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【マタイによる福音書22:35-40】
そのうちの一人、律法の専門家が、イエスを試そうとして尋ねた。
「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」
イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』
これが最も重要な第一の掟である。
第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』
律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」

イエスの時代、イスラエルの人々は500以上の律法に縛られる生活をしていたといいます。この律法とは、具体的には旧約聖書のレビ記とか申命記に記されているものですが、今日の福音書に登場する律法の専門家は、現代の法律家同様に、その律法の運用に詳しい人たちでした。その一人がイエスに向かって、最も重要な律法は何かと問いかけたのです。

イエスは「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」と答えます。神を愛することこそが最も重要であるのは誰にでも分かる話ですが、ただ愛するのではなく、イエスは「心」と「精神」と「思い」という、似たような三つの言葉を使って念を押しています。つまりイエスは心の奥の深いところを問題にしているということです。建前ではなく、自分の心の全てをかけて神を愛し、そして祈る。そうすれば祈りは聞き入れられるということでしょう。

続いてイエスは「隣人を自分のように愛しなさい」とも答えます。隣人というと一般的には身近な人々ということになりますが、神がこの世界を作って、そこに人間を住まわせてくれたことを考えると、隣人とは、もっと広い意味で、人以外の動物や植物などを含めた自然界全体をさしていると思われます。たとえば、原発事故で放射能が人に害を及ぼしたような場合、被害は動物や植物、土、水などにも及んでいることに気遣うことが大切になります。

人間だけの都合を優先しないよう、神に向かって心を込めて祈ってみてください。(チャプレン)

ヒペリカム・ヒデコートと1号館

【ルカによる福音書 11:1-4】
イエスはある所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに、「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」と言った。
そこで、イエスは言われた。「祈るときには、こう言いなさい。『父よ、/御名が崇められますように。御国が来ますように。わたしたちに必要な糧を毎日与えてください。わたしたちの罪を赦してください、/わたしたちも自分に負い目のある人を/皆赦しますから。わたしたちを誘惑に遭わせないでください。』」

本日は、毎回の礼拝で唱えている「主の祈り」についてお話します。イエスが弟子らに教えた祈りは、聖書では、これ一つしか記されていません。

(主の祈り)
天におられるわたしたちの父よ、
み名が聖とされますように。
み国が来ますように。
みこころが天に行われるとおり地にも行われますように。
わたしたちの日ごとの糧を今日もお与えください。
わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人をゆるします。
わたしたちを誘惑におちいらせず、悪からお救いください。
国と力と栄光は、永遠にあなたのものです。アーメン

先ず、天の見えないところにいる神に向かって、イエスは「父よ」と語りかけます。イエスにとっては父ですが、他の人にとっては母かもしれませんから、神に父母の区別はありません。また「わたしたちの父」とありますから、この祈りは皆で一緒に唱えることが前提とされています。続く「み名が聖とされますように」には、神のお名前が皆に共通して受けとめられことの必要性が示されます。そして「み国が来ますように」と「みこころが行われますように」には、神のお考え通りの良い世の中になって欲しいとの願いが込められています。

以上までが、世の中全体についての祈りですが、後半はどちらかというと個人的な祈りになります。先ず、「食べ物を与えてください」と率直ですが、今から2,000年前のイエスの時代は、今とは比べ様もないほど貧困であったことを想像しなくてはなりません。次はキリスト教の中心課題である「罪」について、「ゆるしてください、わたしたちも人をゆるします」と祈られます。そして、「誘惑」に負けて悪い考えを持つことがないようにとの願いの後、最後に、この世は全て神の所有物であることが「国と力と栄光」という言葉で確認されて、主の祈りが終わります。「アーメン」は「心から願います」との念押しです。

これらのことを心に留めながら、「主の祈り」を唱えてみて下さい。(チャプレン)

ツツジと1号館

【ローマの信徒への手紙(12:6-8)】
わたしたちは、与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っていますから、預言の賜物を受けていれば、信仰に応じて預言し、奉仕の賜物を受けていれば、奉仕に専念しなさい。また、教える人は教えに、勧める人は勧めに精を出しなさい。施しをする人は惜しまず施し、指導する人は熱心に指導し、慈善を行う人は快く行いなさい。

