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「朝の祈り」の際に、皆で一緒に唱えている祈りを掲載しています。

この祈りはチャプレンの監修のもと、試行的に作られたものです。
「柳城短大の公式の祈り」などという仰々しいものではありません。
その時々の心の状態に応じて、祈りつつ修正を重ねていくつもりです。

9:恐れない私たち(マルコ5:36)

主よ、
すばらしい朝を、
ありがとうございます。
与えられた一日を、
新しいことに挑戦する日に
困難に挑む日に、
夢を持ち続ける日にして下さい。
そのために、主よ、
私たちに勇気を、
希望を、
活力を、
ビジョンを与えて下さい。
そして私たちから不安を、
焦りを、
無気力を、
取り除いて下さい。

イエス・キリストは言われます、
「恐れることはない。ただ信じなさい。」

たった一人で十字架に向かった
イエス・キリストの愛に
私たちは学びます。
主よ、どうか
私たちを恐れさせないで下さい。
チャレンジする気持ちを与えて下さい。
子どもたちの模範とならせて下さい。
恐れからの解放が
イエス・キリストと共に
常にありますように。

この祈り、
イエス・キリストによってお願いします。
アーメン

「朝の祈り」の際に、皆で一緒に唱えている祈りを掲載しています。

この祈りはチャプレンの監修のもと、試行的に作られたものです。
「柳城短大の公式の祈り」などという仰々しいものではありません。
その時々の心の状態に応じて、祈りつつ修正を重ねていくつもりです。

8:人間関係に流されない私たち(マルコ8:33)

主よ、
今朝も、祈りの時が守れたこと、
感謝します。
私たちは今日も、
多くの人と接します。
そこには平和が、
調和が、
落ち着きが、
癒しが、
ありますように。
そして、同時に、
進歩がありますように。
向上心で満たされますように。
人間関係を大切にしながらも、
それに流されることがないよう、
勇気と自立心を与えて下さい。
必要ならば、
孤独にも耐えさせてください。

イエス・キリストは言われます、
「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」

サタンは人の感情に付け入ります。
私たちが感情に流されないよう、
主よ、お願いします。
いつも共にいて下さい。
周りに影響されない、
慈しみ深い愛を、
正しい判断力を、
行動する勇気を、
子ども達を大切にする心を、
イエス・キリストを通して、
私たちに与えて下さい。

この祈り、
イエス・キリストによってお願いします。
アーメン

「朝の祈り」の際に、皆で一緒に唱えている祈りを掲載しています。

この祈りはチャプレンの監修のもと、試行的に作られたものです。
「柳城短大の公式の祈り」などという仰々しいものではありません。
その時々の心の状態に応じて、祈りつつ修正を重ねていくつもりです。

6:正しさを求める私たち(ヨハネ14:6)

主よ、
今日も柳城で過ごせること、
ありがとうございます。
私たちは学びます。
正しさを、
真実を、
正義を、
真理を。
そして人々に、
子どもたちに伝えます。
知識ではなく知恵を。
冷たいデータではなく、
愛情のこもった情報を。
軽いフィーリングではなく、
豊かな感情を。

イエス・キリストは言われます、
「わたしは道であり、真理であり、命である。」

世の中に知識はあふれています。
でも正しい知恵は私にしかないと、
イエス・キリストは言われます。
主よ、それを教えて下さい。
それこそが私たちの学びです。
うわべだけの人、
形にこだわる人、
自分から行動しない人
権威で他人を動かす人でもない
正しい人から
正しい知恵を学びたいのです。
主よ、お願いします。
愛するイエス・キリストから学ばせて下さい。

この祈り、
イエス・キリストによってお願いします。
アーメン

【ルカによる福音書 4章16~21節】
4:16 イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。
4:17 預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった。
4:18 「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、/主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、/捕らわれている人に解放を、/目の見えない人に視力の回復を告げ、/圧迫されている人を自由にし、
4:19 主の恵みの年を告げるためである。」
4:20 イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。
4:21 そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。

