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カテゴリー:大学礼拝 の記事一覧

【マタイによる福音書16:24-25】
16:24 それから、弟子たちに言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。
16:25 自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。

皆さんの目の前にあるステージには大きな十字架がありますね。隣のマタイ教会にも、屋根や礼拝堂に十字架が掲げられています。お隣の韓国ソウルに行くと、日本の寺院よりも多くの教会があって、あちこちに十字架を目にします。それ程クリスチャン人口が多いということなのです。

さて、十字架とは何でしょう。たぶん皆さんが想像する十字架とは意味が違っていると思います。礼拝では十字架に向かって手を合わせますが、でも、十字架は拝むものではありません。神ではないからです。実は、十字架はシンボルなのです。クリスチャンはこのシンボルを見ると、イエス・キリストが十字架ではりつけになったことを思い出します。イエスはエルサレムにあるゴルゴタ、すなわち「されこうべの場所」という意味を持つ丘で処刑されました。イエスは生前「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない(ヨハネ15:13)」と語っていましたので、私たちクリスチャンはこの十字架の歴史的事実を「罪のない神の子イエスが他の人に代わって死んでくれた」と理解しています。

皆さんは愛する人のために死ねますか?「おまえを最後まで守る」と言いながら、いざとなると皆さんを盾にして逃げてしまう。皆さんの彼氏はそんな人ではありませんか? でも、イエスは命をかけて愛する人を救ってくれました。「神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い(マタイ27:40)」と罵倒されながら、無残な死を受け入れたのです。

私のような職にある者は、たいていは胸に十字架をつけています。それは「友のために自分を捨てる覚悟とイエスに従う決意」を示すためです。皆さんも十字架のネックレスやペンダントを持っていますね。もちろん格好良くするためでしょうが、今までの話から分かるように、十字架は見るに忍びない処刑の道具ですから、本来は格好いいものではありません。アクセサリーになるはずはないのです。しかしイエスが十字架を愛に輝くものとしてくれたので、私たちは今、十字架を身につけることができるのです。

十字架の縦の線は「自分自身」で、横の線は「切る」を意味すると解釈されることがあります。これはつまり「自分を切る」すなわち「自分を殺して相手を活かす」ことを表します。この十字架の意味がイエスの弟子に受け継がれました。その一人にペトロという人がいます。彼もイエス同様に十字架刑にあって死にました。これを殉教といいますが、彼は「イエスと同じでは畏れ多い」ということで、十字架を逆さまにして処刑を受けました。もう一人、アンデレという人も同様な理由でバツ印のような形の十字架で処刑されました。これをアンデレクロスと言いますが、大阪の桃山学院大学の校章や清里にある清泉寮の玄関で見ることができます。また、カトリックの教会では十字架にイエスの像が張り付いているものが見られます。私たち聖公会では、イエスは復活してしまったことを強調するので、十字架にはイエス像がついていません。これを「栄光の十字架」といいます。

十字架のお話を色々しましたが、皆さんがこの十字架の意味を心に留めて柳城の生活を送れば、きっとそのうち、自信を持って十字架のネックレスを身につけられるでしょう。その時皆さんは、十字架の意味を知らない人とは全く違う人生を歩むことになります。(チャプレン大西 修 主教)

中庭の花壇

【ヨハネによる福音書13:14-15】
13:14ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。
13:15 わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。

多くの2年生にとっては初対面ですね。チャプレンの大西といいます。

今週はキリスト教にとっては大切な一週間となっています。次の日曜日がイースターだからです。あるコマーシャルが「○○で始めよう、イースターパーティー!」とにぎやかに歌っていましたね。このイースター、復活日とか復活祭とも言いますが、クリスマスと並んでキリスト教の二大お祭りです。今年の暦で言うと、イエスは4/13に最後の晩餐を弟子たちと持ち、4/14に十字架上で処刑され、そして日曜日の4/16に復活するという流れです。

皆さんは最後の晩餐はご存じでしょう。レオナルド・ダ・ヴィンチの絵画で有名ですが、この日にイエスはお弟子さんの足を洗ったと聖書には記されています。当時、他人の足を洗うのは奴隷や召使いの仕事でした。その役をイエスが買って出たわけですから、弟子たちはビックリして、その一人が「わたしの足など、決して洗わないでください」と断ろうとします。しかしイエスは「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と答えました。そしてさらに「主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである」と命じるのです。つまり、奴隷の立場の仕事であっても喜んでやりなさいということです。それは「互いに愛し合いなさい」というメッセージでもありました。

