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【マタイによる福音書 25:14-30】
「タラントン」のたとえ
25:14 「天の国はまた次のようにたとえられる。ある人が旅行に出かけるとき、僕たちを呼んで、自分の財産を預けた。
25:15 それぞれの力に応じて、一人には五タラントン、一人には二タラントン、もう一人には一タラントンを預けて旅に出かけた。早速、
25:16 五タラントン預かった者は出て行き、それで商売をして、ほかに五タラントンをもうけた。
25:17 同じように、二タラントン預かった者も、ほかに二タラントンをもうけた。
25:18 しかし、一タラントン預かった者は、出て行って穴を掘り、主人の金を隠しておいた。
25:19 さて、かなり日がたってから、僕たちの主人が帰って来て、彼らと清算を始めた。
25:20 まず、五タラントン預かった者が進み出て、ほかの五タラントンを差し出して言った。『御主人様、五タラントンお預けになりましたが、御覧ください。ほかに五タラントンもうけました。』
25:21 主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』
25:22 次に、二タラントン預かった者も進み出て言った。『御主人様、二タラントンお預けになりましたが、御覧ください。ほかに二タラントンもうけました。』
25:23 主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』
25:24 ところで、一タラントン預かった者も進み出て言った。『御主人様、あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方だと知っていましたので、
25:25 恐ろしくなり、出かけて行って、あなたのタラントンを地の中に隠しておきました。御覧ください。これがあなたのお金です。』
25:26 主人は答えた。『怠け者の悪い僕だ。わたしが蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集めることを知っていたのか。
25:27 それなら、わたしの金を銀行に入れておくべきであった。そうしておけば、帰って来たとき、利息付きで返してもらえたのに。
25:28 さあ、そのタラントンをこの男から取り上げて、十タラントン持っている者に与えよ。
25:29 だれでも持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。
25:30 この役に立たない僕を外の暗闇に追い出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。』」


「自分の賜物を用いて生きる」 <タラントンのたとえから>

タラントンはそもそも重さの単位から次第に貨幣の単位に代わっていきました。

そして今日ではTVタレントとかいうタレントの語源でもあり、才能や能力または才能豊かな人を表してもいます。

ある主人が三人の下僕達にそれぞれ5タラントン、2タラントン、1タラントンを預け、それを元手に商売をするように命じて旅に出掛けます。そして主人が帰宅しそれぞれに下僕たちを呼んで精算をしながら、儲けた下僕を褒めますが、1タラントン預けられた者は失敗を恐れて土の中に埋めておき、また掘り出して主人に報告しますが、主人にきつく叱られてしまいます。何故叱られたのでしょう・・・。

皆さんは疑問に思ったことはありませんか?

どうして世の中に美人と不美人がいるのか、みんな美人ならいいのに!

この問いには色々なことが含まれているように思います。全部の人が美人であれば、この世に美人という言葉すら無いでしょうし、美人とはどういう人のことなのか、幸福とは一体何かという問題につながるテーマでありましょう。この素朴な疑問は、なぜこの世の中に不公平や不平等が存在するのかということですが、しかしこれは、長い人間の歴史の中で常に問われ続けている大きな疑問でもあり、課題でもあります。人種や国籍の違い、性別の違い、生まれながら病弱な人もいれば頑健な人もいます。その他多くの違いの中で私たちは生きています。その違いが社会の中で力関係として働く時、そこに「差別」が生まれます。本人の責任以外のことで全てが規定されてしまいます。なぜ人生の出発点で、本人の意思とは関係なく、生存の諸条件が異なるのかという根源的な問いなのです。

私たちはついつい自分にもっと才能や能力があればもっと上手く出来るのにと愚痴を言ってしまいます。他人と比較し、足りない少ないと不平を言うだけで、何もしない口実にしてしまっていませんか? もしこの1タラントン預けられた者が商売に失敗していたら主人はどうしたでしょうか? はやりこの下僕を今度は打ち叩いたりしたでしょうか? この主人は彼に預けた物を使わなかった、埋もれされてしまうだけで用いなかったことを叱責したのではないでしょうか?