✝ ✝ ✝

 今日の箇所は、ナザレという村で大工として暮らしていたイエスが活動を開始する場面です。イエスは、開始に際して、自分のミッションがどんなものかについて、聖書を引用して宣言します。それはすなわち、捕われている人が解放され、目の見えない人の視力が回復し、圧迫されている人が自由になるということ、そして、そのように書かれた聖書の言葉が、今日、実現する、ということです。この「今日、実現した」という発言は何を意味するのでしょうか。

イエスが引用した聖書の箇所はイザヤ書でした。イエスが属していたユダヤの民は、かつて国を滅ぼされ、諸外国に支配され、人々に自由はありませんでした。そんな中でイザヤ書は、救い主が私たちを解放してくれるのだという希望を語ります。イエスの時代も、このイザヤ書のメッセージが何度も読まれたことでありましょう。人々は、いつの日か救い主が来て自分たちをローマ帝国の圧政から解放してくれるという希望を抱いていました。

ところがイエスは、「この言葉は、今日、実現した」と言い出したのでした。人々はこの発言に驚きます。イエスは、イザヤが夢見た解放が今日こそ実現するのだと言うのです。聞いていた人たちは、夢でしかなかったユダヤの解放を誰がどのようにして実現するのだろうか、もしかしたらイエス自身が救い主となって成し遂げようとしているのかと、あれこれ思い巡らしたことでありましょう。

当時の人々は救い主の到来を待ち望んでいましたが、その頃の一般的な救い主のイメージとはダビデ王の再来でした。ダビデ王とは、かつてイスラエル王国が最も繁栄していた頃に、優れた政治的リーダーシップを発揮した国王です。そして、このダビデ王こそ、イエスの時代においての救い主のイメージでした。ローマ帝国の圧政で苦しむユダヤの人々にとって、ローマ帝国の支配から脱して再びイスラエル王国を築く、その先頭に立つ者こそが救い主でありました。

したがって、今日実現したとイエスが宣言した時、人々はイエスがダビデ王の再来として、政治的軍事的リーダーシップを力強く発揮し、ローマ帝国の支配を打ち倒し、イスラエルの解放を成し遂げると期待したかもしれません。

ところが、その後、実際にイエスがしたこととは、そのような王として君臨しようとすることはありませんでした。イエスのしたことは、王のいる首都エルサレムではなく、ガリラヤという辺境の地で、ひたすら貧しい人々、病の中にある人々、差別された人々に向き合い、一緒に食事を囲む、ということでした。そのようにして、イエスと出会った人々は、人間としての尊厳を取り戻していくのでありました。これこそが、イエスのミッションそのものでした。

この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたときに、実現した。

ここで語られる「今日」とは、当時の今日だけでなく、この福音書を現代において聞いている私たちにとっての今日という意味も含まれます。現代において、私たちの身の回りにおいて、私たち自身において、今日、聖書の言葉が実現するのだということです。2000年前、イエスが人々と共に分かち合った福音の出来事は、現代に生きる私たちの間でも起きている、ということです。

イエスは、人々のさまざまな困難、痛みの現場に共におられ、自ら痛み、傷つく者となりました。そのようにして、神自らが仕える者として共に苦悩しておられるということを、身をもって証されました。

現代においても、さまざまな形で、多くの人たちが貧しくされ、あるいは囚われ、あるいは圧迫されています。そしてまた、私たち自身もさまざまな形で困難や苦悩を抱えています。神は、そのような私たちの痛みの場に共にいてくださいます。そのようにして神が支えてくださる時、そしてまた、私たち自身が人々の痛みに愛をもって仕える時、聖書の言葉は実現されるのだ、ということを覚えたいと思います。
(チャプレン 相原太郎)


メランポジューム(右端の列)

 

