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【創世記11章1~9節】
11:1 世界中は同じ言葉を使って、同じように話していた。
11:2 東の方から移動してきた人々は、シンアルの地に平野を見つけ、そこに住み着いた。
11:3 彼らは、「れんがを作り、それをよく焼こう」と話し合った。石の代わりにれんがを、しっくいの代わりにアスファルトを用いた。
11:4 彼らは、「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう」と言った。
11:5 主は降って来て、人の子らが建てた、塔のあるこの町を見て、
11:6 言われた。「彼らは一つの民で、皆一つの言葉を話しているから、このようなことをし始めたのだ。これでは、彼らが何を企てても、妨げることはできない。
11:7 我々は降って行って、直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬようにしてしまおう。」
11:8 主は彼らをそこから全地に散らされたので、彼らはこの町の建設をやめた。
11:9 こういうわけで、この町の名はバベルと呼ばれた。主がそこで全地の言葉を混乱(バラル)させ、また、主がそこから彼らを全地に散らされたからである。

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 バベルの塔は、高い塔を作ることそのものよりも、その目的が問題でした。その目的とは、彼らの言葉の中にある「天まで届く塔のある町を建て、有名になろう」というものでした。
この「有名になる」とは、単に有名人なる、といったようなことではありません。「有名になる」という言葉は、元々の表現では、自分の名前にこだわる、自分にこだわる、というような意味です。別の言い方をすれば、自分を中心にして生きること、自分の強さを土台にして生きる、というようなことです。自分を中心にして生きるどうなるでしょう。自分が世界の中心ですので、周りの人を見下すことにつながってしまいます。そして、神の存在を忘れてしまい、あたかも、自分が神であるかのようになってしまいます。そのことこそが、問題でありました。

その時、聖書によれば、神が、降っていって、バベルの塔の建設を見た、と書かれています。人々は、天に届くような高い塔を建てた、と思っていました。ところが、実際には、神は天からそれを見ることなどできません。塔を見るためには、降ってこなければなりませんでした。つまり、天に届かせよう、という人間の思い上がりは、全くの見当違いであるわけです。神は天に居座って、天まで届く人間を待っているのではありません。実際はその逆で、神が、私たちの間に降りてこられる、ということです。
そして、バベルの塔を見た神は、一つだった言葉をバラバラにして通じなくさせて、そのような企てが起きないようにしました。

このストーリーで興味深いのは、人間が、神になったかのように思い上がり、周りの人を見下して、自己中心的になると、言葉が通じなくなってしまう、ということです。
言葉が通じない、というのは、日本語や英語といった言語のことではないように思います。自分のことばかり考えると、相手の言うことが耳に入らなくなってしまう、ということではないかと思います。あるいは、相手の言葉を、自分に都合のいいように解釈してしまう、ということです。
したがって、ここでのポイントは、相手の語る言葉に率直に耳を傾けられるか、ということだと思います。自分のことしか考えず、他の人のことはどうでもいい、という想いから、解き放たれることです。それによって、相手と通じ合うことが可能になる、ということです。

イエスが示された愛も、自分が高みに立って、隣人に対して、自分の考え、自分の存在を押し付ける、ということではありませんでした。むしろその正反対でした。イエスは、徹底して自分中心の考えから離れ、高みではなく、むしろ自分を低くして、全身全霊で、他者の痛み、悲しみ、苦しみ、そして喜びに寄り添われました。とりわけ、当時の社会から排除され、差別され、抑圧を受けていた人たちと共にあろうとしました。
それは、全ての人が、本来、神に似せて作られた素晴らしい存在であり、神に愛されているのだ、という確信がイエスにあったからに他なりません。イエスの愛の生涯とは、バベルの塔の建設とは、全く反対の事柄であるわけです。

私たちは、「愛をもって仕えよ」という建学の精神の中で学んでいます。それは、ここでの学びが、あたかも自分のための高い塔を建設するかのように、自分のためだけにするものではない、ということです。むしろ、その反対に、神が私たちの間に降りてこられたように、自分を低くし、他者の痛みを知り、その声に耳を傾ける、ということです。
バベルの塔の物語が示しているように、自己中心的な生き方は、結局は、人との関係が消えていき、身の破滅を招きます。私たちは、そのような生き方から離れていくことによって、豊かな生き方がもたらされることを、イエスによって知らされています。私たちは、そのことに感謝しながら、愛をもって隣人に仕えてまいりたいと思います。   (チャプレン相原太郎)