皆さんにはやりたくない事が一杯あると思います。でも、それを行うことで喜んでくれる人がたくさんいるかもしれません。嫌な事でもやってみる。これも「愛をもって仕える」一つの姿だと思うのです。(チャプレン大西 修 主教)

・本日は体育館での合同礼拝の後、学外合同ゼミナールの説明会(学生生活委員会主催)が行われました。今年は4/20-21、芦原温泉での開催です。柳城短大名物のこのイベント。今回も様々なドラマが生まれることでしょう。成功をお祈りします。

 

【ガラテヤの信徒への手紙5:13-15】
5:13兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。
5:14 律法全体は、「隣人を自分のように愛しなさい」という一句によって全うされるからです。
5:15 だが、互いにかみ合い、共食いしているのなら、互いに滅ぼされないように注意しなさい。

大西と言います。今年から本学のチャプレンとして務めさせていただきます。

さて、本学の建学の精神は「愛をもって仕えなさい」でしたね。これは今日の聖書にもありました。イエス・キリストの偉大な弟子であるパウロという人が、西暦55年頃と考えられていますが、今のトルコに住むキリスト教の信者に向けて書いた手紙に載せた言葉です。他にもパウロは「自由とはイエス・キリストを信じること」、「イエス・キリストは私たちを自由にした」と説いているのですが、今日は、この自由とか愛について考えてみます。

一般に、自由には「自分だけ」というイメージが付きまとうものですが、本当は人との関係性の中で感じるものです。たとえば、すばらしいお城があって、あらゆる食べ物とすばらしい衣装などが整っていたとしましょう。ここでは何の不自由もなく暮らすことはできますが、たった一人きりだとしたらどうでしょう。いくら裕福でも、毎日楽しいでしょうか。違いますね。それでは、奴隷みたいな使用人と一緒なら楽しいかというと、それも違います。やっぱり、自分を愛し理解してくれる人が一緒にいてくれる時に、はじめて豊かな自由を感じるはずです。自由とは、本来は協調とか調和の中で自分らしく生活する時に成り立つものなのです。先程紹介したパウロは、イエス・キリストを見習うことが自分らしく生きる秘訣だと説いたのです。

次にについてです。由美かおる主演の映画「同棲時代 今日子と次郎」に使われた主題歌の冒頭に「愛はいつも いくつかの過ちに 満たされている」というセリフがあります。この愛は、もちろんエロスの意味での愛のことですが、世の中に氾濫している愛のほとんどはこの種の愛で、人間の感情によって様々に変化する気ままで身勝手なものです。「惜みなく愛は奪う」とは、有島武郎が書いた評論集の題名ですが、人間の愛は、普通は、相手のものを奪い取る方向にエスカレートします。「お前を愛しているのに、何もしてくれない」と相手に不満を漏らす愛です。

でも、聖書が語る愛は、神が私たちに与えてくださる本物の愛です。その愛は惜しみなく相手に与える愛で、いつも他人が中心になります。それで、時には自分が損したり犠牲になることもあります。それでも愛なのです。

この本物の愛を実践した方がイエス・キリストで、彼は私たちを愛するがために十字架にかけられ見るも無残に死んでいきました。しかし彼はよみがえって、その愛が正しかったことを証明したのです。

「愛をもって仕える」の愛は、このような深い意味での愛です。私たちの生活を根本から変えることができる愛です。このような愛を成し遂げた歴史上の人物は大勢います。本学に籍を置く私たちも、そのような愛が実践できるよう祈り求めていきましょう。(チャプレン大西 修 主教)

【ガラテヤの信徒への手紙5:13-15】
5:13兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。
5:14 律法全体は、「隣人を自分のように愛しなさい」という一句によって全うされるからです。
5:15 だが、互いにかみ合い、共食いしているのなら、互いに滅ぼされないように注意しなさい。

ご入学おめでとうございます。

本学の水曜日には、今日のように礼拝という時間があります。入学式も礼拝の形式でしたね。ほとんどの人にとっては初めての経験だったでしょう。ひょっとすると「この大学で大丈夫?」と思った人もいるかもしれません。礼拝とは黙想とか瞑想と同じで、心を集中させることです。手を合わせていると自然に心が穏やかになり集中できるようになります。そうすることで自分自身を見つめられるようになります。

