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【マタイによる福音書20章1~16節】
20:1 「天の国は次のようにたとえられる。ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行った。
20:2 主人は、一日につき一デナリオンの約束で、労働者をぶどう園に送った。
20:3 また、九時ごろ行ってみると、何もしないで広場に立っている人々がいたので、
20:4 『あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう』と言った。
20:5 それで、その人たちは出かけて行った。主人は、十二時ごろと三時ごろにまた出て行き、同じようにした。
20:6 五時ごろにも行ってみると、ほかの人々が立っていたので、『なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか』と尋ねると、
20:7 彼らは、『だれも雇ってくれないのです』と言った。主人は彼らに、『あなたたちもぶどう園に行きなさい』と言った。
20:8 夕方になって、ぶどう園の主人は監督に、『労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい』と言った。
20:9 そこで、五時ごろに雇われた人たちが来て、一デナリオンずつ受け取った。
20:10 最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。しかし、彼らも一デナリオンずつであった。
20:11 それで、受け取ると、主人に不平を言った。
20:12 『最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。』
20:13 主人はその一人に答えた。『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。
20:14 自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。
20:15 自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。』
20:16 このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」

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この話を読むと、朝から一生懸命働いた人にも、最後の1時間しか働いていない人にも、同じように1デナリオンを支払った主人のやり方に、釈然としない思いを持つかもしません。なぜそのような感覚になるかというと、それは、この物語を朝から働いていた人の立場に立って読んでいるからです。
ここで確認しておきたいことは、イエスがこのたとえ話を通して語っている天国、神の支配とはどんな状態なのか、ということです。天国というと、なんの厄介ごとも悩みもない楽しい夢の世界というようなイメージがあるかもしれません。しかしながら、イエスが語る神の国とは、そのようなイメージとは異なるものです。

たとえば、こんなエピソードがあります。イエスが人々に話をしていたところ、子どもたちが近づいてきます。弟子たちは、イエスの話が、遮られてしまって邪魔だと思い、子どもたちを排除しようとしました。するとイエスは言います。「子どものように受け入れるのでなければ神の国に入ることはできない。」これが意味するところは、神の国とは、自分たちにとっては邪魔だと思うような人たちも共にいられるところ、誰もが排除されず、自分とは異なる他者を受け入れ合うところなのだ、ということです。

今日のたとえも同様です。最初からいた者から見れば、後から来た者は邪魔だと思ったかもしれません。しかし、そのように後から来た者も一緒に生きるべきなのだということです。これは逆に言えば、自分が他の人から厄介な人だと排除されたり、この社会に居場所を失ってしまっていたりしているとすれば、まさにそうした人たちこそが、神の国に真っ先に受け入れられる、ということです。

主人の言葉に、「私はこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ」というものがあります。「支払う」と訳されている言葉は、「与える」「プレゼントする」という意味の言葉です。私は、最後の者にも、生きるために必要なものを与えたい、プレゼントしたいのだ、ということです。

このように、神の恵みとは、これをしたから得られる、というような、労働の対価のようなものではありません。一方的に与えられる、プレゼントである、ということです。ぶどう園の主人が、出会った人全てに、その人に必要なものをプレゼントしたように、神は、私たちに、無条件に、私たちに必要な恵みを与えてくださいます。         (チャプレン相原太郎)


香るネメシア

【マタイによる福音書 22章34~40節】
22:34 ファリサイ派の人々は、イエスがサドカイ派の人々を言い込められたと聞いて、一緒に集まった。
22:35 そのうちの一人、律法の専門家が、イエスを試そうとして尋ねた。
22:36 「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」
22:37 イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』
22:38 これが最も重要な第一の掟である。
22:39 第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』
22:40 律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」

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 隣人を愛しなさい、というのは、ごく当たり前の教えのように思うかもしれません。しかしながら、これは当時の宗教指導者たちに対するイエスの激しい怒りの現れでもありました。
この言葉は、イエスが首都エルサレムに入った時に語られたものです。それは、イエスが、エルサレムの神殿に行った時のことです。エルサレムの神殿は、当時の宗教的・政治的な中心でありました。そして、イエスは、そこにいた宗教指導者たちと大きな論争になりました。そこで飛び出したのが「隣人を自分のように愛しなさい」という言葉でありました。

イエスと論争する指導者たちは、イエスにこう質問します。「あなたは、律法の中で、どの掟が最も重要だと考えるのですか。」
するとイエスは、まず、こう答えます。「『心を尽くして、精神を尽くして、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』」
この掟は、当時のユダヤ人が毎日の朝夕に祈りの中で唱える言葉そのものでした。ユダヤ人にとって間違いなく最も大切な掟です。つまり、イエスがこれを口にした時、誰もが、そんなことは誰でも知っている、それは当然だ、と思った、ということです。

イエスは、続いてもう一つ言葉を重ねます。

「隣人を自分のように愛しなさい。」

これが、先ほどの掟と同じように重要だ、とイエスは語ります。神を愛することと、隣人を愛することとは、切り離すことができないということです。このイエスの隣人愛の発言こそ、宗教指導者たちへの、大変厳しい批判でありました。
隣人を愛するというのは、それ自体、普通のことのようにも思えます。そしてそれは、当時もそうでありました。では、なぜそのことが、指導者たちへの批判となるのでありましょうか。一般的に言われている隣人愛と、イエスが言っている隣人愛とは何が違うのでしょうか。

ユダヤ教の社会において、隣人を愛するという時の、隣人とは、同胞、同じ民族を意味していました。仲間内ということです。隣人愛とは、同じ仲間、身内を助ける、同胞を大事にする、というようなことを意味していました。
一方、イエスの言う隣人愛は、それとは全く異なるものでした。そのことをわかりやすく語っているのが、イエスの譬え話の中でも最も有名なたとえの一つ、良きサマリア人です。