アゲハチョウ

【旧約聖書 創世記3章1~19節】
3:1 主なる神が造られた野の生き物のうちで、最も賢いのは蛇であった。蛇は女に言った。「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか。」
3:2 女は蛇に答えた。「わたしたちは園の木の果実を食べてもよいのです。
3:3 でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました。」
3:4 蛇は女に言った。「決して死ぬことはない。
3:5 それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」
3:6 女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた。女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。
3:7 二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした。
3:8 その日、風の吹くころ、主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた。アダムと女が、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れると、
3:9 主なる神はアダムを呼ばれた。「どこにいるのか。」
3:10 彼は答えた。「あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。わたしは裸ですから。」
3:11 神は言われた。「お前が裸であることを誰が告げたのか。取って食べるなと命じた木から食べたのか。」
3:12 アダムは答えた。「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました。」
3:13 主なる神は女に向かって言われた。「何ということをしたのか。」女は答えた。「蛇がだましたので、食べてしまいました。」
3:14 主なる神は、蛇に向かって言われた。「このようなことをしたお前は/あらゆる家畜、あらゆる野の獣の中で/呪われるものとなった。お前は、生涯這いまわり、塵を食らう。
3:15 お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に/わたしは敵意を置く。彼はお前の頭を砕き/お前は彼のかかとを砕く。」
3:16 神は女に向かって言われた。「お前のはらみの苦しみを大きなものにする。お前は、苦しんで子を産む。お前は男を求め/彼はお前を支配する。」
3:17 神はアダムに向かって言われた。「お前は女の声に従い/取って食べるなと命じた木から食べた。お前のゆえに、土は呪われるものとなった。お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ。
3:18 お前に対して/土は茨とあざみを生えいでさせる/野の草を食べようとするお前に。
3:19 お前は顔に汗を流してパンを得る/土に返るときまで。お前がそこから取られた土に。塵にすぎないお前は塵に返る。」

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今日の創世記3章のお話しでは、女性が蛇の誘惑を受けて園の中央にある善悪の知識の木からとって食べ、女性から実を手渡された男性も食べます。すると2人の目は開けて裸であることが分かります。2人はいちじくの葉で腰を覆い、神さまが園の中を歩いて来る音が聞こえたので隠れます。そして、神さまから「取って食べるなと命じた木から」何故とって食べたのかと問われると、アダムは女性の所為にし、女性は蛇の所為にします。神さまは蛇、女性、アダムに罰を宣告し、手足を奪われ、地を這って生きるようになります。女性は罰として苦しんで出産し、「夫」に支配されて生きるようになります。アダムは「呪われた」土から食べ物を得ようと苦しんで生きるようになります。この宣告の後、神さまは2人に皮の衣を作って着せて、エデンの園から追放しました。これが、失楽園物語というお話しのあらすじです。これはどうしてそうなのかを説明している原因譚のお話です。

この物語を読む上での疑問が二つあります。一つは、創世記の2章で、神さまがそのの中央にある「善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」と言われていたのですが、今日の聖書の4節の「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」という蛇の言葉通り、二人は実をとって食べたのですが、死んでいませんね。では、神さまが嘘をついたのでしょうか?

そして、「善悪の知識の木」からとって食べた人間は、善悪の判断をするようになります。善悪の判断をすることは、社会生活をするためには必要なことです。どうして聖書は人間が善悪の判断をすることを肯定していないのでしょうか?

また、6節にあるとおり、「女が初めにだまされて罪を犯した」として、キリスト教会は女性が男性に従属すること、女性差別が神さまによって定められた秩序であると正当化してきた歴史があります。もちろん、聖書はそんなことを言ってはいないのですが、新約聖書のテモテへの手紙Ⅰの2:12-15では、女性が男性に従属することを正当化する根拠として、この失楽園物語が使われていますので、キリスト教会では、いまだに男尊女卑を正当化するために、使われる可能性がある箇所です。これはしっかりと反論しておかなければなりません。

この失楽園物語で~何がいけなかったのか?~を考える前に、まず頭に置きたいのは、古代地中海沿岸世界の民間伝承では、「禁断の木の実」のような禁止の命令は、物語の主人公がそれに背くように登場して、禁じられていることを破ることから物語が展開するという特徴を持っていることです。この視点から考えれば、失楽園物語の主人公は女性です。好奇心旺盛な、知識を探求する意欲に満ちた人物です。自分自身の判断で限界を越えることを試みる存在が失楽園物語ではまさに女性なのです。実はこれは人間の本質です。限界を超えることで人間は成熟し、文化を発展させる存在なのです。ですから、女性は人間もっている特質によって、限界を超えて、自らを成熟させます。さらに文化の継承者となる子孫に、生命を継承して行く生命の母である「エバ」という名前の通り、人間らしい第一歩を、女性が最初に踏み出すという物語です。

