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【コリントの信徒への手紙一 12章4~11節】
12:4 賜物にはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ霊です。
12:5 務めにはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ主です。
12:6 働きにはいろいろありますが、すべての場合にすべてのことをなさるのは同じ神です。
12:7 一人一人に“霊”の働きが現れるのは、全体の益となるためです。
12:8 ある人には“霊”によって知恵の言葉、ある人には同じ“霊”によって知識の言葉が与えられ、
12:9 ある人にはその同じ“霊”によって信仰、ある人にはこの唯一の“霊”によって病気をいやす力、
12:10 ある人には奇跡を行う力、ある人には預言する力、ある人には霊を見分ける力、ある人には種々の異言を語る力、ある人には異言を解釈する力が与えられています。
12:11 これらすべてのことは、同じ唯一の“霊”の働きであって、“霊”は望むままに、それを一人一人に分け与えてくださるのです。

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私は柳城に勤めた最初の年に東日本大震災の話しをさせてもらい、今日はこうして、柳城での最後の年に話す機会が与えられました。このような配慮を有難く思います。

さて、最近思っていることですが、こうして年を重ねてくると、自分の時間とか人生に関する感覚というか考え方が変化していることを感じます。例えば、時間の経過が加速度的に速く感じたり、人生のゴールを想定してゴールから物事を考えたりするとかです。また、「年寄りの繰り言」と言われる通り、年を取ると、同じ話や昔話を何度も繰り返すようになるのですが、それは死というものを意識するような年齢になると自分の人生の意味を考えるからだと心理学的に説明されていて、ごく自然なことなんだと自分でも納得しています。ちなみにエリクソンはこの現象を「老年期における自我の統合」という言葉で表現しています。さらに、人には「レミニッセンス・バンプ」とか「記憶のこぶ」といって、強く記憶に残っている時期があります。もちろん最近のことは誰でも良く覚えていますが、10代後半から20代の思春期・青年期の頃を特に良く思い出すようです。たとえば、認知症の方でも自分が輝いていたこの時代に戻ることがあります。

ということで、私自身も今日の話しのテーマを「私のたからもの」にして、自分を振り返ってみたいと思った次第です。

私は子どもの頃から「人は使命を持って生まれてくる。では、自分の使命は何だろう、どう生きたらいいのだろう」と考えるようになり、信念とか使命という言葉に憧れていました。そんな思いで自分の道を長年探しながら、私は多くの人と出会い、豊かな時間をいただきました。というのも、私は、たまたまですが、色々な学校で学び、いくつかの町に住み、多様な職場、特に看護・保健・介護の分野、つまり対人援助職という分野で働く過程で、多くの人と出会い、様々な方の人生に触れながら豊かな時間を過ごすことができたのです。これが私のたからものだと今では思っています。

そういう中で、私は自分の使命として看護の道を最初に求めましたが、看護学生になっても自分の道に確信が持てなくて悩んで別の道を探したこともあります。それでも、看護の最初の実習が始まり、その時出会った忘れられない患者さんがいます。血液内科に再生不良性貧血で入院していた若い重症患者さんです。廊下側のベッドにいて、私たちにさわやかな笑顔を見せ冗談も飛ばすような方でしたが、突然次の日にそのベッドが空いていたのです。10代後半で、それまで死に向きあったことのない私には非常にショックでした。また、その実習で、必修ではない解剖にも立ち会ったのですが、解剖室に横たわっている人は私には蝋人形にしか見えず、うまく言えませんが、解剖の最中は悲しいなどといった感情がわいてこない状態でした。でも、解剖が終わったときに、実習のメンバーの一人が泣き出し、それがきっかけになって、私にも一気に感情が戻ってきて、解剖されたのは亡くなった人だったんだとやっと感じることができて、涙が出ました。

その後も、人の生とか死について答えのない問いが私の心に残りましたが、看護の実習を重ねるうちに、体育教師になるのが夢だった白血病の中学生とか、1型糖尿病で幼少期からおやつを我慢してきた若い女性とかに出会いながら、この道でよかったんだなと自然に思えるようになりました。ただ、私には病院よりも地域で働きたいという思いが強かったので、保健師の資格を取ったりもしました。ここにいる皆さんも対人援助職に就こうとしているわけで、これから色々な人に出会うと思います。私も次の場所でどんな人と出会えるのかが楽しみです。

