を被っていたのは、子どもたちでした。両親が早く亡くなるケースも多く、親を失った戦争孤児も多くいたようです。したがって、実際の様子は次のようなことだったとも考えられます。

国境沿いの、人の多く行き交う町、ローマ軍の駐屯地でもあるカファルナウム。イエスの弟子たちは、そんなカファルナウムに向かう途中、自分たちの中で誰が一番偉いのかなどと論じあっていました。町に入ると、どこからともなく子どもたちが現れます。戦争で家を失い、ボロボロの服を着て、やせ細った体で、旅行中の弟子たちを食い入るように見つめます。毎日の食べ物に事欠く子どもたちは、旅人から何か貰えないかと、弟子たちに必死についていきます。しかし、弟子たちは議論に夢中で、子どもたちの存在に気づくこともありません。あるいは気づかないふりをしていたのかもしれません。

一行はカファルナウムの滞在先に到着します。子どもたちもついてきました。イエスは弟子たちに尋ねます。「途中で何を話していたのか。」弟子たちは黙っていました。するとイエスは、子どもを弟子たちの真ん中に呼び寄せて、抱き上げ、そして言います。「このような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。」弟子たちは、そこで初めて、子どもたちが一緒だったことに気づくのでした。

イエスが抱き上げた子どもとは、そんな厳しい状況の中にいる子どもたちの一人であったと考えるほうが自然なのかもしれません。

このように考えてみますと、私たちがこのシーンで連想する微笑ましい光景とは、ずいぶんと様相が異なります。イエスは、弟子たちも気づくことのない、最も小さな人たちの存在、そしてその痛みに気づき、手を差し伸べ、抱き上げ、そして、彼ら彼女たちこそが、堂々と、この世界の真ん中で生きていいのだ、生きるべきなのだ、と、宣言されるのでした。その時、初めて弟子たちも、自分たちの周りにいた子どもたちの存在、尊厳に気付かされるのでありました。

現代においても、私たちが気づかないところで痛みを負い、不安を抱えている人たちがいます。私たちもまた、その一人かもしれません。

今、この柳城を始めとする大学生も、かつてない事態の中で大きなストレスをかかえています。しかし大学生の苦労はなかなか周りの人に気づいてもらえません。そんな中でも、必死に学ぼうとしている彼ら彼女たちは、イエスの弟子たちに必死に食らいつこうしていた、あのカファルナウムの子どもたちと重なって見えてきます。

イエスは、そんな人たちの一人ひとりの手を取り、あなたは堂々と真ん中で生きていていいのだ、あなたを受け入れる者は、神を受け入れる者なのだ、と声をかけてくださっています。そしてその尊厳が大切にされるように、世界に働きかけておられます。(チャプレン 相原 太郎)


ドクダミ


【マタイによる福音書 18:21】
18:21 そのとき、ペトロがイエスのところに来て言った。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」

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【マタイによる福音書  23:8-12】
23:8 だが、あなたがたは『先生』と呼ばれてはならない。あなたがたの師は一人だけで、あとは皆兄弟なのだ。
23:9 また、地上の者を『父』と呼んではならない。あなたがたの父は天の父おひとりだけだ。
23:10 『教師』と呼ばれてもいけない。あなたがたの教師はキリスト一人だけである。
23:11 あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい。
23:12 だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。

✝ ✝ ✝

今お読みしました聖書には、私にとりましても、また、ここにいる先生方にとりましても、ちょっと困ったことが書かれています。

「あなたがたは『先生』と呼ばれてはならない」。「『教師』と呼ばれてもいけない。」

教会におきましても、聖職者を先生と呼ぶのが習慣になっています。イエス自身が「『先生』と呼ばれてはならない」と言うのにもかかわらずです。では、私たちは、これにしたがって、先生と呼ぶのをやめるべきなのでありましょうか。本当に、先生と呼ぶのをやめる、というのも一つの選択肢なのかもしれません。しかし、ここで言われていることは、単純に、そのように呼ぶのをやめればよい、という問題ではなさそうです。

今日の箇所は、イエスが十字架で処刑されるほんの数日前の会話です。イスラエルの中心地であるエルサレムに乗り込んだイエスは、当時の社会の価値規範を形作っていた宗教的政治的指導者たちと大激論となっていました。イエスは彼ら指導者たちを強く批判し、その結果、逮捕され処刑されることになります。したがいまして、今日の箇所は大変に緊迫した中でのイエスによる厳しい発言です。