本当に、エバの行動は素敵ですよね。「善悪の知識の木」の実を見るといかにもおいしそうだったので、とって食べます。食べたらおいしかったので、一緒にいた男にも渡して分かち合っているのですからね。むしろ、直接神さまから「食べてはいけない」と命令を受けていたアダムの態度の方が、とても問題ですよね。本当にとって食べてはいけないと思っていたら、食べようとしているエバをまず止めるはずです。でも、隣にただ立っているだけで何もしていません。エバの隣で“ボ~”としているだけですよね。そして何も考えずに、手渡された木の実を食べてしまっています。

この失楽園物語で問題とされているのは、エバが最初に「取って食べるなと命じた木から」とって食べた行動なのではなく、その後の出来事での人間の応答が問われているのです。人間は間違える者です。ですから、「間違ったときに、どうするのか?」をわたしたちは考えるように促されているのです。

神さまからどこに居るのかとたずねられたとき、アダムは神さまに対して、自分の責任を引き受けずに、女性になすりつけて言い逃れをします。残念ながら、女性も同じように責任を蛇になすりつけて言い逃れをしてしまいます。

それまで、すべてをさらけだす、裸の状態であっても「恥ずかしがりはしなかった」、互いに隠すことのない交わりの状態にあった、二人でしたが、「善悪の知識の木」の実を取って食べた結果、互いにすべてをさらけだして交わることが出来なくなってしまっています。この信頼関係が壊れてしまったことが、本来の人間らしい生命が破壊された出来事であり、これこそが「死」に至る「罪」の行為であったのです。神さまが、善悪の知識の木からとって「食べると必ず死んでしまう。」と言われていたのは、生物としての生命ではなく、この交わりが壊れてしまい、信頼関係が死んでしまうことを指していたのです。

では、人間が善悪の判断をすることは、どうして積極的には肯定されないのでしょうか。それは、わたしたち人間のする判断は、どこまでも自分にとって「都合が良いか、悪いか」という判断でしかないからです。すべての人にとって何が良いことなのかという判断ではなく、一人一人のわたしにとって「都合が良いか、悪いか」という判断は、互いに利害関係はかみ合いません。それゆえわたしたちの世界は、愛し合い、分かち合い、支え合う世界ではなく、憎み合い、奪い合い、足を引っ張り合う世界に、いまだ止まっているのです。

この失楽園物語は、神さまによって、互いに愛し合い、分かちあい、仕え合うように、生命を与えられたにもかかわらず、愛し合えず、仕え会うことが出来ないわたしたちに対して、間違えたときには真摯に反省し、壊れた信頼関係を再び紡いで行くように励ましてくれていることをご一緒に憶えたいと思います。

また現在の男性中心の社会で、女性が蔑ろにされている、この世界の現状は、信頼関係が壊されて、自己中心的な生き方を続けている、わたしたちの反省の出来ない生き方の結果です。ですから、男女平等が実現するように、働いて行くことが、わたしたちが神さまからの「どこにいるのか?」という質問に答える歩みになるのだということも、ともに憶えたいと思います。神さまによって、交わりの中に送り出されているわたしたちの生命が、光り輝くようにキャンパス生活を送って参りましょう。 (チャプレン 後藤香織)


主の恵み

【旧約聖書 創世記2章18~25節】
2:18 主なる神は言われた。「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」
2:19 主なる神は、野のあらゆる獣、空のあらゆる鳥を土で形づくり、人のところへ持って来て、人がそれぞれをどう呼ぶか見ておられた。人が呼ぶと、それはすべて、生き物の名となった。
2:20 人はあらゆる家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名を付けたが、自分に合う助ける者は見つけることができなかった。
2:21 主なる神はそこで、人を深い眠りに落とされた。人が眠り込むと、あばら骨の一部を抜き取り、その跡を肉でふさがれた。
2:22 そして、人から抜き取ったあばら骨で女を造り上げられた。主なる神が彼女を人のところへ連れて来られると、
2:23 人は言った。「ついに、これこそ/わたしの骨の骨/わたしの肉の肉。これをこそ、女(イシャー)と呼ぼう/まさに、男(イシュ)から取られたものだから。」
2:24 こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。
2:25 人と妻は二人とも裸であったが、恥ずかしがりはしなかった。

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今日の聖書も、旧約聖書の創世記から選ばせていただきました。

