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【ルカによる福音書15:11-32】
15:11 また、イエスは言われた。「ある人に息子が二人いた。
15:12 弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。
15:13 何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄遣いしてしまった。
15:14 何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた。
15:15 それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。
15:16 彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。
15:17 そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。
15:18 ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。
15:19 もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』
15:20 そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。
15:21 息子は言った。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』
15:22 しかし、父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。
15:23 それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。
15:24 この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた。
15:25 ところで、兄の方は畑にいたが、家の近くに来ると、音楽や踊りのざわめきが聞こえてきた。
15:26 そこで、僕の一人を呼んで、これはいったい何事かと尋ねた。
15:27 僕は言った。『弟さんが帰って来られました。無事な姿で迎えたというので、お父上が肥えた子牛を屠られたのです。』
15:28 兄は怒って家に入ろうとはせず、父親が出て来てなだめた。
15:29 しかし、兄は父親に言った。『このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。
15:30 ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる。』
15:31 すると、父親は言った。『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。
15:32 だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。』」

イエスさまが話された「放蕩息子のたとえ」から少し考えてみましょう。

①このたとえはどんな時に、誰に向かってお話になったものでしょうか。

徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスのもとに近寄って来た時、ファリサイ派の人々や律法学者たちが「イエスはこの人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言い始めた。彼らと共に食事をしたり、交わりを持つことは、不浄であり、神を汚すものであると考えていたファリサイ派の人々や律法学者たちへの答えとして、このたとえをお話になった。

②登場人物3人(父と2人の息子、弟と兄)について考えてみましょう。

放蕩息子のたとえと呼ばれているが、実はこのたとえの主人公は父であり、放蕩息子(弟)ではなく、兄でもないことを覚えておくことが大切です。兄と弟は対照的な人物として描かれているが、勿論、人間を2つのステレオタイプに分類できない。しかし、わたしたちが持っている特徴的な性格の2面をこの兄弟に見ることができる。

弟は物事に対して積極的、行動的、挑戦的であり、父から財産の分け前をもらい、一旗揚げようとして出かけたが、放蕩に身を持ち崩しすべてを使い果たしてしまう。どん底まで落ちて初めて自分の本性に気づき、父のもとに帰り一から出直そうと決断する。

一方、兄は堅実で真面目、与えられた仕事は忠実にこなすが、冒険的な生き方はしない、できない性格である。しかし、弟の生き方をどこかでうらやましく思うところがある。弟の帰宅を知り、心の中の不平不満が爆発する。今までの自分の生き方が報われず、自分と弟への父の対応は不公平極まりないと直訴する。この二人には共通点がある。二人には真の喜びがないことと父から離れていることである。

生きている喜び、生かされている喜びを二人共に感じていない、弟は父から距離的に遠く離れて生活してきたし、兄は父の近くに住んではいても、その心は父から遠く離れていた。父は弟と兄のすべてをありのままに受け入れる。決して叱らない、責めない、それぞれの心と体の痛みを優しく包みこみ、優しく諭す。決して父親の権威を振りかざさない。父の最大の特徴は喜びである。このたとえの中で二人の息子の父は神を表わしている。

③このたとえを通してイエスさまは何を伝えたかったのでしょうか。

死んでいたのに生き返り(再生)、いなくなっていたのに見つかる(再発見)ことが、父である神の最大の喜びであること、神にとっては罪人の再生と最発見こそ、何ものにも勝る喜びであり、それを祝うのは当然なのです。「神は悪人の死を喜ばない」(エゼキエル書33:11)、再生を喜ぶことを教えている。「子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。」すべての人の父である神は、神のもとに来る者は誰をも拒まず、喜んで迎え入れてくださる。一人でも多くの人が、どんな時にでも神が共にいてくださり、すべてのものを与えてくださっていることに気付くよう望んでおられる。( チャプレン大西 修)


クチナシ

【ルカによる福音書10:25-37】
10:25 すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」
10:26 イエスが、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と言われると、
10:27 彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」
10:28 イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」
10:29 しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」と言った。
10:30 イエスはお答えになった。「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。
10:31 ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。
10:32 同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。
10:33 ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、
10:34 近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。
10:35 そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』
10:36 さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」
10:37 律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」