【マルコによる福音書 第7章1~8節、及び18~23節】
7:1 ファリサイ派の人々と数人の律法学者たちが、エルサレムから来て、イエスのもとに集まった。
7:2 そして、イエスの弟子たちの中に汚れた手、つまり洗わない手で食事をする者がいるのを見た。
7:3 ――ファリサイ派の人々をはじめユダヤ人は皆、昔の人の言い伝えを固く守って、念入りに手を洗ってからでないと食事をせず、
7:4 また、市場から帰ったときには、身を清めてからでないと食事をしない。そのほか、杯、鉢、銅の器や寝台を洗うことなど、昔から受け継いで固く守っていることがたくさんある。――
7:5 そこで、ファリサイ派の人々と律法学者たちが尋ねた。「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか。」
7:6  イエスは言われた。「イザヤは、あなたたちのような偽善者のことを見事に預言したものだ。彼はこう書いている。『この民は口先ではわたしを敬うが、/その心はわたしから遠く離れている。
7:7 人間の戒めを教えとしておしえ、/むなしくわたしをあがめている。』
7:8 あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている。」

7:18 イエスは言われた。「あなたがたも、そんなに物分かりが悪いのか。すべて外から人の体に入るものは、人を汚すことができないことが分からないのか。
7:19 それは人の心の中に入るのではなく、腹の中に入り、そして外に出される。こうして、すべての食べ物は清められる。」
7:20 更に、次のように言われた。「人から出て来るものこそ、人を汚す。
7:21 中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである。みだらな行い、盗み、殺意、
7:22 姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、
7:23 これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである。」

〈アイコンをクリックすると下原太介チャプレンのお話が聞けます〉

【ルカによる福音書 6章20~23節】
6:20 さて、イエスは目を上げ弟子たちを見て言われた。「貧しい人々は、幸いである、/神の国はあなたがたのものである。 
6:21 今飢えている人々は、幸いである、/あなたがたは満たされる。今泣いている人々は、幸いである、/あなたがたは笑うようになる。 
6:22 人々に憎まれるとき、また、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いである。 
6:23 その日には、喜び踊りなさい。天には大きな報いがある。この人々の先祖も、預言者たちに同じことをしたのである。 

✝ ✝ ✝

 富んでいる人、満腹な人、笑っている人が幸せ、というのが世界の常識でありましょう。でも、イエスは、ここで、それとまったく逆のことを言っています。
イエスが、「貧しい人々は、幸いである」と、語った場所は、ガリラヤ湖の近くです。この地域は、死海周辺と同様に世界で最も標高が低い場所の一つで、海抜マイナス200メートルに位置しています。
イエスは、社会的にもそして地理的にも最も低いこの場所に降りていき、貧しい民衆たちを、そしてこの社会を、この世界を、見上げながら語りかけました。イエスは、上から目線で、上から教えを述べたのではなく、低いところから叫ぶように、こう言ったのでありました。「貧しい人々は、幸いである。」
聖書の中で貧しい人とは、文字通り、食べる物や寝る場所など基本的な衣食住に事欠く人たちです。あるいは、病気の人たちや外国人など、当時の社会から排除された人たちも、貧しい人たちということができます。人々から無視され、軽んじられている人たちが貧しい人たちでありました。

そのような人たちがイエスのもとに集まっていました。イエスは、そんな彼らに対して、貧しく小さくされてしまった皆さんこそ幸いなのだ、と語りました。
彼らは貧しいゆえに、なんの拠り所もありませんでした。頼りになるお金はもちろんのこと、社会的な地位も名誉も、何もありませんでした。そんな彼らは当時の社会から、そして宗教から、罪人というレッテルを貼られ、神からも見放された人々と考えられていました。