最後に皆さんへお伝えしたいのは、無力感に陥ったり、理不尽だなと思うような時の対応についてです。そんなケースに出会った時には、そのままを受け入れて耐えていくことも時には必要だと、私は最近感じるようになりました。自分の道がこれでよかったと思えるなら、耐える力も生まれるということでしょうか。実は、この力には名前がついていることを私は数年前に知りました。それはネガティブ・ケイパビリティ(答えの出ない事態に耐える力)という言葉です。本日は、この言葉でもってお話を終わりたいと思います。

(名古屋柳城短期大学 教授 芝田郁子)

【マタイによる福音書 2章1~12節】
2:1 イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、
2:2 言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」
2:3 これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。
2:4 王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。
2:5 彼らは言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。
2:6 『ユダの地、ベツレヘムよ、/お前はユダの指導者たちの中で/決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、/わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」
2:7 そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。
2:8 そして、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と言ってベツレヘムへ送り出した。
2:9 彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。
2:10 学者たちはその星を見て喜びにあふれた。
2:11 家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。
2:12 ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。

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 イエスの誕生を祝い、大切な宝を差し出したのは、ユダヤ人ではなく、むしろユダヤ人にとっては、あまりイメージのよくない、東のほうから来た外国人の博士たちでした。この物語において、重要なポイントとなるのが、ユダヤ人が長い間、心待ちにしていた救い主の誕生を祝ったのが、実はユダヤ人ではなかった、ということです。
その博士たちとは逆の振る舞いをしたのが、ユダヤのヘロデ王です。ヘロデは、新しい王が誕生した、という情報を聞きます。すると、自分が築いてきた王としての立場が失われるかもしれないと、不安に陥ります。不安を抱いたのは、ヘロデ王だけではありませんでした。エルサレムの人も同様に不安を抱いたことが描かれています。救い主の誕生に不安を抱いたのは、エルサレムの人々全体の共通認識でした。
エルサレムは、ローマ帝国の支配の中で、さまざまな問題があるものの、表向きには日々の生活が成り立っていました。そんな中で、救い主が現れると、現在の自分たちの暮らしが大きく変化してしまうかもしれないと考えました。だからこそ、ヘロデ王だけでなく、イスラエルの人々も、メシアの登場を恐れたわけです。

そのような不安な気持ちとは、まったく異なる行動を取ったのが3人の博士たちでした。救い主、メシアとは、ユダヤ人の王となる人物です。しかし、博士たちはユダヤ人ではありません。博士たちが、わざわざ異国の地に赴くということは、その星が示すメシアが、ユダヤ地方の単なる民族の王としてのメシアを、超えるような存在になるかもしれないと考えたのかもしれません。異国の地にまで赴いた博士たちの行動には、これまでの生活が変わるかもしれないという、覚悟のようなものが感じられます。

ところが、そんな博士たちに意外な光景が待ち受けていました。星をたよりに、新しい王の誕生を探し求めて旅をすると、ついに星が止まりました。しかし、そこはヘロデ王がいるような王の宮殿ではなく、貧しい寒村の小さな家でした。そして中に入ってみると、そこにいたのは若き母マリア、そして幼子イエスでした。

博士たちは、ユダヤ王国の権力の頂点にいるヘロデ王から送り出されて、ベツレヘムに向かいました。博士たちは、ユダヤの王の姿がどういうものかを、実際に会って理解しているわけです。そして、そのヘロデ王を超えていくような王の登場を想定したわけです。しかし、星をたよりに旅をすると、そこにあったのは、ただの家でありました。そして、中に入ってみたら、若い母親、そしてその横に幼子がいるだけでした。普通に考えれば、これが本当に王なのかと、疑問に思うかもしれません。

しかし、博士たちは、そこから驚くべき行動に出ます。博士たちは疑問に思うどころか、その幼子の前にひれ伏し、幼子を拝んだのでした。そして、それまで大事にしてきた黄金、乳香、没薬を贈り物としてイエスに献げたのでした。

幼子はそこにただ寝ていただけかもしれません。泣いていただけかもしれません。ただの幼子としてこの世に生まれ、マリアに頼らなければ何もできないイエス。しかし、星の知らせ、言い換えれば、神からのメッセージを通じて、その何もできない無力な幼子こそ、救い主であるという決定的な価値の転換が博士たちに起きたのでした。それゆえに博士たちは、これまで最も大切にしてきたものを手放しました。