では皆さんは自分には何が預けられているのか、どんな能力や才能が預けられているのか、と思いますよね。考えても分からないかも知れませんね。かく言う私もまだ十分自覚しているとは言い切れませんから・・・。

ここでひとつの詩を紹介したいと思います。
事故で麻痺が生じたある青年医師の詩です。

「あたりまえ
こんなすばらしいことを、みんなはなぜよろこばないのでしょう
あたりまえであることを
お父さんがいる お母さんがいる
手が二本あって、足が二本ある 行きたいところへ自分で歩いてゆける
手をのばせばなんでもとれる 音がきこえて声がでる
こんなしあわせはあるでしょうか
しかし、だれもそれをよろこばない あたりまえだ、と笑ってすます
食事がたべられる 夜になるとちゃんと眠れ、そして又朝が来る
空気を旨いっぱいにすえる 笑える、泣ける 叫ぶことができる
走りまわれる みんなあたりまえのこと
こんなすばらしいことを、みんなは決してよろこばない
そのありがたさを知っているのは、それを失くした人たちだけ
なぜでしょう
あたりまえ」

皆さんが幼児教育にたずさわろうとされたその志をどうぞ全うされますよう心から願い、お祈りしています。

皆さんがその志を胸に、子どもたちをいっぱい好きになって、そして、子どもたちからいっぱい好かれる先生になってくださいますように。(一宮聖光教会司祭 中尾志朗)

礼拝後に、ゴスペルシンガーの江崎理子さんをお招きしてゴスペルを満喫しました!(^^♪
(前回の様子はこちらで)

シッカリと発声練習から始まったところが「さすが!プロ」という感じ。この時点から理子ワールド炸裂です。ぶれない発声と自由自在なピアノさばき・・・。素人の私にはその凄さは計り知れませんが、とにかく彼女は自然体。魂の開放であるゴスペルを体に染み込ませている雰囲気でした。

今回取り上げられた曲は、
This little light of mine(私の中の小さな光)
Down by the riverside(川岸に重荷を下ろして)
Make us one(私たちを1つにしてください)
We shall overcome(我ら打ち勝たん)

どれもがシンプルで歌いやすく、ゴスペルに親しむにはピッタリな曲でした。

演奏の合間に披露されるウンチクがまたすばらしくて、たとえば・・・

「読み書きができなかった黒人らは、実は頭がたいへん良くて、教会で聞いたシンプルなメッセージをキッチリ覚え、それに節をつけて、仲間が覚えやすいよう工夫して伝えた。」

ゴスペルの原風景が見えるようですね。

学生さんも随分リラックスしてノリノリだったみたいです。喜びの宗教であるキリスト教の一面を肌で感じたんじゃないかな?(^J^)

それを楽しく伝えてくださった理子さんに、心から拍手です。そして、この企画をプレゼントしてくださった同窓会(のぞみの会)にも、心から感謝です。(加藤)

新しい歌を主に向かってうたい/美しい調べと共に喜びの叫びをあげよ。(詩篇33:3)

【ヘブライ人への手紙6:10-12】
6:10 神は不義な方ではないので、あなたがたの働きや、あなたがたが聖なる者たちに以前も今も仕えることによって、神の名のために示したあの愛をお忘れになるようなことはありません。
6:11 わたしたちは、あなたがたおのおのが最後まで希望を持ち続けるために、同じ熱心さを示してもらいたいと思います。
6:12 あなたがたが怠け者とならず、信仰と忍耐とによって、約束されたものを受け継ぐ人たちを見倣う者となってほしいのです。