ある旅人が、一人、寂しい山道で強盗に襲われ、瀕死の状態になりました。そこを、ユダヤ教の偉い指導者たちが通りかかりますが、避けるように行ってしまいます。その後、ユダヤ人ではなく、一人のサマリア人が通りかかります。彼は、ユダヤ人の旅人がうずくまっているのを見つけると、すぐに近寄って、介抱し、街に連れて行って手当をします。

これがサマリア人の譬えです。
この物語のポイントの一つは、なぜ隣人を大事していたはずのユダヤ教の指導者たちが助けなかったのか、ということです。彼らは、悪人というわけではありません。むしろ、様々なユダヤ教の教えをしっかりと守り、人々から尊敬される人たちでありました。そんな彼らが、なぜ瀕死の重症の人を見過ごしにしてしまったのでありましょうか。
その一つの理解は、襲われた旅人が、半殺しにあっていて、場合によっては死んでしまっているかもしれない、ということです。
ユダヤ教には、当時、600以上の掟がありました。そして、その一つに、祭司たちは、血や死体に触れてはならない、触れると穢れる、というものがありました。
このことが理由で、彼ら指導者たちは、血だらけの旅人に近づかなかった、近づけなかった、ということが考えられます。その意味で、彼らは、律法に忠実であったわけです。
この旅人は、ユダヤ人であったかもしれません。本来は、彼らの言う隣人、仲間であったかもしれません。しかし、彼が血だらけですでに死んでいるかもしれない、という理由で、その旅人を、隣人として助けることができず、見過ごしてしまったわけです。

一方、サマリア人は、ユダヤ教の律法の外で生きていた人たちでした。ユダヤ教の社会において、サマリア人はユダヤ人の隣人ではありませんでした。むしろユダヤ社会から差別され、隣人という同胞愛のネットワークから排除されていた人たちでした。しかしながら、だからこそ、律法の枠に縛られず、困難の中にある旅人に近づくことができました。
イエスの言う隣人愛とは、このように、隣人愛の枠組みを予め決めて、その中にいる人を愛する、というのではなく、仲間内、既存の隣人を超えて、困っていれば近づき、寄り添う、ということに他なりません。

イエスは、その生涯をかけて、律法から外れた、罪人とされた人たち、言い換えれば、神さまから愛されていないと、みなされていた人たちを、ことのほか、大切にされました。
イエスが、「隣人を自分のように愛しなさい」と指導者たちに語った時、イエスは具体的な人々の顔を思い起こしていたに違いありません。それは、ユダヤ社会において、隣人ではないとされていた人々です。例えば、貧しい人、重い病にある人、外国人など、のことです。
イエスは、あの彼ら彼女たちも、むしろ、彼ら彼女たちこそ、神によって造られた大切な存在なのであり、私たちは、その隣人となっていくべきなのだ、と告げているわけです。
であるからこそ、イエスは、宗教指導者たちが、この人は隣人、この人は隣人ではないと、隣人に枠をはめ、その愛から除外しようとすることに憤りを覚え、「隣人を自分のように愛しなさい」との言葉を発したのでありました。

神は、すべての人を愛されます。そこには、一人の例外もいません。神が、あの人は隣人ではない、だから放っておいても仕方ないなどと分け隔てすることはありません。
だからこそ、神ご自身が、一人の例外もなく、すべての人を大切にしておられるように、そして、あのサマリア人が、困難な状況にある人を隣人として自分のように愛したように、私たちも、仲間内の枠を超えて、すべての人を大切にできる者となれるように求めてまいりたいと思います。   (チャプレン 相原太郎)


柳城の紅葉

【マタイによる福音書2章1~12節】
2:1 イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、
2:2 言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」
2:3 これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。
2:4 王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。
2:5 彼らは言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。
2:6 『ユダの地、ベツレヘムよ、/お前はユダの指導者たちの中で/決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、/わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」
2:7 そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。
2:8 そして、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と言ってベツレヘムへ送り出した。
2:9 彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。
2:10 学者たちはその星を見て喜びにあふれた。
2:11 家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。
2:12 ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。

✝ ✝ ✝

 イエスが生まれたとき、3人の博士たちが、新しい王が現れることを知らせる大きな星を頼りに長い旅をしました。ユダヤ地方に着いた博士たちは、新しい王に会うために、まずその地方の王の宮殿にいきました。

博士たちは、そこに住むヘロデ王に「ユダヤの王としてお生まれになった方は、どこにいますか」と尋ねます。王に向かって「新しい王はどこですか」と聞いたわけです。ヘロデ王は、自分が築いてきた王としての立場が奪われるかもしれないと、不安になります。

そこでヘロデ王はユダヤの学者たちを集め、新しい王なる人物はどこで生まれると言われているのかと尋ねます。学者たちは、聖書にはベツレヘムで生まれると書かれています、と答えます。

そこでヘロデ王は博士たちをベツレヘムに送り出しました。新しい王がいかなる人物なのか、いわば偵察に出したわけです。後にヘロデ王はその地方の幼な子たちを皆殺しすることになりますので、博士が新しい王なるものを見つけ出したら、直ちに殺そうと思っていたわけです。

ベツレヘムに着いた博士たちには、意外な光景が待ち受けていました。そこはヘロデ王がいるような王の宮殿ではなく、貧しい寒村の小さな家でした。そして中に入ってみると、そこにいたのは若き母マリアと父ヨセフ、そして幼子イエスでした。

博士たちはその地方の権力の頂点にいるヘロデ王から送り出されてベツレヘムに向かいました。博士たちはユダヤの王の姿がどういうものか、実際に会って理解しているわけです。そして、そのヘロデ王を超えるような、王の登場を想定したわけです。

ところが、そこにあったのはただの家でありました。そして、中に入ってみると、若い母親と父親、そして幼子がいるだけでした。普通に考えれば、これが本当に王なのかと思うかもしれません。馬小屋で、貧しい若夫婦の横で粗末な布にくるまって、ただ寝ているこの幼子が新しい王なのだろうか、と思いそうなところです。