創世記1章は、神さまがこの世界をとても素晴らしい世界として創造され、わたしたち人間を神さまの似姿に造られて、一人ひとりがかけがえのない存在であることを明らかにしてくださっていました。ところが、今日の2章18節は、「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」と記されています。とても素晴らしい世界に造られたのに、良くないと言われています。その理由は、1章の天地創造の話しと、2章の人間を造られたお話しは直接には続いていないからなのですが、ここで聖書は人間が孤独な状態が、神さまの創造の目的に適っていない状態で、良くないことなのだと語るのです。

このお話しは、もともと村の共同体の中で、長老が結婚適齢期の若者を集めて、結婚について教えるために語り継がれて来た物語であったと考えられています。その証拠が、24節の「こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。」という言葉です。
人間はそもそも一人ぼっちで生きる存在ではないこと、誰かといっしょにに生きるように造られたことを、「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」と念を押しているのです。そしてさらに19節では、神さまが「野のあらゆる獣、空のあらゆる鳥を土で形づくり」人の所に連れて来ますが、動物の中には「自分にあう助ける者は見つけることが出来なかった」と報告しています。現代のペットを擬人化し、家族同様に思う人を生み出しているペットブームの中では、非難されそうな記述ですが、動物の中には「ふさわしい助ける者」は見つけられなかったと、聖書は語るのです。

この2章の創造物語で、7節にあるように人間は土のちりで形造られ、その鼻に神さまから「命の息」を吹き込まれて「生きる者」となっています。「生きる者」であるのは、人間も海の魚や動物、空の鳥など、他の動物などと同じですが、他の生き物とは違って、特別に「命の息」が神さまにより直接吹き込まれて造られたこと、すなわち神さまに似る者として、神さまのかたちに造られたことが語られています。
そのように人間の尊厳について語られている箇所であるにもかかわらず、残念なことに、この2章の創造物語は、しばしば女性差別を肯定するように読まれてきた歴史があります。わたしたち柳城学院が、新たに柳城女子大学という形で、男女間の扱いの違いを無くして行こうと言う時代に、わざわざ女性に特化した教育を選び取っている理由は、まさに女性への不平等を解消して行くことがその理由に挙げられます。だからこそ、この創造物語がしっかりと男女平等を語っているということを、柳城生の皆さんには知っていてもらいたいと思います。
今日はしっかりと触れることは出来ませんが、例えば、2章18節の「彼に合う助ける者」という表現があります。この「助ける」が誤解され、なぜか女性が「男の補助者」として造られたのだと解釈されることが多くありました。しかし、この「助ける」は、ヘブル語では「エーゼル・ケネグドー」ですが、神さま自身が弱い人間を助けるために働いてくださるときに使われる単語です。「助ける者」は、その存在が無ければ欠けを生じてしまうほど、互いに必要な存在を意味しているのです。女性も、男性も互いに助ける者として尊重し合う、存在としてあることを今日の聖書の箇所は教えているのです。

さて、このお話しは結婚の準備のお話しだと申し上げましたが、24節では人間が親離れすることがまず語られます。成人した二人がともに「ふさわしい助ける者」同士、互いを大切にして、助け合い、愛し合って過ごしてゆく、人間の人生の歩みが豊かな出来事として記されています。未熟で、独りでは生きて行けないから、助ける者の存在が必要なのではありません。「自立」した二人が、互いに交わることで、お互いの違いを楽しんでいくことが、人生の醍醐味なのだと教えてくれているのです。
この後、人間が神さまとの約束を破って、「善悪の知識の木」の実をとって食べ、罪が入ってしまった時、二人の人間は、責任の擦りあいを始めてしまいます。それ以来人間の歴史は、お互いに愛し合い、支え合い、分かち合う歩みではなく、足を引っ張り、憎み合って争い、奪い合う歩みに終始することになります。家族の中でも、社会の中でも自己中心的な歩みをしているわたしたちは、せっかく神さまが、交わりの中に、わたしたちの生命を与えてくれたにもかかわらず、その交わりを喜べなくなっています。わたしたちの最大の悩みは人間関係です。良い形で人間関係を結べませんので、わたしたちは今日の聖書の呼びかけとは反対に「ひとりでいるほうが良い」のだと感じてしまうほどです。
にもかかわらず、「一人でいた方が楽だ」、「人と交わらずに、人間関係で悩まないことが幸せだ」と交わりを紡ぐことを諦めているわたしたちにとって、「人がひとりでいるのは良くない」という神さまの言葉は、どこか心惹かれる言葉です。神さまは、わたしたちが散々人との関係で傷つけられ続けていても、独りでないことがわたしたちが生命を与えられた目的なのだと力強く語りかけてくださるのです。人は、みんな違った存在です。でもその違いゆえに、わたしたちはお互いに助け合う機会が与えられるのです。わたしが一人では経験出来ないことが、互いに交わりの中で分かち合えるのです。さまざまにちがうわたしたちが、実際には互いに支え合い、分かちあい、愛し合うことが出来ずに傷つけ合うことが多かったとしても、誰かといっしょに歩むことの方が、一人で何ごともなく、過ごすことよりは「良い」のだと教えられているのです。