ルカによる福音書15章25 節から37節は「善いサマリア人のたとえ」と呼ばれ、イエスさまのたとえ話の中で有名なものの一つです。

サマリア人とは紀元前721年、北のイスラエル王国がアッシリアによって侵略された時、外国人と結婚するようになった民族で、その当時、一般のユダヤ人はサマリア人を混血ゆえに軽蔑、差別し、付き合わず、旅行する時もサマリア人の住む土地を避けて行きました。このような民族間の憎悪、差別の感情を背景に、このたとえ話が成り立っています。

また、登場する律法学者はユダヤ教のパリサイ派という宗派に属し、モーセの律法に大変忠実かつ厳格でしたが、多くの場合、律法を形式的で欺瞞に満ちた守り方をしたため、イエスに彼らは偽善者と呼ばれました。

ある時、一人の律法学者がイエスに「何をしたら永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」と質問しました。何をしたら永遠に残る本当のしあわせをつかむことができるかという生きる上での本質に関わる質問を、イエスを試すためにしました。それによって自分の虚栄心、イエスへの敵愾心を満たそうとしました。イエスはその質問に対して直接答えず、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と逆に質問されました。律法学者は聖書の専門知識をいかんなく発揮し、「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。(申命記6:5) また、隣人を自分のように愛しなさい。(レビ記19:18)』」と答えました。これは、聖書の全内容を「神への愛と隣人への愛」という2点に要約した模範解答でした。それに対してイエスは「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば、命が得られる。」と言われました。この言葉は律法学者にとって、実に不愉快な、痛いところを突かれた言葉でした。なぜなら、彼にとって聖書の知識は誰にも引けを取らないほど豊かでしたが、聖書のみ言葉を知っていることと、聖書のみ言葉を実行することとは別のことであったからです。しかし、自分を正当化しようとして、では「わたしの隣人とはだれですか」と質問しました。そこには律法学者の自分を変えずに、相手だけを変えようとする自己中心的な思いがありました。

「善いサマリア人のたとえ」をこれに答えるものとして話されたのです。イエスは「わたしの隣人とはだれですか」との質問には答えず、「あなたはこの三人の中で、誰が追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」と問い返されています。

律法学者は「自分が愛すべき対象はだれか」をイエスに問い、愛すべき対象を自分の同胞であるユダヤ人に限定しました。愛する対象を自分の好む人に限定するならば、愛することは簡単なことです。

ところが、イエスの「誰が追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」との質問は、律法学者の質問「わたしの隣人とはだれですか」とは正反対のことを言っています。

あのユダヤ人から軽蔑され、敵対視されているサマリア人が、傷つき倒れているユダヤ人に近づき、自分の身の危険も顧みず、親切の限りを尽くしたのです。イエスの質問はわたしたちをちょうど追いはぎに襲われた人の立場に立たせます。わたしたちを愛する側ではなく、愛される側に、傷つき倒れている半死半生のユダヤ人の側において「だれがこの傷つき倒れ苦しんでいるあなたの隣人なのか」と尋ねられます。わたしたちは往々にして、自らを苦しむ者、悩む者の側に置くことを避け、同情者、あるいは一段高い立場に置いて、人に親切にし、愛の行動をし、それに満足して、いつの間にか本当の愛の姿から遠ざかってしまいがちです。自分自身を変えることなしに、人を本当に愛することはできません。そうでなければ、愛の押し売りによる自己満足だけが残ります。

イエスはこのたとえ話の中で、わたしたちを低く、倒れ、傷つき、苦しんでいる者の側に置いて問いかけています。「一体だれが、このように苦しみのうちにあるあなたに近づき、あなたを心から愛した人なのですか」と。わたしたちは自分自身が本当に苦しむ者の側に立つことなくしては、苦しむ者を愛することができません。愛とは苦しみを共に担うことです。愛とは決して観念的抽象的なものではなく、具体的な人間としての出会いを通して生まれてくるものなのです。

イエスの十字架に見られる愛の姿には、神への全幅の信頼と、真に自分を投げ捨て、自分を否定することによる隣人への愛が交差し合っています。イエスの十字架の苦しみと死は、わたしたちの苦しみ、悩み、重い罪を背負ってくださることであり、血の滴るような現実の苦しみがそこにあります。イエスは「行って、あなたも同じようにしなさい。」と、わたしたちを苦しみの真っただ中へと押し出していくお方でもあります。