しかしながら、博士たちはそのような貧しく無力な幼な子との出会いを大いに喜びました。そして、その幼子に彼らの宝物である黄金、乳香、没薬を贈り物として差し出したのでした。これらの宝物は、単に高価なものというだけでなく、彼らの商売道具でもありました。生活の糧を差し出すということは、幼子に出会ったことによって、それまでの生き方を根本的に転換した、ということを意味します。

博士たちは星を頼りに、言い換えれば、神の呼びかけに応えて、新しい王を探し求めてこの遠い地までやってきました。しかし、そこで出会ったのはこの世の頂点に立つ権力者ではなく、何もできない貧しい幼な子でした。博士たちは、このような意外な出会いを通して、それまで持っていた価値観が崩れ去り、彼らの生き方に大きな方向転換が起こったのでした。

博士たちは、当初、新しい王と接近することによって、何か自分にとって利益になること、あるいは、何らかの見返りのようなものを期待していたのではないかと思います。新たな救い主に近づくことによって、社会でのポジションを高めようと思っていたかもしれません。

しかし、博士たちの前に現れた救い主は、強さも豊さもない、無力な者でありました。期待とはあまりにも異なる救い主との出会いに、博士たちは、救い主に対して自分中心の見返りを求めることが根本的に間違っていることに気がされたのでありましょう。だからこそ博士たちは最も大切にしてきたものを、幼子への贈り物として手放すことができました。

私たちは、人と接するとき、どうしても自分の期待に沿って相手が何かしてくれることを期待しています。あるいは、自分へのメリットや何らかの見返りのようなものを期待して、人と近づこうとしてしまいがちなところがあると思います。それは、神に対しても同様かもしれません。神に対して何らかの見返りを期待してお祈りしていることもあると思います。しかしそのような見返りとは、大抵自分だけのため、あるいは自分中心だったりします。

博士たちの物語が私たちに教えてくれることは、私たちが自分への見返り、自分へのメリットだけを求めることを超えていくことにこそ本当の喜びがあるということです。そして、そのようなところにこそ、神様の愛の働きがある、ということでありましょう。       (チャプレン 相原太郎)


柳城カフェテラス

【マタイによる福音書5:1~12】
5:1 イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。
5:2 そこで、イエスは口を開き、教えられた。
5:3 「心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。
5:4 悲しむ人々は、幸いである、/その人たちは慰められる。
5:5 柔和な人々は、幸いである、/その人たちは地を受け継ぐ。
5:6 義に飢え渇く人々は、幸いである、/その人たちは満たされる。
5:7 憐れみ深い人々は、幸いである、/その人たちは憐れみを受ける。
5:8 心の清い人々は、幸いである、/その人たちは神を見る。
5:9 平和を実現する人々は、幸いである、/その人たちは神の子と呼ばれる。
5:10 義のために迫害される人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。
5:11 わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。
5:12 喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」

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 今、どのような人が幸いな人、恵まれた人でありましょう。一般的には、ある程度経済的に裕福である人、あるいは、社会の中でステータスのある人、活躍している人などが、そうでありましょう。それはイエスの時代でも同じでした。

一方、山に集まってイエスの話を聞いていた人達とは、様々な病気や苦しみに悩む人たち、社会の中心から外れてしまった人たち、貧しい人たちでした。幸せな人生、祝福された人生とは、縁遠い人たちでした。彼らは、神の恵み、祝福から見放された者だと思っていました。
イエスはそうした人たちにむけて、こうすればあなたたちは救われますよ、このように頑張ればあなたは恵まれた人生を歩めるでしょう、と教えることはありませんでした。そうではなく、イエスは、「心の貧しい人は、幸いである」と語り出します。すなわち、ここにいるあなたたちこそ、今、幸いなのだ、と述べます。

ここで使われている「幸い」、という言葉は、私たちが普段使っている「幸せ」とは異なります。通常の「幸せ」という言葉は、なにか自分に良いことが起きたときに変化する感情、感覚のことです。しかし、ここで使われている「幸い」とは、祝福されている、ということを意味します。神によって祝福されている、神によって大切にされ、愛されている、という状態です。それは、時間や状況によって変化する感情ではありません。自分の努力の有無によって消えたりするものでもありません。

この山上の説教は、イエスがガリラヤでの活動の最初に語られたものです。それが何を意味するかというと、この山上の説教が、イエスがこれから生涯をかけて行う生き方そのものを提示している、ということです。
イエスが、幸いだ、と宣言する、心の貧しい人、悲しむ人、柔和な人、義に飢え渇く人、憐れみ深い人とは、イエスが生涯をかけて出会った人たちのことです。イエスがそうした人々と生涯をかけて交わることによって、彼らは癒され、生きる望みを回復していきました。そして、イエス自身も、人々に寄り添う中で、悲しむ人、柔和な人、憐れみ深い人となっていきました。心の清い人、平和を実現する人、義のために迫害を受ける人、これらはイエスの生涯そのものです。イエスは、そのような生き方こそ、幸いなのであり、神によって祝福されているのだ、と言われるわけです。山上の説教とはイエス自身のことでもあるわけです。

この説教を語り終えたイエスは、実際、生涯をかけて、徹底して貧しくなり、悲しむ人とともに悲しみ、平和を実現しようとされ、義のために迫害されました。そして、十字架と復活によって、天国は義のために迫害される人のものである、ということを現実のものとされました。だからこそイエスは、受け入れがたい現実の中でも、貧しい人は幸いである、語ることができたのでありました。