皆さんは、子どもたちの命と成長に携わるという大切で尊い夢と希望を抱いて、この名古屋柳城短期大学に入学し、今この時を過ごしています。その夢と希望の中で学びに取り組む皆さんの姿を傍らで見つめていると、皆さんひとり一人の為人(ひととなり)を感じることができるような気がし、皆さんの存在を身近に感じることができます。私個人はそのように(勝手に)皆さんを身近に感じていますが、皆さんにとって私は“最近、大学構内でよく見かけるけど、何者?!”的な存在だと思います。ですから、今日は、なぜ、私が司祭になったのかを自己紹介も兼ねて、お話ししたいと思います。私が幼児教育者を目指す皆さんの夢と希望を見つめて、皆さんのことを身近に感じるように、皆さんも、かつて皆さんと同年代であった頃の私の夢と希望を知り、私のことを少しでも身近に感じてくだされば幸いです。

私は代々からのクリスチャンの家に生まれました。高祖父は伝道師、曾祖父は司祭、大叔父も司祭という家で、両親も信仰厚く、私も“神様”という存在に対する祈りの中で成長しました。しかし、私自身が信仰厚く、その信仰から司祭になったという訳ではありません。

そこには、父に対するある思いがありました。父は私が小学生の頃から長年、病を患い、寝たきりの生活を20年以上送りました。私が幼少の頃の父は体格も大きく逞しく、片腕でいとも軽々、私を抱き上げてくれました。父の逞しい腕に抱えられ、父にしがみ付き、父の胸元で嗅いたタバコの微かな香りが、父が私にとって“全てのものから何があっても守ってくれる存在”の象徴でした。しかし、その数年後、父は病に臥し、長年の闘病生活で腕は骨と皮だけになり、父の胸元から香るのはタバコの香りではなく、消毒液にも似た薬品の匂いに変わりました。

それから十数年後、大学卒業を控え、夢も希望もなく、将来の展望もないまま学生生活をしていた私に、母はこう告げました。「あなた、司祭にならない?お父さん、あなたに司祭になってもらって、あなたに自分のお葬式をしてもらいたいみないなの」と。

“人生で最初の、そして最後の父親孝行”、“全てのものから何があっても守ってくれていた父への恩返し”…。いろいろな想い、複雑な想いの中で、純粋に“父のために自分が今、できること”を選び、大学卒業後、司祭になるために神学校へ進学しました。その間、必死に学び、懸命に祈り、焦りの中で父の寿命と競争し、6年かけて司祭になることができました。その時、父は…。

その時、父はまだ頑張って生きていてくれました。そして、私が司祭になって2か月後、亡くなりました。父の葬儀を司祭として執り行いながら、私は、父の寿命と私が司祭になる時間を合わせて下さった神の摂理に感謝し、神の存在を心の底から実感することができました。厚い信仰もなく、ただ父の葬儀を挙げるためだけに司祭になった私は、司祭となり、父の葬儀を挙げている最中(さなか)、初めて神を感じ、初めて真の祈りを捧げたのだと思います。そして、その瞬間、本当の司祭になったのだと。

今、私は神への恩返し、そして、私が司祭になることを後押ししてくださった教会・教区の全ての方々への恩返しをするために、そして、神が愛する人類全てのために、司祭として生きています。その恩返しをする方々の中に、もちろん柳城に通う皆さん全ても含まれています。

私は今、皆さんの夢と希望を支えるため、皆さんのために、ここにいます。これから、いつも、傍らで皆さんを支え、応援しています。(名古屋聖マタイ教会 司祭 下原太介)

【フィリピの信徒への手紙2:3-8】
2:3 何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、
2:4 めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。
2:5 互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。
2:6 キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、
2:7 かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、
2:8 へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。

夢ゼミを明日に控え、天気も回復し、楽しく有意義な2日間を過ごせるようにと願っています。

さて、今日は、へりくだり(謙り、遜り)従順について考えてみたいと思います。

へりくだるとは他者を敬って、自分が進んで低い位置に立つこと、従順とはおとなしく素直で、人に逆らわないことです。

へりくだり、従順には思いやりの心が根底にあります。他者への思いやりの深さは心の輝きとしてわたしたちの表情、態度、身のこなしに現れます。わたしたちは自分のことには最大限の注意を払いますが、他者のことについては驚くほど無関心であり、思いやりの心が欠落しています。独占欲が強く、他者の思いを汲むことが下手です。相田みつを(詩人)は「うばい合えば足らぬ、わけ合えばあまる」と言いました。この詩には、いつも他者を大切にする思いがあふれています。

