【ルカによる福音書 6章20~23節】
6:20 さて、イエスは目を上げ弟子たちを見て言われた。「貧しい人々は、幸いである、/神の国はあなたがたのものである。
6:21 今飢えている人々は、幸いである、/あなたがたは満たされる。今泣いている人々は、幸いである、/あなたがたは笑うようになる。
6:22 人々に憎まれるとき、また、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いである。
6:23 その日には、喜び踊りなさい。天には大きな報いがある。この人々の先祖も、預言者たちに同じことをしたのである。
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富んでいる人、満腹な人、笑っている人が幸せ、というのが世界の常識でありましょう。でも、イエスは、ここで、それとまったく逆のことを言っています。
イエスが、「貧しい人々は、幸いである」と、語った場所は、ガリラヤ湖の近くです。この地域は、死海周辺と同様に世界で最も標高が低い場所の一つで、海抜マイナス200メートルに位置しています。
イエスは、社会的にもそして地理的にも最も低いこの場所に降りていき、貧しい民衆たちを、そしてこの社会を、この世界を、見上げながら語りかけました。イエスは、上から目線で、上から教えを述べたのではなく、低いところから叫ぶように、こう言ったのでありました。「貧しい人々は、幸いである。」
聖書の中で貧しい人とは、文字通り、食べる物や寝る場所など基本的な衣食住に事欠く人たちです。あるいは、病気の人たちや外国人など、当時の社会から排除された人たちも、貧しい人たちということができます。人々から無視され、軽んじられている人たちが貧しい人たちでありました。
そのような人たちがイエスのもとに集まっていました。イエスは、そんな彼らに対して、貧しく小さくされてしまった皆さんこそ幸いなのだ、と語りました。
彼らは貧しいゆえに、なんの拠り所もありませんでした。頼りになるお金はもちろんのこと、社会的な地位も名誉も、何もありませんでした。そんな彼らは当時の社会から、そして宗教から、罪人というレッテルを貼られ、神からも見放された人々と考えられていました。
しかし、イエスは言います。そうではないのだと。皆さんは、社会から見放されてしまっているかもしれない、しかし、神は、そうした皆さんのところにこそ、共におられるのだと、断言するのでした。
イエスは、貧しい田舎の肉体労働者の息子として生まれ、持たざる者として成長しました。そして、そこから自分だけが助かろう、逃げようなどとはせず、貧しい者、社会から見放された者、罪人とされた人たちと共に生き、あなたがたは罪人などではないのだと、人々を慰め、癒す活動をしました。そしてそのために十字架で処刑されました。
そのようなイエスであるからこそ、神は貧しい者とともにおられる、ということを心底理解し、そのことを確信していたのでありました。
あなた方、貧しい者こそ幸いだ、あなた方にこそ神はともにおられるのだ、というイエスの発言は、自分がどうなろうとも、私はいつもあなたがたと一緒にいる、という決定的な愛による覚悟と決意の表れでもありました。
イエスは、抽象的に、幸福について解説したのではありません。目の前にいる人たち、日々の生活に苦しむ人たち、社会で困難な中にあり、決死の思いでイエスのもとに集まってきた人たち、その一人一人を目の前にして、あなたこそ幸いなのだ、神は決してあなたを見捨てることはないのだと語り、人生をかけて、そのことを生き方として示したのでありました。
イエスが自らの身を挺して発したこのメッセージは、私たちにも向けられています。
今、不安の中にある人、悲しみの中にある人、辛い思いをしている人に、イエスは言います。あなたがたは幸いだ、神の国はあなたがたのものだ、と。イエスは、その生涯を通して、人々の悲しみ、痛み、苦しみを自ら経験されました。そして、自ら悲しむ者、痛み苦しむ者としてのイエスが、今、神は必ずあなたとともにおられると、語ってくださいます。
大学生活の中で、またそれぞれの生活において、そしてまたコロナ禍という中で、さまざまな不安、疎外感、孤独に苛まれることがあると思います。イエスは、そうした、一人一人の具体的な苦しみの中に、自ら低くなって、身をしずめ、身を挺して、ともにおられ、幸いだ、神はあなたとともにおられるのだ、とメッセージを発しておられることを覚えて、歩んでいくことができればと思います。 (チャプレン 相原太郎)