わたしたちが目をそむけ、避けて通りたい誘惑にかられる時、あえてその現実の中へ「行って、あなたも同じようにしなさい。」と、呼びかけられるのです。あの善いサマリア人と同じように、苦しみ、悩みの中にある人の側に立ち、それを共に負いなさい。「あなたはそれを一人で負うのではありません。わたしもそこに一緒にいます。」そう呼びかけておられるお方の声をこのたとえ話から聴き取りましょう。(チャプレン 大西 修)


ベゴニア

【イザヤ書55:8-11】
55:8 わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり/わたしの道はあなたたちの道と異なると/主は言われる。
55:9 天が地を高く超えているように/わたしの道は、あなたたちの道を/わたしの思いは/あなたたちの思いを、高く超えている。
55:10 雨も雪も、ひとたび天から降れば/むなしく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ/種蒔く人には種を与え/食べる人には糧を与える。
55:11 そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も/むなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ/わたしが与えた使命を必ず果たす。

ギデオンの唯一の目的
「人々を主イエス・キリストの救いに導くこと」

今、拝読していただきましたイザヤ書55章8-11節のなかで特に11節のみ言葉である「そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も/むなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ/わたしが与えた使命を必ず果たす。」を信じ、わたしたちギデオンはその聖書のみ言葉を贈呈することによって私たちの唯一の目的であり、神様のご命令である「人々を主イエス・キリストの救いに導く」ことに専念しています。

さて、私たちが所属する国際ギデオン協会とはどのような組織でしょうか。現在ギデオンが活躍している国々は世界で200ヵ国です。世界で奉仕しているギデオン会員はギデオン・夫人合わせて271,000人です。世界での1年間の聖書贈呈数は91,000,000冊。ギヂオン協会が創設された1899年より累計でこれまでの聖書贈呈総数は2,103,570,000冊です。ギデオン聖書の言語は100ヵ国語に訳されて、それぞれの国々に読まれています。ちなみに百万冊贈呈に要する日数は3.9日(1分間に178冊)の計算になります。活躍している200ヵ国の国々の中で国際理事国は11ヵ国あり、その中に日本も含まれています。

私たち日本のギデオン協会の働きをご紹介いたしましょう。全国の支部数は170支部で、ギデオン会員数はギデオン1,217名、夫人604名の合計1,821名。1年間の贈呈数は昨年度540,000冊です。日本でギデオン活動が始まった1950年より累計でこれまで40,000,000冊を超える贈呈を行って来ました。聖書の贈呈先は中学校、高校、大学、専門学校、病院、クリニック、薬局、ホテル、刑務所、警察官、自衛隊、個人等。

ギデオン協会の始まりは1899年に3人のクリスチャンによってアメリカで創設されました。“ギデオン”は、旧約聖書の「士師記」の6章に登場する士師の名前からつけられました。この3人によってクリスチャンで旅行をする実業家たちが互いに交わり、証をし、相ともに主イエスのために労しようと決意が表明されたのです。今より119年前の話です。

日本にこの働きがおよんだのは1950年9月1日に東京支部が作られたのが始まりです。戦後の荒れ果てた世相を反映してか、読むべき本もない学生たちを見て憐み、当時のG.H.Qの幹部がアメリカ本土のギデオン本部に打電し、聖書が日本に運ばれてきたのです。そして日本で自立(我が国で聖書を印刷し、その聖書購入資金を我々が賄う)が成った2000年までアメリカの援助で贈呈が続けられたのでした。感謝です。

私たちギデオン協会の活動は
プロテスタントのクリスチャンビジネスマン・専門職業人(医者、学校の先生等)による、この目的のための協力と交わり。
個々のギデオン会員が個人的な証しと、伝道を行うこと.
新約聖書を、ホテル・旅館・病院に無料で備え付けること。
また新約聖書を、中学生・高校生・大学生・警察官・自衛官・看護師/療養所患者・受刑者・個人などに無料で贈呈すること。

これらの活動が皆様がたのお祈りに支えられて行われること、この働きに参加される新しい会員が増し加えられるよう、そして聖書購入資金(教会でギデオン会員が報告と証をしてお捧げいただく献金、海外のための聖書献金、ギデオンカードによる聖書献金、会員による聖書献金、召天記念・遺言などによる記念聖書献金)が与えられるよう、今後ともよろしくお願いいたします。(日本国際ギデオン協会 全国会長 高田 須磨雄)