この山上の説教が行われたのは、どこかの神殿の中ではありません。誰もが出入り自由な山の上です。このイエスの説教は誰にでも開かれているということです。山上の説教は、私たちの心の奥底にある悲しみ、弱さに、今も、語りかけています。心の貧しい人々は、幸いである、悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる、天の国はその人たちのものである。  (チャプレン 相原太郎)


コバノランタナ

【マタイによる福音書13章44~48節】
13:44 「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。
13:45 また、天の国は次のようにたとえられる。商人が良い真珠を探している。
13:46 高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。
13:47 また、天の国は次のようにたとえられる。網が湖に投げ降ろされ、いろいろな魚を集める。
13:48 網がいっぱいになると、人々は岸に引き上げ、座って、良いものは器に入れ、悪いものは投げ捨てる。

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 イエスは、天の国について、からし種、パン種、畑の宝、真珠、湖の中の魚と、立て続けに譬え用いて語っています。

からし種とは、直径1ミリくらいの小さな種です。しかし、成長すると、1メートルから3メートルにも伸びます。すると。茎や枝は硬くなって、小鳥の重さにも耐えられるようになります。天の国は、そんな小さな種に似ている、ということです。

パン種も小さなものです。しかも当時、「パン種」という言葉は、腐敗というニュアンスが強く、悪いイメージがありました。しかしそんなお荷物のような存在がパンを大きく膨らませます。天の国はそんなパン種に似ている、ということです。

からし種もパン種もほとんど目に見えません。小さく、とるに足りず、弱々しいものです。しかし、それが予想を超える力を発揮します。大きく、豊かな実りを生み出します。イエスは、天の国とはそのようなものだ、小さく、弱いものこそが、豊かな実りをもたらすところだ、と語るわけです。

次のたとえは、隠されていた宝を畑で見つけ、持ち物を売り払ってでも、その畑を丸ごと買う、それほどの喜びがあるものだ、というものです。当時の社会は政情が不安定であったため、財産をどこに蓄えておくかは大きな問題でした。人によってはそれを畑に隠すこともありました。ただ、畑に財産を隠した場合、持ち主がなくなると、財産をどこに隠したのか誰にも分からなくなる、ということが起きていました。それを他人が見つけるということは、ほとんど起こりえないようなことでした。ですので、たまたま畑を耕していた小作人が隠してあった財産を見つけるということは、大変な偶然です。天の国とは、そのような予想もできないような大きな喜びがある、ということです。

さらに次のたとえは、高価な真珠を見つけ出す、というものです。こちらは、偶然見つかる畑の中の財産とは異なり、自ら探して見つけるというものです。しかし、やはり持ち物を売り払ってでもそれを手に入れる、とあります。

畑の宝も真珠も、それが偶然の発見であれ、頑張って見つけたものであれ、今まで持っていたものを売り払っても構わないほどのことだ、ということです。つまり、天の国を見出す、ということは、それは言い換えれば、天の国とは、今まで自分が持っていたもの、自分が頼りにしていたものを、全部手放しても構わないというようなものだ、ということです。これまで自分を支えてきた日常、あるいは縛られてきた価値観から、解放され、自由になる、とも言いうることです。

ここまで見てきたように、イエスは、天の国のたとえを、人々を取り巻く生活の出来事の中から選んでいます。しかも、小さなからし種、目に見えないパン種、畑の中に隠されていた宝、めずらしい真珠、あるいは、海や川の中の魚といったものです。

これが意味するところは、天の国とは、どこか聖なる空間にではなく、ありふれた日常の中にある、ということです。天の国は、私たちの身の回りにある。そして、それは、とっても小さく、目に見えないかもしれない。だけれども、すでにこの世界の中に、確実に隠されているものです。

では、身の回りの生活の中で天の国を見出すとは、具体的にはどのようなことでしょうか。それは、イエスの生涯を通して私たちに示されています。

例えば、重い皮膚病を患い、生きる場を失い、神からも見捨てられたと思っていた人が、イエスと交わり、癒やされた、ということです。あるいは、誰からも嫌われていた徴税人のマタイが、イエスと出会い、一緒に食卓を囲むことで、生きる望みを回復した、ということです。

そのような奇跡のような交わりの中に、天の国が見出される、ということです。そのような愛によって仕える生き方においてこそ、それがたとえ小さなものであったとしても、天の国のしるしを見出すことができる、ということです。もちろん、最終的な天の国の実現は、この世の終わりの時かもしれません。しかしながら、今、私たちが生きるこの現実の中に、一人一人の日常の中に、愛によって仕える働きがあり、そこにこそ天の国のしるしは確実に存在し、神の国は実現し始めています。     (チャプレン 相原太郎)

 

【ヨハネによる福音書20章24-29節】
20:24 十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。
20:25 そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」
20:26 さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。
20:27 それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」
20:28 トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。
20:29 イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」

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 イエスが十字架で処刑された後、弟子たちは恐ろしくなって家に閉じこもっていました。それから3日後、復活したイエスが、弟子たちの前に現れます。その際に不在であった弟子の一人のトマスは、しばらく経って、弟子たちに合流します。イエスに出会った弟子たちは、その場にいなかったトマスに、「わたしたちは主を見た」と言います。しかし、トマスは疑います。「この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」

1週間後のことです。弟子たちは再び家に閉じこもっていました。今度はトマスも一緒でした。そこにイエスが現れ、トマスに「あなたの手を伸ばして、このわき腹に入れなさい」と言います。すると、トマスは、それまで誰も言わなかった一言をイエスに告白します。

「わたしの主、わたしの神よ。」

これまでも、様々な人たちが、イエスへの信仰、信頼を表してきました。たとえばマルタは「あなたこそ、神の子、メシアです」と言いました。しかし、このトマスによる「わたしの神よ」という信仰の告白は、全く次元の異なるものと言えます。疑うトマスにこそ大いなる気づきが与えられたわけです。