東日本大震災発生から5年が経ちました。この間、本学では、現地ボランティアに加え、学内においてもケーキ作りボランティアなどを通して現地との関わりを保ってきました。

ボランティアというと、気の毒な人に何かを施すというイメージで捉えられがちですが、被災地の方々から教えられたり気づかされたりすることも実際には多いので、ボランティアする方とされる方は互いに影響し合うものだと認識することが必要です。

若いうちにこういった活動に参加することで人生を豊かにできます。これから行われる報告会も、ボランティアの意味を考えながら聞くと、きっと深められることでしょう。(チャプレン)

本日は礼拝後に、2015年度東日本大震災復興支援ボランティア活動の報告が、参加した学生さんによって丁寧に行われました。これも毎年の恒例行事となりましたが、その年ごとに心が引き締まる思いがします。
活動の詳しい内容についてはこちらをご覧ください。

「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」(ヨハネによる福音書13:34-35)

先日行われた学外ゼミの折り、新入生から「なぜ入学式がキリスト教式で行われたのですか」という質問を受けました。

本学の礎であるキリスト教は、「愛の宗教」とよく呼ばれます。建学の精神である「愛をもって仕えなさい」や先程読まれた聖書箇所にも「愛」という言葉が記されている通りです。「愛」の言葉の意味は奥深くて、恋愛をはじめ、家族愛、動物愛など様々なケースで用いられます。この礼拝の中でも毎回「神は愛です」と唱えられます。できる限り礼拝に出席をして、本学を創設したカナダ人マーガレット・ヤング宣教師のことを覚え、本学がキリスト教の愛の精神の上に成り立っていることを理解して下さい。

ちなみに、私が礼拝で皆さんに期待したいことは二つあります。一つは、キリスト教の精神の中でも世間に通用する普遍的なことがらを学んで欲しいということです。先程言った「愛」などはその良い例です。二つ目は、祈る時間を持って欲しいということです。「祈り」というと身を引いてしまう人がいるかもしれませんが、祈ったことのない人はいないと思います。初詣でのお祈りなどは誰でもやっていることです。祈りとは心の底から願い求めることです。

今の西暦はイエス・キリストが誕生したとされる年を基準に刻まれています。紀元前を表すBCが「Before Christ」キリスト以前、それに対して紀元ADはラテン語の「神の年」の略称です。イエス・キリストは30歳頃から宣教をはじめ、33歳頃に十字架刑で命を落とし、その三日後に復活を果たされました。その後は弟子たちが世界各地にキリスト教を広め、それが2000年後の現在に至っているわけです。イエス・キリストの言動は聖書の中にある4つの福音書に書かれていますが、キリスト教では、イエス・キリストを神と同格に扱うので、目に見えない神のことがこの福音書に具体的に記されていることになります。これが他の宗教とは異なる点で、キリスト教が比較的分かり易い理由にもなっています。

学校などの施設としての教会をチャペルと呼び、そこで働く私のような立場の人をチャプレンと言います。週一回の礼拝で自分自身を振り返る以外にも、別の日に何か相談事があれば私を訪ねることもできます。どうかこの一年、このチャペルとチャプレンをおおいに利用してみてください。(チャプレン)

ノースポール

 

 

 

 

 

 

 

 


喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。
互いに思いを一つにし、高ぶらず、身分の低い人々と交わりなさい。自分を賢い者とうぬぼれてはなりません。
だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。
できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。
【ローマの信徒への手紙12:15-18】

今日の聖書の15節「 喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」は、今年の年間聖句ですので、折りに触れて思い出し、実行できるよう努力してみてください。

礼拝は、聖書に載っているこのような言葉を頼りにして生き方を考える場です。授業とかメディアを通して様々な知識を皆さんは身につけますが、それらが役立つように整えるのが心です。礼拝の中で、その心を見つめなおし、これからの生き方を考えるきっかけにしましょう。もちろん、自分の意見と違う話が礼拝で出てくることも時にはあるでしょうが、大事なのは「自分で考えること」ですので、無理をして従う必要はありません。