しかし、イエスは言います。そうではないのだと。皆さんは、社会から見放されてしまっているかもしれない、しかし、神は、そうした皆さんのところにこそ、共におられるのだと、断言するのでした。
イエスは、貧しい田舎の肉体労働者の息子として生まれ、持たざる者として成長しました。そして、そこから自分だけが助かろう、逃げようなどとはせず、貧しい者、社会から見放された者、罪人とされた人たちと共に生き、あなたがたは罪人などではないのだと、人々を慰め、癒す活動をしました。そしてそのために十字架で処刑されました。
そのようなイエスであるからこそ、神は貧しい者とともにおられる、ということを心底理解し、そのことを確信していたのでありました。
あなた方、貧しい者こそ幸いだ、あなた方にこそ神はともにおられるのだ、というイエスの発言は、自分がどうなろうとも、私はいつもあなたがたと一緒にいる、という決定的な愛による覚悟と決意の表れでもありました。
イエスは、抽象的に、幸福について解説したのではありません。目の前にいる人たち、日々の生活に苦しむ人たち、社会で困難な中にあり、決死の思いでイエスのもとに集まってきた人たち、その一人一人を目の前にして、あなたこそ幸いなのだ、神は決してあなたを見捨てることはないのだと語り、人生をかけて、そのことを生き方として示したのでありました。

イエスが自らの身を挺して発したこのメッセージは、私たちにも向けられています。
今、不安の中にある人、悲しみの中にある人、辛い思いをしている人に、イエスは言います。あなたがたは幸いだ、神の国はあなたがたのものだ、と。イエスは、その生涯を通して、人々の悲しみ、痛み、苦しみを自ら経験されました。そして、自ら悲しむ者、痛み苦しむ者としてのイエスが、今、神は必ずあなたとともにおられると、語ってくださいます。

大学生活の中で、またそれぞれの生活において、そしてまたコロナ禍という中で、さまざまな不安、疎外感、孤独に苛まれることがあると思います。イエスは、そうした、一人一人の具体的な苦しみの中に、自ら低くなって、身をしずめ、身を挺して、ともにおられ、幸いだ、神はあなたとともにおられるのだ、とメッセージを発しておられることを覚えて、歩んでいくことができればと思います。   (チャプレン 相原太郎)


ポーチュラカ

 

【マルコによる福音書 4章35-41節】
4:35 その日の夕方になって、イエスは、「向こう岸に渡ろう」と弟子たちに言われた。
4:36  そこで、弟子たちは群衆を後に残し、イエスを舟に乗せたまま漕ぎ出した。ほかの舟も一緒であった。
4:37  激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水浸しになるほどであった。
4:38 しかし、イエスは艫の方で枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と言った。
4:39  イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、「黙れ。静まれ」と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になった。  
4:40 イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」
4:41 弟子たちは非常に恐れて、「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」と互いに言った。 

✝ ✝ ✝

 この物語を譬え話として捉えると、次のようになります。物語には、「船」、「向こう岸」、「嵐」が登場します。「船」とは教会、キリスト教に連なる私たちのことを表します。「向こう岸」とは、異教の地、異国の土地、外国のことを意味します。「嵐」は困難を表しています。とすると、この物語はどういうことかというと、私たちが、自分たちが慣れ親しんだ場所を離れ、新たな場所、異国の地、外国などへと向かう際に、さまざまな嵐、困難が襲いかかるであろうということ、しかしながら、イエスが共にいることによって、その困難を乗り越えることができる、というものです。

今日の福音の冒頭で、イエスは「向こう岸に渡ろう」と述べます。向こう岸とはどういう土地でありましょう。イエスがこのように発言した時、イエスと弟子たちは、ガリラヤ湖のほとりにいました。そして、その反対側というのは外国人の土地のことでありました。当時、ユダヤ人にとって、外国人と接触するということは、今と違って、社会的にも宗教的に極めて強い抵抗感がありました。しかしイエスは、そうしたユダヤ人の常識や慣習を打ち破り、接触してはならないとされていた外国の人々と、親しく交わりを持とうとしました。