【マタイによる福音書5:9】
「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。」

先日のチャプレンタイムの時、高校の修学旅行で沖縄に行った人がかなりいることを知りました。どうだった?と感想を聞くと、楽しいはずの修学旅行が戦跡巡りをした日の夜は、暗く重い気持ちになり、なかなか眠れなかったという返事が返ってきました。

「百聞は一見に如かず」のことわざ通り、沖縄戦から70年以上経過しているとはいえ、今なお各所に残る戦跡を訪れ、そこで戦争体験者の証言を聞くとき、想像を絶する悲惨な、むごくおぞましい現実を垣間見る思いがし、人を人として見ることすらできなくしてしまう戦争という恐ろしい人間の歴史の一端を知らされます。

「知らないことは罪である」という言葉があります。1+1=2を知らない、漢字を知らない、英語の単語を知らないといった類の知らないではなく、「わたしたちの生きている現実と深く関わっている歴史的な出来事とその出来事が持つ意味」を知らないことを指します。具体的に言えば、沖縄戦のこと、その持つ意味を知らないことは罪であると言えるのです。なぜなら、「本土防衛のため、本土の捨て石」となった沖縄に住む人々の大きな犠牲の上に、本土にいる今のわたしたちは生きているからです。1945年4~8月までの間に沖縄県民約60 万人の4分の1にあたる15万人が犠牲になりました。沖縄が本土に復帰したのが1972年、戦後27年たってからでした。そのころでもガマと呼ばれる自然の洞窟には遺骨がまだまだ残っていました。また、チビチリガマや嘉渡敷島での集団自決の事実を知りました。

語り部でもある石原絹子司祭(現在81 歳)は「沖縄戦を語り継ぐ」~地獄からの魂の叫び~ を書かれました。その中で、父母と3年生の兄、1年生の彼女と 3歳と1歳の妹の6人家族のうち、彼女一人を残して5人が皆次々に死んでいくすさまじい状況を読んだとき、言葉を失いました。しかし、生きていた祖母に迎えられ、悲しみにむせび泣く中で強く抱きしめられ言われた言葉、「戦争さえなければ、皆幸せに暮らせたのに。でも、どんなにつらくても家族のため、生きて平和のためにお手伝いできる人間になるのですよ」が、彼女のその後の生きる道を決めるきっかけになったのです。

平和を実現する人として彼女は、恒久平和を求める沖縄の心「命どぅ宝」(ぬち どぅ たから)~命こそ宝~を叫び続けておられます。「人間の尊厳を何よりも重視し、相手を尊び、お互いに支え合い活かし合い、戦争につながる一切の行為を否定し、平和を求める人間性の発露である沖縄の心」の大切さを訴えておられます。「平和は黙って向こうからやって来るものではない。どんな小さなことでも平和を実現するための努力を惜しまず、また戦争につながるようなことは、どんなに小さくてもその芽を早く摘み取りたいものである。多くの犠牲の上に成り立った平和憲法を守り抜き、二度と戦争をしない、平和を愛する国であることを国の内外に示すことが肝要かと思う」との言葉を心に深く刻みたいと思います。(チャプレン 主教 大西 修)


琉球新報 2018/6/23より

【ペテロの手紙第一 5:7】
あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。」(新改訳)

わたしは20歳のクリスマスに「自分中心ではなく、神さまを中心にする生き方をしていきたい」と願い、洗礼を受けました。今日は洗礼に至る道のりと、その後に「変化した/しなかったこと」に焦点をあてます。その歩みを振り返ると一本の道にみえますが、実際にはたくさんの分岐点で立ち止まり、その都度「どちらの道を行くのか/行かないのか」を選んできました。わたしが道を選ぶときに働いた「不思議な力」は、そっと背中を押してくれるような、迷い悩むわたしを支え、励ます、ささやかで優しい力でした。

キリスト教に興味を持ったのは、クリスチャンであった伯母の葬儀。当時、わたしは10歳でした。快活で朗らかで、みんなに愛された伯母は43歳で亡くなります。この「伯母の死」が、自覚している「神さまとの出会い」です。伯母は美しい讃美歌と真っ白な花に送られて旅立ちました。そのとき、わたしの葬式はキリスト教式で、みんなに讃美歌を歌ってほしいと思いました。さあ、死んだ後のことが決まったので、次は「どうしたらキリスト教の葬式をあげてもらえるか」、つまり「どう生きるのか」が課題です。