さて、先ほどの年間聖句についてですが、喜びに較べると、人の悲しみを理解するのは難しいです。その悲しむ人の立場が完全に分かるなんて不可能ですから…。でも、共に祈ることはできます。祈りとは、自分の思いとか願いとかを心の奥から言葉で表現すること。祈りの際によく使われる「アーメン」という言葉はヘブライ語で「そうなりますように」「確かに」という意味です。

祈りを通して他人に心を寄せましょう。皆さんが学ぼうとしている保育とか介護の仕事は、心のつながりを特に必要とします。礼拝に出席して人の心に触れ合える習慣を身につけましょう。(チャプレン)

 

今回は体育館で合同礼拝の形を取りました。礼拝直後に、1・2年生合同学外ゼミナール(通称「夢ゼミ」)の説明会が開催されるためです。

 

 

 

 

 

 

通常礼拝では、名古屋聖マタイ教会の礼拝堂を利用して、1年生(+専攻科)と2年生が別れて、つごう2回の礼拝が行われます。この礼拝堂には、全学生が入り切るキャパシティーがないためです。一方、今回のような説明会など、全学年対象の行事等が礼拝の時間(水曜日の3時間目)にジョイントされる場合は、本学体育館で全学生対象の合同礼拝が行われます。体育館には立派な十字架が掲げられているので、礼拝の雰囲気は十分に味わえます。

本日の聖書は次の通りです。
平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい。 体は一つ、霊は一つです。それは、あなたがたが、一つの希望にあずかるようにと招かれているのと同じです。【エフェソの信徒への手紙4:3-4】

礼拝ではチャプレンが次のような内容のお話をされました。
「1年生の皆さんは未経験の学外ゼミですが、それに加えて、始めて会う人達と二日間を学外で寝泊まりすることになります。 どうか、新しい事にチャレンジする気持ちをもって、嫌がらず怖がらずに自分自身を変化させるチャンスにしてください。一方、2年生の皆さんは十分楽しむとともに1年生を優しくエスコートしてあげてください。そうすることで良い成果を上げられるはずです。
楽しい二日間になるよう、お祈りをします。」

 

 

 

 

 

 

 

(加藤)

2016年度より新しく就任された長縄年延 新学長に教話をいただきました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

わたしたちは、わたしたちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。【ヨハネの手紙一4:16】

私は大学2年生の時に、このマタイ教会で洗礼を受けました。当時の私は「生きる意味」について関心があり、大学の聖書研究会や名古屋学生センターで色々と議論したものです。その中で、社会的責任性とかキリスト者の生き方について学び、「自分の命が神から与えられたものである」という意識を持つようになったのです。この与えられた命をどう使うのかについて、聖書は「愛」という言葉で答えます。ギリシャ語の愛には「ストルゲー(家族愛)、「エロス(性愛)」、「フィーリア(友愛)」、「アガペー(真の愛)」の4種類がありますが、このアガペーというのがキリスト教では最も尊ばれます。たとえば、「信仰と、希望と、愛(アガペー)、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である(1コリント13:13)。」

一方、「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える(1コリント13:4-7)。」とも聖書には記されていますが、この「愛」を「自分」という言葉に置き換えて読んでみると、全部はとても実行できないなと反省してしまいます。ともあれ、キリスト教を信仰する者は実践者でなくてはなりません。日曜日に礼拝をし、月曜日から土曜日までは行動するのです。今年118年目を迎える柳城学院の創設者マーガレット・ヤングも、当時の日本の社会に何が必要かを考えて、保育の分野で実践をした方でした。

毎週水曜日のこの礼拝にぜひ参加して下さい。そしてできれば、日曜日に教会に出かけてみて下さい。そうする中で自分の目標とか生きる意味を考えるのです。学生便覧にも載せましたが、「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる(マタイ7:7)。」と聖書が語る通りに、皆さんは何かをつかむことでしょう。(学長)

 

何事にも時があり/天の下の出来事にはすべて定められた時がある。
生まれる時、死ぬ時/植える時、植えたものを抜く時
殺す時、癒す時/破壊する時、建てる時
泣く時、笑う時/嘆く時、踊る時
石を放つ時、石を集める時/抱擁の時、抱擁を遠ざける時
求める時、失う時/保つ時、放つ時
裂く時、縫う時/黙する時、語る時
愛する時、憎む時/戦いの時、平和の時。
人が労苦してみたところで何になろう。
わたしは、神が人の子らにお与えになった務めを見極めた。
神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。それでもなお、神のなさる業を始めから終りまで見極めることは許されていない。 【コヘレトの言葉3:1-11】