ですから、独りでいないで、交わるように生命を与えられていることを、積極的に受けとめて、傷つけ合うのでは無く、愛し合い、支え合い、分かち合う交わりを、この柳城での生活の中で紡いで行きたいと思います。  (チャプレン 後藤 香織)


折り紙チューリップ

【創世記12:1~9】
12:1 主はアブラムに言われた。「あなたは生まれ故郷/父の家を離れて/わたしが示す地に行きなさい。
12:2 わたしはあなたを大いなる国民にし/あなたを祝福し、あなたの名を高める/祝福の源となるように。
12:3 あなたを祝福する人をわたしは祝福し/あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて/あなたによって祝福に入る。」
12:4 アブラムは、主の言葉に従って旅立った。ロトも共に行った。アブラムは、ハランを出発したとき七十五歳であった。
12:5 アブラムは妻のサライ、甥のロトを連れ、蓄えた財産をすべて携え、ハランで加わった人々と共にカナン地方へ向かって出発し、カナン地方に入った。
12:6 アブラムはその地を通り、シケムの聖所、モレの樫の木まで来た。当時、その地方にはカナン人が住んでいた。
12:7 主はアブラムに現れて、言われた。「あなたの子孫にこの土地を与える。」アブラムは、彼に現れた主のために、そこに祭壇を築いた。
12:8 アブラムは、そこからベテルの東の山へ移り、西にベテル、東にアイを望む所に天幕を張って、そこにも主のために祭壇を築き、主の御名を呼んだ。
12:9 アブラムは更に旅を続け、ネゲブ地方へ移った。

✝ ✝ ✝

旧約聖書の創世記の中で、神はアブラハムという人物に対して、あなたは生まれ故郷を離れ、わたしが示す地へと旅立て、と言います。このアブラハムという人は、後に信仰の父と言われるようになる重要な人物です。そんなアブラハムは、神の言葉に従って、故郷を離れ、まだ見ぬ世界を目指して旅立ちます。
当初、アブラハムは、カルデアのウル、というところに住んでいました。彼はそこから旅立ち、ユダヤ民族の基礎を築くことになります。アブラハムが、神の呼びかけに応えて、生まれ故郷を離れて旅立ったことから、ユダヤ・キリスト教歴史がスタートしたとも言えます。

先ほどの聖書の箇所を読みますと、神は、アブラハムに旅立て、と言っているのですが、しかし、どこに向かってかについては、はっきりと言わず、目的地は曖昧でありました。というのも、ここでは、目的地よりも旅立つこと、そのものが重要であったからです。
「主はアブラムに言われた。『あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい。』
これが何を意味するかというと、慣れ親しんだ故郷から、あるいは、同じようなバックグラウンドを持って固まって生きる人たちの間から離れて、旅立て、ということでもあります。
この神の呼びかけに応えて歩むアブラハムの姿こそ、ユダヤ教、キリスト教のアイデンティティ、自己理解を示すものでもあると思います。そしてそれは、キリスト教主義の学校である柳城が、どのような学びの共同体なのかを、表すものでもあります。
それはつまり、私たちは、当然と感じて慣れ親しんでいる場所や人のつながり、すなわち、地縁や血縁、住み慣れた場所から離れ、神の示す地に向けて、共に旅をする者たちだ、ということです。
私たちは、家族や親戚からの視線、地域の目、社会の常識に、縛られながら生きています。そんな中で、私たちは、今日、あらゆることに対して、安定を求めがちです。そして、自分の人生を旅として歩むことに臆病になっています。しかし、人生とは、何かマニュアルに沿って、与えられた台本をなぞるようなものではないはずです。人生は、本来、旅でありましょう。今日の聖書の物語は、私たちをしばっている当たり前、秩序、安定、マニュアルから離れ、旅立つことを促しています。

