【旧約聖書 創世記3章1~19節】
3:1 主なる神が造られた野の生き物のうちで、最も賢いのは蛇であった。蛇は女に言った。「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか。」
3:2 女は蛇に答えた。「わたしたちは園の木の果実を食べてもよいのです。
3:3 でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました。」
3:4 蛇は女に言った。「決して死ぬことはない。
3:5 それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」
3:6 女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた。女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。
3:7 二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした。
3:8 その日、風の吹くころ、主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた。アダムと女が、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れると、
3:9 主なる神はアダムを呼ばれた。「どこにいるのか。」
3:10 彼は答えた。「あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。わたしは裸ですから。」
3:11 神は言われた。「お前が裸であることを誰が告げたのか。取って食べるなと命じた木から食べたのか。」
3:12 アダムは答えた。「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました。」
3:13 主なる神は女に向かって言われた。「何ということをしたのか。」女は答えた。「蛇がだましたので、食べてしまいました。」
3:14 主なる神は、蛇に向かって言われた。「このようなことをしたお前は/あらゆる家畜、あらゆる野の獣の中で/呪われるものとなった。お前は、生涯這いまわり、塵を食らう。
3:15 お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に/わたしは敵意を置く。彼はお前の頭を砕き/お前は彼のかかとを砕く。」
3:16 神は女に向かって言われた。「お前のはらみの苦しみを大きなものにする。お前は、苦しんで子を産む。お前は男を求め/彼はお前を支配する。」
3:17 神はアダムに向かって言われた。「お前は女の声に従い/取って食べるなと命じた木から食べた。お前のゆえに、土は呪われるものとなった。お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ。
3:18 お前に対して/土は茨とあざみを生えいでさせる/野の草を食べようとするお前に。
3:19 お前は顔に汗を流してパンを得る/土に返るときまで。お前がそこから取られた土に。塵にすぎないお前は塵に返る。」
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今日の創世記3章のお話しでは、女性が蛇の誘惑を受けて園の中央にある善悪の知識の木からとって食べ、女性から実を手渡された男性も食べます。すると2人の目は開けて裸であることが分かります。2人はいちじくの葉で腰を覆い、神さまが園の中を歩いて来る音が聞こえたので隠れます。そして、神さまから「取って食べるなと命じた木から」何故とって食べたのかと問われると、アダムは女性の所為にし、女性は蛇の所為にします。神さまは蛇、女性、アダムに罰を宣告し、手足を奪われ、地を這って生きるようになります。女性は罰として苦しんで出産し、「夫」に支配されて生きるようになります。アダムは「呪われた」土から食べ物を得ようと苦しんで生きるようになります。この宣告の後、神さまは2人に皮の衣を作って着せて、エデンの園から追放しました。これが、失楽園物語というお話しのあらすじです。これはどうしてそうなのかを説明している原因譚のお話です。
この物語を読む上での疑問が二つあります。一つは、創世記の2章で、神さまがそのの中央にある「善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」と言われていたのですが、今日の聖書の4節の「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」という蛇の言葉通り、二人は実をとって食べたのですが、死んでいませんね。では、神さまが嘘をついたのでしょうか?
そして、「善悪の知識の木」からとって食べた人間は、善悪の判断をするようになります。善悪の判断をすることは、社会生活をするためには必要なことです。どうして聖書は人間が善悪の判断をすることを肯定していないのでしょうか?