トマスは、復活のイエスに出会ったと語る弟子たちに対して、「わたしは決して信じない」と疑いの気持ちを素直に認めました。しかしそれでもなお弟子たちと一緒にいました。多くの場合、疑いを持っても黙っているのではと思います。あるいは、一緒に居づらくなって、そこから離れてしまうかもしれません。しかし、トマスは疑いの気持ちを弟子たちに率直に語りました。そして、疑ってもなお、弟子たちから離れることはありませんでした。

この箇所が示しているように、私たちは、疑いを持つことが許されています。疑いを持っていることを隠す必要もありません。神は、私たちが疑いを持つ程度のことで、怒ったり、離れたりするようなことはありません。むしろ、疑いは信仰において重要な気づきを与える大切な要素ともなるわけです。

私たちの大学・短大は、キリスト教主義であるからこそ、あらゆる常識や定説、噂や評判について、本当にそうなのだろうかと、自由に思い巡らし、語り合う場所でありたいと思います。そのようにして、真理を求めてまいりたいと思います。  (チャプレン 相原太郎)


タマスダレ

【出エジプト記3章11~15節】
3:11 モーセは神に言った。「わたしは何者でしょう。どうして、ファラオのもとに行き、しかもイスラエルの人々をエジプトから導き出さねばならないのですか。」
3:12 神は言われた。「わたしは必ずあなたと共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである。あなたが民をエジプトから導き出したとき、あなたたちはこの山で神に仕える。」
3:13 モーセは神に尋ねた。「わたしは、今、イスラエルの人々のところへ参ります。彼らに、『あなたたちの先祖の神が、わたしをここに遣わされたのです』と言えば、彼らは、『その名は一体何か』と問うにちがいありません。彼らに何と答えるべきでしょうか。」
3:14 神はモーセに、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われ、また、「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。」
3:15 神は、更に続けてモーセに命じられた。「イスラエルの人々にこう言うがよい。あなたたちの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である主がわたしをあなたたちのもとに遣わされた。これこそ、とこしえにわたしの名/これこそ、世々にわたしの呼び名。

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 只今朗読していただいた聖書は「モーセという人が神さまのために働く人として神さまから呼ばれる場面」の中心となるところです。まず、皆さんはモーセという名前を聞いたことがありますか? モーセという人はユダヤ教・キリスト教・イスラム教さらにはバハイ教などで、重要な預言者の一人とされている人です。実際にはそうではありませんが、伝統的には旧約聖書のモーセ五書の著者であるとされて、尊敬もされている人物です。
今日の聖書の箇所では、当時エジプトで奴隷とされていたヘブライ人を解放するように、エジプトの王、ファラオに言いに行けと神さまから言われたモーセが、そんな役割を担わされる「自分が何ものなのか」と神さまに質問をし、それへの答えが内容になっています。

「わたしは何ものなのか(11節)」というモーセの質問は、自分のような取るに足りない人間が、エジプトの王様ファラオに物申すとは、恐れ多いと恐縮しているニュアンスがあります。しかし本当の問いは、エジプトの王女さまの息子として育てられたが、本当はエジプト人ではなく、奴隷として働かされているヘブライ人が同朋である自分が、そもそも何ものであるのかでした。やはりヘブライ人なのか、育てられたとおりエジプト人なのか、それとも今暮らしを共にするミディアン人なのか。奴隷なのか、王子なのか、羊飼いなのか。モーセは悩みながら生きて来たのでした。

この悩みは在日外国人とくに在日コリアンの人たちの悩みと通じるでしょう。皆さんの中にも在日の方がいらっしゃるかもしれませんが、日本が朝鮮半島を植民地としていた時代に、様々な理由で韓国・朝鮮から日本に来ざるを得なかったの人たちが、帰るに帰れなくなり日本で暮らしているのです。「わたしは何ものなのか」という問いは、そのような在日の人たちにとっても切実な問題です。日本に住み、税金を納めて暮らしているのにもかかわらず、選挙権はなく、日本語を母語として話すのに、日本人ではないと言われ、韓国に行けば行ったで「どうして韓国語が話せないのか?」と言われ、馬鹿にされることもあるのです。

わたしのアイデンティティは日本人ですが、わたしの父方の高祖父はロシア人です。わたしは、16分の一は、ロシア人の血が流れていますので、ロシアに対する親近感は強くあります。ですからロシア語を話せないことは残念だと思いますし、現在のウクライナに仕掛けたロシアの戦争は、本当に悲しい出来事で、早く終わって欲しいと願う気持ちは、ちょっと日本の皆さんとは違っているように感じます。
また、トランス女性ですので、生物学的には男性として生まれており、ずっと「わたしは何ものなのか」が切実な、自分の中での問いでありました。

モーセが神さまに、「わたしは何ものなのか」と問い掛けているのは、ただ恐縮をしているだけではありません。自分が「何ものか」悩まざるを得なかった、辛い経緯に心を寄せてくれるように、モーセは神さまに訴えているのです。
ヘブライ人であることを示そうとエジプト人の行いを咎めることで、誤ってエジプト人を殺してしまい、ヘブライ人からもエジプト人からも排除されているこの自分に、エジプトでの奴隷状態からヘブライ人を救い出す役割を押しつけられるのは耐えられないのだと言っているのです。「わたしは何ものなのか」という問いに、モーセ自身は「妻の民族であるミディアン人の羊飼いとして生涯暮らして行くつもりなのだと」と決断をしていたようです。

モーセの訴えに、神さまは「わたしはある、あなたと共に(エフイェ インマク)」と答えられます。モーセをファラオのもとへと派遣するための励ましの言葉です(12節)。

神さまは励まし「わたしはある、あなたと共に」に、モーセは慰められます。モーセの「わたしは何ものなのか」という質問に、神さまは答えてはいません。この時点で神さまにとっては、モーセが何者であるのか、ヘブライ人なのか、エジプト人なのか、ミディアン人なのかは関係がありません。なぜならモーセが、神さまから愛を伝える働きに遣わされる中で、神さまが誰といっしょにいて、どこで働かれるのかを思い知り、その中でモーセは、自分が誰と共に、何のために生きるのかをどうしても考えなければならなくなるからです。