私たちは、今、この柳城という、キリスト教会によって建てられた学校で過ごしています。それは、私たちが、神の呼びかけ、すなわち「わたしが示す地に行きなさい」という呼びかけに応え、共に旅をする者たち者たちとして、招かれている、ということを意味します。真理を求め、そして、愛をもって人々に仕えていくために、共に旅をする仲間として、今、ここに招かれている、ということです。柳城の一員として、本当に大切なことは何かを探し求め、常識に安住せず、共に旅をし続ける者たちでありたいと思います。
(チャプレン 相原太郎)


香るスイートアリッサム

【旧約聖書 創世記1章26~31節】
1:26 神は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」
1:27 神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。
1:28 神は彼らを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」
1:29 神は言われた。「見よ、全地に生える、種を持つ草と種を持つ実をつける木を、すべてあなたたちに与えよう。それがあなたたちの食べ物となる。
1:30 地の獣、空の鳥、地を這うものなど、すべて命あるものにはあらゆる青草を食べさせよう。」そのようになった。
1:31 神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。夕べがあり、朝があった。第六の日である。

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 今日の聖書は、旧約聖書の一番初めの書物である、創世記から選ばせていただきました。と言っても、旧約聖書って、何? と、思っている方もいらっしゃるでしょう。旧約聖書の旧約は、「旧い契約」という意味の言葉です。キリスト教には、「新しい契約」を記した「新約聖書」があるので、神さまとの最初の約束を旧い契約、旧約と呼んでいます。
しかし、ユダヤ教やイスラム教では、旧約聖書での神さまとの約束は、決して旧いものではありませんので、「旧約」とは呼ばれませんし、あまりにもキリスト教中心の呼び方ですから、最近は旧約聖書ではなく「ヘブライ語聖書」と呼ぶようになってきています。

さて、今日は旧約聖書創世記の朗読、神さまがこの世界を造られ、わたしたち人間も造られたという「天地創造」のお話しを聴きました。
日本には、この創世記のお話しを歴史的な事実だと受けとめている人は少ないのですが、アメリカでは、たとえばアーカンソー州という州では、現在でも公立高校でこの「天地創造」の物語を、歴史的な事実として自然科学の時間に教えることが許されています。
自然科学で進化論を教えられてきた、わたしたちにとってはビックリするような状況がアメリカにはありますが、では、この創世記の神さまがこの世界を造ったというお話しは、おとぎ話のような、もっといえば単なる作り話なのでしょうか?
もちろん、この「天地創造」の物語は、起こった出来事を、正確に記録しているという意味では、歴史的事実ではありません。しかし、おとぎ話のような、作り話なのかといわれれば、それは違います。
聖書のお話しは、すべてが歴史的な事実ではないかもしれませんが、この聖書を記した人たちが、その人生をどう生きたのか、その人生の出来事で何か感じ、何がこの世の中の確かなものであると確信したのかという、その人たちの真実の告白の記述なのです。
この聖書を記述した人たちが、困難な中にあっても、神さまの確かな導きを信じて、その恵みに希望を与えられて、神さまを讃美した信仰の叫びなのです。

では、聖書の内容に聴いてみましょう。
26節で「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう」という神さまの言葉が記されています。すごい言葉です。みなさん、そう思いませんか?
なぜなら、この聖書の時代、神さまの形、神さまの像、イメージに造られたのは、王さまだけだったのです。王さまは、神さまの形につくられているからこそ、人々に命令をすることが出来ました。
しかし、聖書はすべての人がみな等しく神の形につくられた、素晴らしい存在であると語っているのです。
社会の中で、その存在を否定され、貶められている、わたしたちの人間性を回復し、わたしたちの存在そのものが、かけがえのない尊いものなのだと聖書は語るのです。
聖書は、わたしたち人間社会が持っている、階級制度を批判し、人間の間には、尊いものと卑しいもの、身分の高いものと低いもの、支配するものと支配されるもの、力を持つものと力を奪われているものというような、分け隔てがあってはいけないのだと語るのです。
31節で、「身よ、それは極めて良かった」と言われているその内容は、互いに愛し合うことが出来ずに、奪い合い、傷つけあって、人生を謳歌できずに生きているわたしたちに、わたしたちが本来与えられている、神の似姿を回復し、互いに愛し合い、支え合い、分かち合う世界を回復するようにという励ましの言葉なのです。

今日わたしたちは、極めて良い存在として、生命を与えてくださり、その生命を光り輝かせて生きるようにと祈ってくださっている神さまの招きに、応えて歩みを始めて行きましょう。
(チャプレン 後藤 香織)