また、6節にあるとおり、「女が初めにだまされて罪を犯した」として、キリスト教会は女性が男性に従属すること、女性差別が神さまによって定められた秩序であると正当化してきた歴史があります。もちろん、聖書はそんなことを言ってはいないのですが、新約聖書のテモテへの手紙Ⅰの2:12-15では、女性が男性に従属することを正当化する根拠として、この失楽園物語が使われていますので、キリスト教会では、いまだに男尊女卑を正当化するために、使われる可能性がある箇所です。これはしっかりと反論しておかなければなりません。
この失楽園物語で~何がいけなかったのか?~を考える前に、まず頭に置きたいのは、古代地中海沿岸世界の民間伝承では、「禁断の木の実」のような禁止の命令は、物語の主人公がそれに背くように登場して、禁じられていることを破ることから物語が展開するという特徴を持っていることです。この視点から考えれば、失楽園物語の主人公は女性です。好奇心旺盛な、知識を探求する意欲に満ちた人物です。自分自身の判断で限界を越えることを試みる存在が失楽園物語ではまさに女性なのです。実はこれは人間の本質です。限界を超えることで人間は成熟し、文化を発展させる存在なのです。ですから、女性は人間もっている特質によって、限界を超えて、自らを成熟させます。さらに文化の継承者となる子孫に、生命を継承して行く生命の母である「エバ」という名前の通り、人間らしい第一歩を、女性が最初に踏み出すという物語です。
本当に、エバの行動は素敵ですよね。「善悪の知識の木」の実を見るといかにもおいしそうだったので、とって食べます。食べたらおいしかったので、一緒にいた男にも渡して分かち合っているのですからね。むしろ、直接神さまから「食べてはいけない」と命令を受けていたアダムの態度の方が、とても問題ですよね。本当にとって食べてはいけないと思っていたら、食べようとしているエバをまず止めるはずです。でも、隣にただ立っているだけで何もしていません。エバの隣で“ボ~”としているだけですよね。そして何も考えずに、手渡された木の実を食べてしまっています。
この失楽園物語で問題とされているのは、エバが最初に「取って食べるなと命じた木から」とって食べた行動なのではなく、その後の出来事での人間の応答が問われているのです。人間は間違える者です。ですから、「間違ったときに、どうするのか?」をわたしたちは考えるように促されているのです。
神さまからどこに居るのかとたずねられたとき、アダムは神さまに対して、自分の責任を引き受けずに、女性になすりつけて言い逃れをします。残念ながら、女性も同じように責任を蛇になすりつけて言い逃れをしてしまいます。
それまで、すべてをさらけだす、裸の状態であっても「恥ずかしがりはしなかった」、互いに隠すことのない交わりの状態にあった、二人でしたが、「善悪の知識の木」の実を取って食べた結果、互いにすべてをさらけだして交わることが出来なくなってしまっています。この信頼関係が壊れてしまったことが、本来の人間らしい生命が破壊された出来事であり、これこそが「死」に至る「罪」の行為であったのです。神さまが、善悪の知識の木からとって「食べると必ず死んでしまう。」と言われていたのは、生物としての生命ではなく、この交わりが壊れてしまい、信頼関係が死んでしまうことを指していたのです。
では、人間が善悪の判断をすることは、どうして積極的には肯定されないのでしょうか。それは、わたしたち人間のする判断は、どこまでも自分にとって「都合が良いか、悪いか」という判断でしかないからです。すべての人にとって何が良いことなのかという判断ではなく、一人一人のわたしにとって「都合が良いか、悪いか」という判断は、互いに利害関係はかみ合いません。それゆえわたしたちの世界は、愛し合い、分かち合い、支え合う世界ではなく、憎み合い、奪い合い、足を引っ張り合う世界に、いまだ止まっているのです。
この失楽園物語は、神さまによって、互いに愛し合い、分かちあい、仕え合うように、生命を与えられたにもかかわらず、愛し合えず、仕え会うことが出来ないわたしたちに対して、間違えたときには真摯に反省し、壊れた信頼関係を再び紡いで行くように励ましてくれていることをご一緒に憶えたいと思います。
また現在の男性中心の社会で、女性が蔑ろにされている、この世界の現状は、信頼関係が壊されて、自己中心的な生き方を続けている、わたしたちの反省の出来ない生き方の結果です。ですから、男女平等が実現するように、働いて行くことが、わたしたちが神さまからの「どこにいるのか?」という質問に答える歩みになるのだということも、ともに憶えたいと思います。神さまによって、交わりの中に送り出されているわたしたちの生命が、光り輝くようにキャンパス生活を送って参りましょう。 (チャプレン 後藤香織)
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