河野 進 牧師(1990年逝去、86歳)は、こんな詩を書きました。

主は問われる
「何を望むか」 「謙遜を」
「つぎに何を」 「親切を」
「さらに何を」 「無名を」
「よかろう」
「用が済めば すぐ忘れられる ぞうきん
台所のすみに小さくなり、むくいを知らず、
夜も昼もよろこんで仕える ぞうきんになりたい。」

謙遜さ、へりくだり、親切さ、従順な心がわたしたちの中に育つようにしたいものです。

ともに過ごす全学ゼミはそのための素晴らしい訓練と養成の場です。

自己顕示欲の強いわたしたちが、自己本位に行動するのではなく、どのようにしたら、ほかの人たちに喜んでもらえるように行動できるかを、他者に視点を置くことを通して体験してみる良い機会だと思います。今まで気づかなかったお友だちの素晴らしいところ、長所、見習いたいところなどをぜひ探してみてください。そしてそれを思いやりの心をもって、素直に、親切に真心を込めてその人に伝えてあげてください。わたしは自分のためだけに生きているのではなく、他者のため、共に生きる喜びを分かち合うために生きているのです。そのことを忘れないようにしましょう。

イエスさまは、わたしたち一人ひとりを愛し通され、生かしてくださるために、ご自分の命さえ惜しまず、十字架の上にその命を投げ出されました。イエスさまの死は、欠点だらけで救いようのないわたしたちを救うための尊い犠牲の死でした。その死によって神さまの本当の愛を知り、生きることができる者とされたのです。 (チャプレン大西 修)

こぼれ種から咲いたノースポール

「見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び。」(詩編133:1)

新年度最初の大きな行事として、恒例の学外合同ゼミが4月19~20 日、西浦温泉にて開催されます。1、2年生が1泊2日を一緒に過ごし、寝食を共にし、楽しい交わりと語らいと学びの時を過ごせるのは、柳城短大だからこそできる素晴らしい恵みと喜びの機会です。「同じ釜のご飯を食べる」「裸の付き合いをする」といった言葉がありますが、このゼミはまさにそのことを実践する絶好の場です。

みんなが共に座るとは、顔と顔とをつき合わせ、目と目を見つめ合って、真剣に話し合い、ご飯やお菓子を食べたり、お茶やジュ―スを飲んだり、笑顔をもって、お互いの心を開放すること、開くことを意味しています。初めて出会う人、この1年間友人として関わってきた人、顔は知っていても話す機会のなかった人、様々な人たちとの出会いを通して、相手をもっと深く理解していく大切な2日間です。そのためには、まず私が勇気をもって、みんなの前で心を大きく開くことを心がけましょう。そのことによって相手もきっと心を開いてくれるでしょう。

この体験は、あなたがたのこれからの幼稚園、こども園、児童養護施設などでの実習の中で、保育者・介護者として、子どもたち、さらには先生や保護者の前に立つ時にも、きっと役立つ自己訓練になると思います。

そしてもう一つ大切なことは、あなたが出会う人との関わりの中で、その人の持っている良いところ、長所、素敵だなあと感じるところをできるだけたくさん探し出すことです。それをまねることです。わたしたちは相手の短所、良くないなあと思われるところを探すのが得意ですが、短所探しをやめて、長所を探し出すようにしましょう。そうすると、不思議なことに、いつの間にかあなたの心が優しくなり、美しくなっていきます。そしていつも笑顔になり、そのことによって相手の人からも笑顔が返ってきます。

「なんという恵み、なんという喜び」~振り返ったみたときに「本当に素晴らしい合同ゼミだったね」とみんなで分かち合うことができるような、そんな思い出に残る合同ゼミになることを願っています。(チャプレン 大西 修)

3年目に入ったペチュニア

「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」(ヨハネによる福音書13:34)