さて、本学の基になっているのは「愛によって仕えなさい」でした。建学の精神ですね。ホームページにも載っていますので一度読んでみてください。柳城がキリスト教の学校であることが、今、現実として皆さんには分かったと思います。キリスト教といっても実は色々な種類があり、大きくはカトリックとプロテスタントに区分されます。日本にキリスト教が入ってきたのは1549年の、あのフランシスコ・ザビエルでしたね。彼のキリスト教はカトリックでした。では柳城のキリスト教はというと、元はカトリックだったのが、そこから独立してイギリスを中心に全世界に広まったもので、名前を聖公会といいます。イギリスのエリザベス女王もその聖公会の信者さんですよ。本学院創設者のマーガレット・ヤングも、もちろん聖公会の信者さんで、彼女がスタートさせた本学院は、来年で120周年を迎えます。本学のキリスト教は、皆さんをクリスチャンにするためのものではなくて、その精神を学んで、それを人生や仕事の礎にするためのものです。

そのキリスト教精神一つに「神様のみが絶対者」だというものがあります。ですので、たとえば「私は最善の方法でやります」とか「絶対にお金を返します」とか言い人をよく見かけますが、キリスト教の立場で見ると、そんなに自分を信じ切っている人は余程の人物か嘘つきかのどちらかになります。神様からみれば人間などは不完全な小さな存在です。その小ささに気づくことが、すなわちキリスト教精神の第一歩で、これからの2年間、この精神を人との関わりを通して学んでいけたらと思っています。

最後に。礼拝では「アーメン」という言葉をよく使います。これは「その通りになってください」、「私もそう思います」、「私も同じです」などといった意味ですので、どうか、そういうつもりで唱えてください。

では、この1年、皆さんを退屈させないよう努力しますので、ずっと礼拝に参加してくれると嬉しいです。それをお祈りしながら、今日はこれで終わります。(チャプレン大西 修 主教 )

名古屋聖マタイ教会とサクラ

【コリントの信徒への手紙 一 2:23-26】
わたしたちは、体の中でほかよりも恰好が悪いと思われる部分を覆って、もっと恰好よくしようとし、見苦しい部分をもっと見栄えよくしようとします。
見栄えのよい部分には、そうする必要はありません。神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。
それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。
一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。

柳城短大の学年歴では、今日が新しい学期の始まりとなります。

すでに本学で1年間を経験している皆さんですので、今年は計画をしっかり立てて思い通りの学生生活を送れることでしょう。できる、できないは別として、計画は、立てることが大切です。

今年は実習と就職活動で忙しくなりますが、やり切る覚悟は持って下さい。それは、自立するための準備でもあるからです。ただし、悩んだ時は決して一人で抱え込まないことです。人間、内向きになると体の動きも悪くなります。気を楽に。誰もが同じように悩んでいるはずなので、あなただけが心配する必要はありません。

さて、今日の聖書では体のバランスについて語られています。誰でも、自分の体に好きな部分と嫌いな部分とがあって、それで全体が一つの体です。社会も同じで、構成員が互いに支え合うことで全体が機能します。1年後に社会に出ていく皆さんは、是非とも「愛をもって仕える」という本学の建学の精神を発揮して、互いに支え合ってみて下さい。

幼稚園で教育勅語を教え込ませるところがあるそうですが、これなどは「愛をもって仕える」精神とは対極にあるような気がします。相手がたとえ小さくても、大人の思い通りに一色に染めるのではなく、社会とは色々なタイプの人間でバランスを取り合うものであるという考え方を大切にしながら、保育に努めて欲しいと思います。

実は、私は本日で本学のチャプレンの勤めが最後となります。4月からは大西チャプレンが赴任されますので、これからは彼と共に歩んでいってください。私はこのマタイ教会の司祭としては残っていますので、また声をかけてください。

この1年、頑張ってください。(田中チャプレン)

【エフェソの信徒への手紙 5:15-17】
愚かな者としてではなく、賢い者として、細かく気を配って歩みなさい。
時をよく用いなさい。今は悪い時代なのです。
だから、無分別な者とならず、主の御心が何であるかを悟りなさい。

聖公会の暦では、今年は、3月1日から復活日(イースター)4月16日までを大斎節と定め、この期間、日曜日を除く40日間を、イエス・キリストが荒れ野で断食をしたことにちなんで、私たちも節約した生活を心がけながら自分自身を反省して、イースターの後に、少しでも自分の生き方が向上するよう努めるという、そんな習慣になっています。

【保育科1年生、保育専攻科1年生向け】

さて、今日の聖書に「今は悪い時代」とありました。確かに、今の日本で起こっている色々な事件の中には、責任のある人が平気で言い訳をする場合も多く見られますが、これでは日本全体の風紀が乱れて、世の中に「これくらいはいいだろう」といった無責任な空気が生まれるかもしれません。そんな悪い時代に仮になったとしても、私たちは「悪いことはしない」という決意を持ちたいものです。