イエスは言います。
あなたがた指導者たちは「広場で挨拶されたり、『先生』と呼ばれたりすることを好む」。

イエスは、ここで何を問題にしているのでしょう。それは端的に言って自己満足でありましょう。当時の指導者たち、そして現代の私たちもそうですが、人間は人からの評価に敏感にならざるをえません。人がどう見ているかが気になるのは仕方ないとして、問題は、自分を、なにかの権力や権威、名声を利用して、少しでも高いところ、高い位置に置こうとすることです。職場や学校、地域、仲間内での損得勘定を計算し、その中で高いポジションにつくことで、自尊心を保たせ、自分を安心させようとしてしまいます。そこでは、もはや他者への関心、たとえば困難の中にある人などへの関わりは二の次になってしまいます。

イエスは、そのような、仲間内での勝ち負けに終始して、自己中心的になり、自己満足のために生きてしまうこと、他者に関心を持たないことを、強く批判しているわけです。

「先生と呼ばれてはならない」とは、単に、へりくだった振る舞いをしましょう、ということではありません。もし、自分の地位を確保した上で、その地位を守るために、損得勘定を計算して、多少、謙遜に振る舞ってみせる、ということだとしたら、それ自体が問題なわけです。

イエスが、エルサレムで十字架にかかるまでの短い人生の中で、出会い、共に生き、癒やされた人たちは、そもそも、へりくだる余裕などない、社会のどん底に置かれた人たちでありました。だからこそ、イエスは、エルサレムにおいて「先生」と呼ばれることを好む指導者たちを批判せざるを得ませんでした。彼ら指導者たちは、自分たちの立場を守るために、社会の階層、上下関係を生み出す人たちであり、社会の底辺にいる人たちを見て見ぬ振りをしていた人たちであったからです。

「仕える者になりなさい。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」とイエスは言います。

私たちに求められていることは、なにか自分の力で、あるいは何かの力を利用して、自分の立場を高めようとすることではありません。それとはまったく逆で、自分の立場が揺らいだり低くなっていったりすることを恐れずに、どん底にある人々に仕えること、高くなるのではなく、下降していく生き方こそが求められています。イエスは、輝かしい神殿ではなく、むしろ、そうした苦しみや痛みの多い底辺において、今も生きて働いておられることを覚えたいと思います。(チャプレン 相原 太郎)


キンカン

【マタイによる福音書 18:21】
18:21 そのとき、ペトロがイエスのところに来て言った。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」

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【マタイによる福音書6:7-8】
6:7 また、あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。
6:8 彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。

✝ ✝ ✝

皆様の中には、大学入試の時などに、どこかの神社に行って「試験に合格しますように」とお祈りをしたり、合格祈願のお守りなどを買ったりした経験がある方も多いのでないかと思います。

苦しいときの神頼み、と言いいますが、お祈りというと、自分が願うこと、求めることが実現するようにと、祈るのが一般的だと思います。困難な状況に陥った時、「神様、助けて」と祈るのはごく自然な感情で、それ自体は大切なものだと思います。ただ、その祈りが、自分のためだけの祈り、自分勝手な祈りとなり、他の人を貶めることがないか注意が必要だと思います。とは言うものの、私たちはどうしても、自分のことを中心に考えてしまいます。自分勝手、自己中心から、私たちはなかなか逃れることができません。そう考えていきますと、どう祈っていいか分からなくなってしまいます。

イエスは、言います。「あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。」

「くどくどと祈る」とは、あれがほしい、これをしてほしいと、自分勝手に、自己中心的に、神に自分の希望を要求することを意味します。神は、自分の願いを何でも叶えてくれる安価な四次元ポケットではありません。神が、人間である自分の思った通りのことをしてくれるのであれば、それはもはや神ではなく、自分自身となってしまいます。

そこで私たちは、発想をひっくり返す必要があります。それは、神に自分の願望をお願いする、自分から神に願うことを考えるのではなく、神が求めていることを自分が行うことができるように願う、ということです。

考えてみれば、そもそも神は私たちを理解しています。何が必要かもわかっておられます。そしてそれは、自分が願っていることとは違うことかもしれません。したがって、私たちが祈ることとは、自分が神に依頼して神に動いてもらうことではなく、その逆で、私たちの狭い思いを超えて、自分が神によって動かされること、神の必要性に自分自身の身を委ね、投げ出せることを願う、ということです。つまり、祈るとは委ねることです。

では、具体的にどのように祈ったらよいのでしょうか。その一つの明確な答えこそ、私たちがいつも唱えている「主の祈り」です。

すなわち「みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように」です。私たちの思いが、自分の願いが、ではなく、神のみこころが私たちの間でおこなわれますようにと祈ることです。