もちろん弟子たちにとっては簡単なことではありませんでした。ユダヤ教の枠の中で、ユダヤ人とだけ接して、その世界の中に生きていれば楽です。そうした中で、イエスと行動を共にする、ということは、例えば、病気の人や貧しい人、外国人など、ユダヤ教の枠組みによって、排除された人々、隅に追いやられた人々と交流する、ということになります。それはすなわち、ユダヤの社会をいわば敵に回すということです。あるいは、ユダヤ社会から自分たちもつまみ出される、ということです。人々から不審な目で見られることもあったことでしょう。自分たち自身の慣れ親しんだ価値観を壊さなければなりませんので、楽なことではなかったでありましょう。それでも、弟子たちは、イエスに導かれて船を出し、向こう岸に向かいました。

ところが嵐にあって、船は転覆しかけます。このことは明らかに弟子たちの動揺、心の揺れの現れです。向こう岸に向かう、と言うことは、つまり古い生き方を捨てる、ということでもあります。ですので、弟子たちは大きな不安に陥っているわけです。

その時、寝ていたイエスは、起こされます。
「イエスが起き上がって」と書かれていいますが、この起き上がるとは、復活を意味する言葉です。つまり、弟子たちは不安に陥ったが、しかしそれを救うべく、イエスは神によって復活させられた、と捉えることができます。
イエスは弟子たちに言います。
「なぜ怖がるのか。」
復活のイエスは弟子たちに、怖がる必要などないのだ語りかけます。そのようにして、弟子たちの不安は消え去り、向こう岸、新たな地へと、向かっていくのでありました。

私たちも人生の中で様々な不安と困難があります。皆様にとって、人生の嵐とは、どのような時でしょうか。大学に入学したとき、就職活動をする時などは、人生の大きな転換期ですが、本当にこれでいいのだろうかと思う時があるかもしれません。これまで自分が当たり前だと思ってきたことが崩れていく中で、自分がどこに向かえばいいのか、また、他の人との関係をどう築いていったらいいのか、わからなくなってしまうこともあるかもしれません。
あるいはまた、この日本の地で、キリストが教えられた愛をもって仕える、ということを大切にしていく、ということは、決して楽なことでもありません。面倒だと思うこともあるかもしれません。人から不思議な目で見られるかもしれません。

しかしながら、そんな時に、復活のイエス、十字架の死から起こされたキリストが、私たちの間におられ、「なぜ怖がるのか」と呼びかけられます。大丈夫、安心して歩みなさいと言われます。そのようにして、私たちを、新たな地、新しい命に生きる道へと、神が招いてくださっていることを覚えたいと思います。   (チャプレン 相原太郎)


ハーブの乾燥

【創世記 1章26~28節】
1:26 神は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」
1:27 神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。
1:28 神は彼らを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」 

✝ ✝ ✝

マスクを着用するようになってから約1年半が経過しました。今日は、コロナ禍について少し振り返ってみたいと思います。

人類はこれまで経験したことのない新型コロナウイルスの前に、恐れと不安を抱きました。恐れと不安の対象である新型コロナウイルスとは一体何ものなのか、そしてそれはどこで発生し、どのように伝わってきたのだろうか、そのような中で、ウイルスそのものへの解明だけでなく、ウイルスの原因の究明やその責任の追及も始まりました。
マスク着用の有効性が指摘され始めると、たちまち市場のマスクは品薄状態になりました。一箱何千円のマスクを買うようになりました。皆がマスクを着用するようになると、マスクの着用の仕方も問題になりました。あの人は鼻出しマスク、あの人は顎マスク、あの人はマスクをしていない……マスクの素材についても問題になりました。
コロナの大きな要因として空気感染が指摘され始めると、手洗いの励行、三密を避けること、そして何よりもステイホームが奨励され、冷凍食品を始め、多くの食料品が店から消え始めました。いわゆるおうち時間が始まりました。お取り寄せもブームとなりました。デリバリーの人や宅急便の人が忙しくなりました。ステイホームの時間が増えてくると、昼夜を問わず、外を出歩く人に対する視線も厳しくなりました。私たちはこうして家で我慢しているのに…
もちろん、家に留まりたくても留まることのできない人びとの存在を忘れていたわけではありません。生活を支えるエッセンシャルワーカーと言われている人たちのことです。医師・看護師などの医療従事者、運送・配送に携わるドライバーの方々、保健所に勤める保健師の方々、生活相談や介護・福祉等の分野で働く方々、スーパー等の食料品店で働く店員の方々等々、そして私たちに一番なじみのある保育者たちの存在もそうです。
そうこうしているうちに、新型コロナウイルスに対するワクチンの開発が世界中で驚くほどのスピードで進み、今ではこの日本でもワクチン接種が始まりました。コロナの新たな変異株も生じてきていますが、それでもコロナ感染を防止する方向へと動いていることはたしかです。