大きな話になりましたが、私たちは日常的に自分を振り返ってみる必要があります。良いことも悪いこともあるでしょう。皆さんも柳城短大の1年間を振り返ってみてください。この24日には始業礼拝がもたれて新しい学期が始まります。それまでの短い間、十分に反省をして、良いスタートを切って下さい。

【保育科2年生、保育専攻科2年生、介護福祉専攻科向け】

反省するのは、何も個人だけの話ではなく、日本の社会そのものも反省を迫られています。国政では色々な問題が取り上げられていますが、責任のある人が、ウソがばれないよう必死になっている姿を見るたびに、これでは社会全体の倫理観が下がるのではと心配になります。今日の聖書にある通り、私たちは悪い時代であっても「賢い者として」歩みたいものです。

さて、皆さんはいよいよ卒業を迎えます。新しい世界に向かって希望と不安で一杯でしょうが、誰でも最初は同じなので、必要以上に気を使わないで、分からないことは素直に「分からない」と言うことが大切です。ここが実は大きな分かれ目で、「分からない」と言えずに内に閉じこもってしまう人がいます。素直に人に尋ねてみましょう。さらには、悩んでいるのは自分だけではないと自分に言い聞かせることです。こうすれば、新しい職場でも、きっとうまくいくことでしょう。

初出勤が始まるまでにしばらく自由な時間が持てます。仕事が始まると長期休暇が取り辛くなりますから、今の時間を有効に使い、体力も付けておくと良いでしょう。自分を見直すチャンスでもあります。

新しい社会でのご活躍を期待しています。(チャプレン)

プリムラとワイヤープランツ

【ローマの信徒への手紙 15:1-2】
わたしたち強い者は、強くない者の弱さを担うべきであり、自分の満足を求めるべきではありません。
おのおの善を行って隣人を喜ばせ、互いの向上に努めるべきです。

いよいよ学年末です。テストや実習を控えて多忙な日々を送っていることと思いますが、一つ一つを確実にこなしてから次のステップに進んでいって下さい。頭は一つ、手足は二本ずつです。つまり一度にできることには限りがあるということ。あれもこれもと考えだすと焦るだけです。

テストの点数は心配でしょうが、皆さんは良い保育者、良い介護者になるために努力してきたはずです。これらの分野は、自信とか経験がものをいう世界です。新年度が始まる前に70日もあるので、今までの経験を振り返ってみることをお勧めします。実習等で、相手との接し方や心の配り方を学んではいませんか。キャンパス生活やアルバイト先などで、新しい友人との交わりを通して今までにない体験をしてはいないでしょうか。自分が成長したどうかを見つめ直すことはとても大切です。社会に出るとその機会は少なくなっていきます。

テストだけではなしに、経験した内容で自分自身を測ってみてはどうでしょう。(チャプレン)

ヒナギク

【コロサイの信徒への手紙 3:15-16】

また、キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。いつも感謝していなさい。
キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、諭し合い、詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい。

明けましておめでとうございます。

新しい年が始まり、「気分も一新」という感じかと思います。教会でも、1/1を主イエス命名の日、1/6は顕現日、つまり3人の博士がイエスを訪れた日、そして1/8を主イエス洗礼の日というようにそれぞれ定めて、新しい一年をスタートさせています。

新年に何を期待するかはそれぞれで違うでしょうが、全世界的な視点でいえば、やはり、世界平和ということになるでしょう。難民問題等のニュースからは、他国民との共存の難しさが浮き彫りになっていますが、日本の社会ではどうでしょうか。

日本に住む外国人が200万人を超えています。地域による偏りが大きく、愛知県ではいえば、自動車工場がある地域に外国人の方が多いようです。介護福祉の仕事の担い手として、外国人の方に期待が寄せられてもいますが、そういった「役に立つ外国人」という視点よりも、地域の中で外国人と共存していけるかどうかに関心を寄せたいものです。日本の習慣に慣れない外国人を受け入れる気持ちを高めると共に、ヘイトスピーチ等で語られている情報がはたして正しいかどうかを自分自身で判断することも大切です。

いずれにしても、イエスが語った隣人愛、他人を自分のように愛する気持ちが、皆の心の中心にあってはじめて平和は実現するのだと思います。(チャプレン)


プリムラ

●次回礼拝予定:1/18(水)13:10  合同礼拝(体育館)

【コリントの信徒への手紙一3:6-7】

わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。
ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です。