神は、私たちのためにその独り子を無力な者として私たちに差し出されました。そのようにして、神は神ご自身をこの世に差し出されました。しかも、何もできない幼子として、この世に投げ出されました。だからこそ、博士たちにも決定的な価値転換が起こり、これまで大事だと思っていたものを、投げ出すことが可能となったわけです。

私たち人間は、どこまでも自己中心的で、自己保身に走ってしまいます。隣人を愛するよりも、自分を愛することを優先してしまいます。そんな私たちに人間に対して、神自身が、あえて人となられました。しかも、幼子、無力な者となられました。それはすなわち、神ご自身がその立場を自ら捨てたということです。そのようにして、神は人間に徹底して寄り添い、私たちが、自分だけでなく、隣人を自分のように愛することが可能であることを示されました。

クリスマス。神は、その愛のゆえに、自ら身を差し出して、イエス・キリストを幼子としてこの世に遣わされます。それゆえに、博士たちは、それまで最も大切にしてきたものを差し出します。私たちも、また、自分自身を差し出して、愛によって人に仕える道へと旅立つ、そんなクリスマス、そして来るべき2022年になればと思います。  (チャプレン 相原太郎)


スイートアリッサム

【マタイによる福音書 11章2~6節】
11:2 ヨハネは牢の中で、キリストのなさったことを聞いた。そこで、自分の弟子たちを送って、
11:3 尋ねさせた。「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」
11:4 イエスはお答えになった。「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。
11:5 目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。
11:6 わたしにつまずかない人は幸いである。」

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 物語は、牢獄の中にいる洗礼者ヨハネという人についてです。イエスに洗礼を授けた人です。
ヨハネが生きていた当時のユダヤ地方は、ローマ帝国という大国によって支配されていました。重い税金が課せられ、ローマの軍隊が駐留し、逆らうことなどできませんでした。ローマ皇帝を神の子として拝みなさいと、礼拝も強制されていました。さらに、そのローマに忠誠を誓うヘロデというユダヤ地方の王は、ローマの操り人形のようになっていました。人々の心は荒み、希望は失われていました。これが、その頃のユダヤ社会の状況です。

そんな中で、ヨハネは、ユダヤの指導者たち、そしてその支配を甘んじて受け入れて暮らしている人々に対して、変革のヴィジョンを訴えました。彼の言葉は、希望を失っている人々の心を突き動かしました。貧しい大工として暮らしていたイエスもまた、ヨハネの言葉と行いに大いに共感しました。そんな中で、イエスと出会ったヨハネは、彼こそが、このユダヤを根本的に立て直すメシア、救い主だと期待しました。
その後ヨハネは、ヘロデ王の行動を強く批判し、王の怒りを買って逮捕され、牢獄に入れられてしまいました。いつ処刑されるかも分からないヨハネにとって唯一の希望は、イエスでした。

しかし、そんなヨハネの期待とは異なり、イエスがしていたことは、貧しい村々を回って病人を癒すこと、あるいは罪人と呼ばれていた人たちと一緒に食事をすることでした。そこで、牢獄にいるヨハネは、自分の弟子を通じて、イエスに尋ねるのでした。「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」
ヨハネの問いかけに対するイエスの返事は次の通りでした。「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。」

ヨハネは、かつての自分が洗礼を授けたイエスが、誰もが認めるメシアとして華々しく活躍することを期待していました。しかしながら、イエスがしていたこととは、病者を癒やし、罪人と呼ばれて生きづらくなっている人々と食卓の交わりをすることでした。そのようなイエスの行動は、地味で、パッとしない、頼りない、小さく見える出来事のように見えたかもしれません。しかしながら、このイエスの働きこそが、神の国、神の愛の支配が始まっているということの証そのものでありました。

私たちは、この世界の現実を見て、あるいは自分の置かれている厳しい境遇の中で、次のように思うかもしれません。なぜ神はこのようなことをされるのか、神だったらもっとこうしてくれるはずではないかと。
私たちはどうしても自分にとって都合がいいこと、理解できること、自分の願望を、神に投影しようとしてしまいます。しかし、神は必ずしも自分が思い描くことをしてくれるとは限りません。洗礼者ヨハネは、自分が思い描く理想をイエスに求めていました。しかし、イエスの答えは、ヨハネが期待するものとは違うものでした。