柳城の建学の精神は「愛によって互いに仕えなさい」ガラテヤの信徒への手紙5章13節)という聖パウロの言葉からとられています。皆さんはこれからも何回もこの聖句を聞くことでしょう。この聖句の背景には、今年度の年間聖句であるイエスさまが言われた「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」(ヨハネによる福音書13:34)があります。

これはイエスさまが十字架の死を目前にして、弟子たちに言われた遺言です。

キリスト教は愛の宗教であると言われます。それは、イエス・キリストが2000年前、この世のご生涯の中で、神の愛を目に見える形で、はっきりお示しになったからです。「わたしがあなたがたを愛したように」とは、「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(ヨハネ15:13)と言われたイエスさまが、そのお言葉どおりの生き方を十字架の上で実現されたことです。その生き方をしっかり見つめていく時、わたしたちが日々出会う人々に対して、どう関わっていけばよいかが見えてきます。

さて、皆さんの多くは入学式で初めての経験をされたことと思います。柳城では入学式、卒業式、創立記念日などの式典は、すべてキリスト教の礼拝の形が進められていきます。初めて歌う聖歌(賛美歌)、聖書のみ言葉を聞くこと、声を出して祈ることなど、とても珍しかったと思います。今日皆さんがいるチャペル(短大の付属礼拝堂)は名古屋聖マタイ教会の聖堂でもあり、神聖な祈りの場所ですから、礼拝の時は私語を慎み、心静かに、自らを省みる時としても過ごしましょう。

チャペルの正面には「十字架」が掲げられています。十字架はキリスト教のシンボルです。イエスさまがおかかりになった十字架を表しています。キリスト者は十字架を拝みません。十字架は神の愛を示すシンボルなのです。ですから、それを仰ぎ見ながら、神さまを愛する信仰を深めていくのです。

礼拝では「ろうそく」がともされます。ろうそくの火はこの世を照らす神の光と、「わたしは世の光である」と言われたイエスさまを黙想させるものです。

ところで、礼拝の中で皆が声を揃えて「アーメン」と唱えます。「アーメン」とは、ヘブライ語で「本当にそうです、そのとおりです、真実に」といった意味を持つ言葉です。

ですから、例えば「世界が平和になりますように」とか「〇〇さんの病気が早く治りますように」と祈った後、みんなで声を揃えて、はっきりと「アーメン」と唱えることは、思いと祈りを一つにすることなのです。「異議なし,賛成!そのとおりです」といった祈りの言葉ですから、ぜひ心を込めて唱えましょう。

「平和のあいさつ」が礼拝の中ほどで交わされます。神によって愛されているわたしたちが、お互いに愛し合っていくことを笑顔で握手することによって表現します。

礼拝についは、聖書、聖歌、主の祈り、そのほか大切な事柄がありますが、これから少しずつお話していきたいと思います。

新年度を迎えた今、新入生、在学生ともどもに希望をもって、イエスさまが示してくださった愛の実現(人を赦し、受け入れること)を目指して、豊かな学び舎での日々を送りましょう。(チャプレン主教大西 修)

校内に咲くハナニラ


 

 

 

 

 

2018年度 年間標語:「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」(ヨハネによる福音書13章34節)

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柳城の建学の精神は「愛によって互いに仕えなさい」ガラテヤの信徒への手紙5章13節)という聖書のみ言葉にあります。皆さんは入学以来何回もこのみ言葉を聞いてきたことでしょう。このみ言葉の背景には、今年度の年間標語であるイエスさまが言われた「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」(ヨハネによる福音書13章34節)があります。

この言葉はイエスさまが十字架の死を目前にして、弟子たちに言われた遺言です。

キリスト教の教会では来週1週間(25日の日曜日から31日まで)を受難週と呼び、1年の中で最も厳粛で大切な日々を守ります。イエスさまがエルサレムの都に入られ、弟子たちと木曜日に最後の晩餐(夕食)をされ、その夜、ユダの裏切りによって捕らえられ、その翌日の金曜日には裁判で死刑の判決を受け、自分がはりつけになる十字架を背負って、ゴルゴダの丘へと歩まれました。そして午後3時頃、十字架の上で息を引き取られました。