スノーフレーク

【ヨハネによる福音書13:31-35】
13:31 さて、ユダが出て行くと、イエスは言われた。「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった。
13:32 神が人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神も御自身によって人の子に栄光をお与えになる。しかも、すぐにお与えになる。
13:33 子たちよ、いましばらく、わたしはあなたがたと共にいる。あなたがたはわたしを捜すだろう。『わたしが行く所にあなたたちは来ることができない』とユダヤ人たちに言ったように、今、あなたがたにも同じことを言っておく。
13:34 あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。
13:35 互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」

✝ ✝ ✝

柳城では、さまざまな場面で、愛という言葉が、繰り返し登場します。そして、愛という言葉は、聖書の中でも、最も重要なキーワードだと思います。しかし、その一方で、この言葉は、誤解を生みやすい言葉でもあります。
例えば、「人を愛しましょう」という言葉は、誰にとっても特に違和感がないと思えます。しかし、聖書の中で描かれるイエスの愛は、私たちが思い描くような、誰にでも受け入れられるようなものではありませんでした。むしろ、社会を混乱させるようなものとも言えました。

具体的にどのようなものだったのか、一つの例を紹介します。それは、ベトザタの池というところで、イエスが病人を癒やした、という出来事です。
イエスが、池のほとりを歩いていると、長い間、病気で苦しんでいる人が、そこに横たわっているのを見つけます。イエスは彼に近づき、その病人を癒やされます。このイエスの癒しの行為が、当時の宗教指導者たちの間で、大きな問題となりました。というのも、イエスがその人を癒した日が、安息日という日であったからでした。安息日とは、ユダヤ教の規定に基づいて、仕事をしてはならない日として厳しく決められている日でした。安息日にできることは限られていました。イエスによる癒しの行為も、安息日にしてはならないことの一つとみなされました。しかし、イエスは、その病人を放置することができず、その人を癒やされました。
この安息日の癒しの行為は一つの例ですが、イエスは、当時の社会の価値観や常識を超えて、出会った人、一人一人を愛し、大切にされたのでした。しかしそれは当時の支配層、指導者たちにとっては問題でありました。社会の安定や秩序を崩す、不穏当なものであったからです。このイエスがこの病人を癒やされた後に、何が起きたかについて、聖書は次にように記録しています。
「このために、ユダヤ人たちは、ますます、イエスを殺そうと、ねらうようになった。」

池のほとりでの病人の癒しの出来事は、イエスが、十字架で処刑されるにいたる、その引き金となった事件とも言えます。十字架とは、政府の転覆を企てようとした人などに対する処刑方法です。このように、イエスは、自分の立場が危うくなるかもしれない、命が狙われるかもしれない、それでもなお、出会ってしまった一人ひとりを大事にしていかれました。これがイエスの語る愛でありました。それは、この世的な評価、自分にとってのメリット、といったことを抜きにして、具体的に出会った人を、心底大切にしていく、ということでした。こうした愛こそが、イエスの教えに連なる私たちの学びの基礎にある、ということを、改めて覚えたいと思います。

そのためにも、まずは、イエス自身が私たちのことを愛してくださっている、ということを心にとめていきたいと思います。イエスは言います。
「私があなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」
ここでイエスが述べている「あなたがた」とは、今、ここにいる私たちも含まれています。イエスは、他ならぬ私たち一人ひとりを、愛してくださっている。十字架で苦しめられてもなお、大切にしてくださっている、ということです。そのような私たちであるからこそ、たとえ、自分にメリットがなくても、世間から評価されないことがあっても、イエスの言われた「互いに愛し合いなさい」に、こだわってまいりたいと思います。   (チャプレン 相原太郎)


柳城のサクラ

【ガラテヤの信徒への手紙5:13~15】
5:13 兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。
5:14 律法全体は、「隣人を自分のように愛しなさい」という一句によって全うされるからです。
5:15 だが、互いにかみ合い、共食いしているのなら、互いに滅ぼされないように注意しなさい。

✝ ✝ ✝

 私たちは、人との関わりの中で生きています。すなわちそのことは、私たちが、自分自身の人生、自分自身の時間、自分自身の命を、他の人と少しずつ分かち合いながら、あるいは削りながら生きている、ということです。人は、ただ、生物学的な自分自身の命を、ただ長引かせるために生きているわけではありません。
今、ウクライナで大変なことが起きています。ロシアによる軍事侵攻の即時停止を求めます。そして、皆様も、少しでも自分にできることはないか、と思っているのではと思います。例えば、募金をする、SNSで発信する、デモに参加する、ウクライナの人々を覚えて祈る、と言ったことも、自分の時間を使って、自分を削って、自分を他者のために用いる、ということでありましょう。