洗礼に直接つながる出会いは、大学のときのこと。わたしは国際基督教大学(ICU)で森本あんり先生(宗教学の先生で当時の大学教会・主任牧師)に出会います。洗礼準備会で「まだ聖書を全部読めていないし(読むと眠くなる)、仏教もいいなと思っている」と話し、キリスト教をもっと理解してからでないと洗礼を受けちゃいけないんじゃないかという悩みを伝えました。先生のお答えは、こんな感じだったかと思います。

1)「これまで」どう生きてきたかというより、「これから」どう生きていきたいかが大事
2)「全て理解してから洗礼を」と言っていたら、きっと、生きている間に洗礼は受けられない
3)理解してから信じるのではなく「信じてからわかることもある」
4)「祈り」は、自分の都合の良いお願いではない
5)「祈り」は集中であり、集中して祈ることは難しく、祈りに集中すれば自ずと道が見える
6)「祈ること」は「的を外さずに生きること」であり、「祈りはおこないである」
7)罪の本質は「自己中心」で、それは「自分を神さまのように扱うこと」

そして、先生は「あなたが神さまを選ぶのではない。神さまが既にあなたを選んだから、あなたは今ここにいるのではないか」と仰いました。あぁ、それならば、わたしなどには到底知る由もないご計画を信じ、いっさいを御手にゆだねようと思いました。こうして10歳で「死に方」が、20歳で「生き方」が決まります。

では「洗礼を受ける前と受けた後」で、わたしはどう変わったのでしょう。わたしの場合、受洗後は間違うことなく常に神さまを仰ぎながら生きてきた…はずもなく、相変わらず自分中心に物事を考え、何度も失敗し、何度も悲しみにくれています。鶏が鳴く前に、3回、イエスを知らないと言ったペテロは、まさにわたしでした。自分の無力を思い知ったとき、「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとへ来なさい。あなたがたを休ませてあげよう」(マタイ11:28)という聖句がうかび、「まことにこの人は神の子であった」(マタイ27:54)という言葉も響きます。

わたし「が」なんとかしよう、という「が」の強い自分を手放すのは難しく、「自分は欠けだらけの土の器だ、本当にそうだ」と今、ここで強く思っているのに、ふと気づくと、自分を中心に考え、例外をつくり、言い訳を繰り返しながら、自分の言動を正当化して振る舞う弱さを抱えています。わたしの弱さは、洗礼によってさっぱり洗い流されてしまうものではありませんが、クリスチャンとして生きることは、自分の力で自分を変えることすらできない自分に絶望することなく、その弱さに注がれる神さまの愛と、弱さも豊かに用いて下さる神さまの働きを喜ぶことなんだろうと思います。

「弱さこそが恵みであり、弱いからこそ、強い」。20歳のクリスマスに、わたしは今日の讃美歌の一節「寒い冬の中 春は目覚める」にあるような「逆転の発想」を会得し、「信じる人」になりました。これまでの悲しいことや辛いこと、これから経験する苦しみや痛みも、わたしは恵みとして両手で丁寧に受け取り、祈りの中で喜びにかえることができます。…一緒に信じる人になりませんか? (勝間田 明子 本学教員)

【コリントの信徒への手紙一 3:6-7】
3:6 わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。
3:7 ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です。

6月に入りそろそろ梅雨の時期を迎えようとしています。この時期、園では子どもたちが花壇や植木鉢、プランターなどにひまわりや朝顔の種を蒔いたり、きゅうりやトマトの苗を植えたりします。毎日お当番が喜び勇んで水をあげたり、時には肥料を施したりしながら、それらが花を咲かせ、実を結ばせる日を楽しみに待っている姿を見ていると、とても嬉しくなってきます。

けれども、連休明けに登園して来た子どもたちは、心配そうな顔をして草花や野菜の様子を見に行き、元気に成長しているのを見届けてひと安心します。そしておもむろに尋ねます。「先生、お休みの間、お水あげなかったのにどうして枯れなかったの?」と。