「わたしはある、あなたと共に」という神さまの言葉には力がありました。モーセは神さまからの命令を受け入れるのですが、エジプト人の王子として育てられたモーセは神さまの名前を知りませんでした。
聖書の神さまの名前は「ヤハウェ」です。新共同訳聖書では「主」と訳されています。ヤハウェとは「成らしめる」という意味で、世界の創り主である神さまの性質や、救いの出来事を引き起こす神さまの性質をよく表しています。
しかし人間の生き方・あり方はまったく問われません。ですから「わたしはある/成る(エフイェ)」という神さまの名前が、「成らしめる」に対する批判的応答として記されています(14節)。ヤハウェと同じ動詞ですが、三人称ではなく一人称であり、使役ではなく通常の形です。
この神さまの名前は12節の「わたしはある、あなたと共に(エフイェ インマク)」と語呂合わせになっています。

わたしたちの柳城の建学の精神は、「愛をもって仕えよ(ガラテヤ5:13)」です。神さまからの呼びかけが、わたしたち人間の生き方を導いてくれます。「愛をもって仕えてくださる神さま」に招かれたわたしたちも「愛をもって仕える」わたしになりなさいと呼びかけてくださっているのです。わたしたちが「何になろうとしているのか?」その意思を強く持つことの勧めが、ここで語られているのです。
神さまは自由なお方です。成りたいものになられる方です。同じように、わたしたち人間もこうあるべきという枠組みや、お仕着せに抗って、自由になりたいものを目指すべきです。その歩みが神さまに委ねる、従う歩みです。モーセの「わたしは何ものなのか(11節)」という問いもその歩みの中で答えを与えられるのです。何者であるかは自分らしい歩みの中で、自ずと与えられるのだからです。

神さまがモーセに名前を教えたのは、神とはどのような方なのか、神さまを信じている人はどのように生きるべきかを教えるためでした。

わたしたちも、自由な神さまに押し出されて、わたしが何ものかを見つける歩みを、自分らしい自由な歩みを始めて参りましょう。  (チャプレン 後藤香織)

南門の秋

【ヨハネによる福音書9章35~41節】
9:35 イエスは彼が外に追い出されたことをお聞きになった。そして彼に出会うと、「あなたは人の子を信じるか」と言われた。
9:36 彼は答えて言った。「主よ、その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが。」
9:37 イエスは言われた。「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ。」
9:38 彼が、「主よ、信じます」と言って、ひざまずくと
9:39 イエスは言われた。「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」
9:40 イエスと一緒に居合わせたファリサイ派の人々は、これらのことを聞いて、「我々も見えないということか」と言った。
9:41 イエスは言われた。「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る。」

✝ ✝ ✝

 「議論が煮詰まる」という言葉を聴いたら、みなさんはどんな状況を思い浮かべますか。
文化庁によって行われている「国語に関する世論調査」では、40代を境目にして、まったく正反対の意味に理解しているという結果が出ています。
もともとは「議論が煮詰まる」は、「議論や意見が十分に出尽くして、もう結論が出る状態になること」を意味しているのですが、世論調査の結果に寄れば、みなさんは「議論が煮詰まる」を「議論が行き詰まってしまって、結論が出せない状態になること」と理解しているのでしょうね?

わたしたちは、育った環境や生まれる時代、生まれる地域によって、また属している集団によって様々な偏りを身につけながら、成長し生きています。所変われば品変わるというように、わたしたちの身につけている「常識」は、どこまでも相対的なものでしかありません。その相対的な偏りである、偏見を持って、わたしたちは人と出会うのです。偏見を持っていない人はいません。わたしたちは、物事を見るときに、自分の視点からしか物事を見ることが出来ません。

また、わたしたち人間は、間違いを犯す動物です。どんなに経験が豊富な人でも、どんなに頭が良く聡明な人であっても、どんなに配慮が出来る人であっても、間違えずに人生を送ることの出来る人などありません。わたしたちは、そもそも間違えながら、成長してゆくのです。さらに言えばどんな人にも欠けがあり、その短所がその人の味にもなり、その人を謙虚にもさせるのです。社会生活を送りながら、わたしたちは自分が「完璧な人間などではない」ことを思い知らされています。「自分は偏っていて、間違えることもある」という自覚を、わたしたちが頭のどこかに置いておくことが大切です。

ヨハネ福音書の9章は目が見えなかった盲人が見えるようになる出来事ですが、41節まである9章で、このいやしの出来事は12節でだけ記され、その他のほとんどがイエスさまとファリサイ派との問答です。今日の聖書は、見えなかった人が見えるようになる出来事から、わたしたち人間の思い違いに気づくように語りかけているのです。

盲人の目が開かれた日は安息日でした。律法を守らない人たちを攻撃するファリサイ派の人々は、働いてはならない安息日に盲人の目が開かれたことを問題にして「その人は、安息日を守らないから、神のもとから来た者ではない(9:16)」とイエスさまを非難しました。イエスさまが神から遣わされたとファイサイ派は信じられませんが、見えなかった人が見えるようになった事実を否定も出来ません。ファリサイ派に問いただされ、盲人であった人は、自分を見えるようにしてくれたイエスさまが「預言者(9:17)」だと信仰告白をするのですが、この告白が問題を引き起こします。
安息日に働いて、目を見えるようにしたイエスさまの罪を認めよと迫りますが、目の見えなかった人は「32生まれつき目が見えなかった者の目を開けた人がいるということなど、これまで一度も聞いたことがありません。33あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです。(9:32,33)」と応え、主張を曲げなかったため、ファリサイ派は目の見えなかった人を外に追い出したのです。