自分を他者のために用いることの大切さを、長い生涯において家族以外の場で初めて見出すのはどこでありましょう。それは、おそらく、多くの人にとっては、これからみなさまの多くが働かれる、保育や幼児教育の場ではないかと思います。
他人に出会わなければ、傷つかずにすみます。オンラインであれば、隣に誰がいるかを気にしなくていいかもしれません。誰とも会わなければ、あるいは、短い間だけの接触であれば、大変な思いをしている人がいるという現実が、直接、自分の生活に入り込んでくることもないかもしれません。
人と人とが出会い、長い時間を一緒に過ごせば、意見のすれ違いもあります。傷つくこともあります。しかし、それでも、私たちは、人と出会うことによって、喜びを分かち合い、悲しみを共有します。自分自身だけの心地よさを超えて人と向き合うとき、自分を他者のために用いること、共に生きることの素晴らしさ、豊かさを知ることができます。そのようなことを、最初に味わう場所、それこそが、幼稚園や保育園でありましょう。

自分の時間、自分の命を度外視して、隣人を大切にする、というのは、キリスト教でいう「愛」ということでもあります。そして、その「愛」とは、親しい家族や仲間だけを大事にする、ということではありません。隣人を愛する、ということは、自分の損得勘定を超え、自分にとって都合がよくない人をも大切にする、ということです。また特に、この社会の中で隅に追いやられている人を、あるいは弱い子どもたちを、たとえ自分の命が、あるいは命の一部が、あるいはまた、自分の貴重な時間の一部が損なわれても、かけがえのない人として大事にする、ということです。

そして、このことは、この2年間、自らの感染リスクと向き合いながら、それでも本学で学び続け、実習をしてこられたみなさんが、体験的に学ばれてきたことです。これまでの卒業生とは、次元の異なる、大変な学びの経験をされたことを、どうぞ大切にしていただきたいと思います。 (チャプレン 相原太郎)


クリスマスローズ

【コロサイの信徒への手紙 3:12~14】
3:12 あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。
3:13 互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。
3:14 これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです。

✝ ✝ ✝

 本学の今年の聖句は、「愛は、すべてを完成させるきずな」でありました。この「きずな」という言葉を聞くと、何かその人と仲良くなる、あるいはその人のことを好きになる、というようなイメージを持つかもしれません。
しかし、「きずな」あるいは「愛する」というのは、好き嫌いといったことではなくて、相手の存在を大切にするということです。逆に、「きずな」、「愛する」の反対語とは、嫌いになる、ということではなくて、関わりを持たないこと、無視すること、無関心でいること、無責任であること、ということであると思います。

私たちは、人と出会うとき、この人は自分には関係ない、あの人は部外者だ、と判断してしまうことがよくあると思います。そして、自分に直接関係がある人、あるいは自分に役立ちそうと思う人、そんな人ばかりを大事にしてしまいます。だとすると、結局、人との関係は自分中心であり、自分の中に閉じているということであり、自分のためでしかなくなってしまいます。相手に関心を持っているようで、実は関心は自分にあり、相手そのものには無関心であったりします。そのような関係は「きずな」とは言えません。
「きずな」とは、自分に利益があろうがなかろうが、出会った人のこと、あるいは隣人に、損得勘定抜きに、関心を持つことだと思います。そして、好き嫌いとは無関係に、一人一人を、かけがえのない人として理解すること。そうした中での関係こそが、「きずな」であり、柳城が大切にしている、「愛」ということでありましょう。

聖書で示される神が、まさにそのような方です。神は、その存在全てをかけて、損得勘定抜きに、私たちに関わってくださいます。
神の子であるイエスは、自分の立場が、そして自分の命そのものがどうなろうとも、この世の誰からも見向きもされない人に常に寄り添い、徹底して大切にされました。そして、最後には、十字架によって命を落とされ、神の子でありながら、苦しみと死を経験されました。

そのようにして、神は、世界のあらゆる人を一人残らず、部外者にすることなく、かけがえのない人として大切にしておられます。そのような、神からの愛を受けている者として私たちは、出会う人、隣にいる人、一人一人を、損得勘定抜きに、関心を持ち、大切にし、愛すること。そのようにして、きずなを深めていくことができたらと思います。  (チャプレン 相原太郎)


キンカンとラズベリー

【ローマの信徒への手紙 第8章18、24~25節】
8:18 現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います。
8:24 わたしたちは、このような希望によって救われているのです。見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。
8:25 わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。

〈アイコンをクリックすると下原太介チャプレンのお話が聞けます〉

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