本日は教会暦において「受苦日」に当たります。イエス・キリストが十字架刑に処せられた日を覚えるためのもので、キリスト教の信徒らは、こういった暦をきっかけにして信仰的に強められていくのです。

さて、皆さんにとって、本日は短大2年目がスタートする日です。既に就職に向けて色々と考えていることでしょうが、この1年の勉学が将来の就職につながるわけですので、気持ちを新たにして、地道に努力を重ねて欲しいものです。

とはいえ、なかなか思うように上達しない時期もあるでしょう。そんな時はひたすら我慢して、練習を怠らず、本日の聖書にもあるように、神様の計り知れないご計画を待つことが大切です。あのイチロー選手は繰り返すことが全く苦にならないそうです。好きな映画や音楽は何度も視聴し、ランチでは、奥様の手作りカレーを毎日食べても平気。きっと本業のトレーニングの方も何度も繰り返していることでしょう。

とにかく、諦めないこと。困難は時が解決してくれます。希望に向かっての努力の積み重ねだけが、皆さんを卒業へと導くのです。

昨日、名古屋市南区にある名古屋キリスト教社会館という社会福祉施設を訪問しました。ここでは「命の響き合い」、つまり「人が出会い、ふれ合い、そして育ち合う」ことを大切にしているそうです。このようなすばらしい施設に就職するチャンスが皆さんもありますが、そのためには、それなりの準備が必要になります。この1年、どうか頑張ってください。(チャプレン)

パンジー

 

 

 

 

 

 

 

名古屋柳城短期大学では、大学礼拝の出席率の高い学生さんに、ささやかなプレゼントが渡されています。
(出欠の取り方についてはこちらで)

2015年度はトートバッグでした。クリスチャンの世俗的なシンボルとしての「魚」と、聖書の言葉(イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。(ヨハネ14:6)」がデザインされています。

イクトゥスΙΧΘΥΣは、ギリシャ語で「魚」という意味ですが、同時にΙΗΣΟΥΣ  ΧΡΙΣΤΟΣ  ΘΕΟΥ  ΥΙΟΣ  ΣΩΤΗΡ(ギリシャ語でイエス・キリスト・神の・子・救世主)の頭文字を並べたものと同じであるため、キリスト教が、その初期において迫害にあっていた時代、魚の絵がクリスチャンの隠れシンボルとして使われたといいます。この絵にイクトゥスの文字が重ねられたのがこのトートの図柄です。こんな魚のワッペンを貼った自動車なんかを見かけたことはありませんか?

ちなみに2014年度は「ミニしおり」でした。「主を讃えよ」と刻まれています。(加藤)

 

 

 

 

 

 

 

 

「そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。」 【ガラテヤの信徒への手紙3:28】

今年度をもって退任される新海学長に、「女性がいっそう輝いて生きる ―憲法がその原動力―」と題してお話をいただきました。

社会教育学の中でも、戦前から戦後にかけての教育行政にご造詣が深い先生は、法的根拠を明確にしながら、一方で、聖書が語る精神性をも加味して、女性の地位向上への期待を私たちに熱く語られました。

「女性が『人』として認められていなかった」戦前における平塚らいてう市川房枝、そして戦後のGHQ憲法草案作成チームのベアテ・シロタ・ゴードンの功績が最初に讃えられましたが、すぐさま、日本の現状について、鋭い警鐘が鳴らされます。「男女平等の法的整備はできたが、中身はこれから…。」 そして未だに「男は仕事、女は家事」という考え方から脱却できない日本は、2016年3月7日に国連の女性差別撤廃条約委員会からいくつかの勧告を受けるに至るのです。

本学の多くの女子学生さんは卒業後に保育現場へと巣立っていきます。先生のお話は、もちろん、その彼女らへのエールであったはずです。イエス・キリストの前にあっては、人は皆平等。この高い精神性のもと、卒業生の皆さんには、自身のことと共に、弱者である子どもたちや要介護者らの人権を守る側にも立って欲しいと思いました。「愛をもって仕えなさい」という本学の教えに従って。(加藤)

 

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