今日の福音書はその続きです。ファリサイ派の人々は、イエスさまの当時イスラエルの指導者だった人たちです。人々から尊敬されていましたが、同じ人間です。欠けているところや限界が当然あります。知らないこともあるのも当然です。にもかかわらず、認識できない、気づくことが出来ない事が山ほどあるにもかかわらず、「見える」と言い張っていることが、罪だと指摘されています。
ファリサイ派の人は自分を正しいとすることでそもそも間違っています。神さまの前でさえ自分が正しいと言い張っているのです(ルカ18:9-14)。ですが、このような思い違いは誰にでもあるのです。「自己中心」「自己絶対化」という思い違いです。自分を偉い人間だと思い違いしてしまうのです。このような神さまに代わって、人を審くという誘惑にわたしたちはいつもさらされています。みんなすくなからず思い違いをしていますが、地位や権威を持つと思い違いをし易くなると聖書は注意を促すのです。見えていなくても見えているふりをしたり、「正しいこと」を言っている人に自分の方が正しいと主張し、さらには力で押さえ込もうとするのです。
また反対に自分は「見えないと思い込む」ことも、わたしたちがする思い違いです。人と比較して、自分は出来ない、自分はダメであると卑下して、希望を失ってしまうのです。すべての人が貴い存在です、人と比較をする必要などそもそも無いのです。人と比較することからの解放が、目が見えていなかった盲人に起こった喜びの出来事だったのです。
どこかで人と自分を比較して、思い違いをしているわたしたちにイエスさまは生き方を変えるように語りかけてくださいます。「一億総評論家」の日本社会では、思い違いしている人が山ほどいます。実はわたしたち皆がそうなのです。自己絶対化という鎧をまとい、力、権力、暴言、暴力という剣をふるって、偉そうに振る舞うことです。そのようなわたしたちをイエスさまは、新しい生き方へと導いてくださるのです。

わたしの持っている力は、隣人に仕えるためのものです。「愛をもって仕えよ(ガラテヤ5:13)」というわたしたち柳城学院の建学の精神にも示されているとおりです。
キリスト教では、イエスさまを十字架に付けて殺したのは、わたしたちの思い違いだと受けとめるのです。それは「自己中心」の罪の重大さを教えるための十字架であり、同時にその罪を赦すための十字架だと信じているのです。自分が思い違いをしていると気づくことで、わたしたちはイエスさまの呼びかけに応えて、誰をも犠牲にしない生き方を歩み始めることが出来ます。
ですが、わたしたちはなかなか自分の思い違いには気がつけませんので、チヤホヤされたりすると自分は偉い人間だと思い違いをし、反対に誰からも認められないと虚勢を張って偉い人間を装ったり、自分を卑下したりするのです。イエスさまは、マタイ福音書にある山上の説教の中で「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか(7:3)」と語っておられるように、見えると思う人は見えておらず、見えないと思っている人が見えるようになるのです。

わたしたちは気づいていないのですが、思い込みの偏見に覆われていて、実は見えてなどいないのだということを、心にとめて、「愛をもって仕え」る歩みを始めて参りましょう。(チャプレン 後藤香織)


メランポジューム

【マタイによる福音書9:9-13】
9:9 イエスはそこをたち、通りがかりに、マタイという人が収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。
9:10 イエスがその家で食事をしておられたときのことである。徴税人や罪人も大勢やって来て、イエスや弟子たちと同席していた。
9:11 ファリサイ派の人々はこれを見て、弟子たちに、「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。
9:12 イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。
9:13 『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」

✝ ✝ ✝

今日の箇所は、イエスがマタイを弟子として迎える場面です。

マタイは徴税人でした。当時、イエスが暮らしていたユダヤ地方は、ローマ帝国によって支配されていました。人々は、ローマに税金を納めなければなりませんでしたが、それを一手に引き受けていたのが、この徴税人たちでした。徴税人自身は同じユダヤ人でしたが、人々から帝国への税金を取り立てる仕事をしていました。彼ら徴税人たちは、ローマ帝国から、これだけの税金を集めなさいという指示を受け、そして、その定められた金額以上の税金を徴収し、その差額を自分たちの収入としていました。
当時、自分たちと異なる神を信じる外国に仕えることは、その人が汚れる、ということを意味しました。また、ローマの支配とその税金は人々を苦しめるものでもありました。そんなことで、徴税人たちは憎まれ、軽蔑され、罪人と見做されていました。マタイもそのような徴税人であったわけです。

今日の箇所に、イエスが、「通りがかりに、マタイという人が収税所に座っているのを見かけて、『わたしに従いなさい』と言われた」と書かれています。イエスの弟子たちは、このように、イエスのほうから声をかけて、従った人たちばかりでした。逆ではありません。すなわち、イエスの弟子になりたいと思った人が、イエスに近づいて「弟子にしてください」と願い出た、ということではない、ということです。むしろ、このマタイのように、自分では思ってもみなかった人がイエスに声をかけられて、弟子となっていきました。

そんなイエスが、マタイなど、徴税人や罪人とされた人たちと一緒に食事をしていました。すると宗教指導者たちは、「なぜそのような人たちと一緒に食事をするのか」と非難します。
当時のユダヤ社会においては、一緒に食事をする、というのは、宗教的に大切な意味を持っていました。また、親しさの表れでもありました。ですので、罪人と一緒に食事をする、などということは、避けるべきタブーでした。イエスが罪人たち親しく接し、一緒に食事をする、というのは当時としては大きなスキャンダルであったわけです。
それでもなお、イエスは、あえて、そのような罪人たちと一緒に食事をしました。それは、罪人と食事をすることで、その人たちを正しい道に導いてあげようとか、可哀想な人たちに手を差し伸べて、救い出してあげようとか、そういうことではありません。もし、イエスが、そういう動機であるとしたら、イエスが、当時の社会で罪人とされている人を、イエスとしても、その人たちは問題のある罪人だと認定していることになってしまいます。
イエスは、罪人を更生させようとしたのではなく、罪人とされた人たちに対して、一緒に食事をすることを通して、あなたはそのままでいいのだと、神はそのままのあなたを愛しておられるのだ、ということを示されたのでした。

