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【ルカによる福音書 11章1~4節】
11:1 イエスはある所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに、「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」と言った。
11:2 そこで、イエスは言われた。「祈るときには、こう言いなさい。『父よ、/御名が崇められますように。御国が来ますように。
11:3 わたしたちに必要な糧を毎日与えてください。
11:4 わたしたちの罪を赦してください、/わたしたちも自分に負い目のある人を/皆赦しますから。わたしたちを誘惑に遭わせないでください。』」 

✝ ✝ ✝

イエスは、当時の宗教指導者たちの祈りを強く批判していました。彼らが、これみよがしに長々と祈っていることについて指摘し、それが結局は自分のため、自分中心の祈りでしかなく、神を中心とした祈りになっていないということでした。そこで、イエスの弟子たちは、「どう祈ったらいいのでしょう」とイエスに質問します。その答えが、主の祈りでした
祈りの冒頭に「父よ」という呼びかけがあります。これは、もちろん神に対する呼びかけです。そして、もしかしたら、この主の祈りの最大の特徴がここにあるかもしれません。というのも、神のことを「父」と呼ぶことは、当時のユダヤ社会においては、強烈なインパクトがありました。そもそもユダヤ教では、神の名前をみだりに唱えることが禁止されていました。そして神に呼びかける時には、湾曲的な表現を用いたり、多くの宗教的な称号を付けたりしていました。このことは、神は人間から遠い存在であり、宗教的に権威のある人たちのみが神に接近できることを意味していました。
ところが、イエスは端的に「父よ」と呼びました。それは、「父ちゃん」とか「オヤジ」というような、子どもが父親を呼ぶようなニュアンスです。イエスは、神を誰もが直接親しく呼びかけることのできる存在として捉えたのでした。

そのような神に、「御名が崇められますように。御国が来ますよう」と祈ります。神様の愛で私たちを満たしてください、と言うような意味を持っています。

次に出てくるのが「必要な糧を毎日与えてください」という祈りです。ユダヤ教の伝統的な祈りとは異なり、この祈りはイエスの独創的なものです。毎日の食事というのは、人間が生きていくための基本ですが、イエスの生きていた現場では、毎日食事が食べられるかどうかは、切実な課題でありました。今、ここにいる私たちにとっては切実でないかもしれません。しかし、私たちがこの祈りを祈る時、これからも安心して食べられますように、と願うだけでなく、切実な現場で生きていたイエスの祈りに導かれながら、必要な糧が世界中に届けられますように、毎日きちんと配分されますように、という願いを込めるのが、本来的な意味でありましょう。

そして、「わたしたちの罪を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人をみな赦しますから」と祈ります。当時、人々が罪を犯し、それを神に赦してもらうためには、神殿に行って生贄を捧げ、祭司に頼んで祈祷をしてもらう必要がありました。しかし、イエスは、そのような神殿での生贄は不要であり、人々は神に直接祈ることができるのだと理解しました。そして、当時の宗教体制による複雑なシステムによる神への祈りを激しくシンプルにして、誰にでもアクセスできるようにしたのでした。

イエスは、こんな風に、神に直接、簡潔に祈ればいいのだ、ということを言われたわけです。この祈りの箇所の後、有名なイエスの言葉があります。「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門を叩きなさい。そうすれば、開かれる」です。これらの言葉も、イエスが示された祈りと関連づけて考えるべきでありましょう。「求めなさい」とは、金銭や権力なども、求めれば与えられる、ということではありません。「探しなさい」とは、自分だけが食べられる極上の美味しいものも探せば見つかる、ということではありません。そうではなく、神の国、すなわち、神の愛が世界に充満すること、たとえば、みんなが等しくご飯を食べられること、そうしたことは、求めれば与えられるのだと、イエスは人々を勇気づけたのでありました。

私たちは、この社会の中で、競争に勝ち抜かなければ生きられないと感じたり、あるいは自分のことに精一杯で、他の人のことまで考える余裕がないと思ったりすることがあると思います。私たちはそのような社会を生きざるを得ないわけですが、私たちは、それでもなお、私たちの世界が、そのような世界ではなく、御国が来ること、神の愛が充満することを求めたいと思います。自分だけが勝ち抜けようとする誘惑に溺れることなく、人々と神の愛を分かち合うことを求め、イエスと共に、主の祈りを祈ってまいりたいと思います。
(チャプレン・相原太郎)


学生食堂

【マタイによる福音書 第12章12節】
人間は羊よりもはるかに大切なものだ。だから、安息日に善いことをするのは許されている。」

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【ルカによる福音書6章46-49節】
6:46 「わたしを『主よ、主よ』と呼びながら、なぜわたしの言うことを行わないのか。
6:47 わたしのもとに来て、わたしの言葉を聞き、それを行う人が皆、どんな人に似ているかを示そう。
6:48 それは、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を置いて家を建てた人に似ている。洪水になって川の水がその家に押し寄せたが、しっかり建ててあったので、揺り動かすことができなかった。
6:49   しかし、聞いても行わない者は、土台なしで地面に家を建てた人に似ている。川の水が押し寄せると、家はたちまち倒れ、その壊れ方がひどかった。」