けれども、父である神さまは3日目(日曜日)の朝早く、イエスさまを復活させられました。これが復活日(イースター)の出来事です。イエスさまの復活の出来事からキリスト教が生まれたのです。

キリスト教は愛の宗教であると言われます。それは、イエス・キリストが2000年前、この世のご生涯の中で、神の愛を目に見える形で、はっきりお示しになったからです。何の罪もないお方が罪ある人の身代わりになって、その罪を背負って死んでくださり、罪を滅ぼしてくださいました。これが十字架の出来事です。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(ヨハネ15:13)と言われたイエスさまは、そのお言葉どおりの生き方を十字架の上で実現されました。イエスさまの死は、罪を滅ぼす神さまの愛、罪ある人をお赦しになる神さまの愛そのものであり、イエスさまの復活(よみがえり)は神さまの愛の勝利であり、死が終わりではなく、希望をもって新しく生きる命の出発点となりました。

わたしたちはとてもイエスさまのようには生きられませんが、その生き方をしっかり見つめる時、わたしたちが日々出会う人々に対して、どのような関わり方をしていけばよいかがわかってきます。本当に愛していこうとすれば、そこには痛みや苦しみを伴う多くの赦しが必要となってきます。痛みや苦しみを伴う赦しを通して、愛することの本当の意味、素晴らしさがわかってきます。また愛されていることの中には、愛してくれる人の、目に見えない痛みや苦しみを伴った赦しがあることに気づかされます。

2年生の新学期を迎える今、同学年の友人たち、そしてまた入学してくる新入生とともに希望をもって、イエスさまが示してくださった愛の実現(人を赦し、受け入れること)を目指して、豊かな学び舎での日々を送ってください。(チャプレン主教大西 修)

「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む」
(ローマの信徒への手紙5:3~4)

皆さんご卒業おめでとうございます。今日は柳城生としての最後の大学礼拝になります。はなむけに上記の聖書のみ言葉を贈ります。

イエスさまを世界に宣べ伝えたパウロは、1世紀のローマの教会へ上記の言葉を送りました。苦難、忍耐、練達といった言葉は、何か無理をして頑張らなければならない、精神修行のような大変厳しい印象を与えます。あまり好きな言葉でないと感じる人もいるかもしれません。でも苦しみが最後には希望を生むのです。素晴らしいとは思いませんか。わたしたちは皆、神さまに愛されているので、苦しみを耐え忍ぶことができます。なぜなら、愛してくださる方のことを思うと、苦しみを積極的に受け入れることができるようになるからです。皆さんも愛する人のためなら、その人の喜ぶ顔を想像するだけで、きっと苦しいことも耐え忍ぶことができるようになると思います。

そして耐え忍ぶことを通して、人として熟練した域に達します。するとそこに希望が生まれてきます。自分の力で耐え忍び、練達の域に達するのではなく、わたしを愛してくださっている神さまの愛の力、支えによって希望が生まれるのです。

深い雪の下の地中で凍死しているようにみえるチューリップの球根は、雪解けとともに芽を出し、やがてきれいな花を咲かせます。冬の間、枯れたように見える固い桜のつぼみも、寒さを通して春を迎え、満開の花びらをつけます。同志社の創立者 新島襄は「真理は寒梅に似たり、あえて風雪を侵して開く」という詩を作りました。苦難、忍耐、練達は、約束されている希望、素晴らしい実りをもたらすための一里塚です。

皆さんは柳城での2年間の大学生活で、勉学、実習で苦しかったこと、人間関係、お友達との関係で忍耐したことも幾度かあったことでしょう。でもそのことが、今後のあなたがたの歩みの中で、きっと豊かに花開き、身を結ぶものになると信じます。