本日の聖書個所から、人の成長について考えてみます。

実習先でも気づくことでしょうが、子どもの行動は年齢相応に変化するものです。幼稚園に入ったばかりの子は、親元を離れて生活するという初体験にとまどう毎日でしょうが、年中さんになると、園生活に慣れてきて、自分勝手な面が出始めます。でも、それが年長さんになると、お兄さんお姉さんと呼ばれ、小学校に向けての心の準備も重なって、緊張感を持って生活できるようになります。中学校でも同じで、入学したての頃は、教科別に教員が変わるという学習環境に新鮮味を感じますが、2年生にもなると、いわゆる反抗期を迎えて、心が不安定になることもあります。でも、それが3年生なると、先輩と呼ばれるようになり、高校受験を控えることから、だんだんと落ち着いてくるものです。

このように人は、ある程度の決まった段階を踏んで成長するものですが、ときどき、ある特定の段階を飛び越えてしまうことがあります。いわゆる「幼児返り」の原因もそこにあると言われています。

私が中高一貫校の教員をしていた時の話ですが、職員室によく遊びに来る女子生徒がいて、それがいつの間にか、ある女性教員の膝の上に毎日座りに来るようになったのです。これが職員会でも話題になったのですが、養護教諭の方が「これは子どもの時に、親の膝の上で遊んだ経験がなかったために起こる幼児返りで、そのうち、しなくなりますよ」とアドバイスしたために、その女性教員は安心したうえ、女子生徒も一ヶ月もしないうちに、その行動を止めたのです。

また、荒れた中学校の話ですが、廊下を自転車で走り回るような中学生が、ある時、三輪車を見つけて、それを大変楽しそうに乗り回していたということです。これも「幼児返り」の事例かもしれません。

いわゆる「お受験」などという環境で育つ子どもも多い今の時代、親に甘えて育つ時期を経験できなかった子もたくさんいるでしょう。豊かな幼児体験を経験させることが親の大切な務めです。保育の仕事を目指す多くの皆さんには、親と話し合えて指導もできるような人になって欲しいと思います。(チャプレン)

ポインセチア

●次回の礼拝:クリスマス礼拝 12/21(水)16:30- (体育館)

 

○本日は、通常礼拝の直後に、本学の附属柳城幼稚園の青組さん34名による特別賛美が披露されました。

1年に1回きりの恒例行事ですが、園児さんたちは一生懸命に練習を重ねてきてくれています。そのおかげで、チャペルは実に和やかで爽やかな雰囲気に包まれました。胸に十字架を付けた子どもたちを見るたびに、短大保育科としての社会的使命を感じずにはおられない、と書くと大げさかもしれませんが、イエス・キリストが「天の国はこのような者たちのものである。(マタイ19:14)」と語る通りです。小さくて何の力もない子どもたちですが、その将来は無限に広がっています。神の見守りの中、よい保育者に囲まれて大きく成長していって欲しいですね。(加藤)
【子どもたちの詳しい様子については、名古屋柳城短期大学附属柳城幼稚園のブログページでご覧ください】

○なお、教話の内容は以下の通りです。

【マタイによる福音書3:1-6】

そのころ、洗礼者ヨハネが現れて、ユダヤの荒れ野で宣べ伝え、
「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言った。
これは預言者イザヤによってこう言われている人である。「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、/その道筋をまっすぐにせよ。』」
ヨハネは、らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物としていた。
そこで、エルサレムとユダヤ全土から、また、ヨルダン川沿いの地方一帯から、人々がヨハネのもとに来て、
罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。

12月最初の礼拝です。キリスト教の暦では降臨節という期間に入っていて、教会はクリスマスの準備の真最中です。世間でもクリスマスに向けてお祭りムードですが、キリスト教の信徒は、イエス・キリストの誕生のお祝いに向けて心の準備をしています。どういった準備かというと、それは、今日の福音書の箇所から読み取れます。

洗礼者ヨハネは、荒れ野でらくだの毛衣を着て、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物としていました。つまり、町を離れ、貧しい姿で質素な生活をしていたということです。当時の人々は、このヨハネの姿に魅了されたということでしょうが、今の私たちにはとても真似はできません。それでも、日々の慌ただしい生活や色々な欲望から少し距離を置いて、自分自身を振り返り、何か特別なことに集中することで、心を研ぎ澄ますことはできるでしょう。仏教でいうところの座禅の境地といいましょうか、邪念から離れるといった感じです。

そもそも教会とは神と向き合って自分自身を振り返る場所です。クリスマスに向けて、皆さんが心を研ぎ澄ます、その助けとなるような教会でありたいと願います。(チャプレン)

●次回の大学礼拝 12/14(水)13:10~(体育館)
【学生生活員会による特別企画が礼拝後に用意されています】

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