イエスが示された神の救いとは、人々を自分のところに集めて、誰にでもわかるように、自分が救い主であることを高らかに宣言し、その強い力で人々を支配するようなことではありませんでした。むしろ、この世では目立たない人たち、排除されている人たちのところに自ら出向き、一緒に食卓を囲む交わりをしていくことによって、それを示されました。イエスは十字架の死と復活に至るまで、そのような愛の業を貫き通され、神の支配の到来、神の愛の実現がどのようなものであるかを、私たちに示されたのでした。

まもなくクリスマスです。私たちはクリスマスについて、様々な期待を抱いていると思います。しかし、そんな私たちの期待を圧倒的に超えるような形で、そして意外な形で、喜びの知らせが実現する出来事の始まり、それがクリスマスです。私たちは、そこにこそ希望をもって、ご一緒にクリスマスを待ちたいと思います。(チャプレン 相原太郎)


柳城の晩秋

【マタイによる福音書 第2章1~2節】
2:1 イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、
2:2 言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」

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【マタイによる福音書 24章36~44節】
24:36 「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存じである。
24:37 人の子が来るのは、ノアの時と同じだからである。
24:38 洪水になる前は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた。
24:39 そして、洪水が襲って来て一人残らずさらうまで、何も気がつかなかった。人の子が来る場合も、このようである。
24:40 そのとき、畑に二人の男がいれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。
24:41 二人の女が臼をひいていれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。
24:42 だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないからである。
24:43 このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒が夜のいつごろやって来るかを知っていたら、目を覚ましていて、みすみす自分の家に押し入らせはしないだろう。
24:44 だから、あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」

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この箇所は世の終わりがテーマになっています。どうして楽しいクリスマス前のシーズンに、こんな箇所を読むだろうと不思議に思われるかもしれません。クリスマスはイエス・キリストの誕生をお祝いする日ですが、イエスの誕生と世の終わりには共通点があると教会では考えられています。その共通点とは、悲しみが喜びに変わること絶望が希望に変わることです。世の終わりがどうして喜びであり希望なのでしょう。

この箇所は、当時のユダヤ地方の政治的・宗教的な中心であったエルサレムの神殿が崩壊するということをイエスが語っている場面です。当時のユダヤの人々は神殿こそ神が住むところと考えていました。したがって、神殿が崩壊するとは、すなわち、信じていた神が消え去ってしまうこと、また、国もなくなり、自分たちの民族も終わってしまうことを意味していました。これは当時の人々の感覚としては、この世の終わりを意味するような出来事でした。したがって、神殿の崩壊などあってはならないことです。
その一方、ユダヤ地方はローマ帝国に支配されていました。そして、その圧制に苦しむユダヤの民衆とローマとは一触即発の状態でした。そんな中で、戦争が起きれば、ローマによって神殿が滅ぼされてしまうかもしれないとも思われていました。そんなこの世の終わりの時が来たら、自分たちはどうなってしまうのだろうとも考えられていました。
この世の終わりというと、恐ろしい終わりの時であり、それにびくびくしながら生きなければならない、と思うかもしれません。あるいは、どうせいつのことか分からないのだから、そんなことはできるだけ考えず、適当に日々を楽しく過ごせばよいと思うかもしれません。
しかし、イエスは、この世の終わりが近づいているのだから、「目を覚ましていなさい」と述べます。この「目を覚ましている」の原語は、「油断しない」とか「注意深くする」といったようなイメージの言葉です。それはすなわち、神から離れた生き方をしないようにする、という意味を持っています。私たちの世界は、この世の支配者を神のように思ってしまったり、あるいは、世俗社会の常識に押し流されてしまったりすることがあります。それらは神から離れた生き方と言えます。そうしたことがないように注意深く生きること、それが目を覚ましているということです。

なぜ、世の終わりに向けて注意深く生きることが求められるのでしょう。キリスト教において世の終わりとは、全てが終わってしまうということを意味していません。世の終わりとは、神の国が到来する、ということを意味しています。神の国の到来とは、神の支配が生と死を超えて完全に実現することです。そして、神の支配とは、別の表現をすれば、全てが神の愛で包まれることです。世界が神の愛で満たされるということです。したがって、世の終わりに向けて、つまり、世界が神の愛で満たされることに向けて、この世の権威や常識にとらわれずに、神の愛のもとで生きること、それが、目を覚まして生きる、ということです。