イエスは、「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」と語ります。

イエスが食卓に招いているのは、正しい人、すなわち、正しいと思い込んでいる、あるいは、自分は正しい者だと思い上がっている人ではなく、罪人とされ、神の前に正しい者ではないと理解している人でありました。
イエスは、罪を頭ごなしに否定したりしません。ダメな部分、弱い部分、病んでいる部分を治したりするよりも、むしろ、そうした部分を抱えて生きているその人自身を、そのまま愛し、受け入れようとされました。そのようにして人々を愛し、それは十字架の死に至るまで、変わることはありませんでした。

今日、この場に集まっている私たちにも、それぞれ、弱い部分、病んでいる部分、あるいは隠したい部分などがあると思います。そんな私たちにイエスは語りかけます。「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」
何か、特別な地位にいる人たちだとか、教会で働いている人たちだとか、そういうことではなく、マタイを招いたように、ここにいる私たち一人ひとりを、招いておられる、ということです。
イエスは、周囲から軽蔑されたり、仲間はずれにされたりしている人、孤独の中にある人、そんな人たちのところに出向き、「わたしに従いなさい」と話しかけられました。そして、イエスは、今日ここにいる私たちにも語りかけ、神の愛の交わりへと、招いてくださっています。         (チャプレン 相原太郎)

【ミカ書4章1-3節】
4:1 終わりの日に/主の神殿の山は、山々の頭として堅く立ち/どの峰よりも高くそびえる。もろもろの民は大河のようにそこに向かい
4:2 多くの国々が来て言う。「主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。主はわたしたちに道を示される。わたしたちはその道を歩もう」と。主の教えはシオンから/御言葉はエルサレムから出る。
4:3 主は多くの民の争いを裁き/はるか遠くまでも、強い国々を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし/槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず/もはや戦うことを学ばない。

✝ ✝ ✝

みなさん、今日は何の日かご存じでしょうか? 9月21日は、1981年の国連総会でコスタリカの発案によって制定された、国際平和デーという日です。世界の停戦と非暴力を祈る日になっています。(International Day of Peace)
2002年から、この日は「世界の停戦と非暴力の日」として、この日一日は敵対行為を停止するよう全ての国、全ての人々に呼び掛けている日です。

2022年2月24日、ロシアがウクライナへの本格的な軍事侵攻を開始して、すでに7ヶ月の間戦争が継続しています。日本は、この戦争の直接の被害は受けていませんが、もちろん戦争に無関係ではありません。隣の国ではミサイルの発射実験が行なわれ、わたしたちが大切にしてきた平和憲法の「改正」が議論されているこの時代です。それぞれの国の権力者が、自己の利権のため様々に企みを巡らせているこの時代に、力のないわたしたちは平和実現のために、あまりにも力が無いことを思いしらされるばかりです。

しかし、聖書はわたしたちにも、世界の平和のために出来ることがあると、希望を示してくれます。剣や槍という戦いの道具はかならず、鋤や鎌という農耕具に打ち直され、平和をつくりだすのです。
今日の聖書箇所は旧約聖書のミカ書4章1-3節です。預言者ミカは紀元前8世紀頃の預言者です。イスラエルがアッシリアとの戦いに敗れた、そのすぐ後の時代の人です。ミカは、イスラエルの人にとって思いもよらなかった預言をします。なんと神さまがイスラエルの罪ゆえに、わざわざ敵を立てて、イスラエルを攻撃させるというのです。とうぜん神さまは自分たちイスラエルを守ってくれる存在であると思っていたのに、預言者ミカは、イスラエルが罪を犯せば、神さまは敵を仕立ててイスラエルに攻撃をしかけるというのです。

では、イスラエルの罪とは、何であったのでしょう。力を持つものが、富んでいる者が、貧しい人々、力のない人々をないがしろにしていたことでした。貧しい人々、力のない人々は、困難な生活を強いられていたのです。通りに、イスラエルはアッシリアに敗れます。その時になって、やっとイスラエルの人々は、自分たちが敗れたのは、神さまの教えを無視し、貧しい人々、力を持たない人々をないがしろにしたからだと思い知ったのです。隣人の困難に心を寄せず、その苦しみ、痛みを無視するようなわたしたちの生き方が、争いを起こすことを、聖書は指摘し、神さまはその過ちを悟らせるために敵対して立たれるのだと、聖書は語るのです。神さまは滅ぼすためではなく、再び命を光り輝かせるために、裁きを与えられるのです。

しかし、ミカは預言を続けます。わたしたちが悔い改めれば、神さまはふたたび顧みてくださり、二度と剣を取って戦うこと学ばず、鋤に打ちなおして平和を学ぶようになるというのです。なぜならば戦いに敗れ、イスラエルの裕福な、力を持つ人々も土地を奪われ、すべてのイスラエルの人々が力をなくし、貧しくなり、その痛みを知る者となるからなのです。聖書が語る平和を作り出すための道は、わたしたちが隣人の痛みを知るようになることです。独占があるところでは争いがあり戦いがあります。分かち合うところでは、共に命が生かされ、「平和」を作り出すための道が開かれるのです。

預言者ミカは平和の君、救い主がベツレヘムから出ると預言しました。わたしたちのもとに、お生まれくださるイエスさまのもとでは、誰もが乏しくはなく、すべての人が満ち足りる平和が実現しるのです。どうかこの世界に、本当の平和が実現しますように、そのためにわたしたちが、あきらめることなく、分かち合いの歩みを始めてゆくことが出来ますように。
(チャプレン 後藤香織)

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