使徒言行録9章を読みますと、紀元30年代の中頃、熱心なユダヤ教徒であったサウロはキリストを信じる者を捕縛するためダマスコへ向かう途中、復活された主イエスに出会い、劇的な回心をし、熱心なキリストを信じる者となります。その後、パウロと呼ばれ、1世紀中頃、ギリシャ・ローマ世界へ伝道活動をして歩き、ギリシャのアテネ、コリントという当時の商業文化の盛んな都市に教会の基礎を築きました。コリントの教会ではパウロが去った後、信徒の中に妬みや争いが起こり、「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロにつく」などと言って、何人かの指導者の名を掲げた分派が生まれました。これに対してパウロはこの手紙を書きました。「アポロとは何者か。また、パウロとは何者か。この二人は、あなたがたを信仰に導くためにそれぞれ主がお与えになった分に応じて仕えた者です。わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です。」と。

パウロもアパロもコリントの教会の指導者として大切な役割を担ってきました。けれども、彼らはどこまでも神のために力を合わせた働く同労者であり、自分が最も優れているなどとは全く考えていませんでした。なぜなら、彼らにとって主イエスをこの世に遣わしてくださった神こそすべてであり、その神によって自分たちが生かされていると信じて疑わなかったからです。パウロはわたしやアポロを見てそこに留まるのではなく、わたしたちが示す神を、主イエスを見て歩むことが最も大切なことであると訴えました。

コリントの教会の出来事を通して教えられることは、わたしたちはいつも自分を中心に、自分を基準にして物事を考え、行動していないだろうかということです。少しでも学力や知能が他者より優れていると、皆から注目され、敬われていると思い込み、いつの間にか舞い上がって、自らを誇る言動に出てしまいがちです。わたしたちは自分の言動が高く評価されることを期待します。「わたしが植えたから成長したのよ」「うそ~、わたしが水をあげたからこそ成長したのよ」と、各々自分のしたことをPRします。自己PRは時として自己主張となり、さらには自己正当化へ、そして他者を否定する危険にもつながる要素を持っています。このことは保育の現場、学内においても言えることではないでしょうか。

「父母(保護者)が植え、保育者(教師)が水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。大切なのは父母(保護者)でも保育者(教師)でもなく、成長させてくださる神です。」と、言葉を置き換えてみてはどうでしょうか。わたしたちは目に見えない神さまの大きな力に見守られ、保育者(の卵)として現在生かされていることを自覚しつつ、常に謙遜さを身にまとうことを忘れないようにしたいものです。

「先生、お休みの間、お水あげなかったのに、どうして枯れなかったの?」と質問してきた子どもに、あなただったらどのように答えますか。(チャプレン大西 修)

ビオラとツマグロヒョウモン

今年度から、希望者に対して「誕生日の祈り」を礼拝直後に執り行うことになりました。

今日は6月生まれの5人の学生さんがこの恵みに預かりました。恥ずかしくて、なかなか前に出てこなかったというハプニングもありましたが、皆、チャプレンから頭に手を置いてもらい嬉しそうでしたよ。勇気を出した5人に拍手です(^o^)/

未信徒のカップルさんがキリスト教スタイルで結婚式を堂々と挙げる時代です。愛を誓う儀式をキリスト教式でやってもらえるだけでも、クリスチャンにとっては嬉しいことです。

同様に、誕生日のお祝いや自分自身を振り返る黙想をキリスト教式に行なうのも、何ら不思議ではない気がします。キリスト教は意外に懐が深いのです。(加藤)

【詩編19:2】
「天は神の栄光を物語り、大空は御手の業を示す。」

レイチェル・カーソン(アメリカの海洋生物学者、1907~1964年、56歳で死去)のわたしたちへの贈り物は、「センス・オブ・ワンダー」(彼女の遺作)です。1965年に出版され、最初に邦訳されたのは1991年、死後25年以上たってからでしたが評判を呼び、若い母親や幼稚園、保育園、小学校の先生たちにも注目され、50年以上たった現在も必読書として読み継がれている名著です。

「センス・オブ・ワンダー」とは、すべての子どもたちに備わっている天性で、自然界の美しいもの、未知で神秘的で不思議なものを、驚きの目をもって見つめる感性のことです。これはわたしたち大人がいつの間にか、身に着けてしまった知識や経験、常識や習慣などの既定の基準にとらわれない、物事の本質を見極める生命力の原点とも言えます。

子どもたちが生まれながらに持っている素晴らしい感性の力を、いつも新鮮に保ち続けるためには「わたしたちが住んでいる世界のよろこび、感激、神秘などを子どもといっしょに再発見し、感動を分かち合ってくれる大人が、少なくともひとり、そばにいる必要があります。」と彼女は言っています。