私たちの建学の精神は「愛をもって仕えよ」です。先ほどの文脈で考えれば、愛をもって他者に仕えることによって、世界が神の愛で満たされること、すなわち、この世の終わりを予め先取りして経験することでもあるということです。
この世界には、「愛をもって仕える」ことと反対の事柄で満ち溢れています。諦めたくなるような出来事が私たちの周りにも数多くあると思います。それは、イエスの時代もそうでありました。そんな中で、イエスはその生涯をかけて、十字架の死に至るまで、悲しむ人々、貧しい人々と共に住み、その涙をぬぐわれました。そのようなイエスとの出会いに、当時の人々は神の姿、神の愛の支配を見出したのでありました。イエスとの交わりは神の支配の先取りそのものでありました。

クリスマスとは、神の愛の実現の先取りとしての主イエスが到来する時です。であるからこそ、私たちも、この世界を諦めることなく、ただじっと現状に目をつぶって耐え忍ぶことなく、私たちの周りで起きている事柄に向き合って目を覚まして生きること、すなわち愛をもって仕えること、そのことを通して、来るべきクリスマスの喜びの時を待ち望みたいと思います。(チャプレン 相原太郎)


ハーブにチャレンジ

【ルカによる福音書 第1章28節】
天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」

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【マタイによる福音書 22章34~40節】

22:34 ファリサイ派の人々は、イエスがサドカイ派の人々を言い込められたと聞いて、一緒に集まった。
22:35 そのうちの一人、律法の専門家が、イエスを試そうとして尋ねた。
22:36 「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」
22:37 イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』
22:38 これが最も重要な第一の掟である。
22:39 第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』
22:40 律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」

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 「心を尽くして、精神を尽くして、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」これは当時のユダヤ教徒が毎日の朝夕に祈りの中で唱える言葉でした。ユダヤ教徒にとって間違いなく最も大切な掟です。つまり、イエスがこれを口にした時、誰もがそれは当然だと思ったということです。
しかしイエスは、続いて「隣人を自分のように愛しなさい」と述べ、これが最初の掟と同じように重要だと語ります。神を愛することと隣人を愛することは切り離せないというわけです。これこそがイエスの発言の最も特徴的なところです。そして、このことは当時のユダヤ教の指導者たちにとって大変厳しい批判となるものでもありました。

当時、ユダヤ教の律法には600以上の細かな掟があり、彼ら指導者たちはそれに従って生活をしていました。そして、彼らは、律法を守っているという自負がありました。それ故に、その裏返しとして、律法を守ることのできない人たちを軽蔑し、神から見放された者として、その人たちと交わることすらしませんでした。というのも、神が人間に対して要求していることは、律法の個々の掟を一つずつ忠実に守ることだと考えていたからです。だから律法を守らない人、守れない人は、神から離れた罪人だとしたわけです。宗教指導者たちは、いわば自分が神から愛されるために、律法の文言を頑なに守ろうとしました。また、隣人の範囲を自分たちと同じ価値観を持つ人たちに限定しました。

これと対照的なのがイエスでした。イエスは、律法から外れた罪人とされた人たち、つまり、神から愛されていないとみなされていた人たちに寄り添いました。イエスが、「隣人を自分のように愛しなさい」と指導者たちに語った時、イエスは具体的な人々の顔を思い起こしていたに違いありません。それは、イエスが、ガリラヤで伝道を始めて以降、出会ってきた人たち、すなわち罪人としてユダヤ社会における「隣人」という枠組みから排除された人たちのことです。イエスは、そうした人たちの顔を思い浮かべながら、あの彼ら彼女たちこそが私たちの隣人なのだ、神を愛することとは、彼ら彼女たちを隣人として、神から愛されているかけがえのない人として大切にすることにほかならないのだ、と語っているわけです。

イエスは、十字架の死に至るまで、ガリラヤで出会った人々の苦しみや悲しみを放っておくことは決してされませんでした。だからこそ、イエスは、宗教的政治的指導者のいる中心地であるエルサレムで、彼らと対決せざるをえませんでした。それは、ひとえに、イエスが彼らを隣人として自分のように愛したからにほかなりませんでした。そのようにして、神がすべての人を愛しておられることを示されました。