これからの歩みの中で心に留めておいてほしいことを書きます。

・他人と比較しないこと。あなたにはあなただけの良さがあることに気づくこと。
・目先のことに惑わされず、長い目で見ること、長期的な展望を持つこと。
・生活の質を大切にすること。量より質。大きいことは良いことかどうか?
・結果ではなくプロセスを大事にすること。「結果良ければすべて良し」の考えはダメ。
・どんな境遇にあっても、それを受け入れる心を持つこと。「幸いな時も、災いの時も、富かな時も、貧しい時も、健康な時も、病気の時も 」

皆さんのこれからの日々の上に、神様の豊かな見守りがありますように! 主の平和。(チャプレン主教大西修)

「受けるよりは与える方が幸いである。」(使徒言行録20:35)

イエス・キリストの言葉として、パウロがエフェソの教会を去る時、伝えた言葉です。イエスさまを模範とする生き方がこの言葉に示されています。

人が人として生きていく上で、受けること(もらうこと)と与えること(あげること)はだれもが体験するとても重要なことです。この体験なしには人は生きていけません。

イエスさまは与えることがどんなに人を生かし、人に喜びを与えるものであるかを、弟子たちと寝食を共にする中で、お教えになりました

しかし、正直なところ、わたしたちは「与えるより受ける方が幸いである」と思っています。だって、あげるよりも、もらう方が得だし、嬉しいし、いいに決まっているからです。それに反して、イエスさまは人が人として生きていく上で、受けるよりは与える方が、本来的な生き方であると言われ、ご自分の命を与えること(十字架におかかりになり死ぬこと)を通して、与えることがどのような意味を持つのかをお示しになりました。

イエスさまはわたしたちに想像できないほどの、大きく、広く、深い愛をお与えくださいました。それが十字架の上で愛する全人類のために死なれたことだったのです。

肉体的にも精神的にも未成熟な乳幼児の時、老齢期を迎え、気力や体力が衰え、援助が必要となる時、また肉体的、精神的なハンディキャップを負って生きる時、さらに経済的に苦しく困難な日々を過ごしている時などは、ある意味で受けることが多く、与えることが少ないと言えるでしょう。

乳幼児はお乳を飲ませてもらい、ご飯を食べさせてもらい、おむつを交換してもらい、お風呂に入れてもらい、抱っこしてもらい、遊んでもらい、寝かせてもらいます。母親、父親からあふれるばかりの愛を注がれて育った乳幼児は、受ける喜びを心身で体得します。

その受けた喜びは、与えることを喜びとする人に成長していく力となります。外見的には弱く、力なく、受けることが多いと思われている人々(乳幼児、お年寄り、ご病人、ハンディキャップを負っている人々など)から、実に多くの目に見えるもの、見えないものを受けていることを忘れてはなりません。

神さまは知らないうちに、どのような人にも与える力をお与えになっています。

4月には2年生へと進級するわたしたちです。喜んで与える人へと成長できるように祈り求めていきましょう。(チャプレン 主教 大西修)

 

【コリントの信徒への手紙一  6:19 】
知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。

「キリスト教の信仰を持つ人には聖霊が宿るのだから、自分の体を神殿だと思って大切にしなさい」と本日の聖書は語っています。今日は、聖霊が宿るその心についてお話をします。

この1年間の学びをまとめる時期に入っていますね。高校までは、どちらかというと進学のための勉強でしたが、柳城では、現場で発揮できる実践的な学びが中心です。授業、実習、礼拝などを通して心が広がったかどうかを今日は考えて欲しいと思います。

心が広いとは、たとえば、色々なタイプの子どもに向かって臨機応変に対応できるか、ということです。心に余裕があると言ってもいいでしょう。全員の子どもに対して一律に教え込もうとしても無理ですよね。でも、心が広いと一人ひとりの状況に対応できるようになります。

自分の心がどうなっているかを客観的に検証する機会はそんなにはないですが、広い心を持つことが皆さんの将来には一番必要ではないでしょうか。

本学の建学の精神である「愛をもって仕えなさい」という心の在り様は、身に付けることがさらに難しいです。でも、その時々のチャレンジが皆さんの成長につながります。どうか励んでみてください。

以上で、私から皆さんへの最後の言葉とします。(名古屋聖マタイ教会 司祭 田中 誠)

プリムラ

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