残念なことに、わたしたちの周囲を見回すとき、日に日に自然環境が破壊され、環境汚染が進んでいます。自然界のありのままの姿が人間の誇る科学の力によって破壊され、修復できない状況にまで至っています。レイチェルは「センス・オブ・ワンダー」を書いた数年前に「沈黙の春」を書きましたが、その中で、すでにこのことが起こることを予測し、警告を発したことにより注目されました。

子どもとともに大人がまず、自然をじっくり見つめることから始める必要があります。子どもが自然界に生きる大小の動植物に驚きの目を見張り、それに触れて歓声を上げ、喜びを全身で表現すること、また夜空に輝く月や星を見て神秘の世界に没入することなどを、大人のわたしたちもいっしょになって追体験することにより、これから新たに保育者として子どもとかかわりを持ち、触れ合っていく基本的な準備ができるのではないでしょうか。大人が保育者が、子どもに優しく寄り添うことは、子どもに安らぎと安心感と信頼感を与え、心豊かな成長を助け、出会う人々との優しい関わりを豊かなものにしていきます。

このように他の命に対する率直で優しい子どもの感性こそ、人と人、国と国の関わりだけでなく、自然界のあらゆる命の全地球的な調和のとれた平和を作り出す礎になりうるとレイチェルは信じていました。

個性豊かでいつもキラキラ輝いている感性を持った子どもたちと向き合う保育者、保護者の働きがいかに大切であるかを思わされます。自然の中に身を置いて、「天は神の栄光を物語り、大空は御手の業を示す。」(詩編19:2)のみ言葉を通して、「人間を超えた存在」を感じとることができれば、最高です。 (チャプレン 主教 大西 修)

ドクダミ

【マタイによる福音書6:7-13】
6:7 また、あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。
6:8 彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。
6:9 だから、こう祈りなさい。『天におられるわたしたちの父よ、/御名が崇められますように。
6:10 御国が来ますように。御心が行われますように、/天におけるように地の上にも。
6:11 わたしたちに必要な糧を今日与えてください。
6:12 わたしたちの負い目を赦してください、/わたしたちも自分に負い目のある人を/赦しましたように。
6:13 わたしたちを誘惑に遭わせず、/悪い者から救ってください。』

「主の祈り」はイエスさまが教えてくださった祈りで、一番基本的で大切な祈りです。マタイによる福音書6章9節―13節とルカによる福音書11章2節―4節に記されています。それはイエスさまの言われたこと、なさったことの要約でもあります。

「主の祈り」は1,900年前から今日まで、教会の礼拝の中で絶えず祈り続けられてきました。わたしたち柳城の水曜日の礼拝でもいつも用いられています。

有名な神学者マルティン・ルターはとても大切な「主の祈り」が非常に粗末に軽く扱われていることを憂い、「主の祈りこそ教会史上、最大の殉教者である」と言いました。

「主の祈り」の内容は(1)呼びかけ~呼びかける相手がはっきりしている。(2)神(あなた)についての祈り~前半の三つ(3)人間(わたしたち)についての祈り~後半の三つ から成り立っています。

(1)    祈りは神さまとの対話です。ですから、必ず対話の相手である神さまに、天におられるわたしたちの父よ、と呼びかけます。相手が分からなくては呼びかけられません。その相手(神さま)を本当に信じていなければ、祈りにはなりません。

(2)    そして、信じている神さまの偉大な力と素晴らしさをすべての人がほめたたえ、賛美し、あなたによる正義と平和と愛がこの地上にも実現しますようにと祈ります。

(3)    最後に、わたしたちについての祈りがあります。

日本人の多くは、神さまへの祈願(お願い)=祈りと考えています。祈願=祈りではなく、祈願は祈りの一部です。「主の祈り」の大切なところは「わたしの祈り」ではなく「わたしたちの祈り」であることです。全人類のための祈りと言ってもいいと思います。

当たり前のこととして毎日3度の食事をとっているわたしたちが、「わたしたちの日ごとの糧を今日もお与えください」と祈るのはなぜでしょうか。それは現在でも世界で1日に25,000人もの餓死する人がいるからにほかなりません。その人たちのことも覚えて祈るのです。