神はすべての人を愛され、悲しみにある人、悩みの中にある人を決してそのままにすることはありません。全ての人ですので、もちろん、今ここにいる私たちも、含まれます。ですので、私たちは、隣人を自分のように愛そうとするその基礎として、自分自身が神に愛されているということを今日確認したいと思います。そして、イエスが当時の社会から排除されていた人たちを隣人として大切にしていかれたように、私たちも、誰一人排除することなく、隣人を自分のように愛する働きを、ご一緒に担っていければと思います。
(チャプレン 相原太郎)


フレーベルの折り紙

【マタイによる福音書 6章25~34】
6:25 「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。
6:26 空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。
6:27 あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。
6:28 なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。
6:29 しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。
6:30 今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。
6:31 だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。
6:32 それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。
6:33 何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。
6:34 だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」

✝ ✝ ✝

 この話は、有名な山上の説教、「心の貧しい人々は、幸いである」から始まるイエスの教えに含まれるものです。その説教の冒頭に次のように書かれています。「イエスはこの群衆を見て、山に登られた。」。山上の説教は、この群衆に語りかけたものですが、それがどんな人達なのかについてその直前に書かれています。
「人々がイエスのところへ、いろいろな病気や苦しみに悩む者、悪霊にとりつかれた者、てんかんの者、中風の者など、あらゆる病人を連れてきたので、これらの人々を癒やされた。こうして、ガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤ、ヨルダン川の向こう側から、大勢の群衆が来て、イエスに従った。」
山に集まってきたのは、このような人たちでした。彼ら彼女たちは、祝福された人生、恵まれた人生とは、縁遠い人たちでした。自分たちのことを、神様の恵みや祝福から見放された者だと思っていました。

そんな彼らに語ったのが今日の言葉でした。この言葉は、抽象的な世間一般に対して語ったものではありません。あるいは、それなりの暮らしをしている人たちに対して、もう少し質素になろうと述べているものでもありません。この言葉は、貧しい人たち、差別や病によって生きる希望を失った人たちに対して向けられたものです。そんなわけですので、その人たちを前にして、たとえば、もっと質素に生きようと語ったとは考えられません。彼らはすでに十分すぎるほど質素に生きています。

では、イエスがここで大事にしたいこととは、なんだったのでありましょう。空の鳥は、種を蒔くこともしないが、父は鳥を養ってくださるとは、どういうことか。それはすなわち、働く人も、そして、働かない人、働けない人も、神によって生かされているのであり、生きていていいのであり、生きるべきなのだ、ということです。全ての人は、生きることが赦されているのであり、鳥がそうであるように、あるいは、野の花がそうであるように、何の条件もなしに、きちんと食べることができる、この世界は、この社会はそのようにあるべきだ、ということです。

種も蒔かず、働くこともなく、そんな鳥や花たちに対して、神は、食べ物を与えない、雨を降らせない、などということがあろうか。同じように、あなたがたも、様々な理由で社会から排除されているが、神の目から見て、生きる資格がない、生きる意味がない、などと言うことはありえない。神は全ての人を大切にされる。だから全ての人間は無条件で生きていてよいのであり、生きられるようにすべきなのだ、と述べられたわけです。

現代に生きる私たちも、イエスが、あの山の上で語られた言葉を、今、ここで聞いています。イエスは言います。空の鳥を見よ、野の花を見よ、あなたも、生きていていいのだ、神から大切にされているのだ、誰からも、生きる資格がない、生きる意味がない、などと言われてはならないのだと、イエスは語りかけておられるはずです。

空の鳥を見るとき、野の花を見るとき、それらが神様によって生かされていることを思い、そして、私たちもまた、神様によって無条件に生きることが赦されているのだ、ということを思い巡らしながら過ごしたいと思います。    (チャプレン 相原太郎)


パンジーとチューリップの植付

【エズラ記(ラテン語) 第7章3節】
わたしは言った。「わが主よ、お話しください。」天使は言った。「海は広い場所に置かれていて、深く限りない。

〈アイコンをクリックすると下原太介チャプレンのお話が聞けます〉

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