みこころが地にも行われますように、みこころがこの柳城学院にも行われますように、みこころがここにいる私たち一人ひとりにも行われますように。今日もそのように願ってまいりましょう。(チャプレン 相原 太郎)


芝生の水やり

【コリントの信徒への手紙一3:18】
3:18 だれも自分を欺いてはなりません。もし、あなたがたのだれかが、自分はこの世で知恵のある者だと考えているなら、本当に知恵のある者となるために愚かな者になりなさい。

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後期が始まりました。残念ながら対面での授業ができない状態で後期を迎えることになってしまいました。まだまだ大変困難な時期が続きますが、この秋、全ての学生が実りある学びのときを送ることができますことをお祈りいたします。

私たちは、毎週、大学礼拝でこのように祈っています。

「共に知識を深め、主の真理を悟り、愛をもって互いに仕え、謙遜な心で唯一の神を仰ぐことができますように。」

私たちの学びとは、知識を深めて、真理を悟ることによって、愛をもって互いに仕える者となっていくことにあります。遠隔授業におきましても、そのような学びのときが、切れ目なく続けばと思います。

さて、先ほどお読みしました聖書には、ちょっと妙なことが書かれています。

「本当に知恵のある者となるために愚かな者になりなさい。この世の知恵は、神の前では愚かなものだからです。」

これは書いたのはキリスト教初期の大宣教者パウロです。

大学の先生方にとっては、あまり気持ちの良いフレーズではないかもしれません。この世の知恵は愚かだ、と断言するパウロは、私たちが日夜努力しているような大学での学び、知恵など、いらないと、否定しているのでしょうか。それは、真理にとって邪魔だ、ということでしょうか。もちろんそんなことはありません。

この言葉は、パウロによって書かれたコリントの信徒への手紙という文書にあるものです。

コリントとは、ギリシャの首都アテネから80キロほどの場所にある地方都市です。パウロも一時期そのコリントに滞在し、仕事をしながらイエスの教えを広めていました。ところが、パウロがコリントを去った後、彼らは、いくつものグループに分かれてしまいました。自分たちはパウロにつく、いやいや私たちはペトロだ、私はキリストだと、互いに自分の正当性、優位性を主張するようになりました。そして、自分の持つ知恵や経験を誇り、他者を見下すようになっていました。「自分こそ、知恵ある者だ」と。パウロは、そうしたこと自体が間違いなのだと、コリントの信徒への手紙で指摘しているわけです。

パウロが批判したのは、知識を得るということそれ自体ではありません。そうではなく、自分たちの知識や考え方、何らかの主義主張を絶対視する、ということです。それは、ひいては、神以外の何かを絶対視してしまうこと、神以外のものを神としてしまうことになりかねません。パウロが問題にしたのは、そういうことでありました。

このことは、キリスト教大学である私たちにとっても、大切な軸となるものを教えてくれています。すなわち、私たちは、神以外の何かを絶対視することを徹底して避けること、あらゆる定説や常識を相対化してみること、つまり神以外のものを神としないこと。これらが私たちにとって決してぶれてはいけない軸であると思うのです。

神以外のものを神としないのですから、それは一方で、この世界のあらゆる価値観、規範、常識、トレンド、ニーズなどから、私たちは自由になることができます。むしろ、私たちはそれらから自由になって真理を求め続けることが求められているわけです。

学校教育においては、どうしても、現在の経済社会が求める人材像に合うように、学生のスペックをカスタマイズしなければならない、という考えに押されてしまいがちなところがあります。しかし、学校はロボット工場ではないわけですから、そうした要請はいったんカッコに入れる必要があると思います。

私たちが目指している人材ということであれば、それは、真理を求め続け、愛をもって互いに仕える人、ということになります。愛をもって仕えること、それは必ずしもこの世の価値観と噛み合うとはかぎりません。イエスは、その過激なまでの深い愛のわざゆえに、当時の社会によって十字架で抹殺されてしまいました。そのように、真理を求め、愛をもって仕えようとすることによって、社会から愚か者という烙印を押されてしまうかもしれません。しかし、それでもなお、真理を探求すること、そして互いに愛することをあきらめないこと、それこそが私たちに求められていることでありましょう。

パウロは言いいます。「本当に知恵のある者となるために愚かな者になりなさい。この世の知恵は、神の前では愚かなものだからです。」

私たちは愚か者と言われることを恐れずに、真理を探求するものでありたいと思います。(チャプレン 相原 太郎)


6号館の花壇

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