コロナと共に生活したきた皆さんは、今私が話したようなことを、鮮明な記憶とともに、非常に身近に感じているのではないかと思います。ところで、皆さんは、十年後のあるいは二十年後の社会に対して、今起こっているコロナ禍についてどのように伝えていこうと考えているでしょうか。
テレビの映像や写真は、すべての人が当たり前のようにマスクを着用している姿を映し出すかもしれません。けれども、どの人もマスクを着けて外見は似たように見えるかもしれませんが、そのマスクの下で、一人一人は不安と不便を感じながらも、それぞれに自らの将来への夢や希望を抱いて日々の生活を送っていたこと、そのような姿をこそ伝えたいと考えるのではないでしょうか。

今日朗読したのは、「創世記」1章26~28節ですが、ここには何が描かれているでしょうか。神さまはこの世界を六日間かけて創造します。すでに太陽や月や星が造られ、空や海や陸に多くの生き物が誕生し、そして最後に人間が六日目に誕生します。この最後に登場した人間に対して、神さまは命じます。これまで造られた生き物を支配するように、と。支配すると言うと、とても厳しい言葉のように響くかもしれませんが、神さまは、それぞれの生き物がますます増えていき、いっしょに生きていくことができるような世界を、わたしたち人間に託しているのです。それが今日の聖書の場面です。
ちなみに、ここに言われていることは、たとえば、今日、あちこちで耳にするようになってきたSDGs(持続可能な開発目標)の精神、何一つとして取り残されることのない世界を目指そうという精神にも通ずるものがあります。

さて改めて、この聖書の言葉は、コロナ禍のなかにある、私たち一人一人にも投げかけられている言葉であります。
私たちは、コロナ禍の中で、ともすると、ひとのことよりも自分のことを優先してしまっていることを経験してきました。また、自分はこんなにしているのに、という思いで、ついつい相手を見てしまっていることも経験してきました。また、コロナ感染に歯止めをかけているかどうかということで善し悪しを決めてしまうという、いわば身についた習慣のために、時として、この人は善い人、この人は善くない人、と他人をついつい裁いてしまうことも経験してきました。たしかに、人間にはさまざまな弱さがあります。そしてその弱さゆえに、人を遠ざけてしまったり、裁いてしまったりすることもしてしまうのですが、それでも、私たちは、次の世代に対して、今のコロナ禍のなかで、さまざまな人びとといっしょに生きようとしていたことを、将来への夢を持ちながら生活している自分たちの姿とともに、伝えていけるようになりたいものです。

この聖書の箇所は、単に、人間のことだけでなく、すべての生き物を含めた、とても広大なことが描かれています。神さまは、人間が、すべての生き物といっしょに生きている有様を、先ほど朗読した聖書の箇所の少し後で次のように述べています。「神さまはお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ、それは極めて善かった」と。

ワクチンの接種により、少しずつ、新たな兆しが見え始めてきていると言えますが、しかしながら、コロナ禍のなかで、どうしても相手に対する非難や裁きが出てくることも少なくありません。ただ、そのような困難のなかにあっても、少しでも多くの人びとといっしょに乗り越えていくことこそが、次の世代に伝えていくべき大切なことであり、極めて善いことだということを、このコロナ禍のなかで、いのちを落とした方々のことを祈りつつ、皆さんと共有することができれば嬉しく思います。  (学長  菊地 伸二)


ツマグロヒョウモン

 

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