「わたしの罪」ではなく「わたしたちの罪をおゆるしてください。わたしたちも人をゆるします」と祈ります。わたしたちは神さまの思いをしばしば裏切りますが、わたしたちを愛しておられる神さまは、そんなわたしたちをゆるしてくださいます。ゆるされた喜びを知った人は、他者をゆるすことができる人へと変えられていきます。

誘惑とは、わたしたちを常に神さまの思いから引き離し、自己中心的な生き方へと引き寄せる力、「サタン」「悪魔」の働きのことです。現代のように物質的に豊かな社会では、物質的な欲望への刺激や、性的な誘惑などが巨大化しています。このような中でわたしたちは日々、自己中心的な決断をし、隣人を無視、黙殺し、苦しみ、悲しみ、悩む人々を冷たく切り離しています。そのように悪におちいりやすく弱いわたしたちを支え励ましてくださいと願い、祈ります。

「アーメン」は「そうです、そのとおりです、本当に」の意味です。 (チャプレン大西 修)

【ルカによる福音書 5:27-32】
5:27 その後、イエスは出て行って、レビという徴税人が収税所に座っているのを見て、「わたしに従いなさい」と言われた。
5:28 彼は何もかも捨てて立ち上がり、イエスに従った。
5:29 そして、自分の家でイエスのために盛大な宴会を催した。そこには徴税人やほかの人々が大勢いて、一緒に席に着いていた。
5:30 ファリサイ派の人々やその派の律法学者たちはつぶやいて、イエスの弟子たちに言った。「なぜ、あなたたちは、徴税人や罪人などと一緒に飲んだり食べたりするのか。」
5:31 イエスはお答えになった。「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。
5:32 わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。」

「スマホ廃人」(石川結貴著、文春新書)という本の中で「ママのスマホになりたい」(のぶみ作WAVE出版)という絵本が紹介されています。シンガポールの少年が書いた作文をもとにした絵本です。スマホばかり見ているママに自分を見てほしいと願う物語。自分がスマホになれば、ママに見てもらえる。だからママのスマホになりたいという切ない願いは、現代の日本の子どもたちは勿論のこと、小・中・高校生をはじめ、大人にも通じるものがあります。

SNSは現代のわたしたちにとってはなくてはならないものになりました。文明の利器としてとても便利で役立つことは事実です。スマホなどは、電車やバス、新幹線に乗ると大半の人が手にして操作しています。手にしていないと不安になるという一種のスマホ依存症になっているとも言えます。わたしも最近少しその傾向があるようです。

スマホの過度な使用は次のような多くのリスクがあると言われています。①睡眠時間不足 ②体力が落ちる ③学力低下 ④視力減退 ⑤脳機能へのダメージ ⑥コミュニケーション能力の低下。そして1日3時間使用する人は、何と1年365日のうち45 日間(1ケ月半)をスマホと過ごしていることになります。使用者の約3分の1がこれに当たります。

SNSはいろいろなニュースや情報を知ったり、連絡事項を一斉に伝達したり、音楽を聴いたり、ゲームを一人でしたりするために、大いに役立ちます。

けれども、このような状況の中で、わたしたちが一番気をつけなければならないことは、SNSでは人の心や気持ちや思いを十分に伝えることが困難だということです。機械を通して伝えることのできる事柄には限界があります。事務的な事柄であれば、十分伝えられるでしょう。心の内にある深い思いは、電子媒体では伝えられません。メールでどんな装飾文字や記号、そして絵を使って送信したとしても、それによって人の心の思いは十分に伝わらないでしょう。

もう少し進んだ方法として、ラインの動画と音声によって話せば、思いも以前よりは伝わるでしょうが、何といっても心の思いが確かに相手に伝わる最善の方法は、直接出会って、相手の表情を見ながら、対話することに勝るものはありません。

今日読んだルカによる福音書5章27節以下では、徴税人レビがイエスさまに声をかけられ、従って行った話が記されています。勿論、その時代SNSなどありませんでしたが、イエスさまはレビに直接出会い、彼の顔を見ながら愛をもって声をかけられました。レビはその声に応え、従って行き、勇気をもって新しい行動を起こしました。イエスさまの愛ある行動がいかに大切であったか、そして、レビには想像もしなかったような大きな喜びの人生が始まったことを教えています。

わたしたちは日々の生活の中でいつも出会う友人・知人に対して、SNSに頼らず、直接向き合い、声をかけ、心を込めて対話することの大切さを再認識しましょう。(チャプレン主教 大西 修)

ニーレンベルギア

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