✝ ✝ ✝

イエスの最も有名な教えの一つは、「貧しい人々は幸いである」という言葉から始まる、「山上の説教」と呼ばれているものでありましょう。「貧しい人は幸いだ」「敵を愛しなさい」「あなたの頬を打つものには、もう一方の頬も向けなさい」「人を裁くな」など、有名な教えがいくつも語られます。その締めくくりが今日の箇所で、それまで語った教えをただ聞くだけではなく行うことが大事なのだということです。
行うことが大事と言われますと、確かにそうだと思う一方で、そんなことはなかなかできない、無理だ、とも思うかもしれません。また、行うことが強調されますと、成果が大事、結果が全てと言われているようで、責められているように感じるかもしれません。しかし、この箇所は、単に、具体的に実践しなければ意味がない、結果を出せなどと言っているわけではありません。むしろ、結果を出せない人のための福音とさえ言えるかもしれません。
イエスは、愛の教えを行うことについて、家と土台を譬えに用いて説明します。ここで土台が意味するのは、イエスの言葉を聞いて行うということです。それによって人生の中で襲ってくる洪水にも耐えられる、ということになります。
では、イエスの言葉を聞いて行うこととは、どんなことでしょうか。この譬えは、「貧しい人は幸いだ」、「敵を愛しなさい」「あなたの頬を打つものには、もう一方の頬も向けなさい」といった説教のまとめです。つまり、こうしたことを行うことが人生の土台となるのだというわけです。敵を愛し、頬を打たれたらもう一方の頬を向けることで、私たちの人生は、嵐のような試練、洪水のような難題が降りかかっても、神に支えられ、倒れることなく歩んでいけるのだ、ということになります。
もちろん、こうしたことを実際に行うのは難しい、ハードルが高い、と思われると思います。そして、実行できない自分は土台も持てず、人生の洪水にも嵐に耐えられないと考えるかもしれません。しかし、イエスは、実行しなければ、あなたは人生の洪水が来たときに流されてしまう、という警告を発しているわけではありません。

イエス自身の行動を振り返ってみれば、そのことは明らかです。イエスが関わりを持っていた人たちというのは、このような実践を積極的に行う活動的な人たち、何があっても倒れないような人生を歩んでいる人たちというわけではありませんでした。むしろ、無力感に苛まれ、人生に絶望し、傷つき、倒れてしまっている人たちでありました。
イエスの弟子にしてもそうです。今日の箇所は、弟子たちに対して、行いの重要性を強調しているわけですが、実際、イエスの弟子たちがどうだったか、というと、弟子たちは最後の最後まで、イエスの言うことを行うどころか、イエスの言うこと自体を誤解する有様でした。さらには、イエスの逮捕時には、行動を起こすどころか、とうとうイエスから逃げ出してしまいます。つまり、イエスの弟子たちも、イエスの言ったことをしっかりと実行する集団などではなく、むしろ、イエスの言うことを理解することもできない人たちだったのありました。
そんな弟子たちに対するイエスのアドバイスとは、聞くことと行うことを切り離さないように、ということでした。イエスが言った言葉だけでなく、イエスが具体的に何をしたのかを合わせて理解することが大切だということになります。

イエスが具体的に何をしたかというと、それは人に会うということ、一緒に食事をするということでありました。とりわけ、貧しい人、困難の中にある人、差別を受けている人、病気で苦しんでいる人、そして子どもたちと出会い、一緒に食事をすることでした。イエスは、力強く生きている人たちよりも、むしろ、無力な人たち、絶望の中にいる人たち、人生に倒れてしまっている人たちに向き合い、その尊厳を大事にし、一緒に涙し、一緒に喜び、一緒に傷つきながら歩まれました。それを言葉として表現したのが、「貧しい人は幸いだ」「敵を愛しなさい」「あなたの頬を打つものには、もう一方の頬も向けなさい」「人を裁くな」ということでありました。

イエスは、私たちに、人生に倒れないように強く生きろ、そのために実践せよ、と言っているのではありません。もし私たちが自分の力だけ全てを成し遂げようとすると、結局、自分の行動の立派さこそ大事だということになり、それでは自分自身を土台とすることになってしまいます。

イエス自身、十字架にかけられ、決定的に無力な者となりました。イエスは、傷づいた者、弱い者として、十字架上で絶叫し、倒れ、死んでいったのでした。そのように、人間の絶望の中に倒れたイエスであるからこそ、復活のイエスは私たちの土台となり、私たちのことを心底理解してくださいます。イエスが、なかなか理解しようとしない弟子たちと生涯向き合ったように、私たちをすぐに倒れてしまいそうになる者として受け止めてくださいます。イエスは、私たちに言います。倒れてもいいのだと。むしろ、そのように弱く、傷つき、倒れてしまうあなたを大事にしたいのだと。

イエスが人生をかけて伝えたことは、揺らいでも、倒れても、貧しくても、他人から否定されていても、私は必ずあなたと共にいるのだ、ということでした。弱さや揺らぎの中にある私たちであるからこそ、イエスは一緒におられます。
そして、そんなイエスであるからこそ、私たちに、困難の中にある人々と共に生きてほしい、敵を愛し、赦しあう生き方をしてほしい、と呼びかけていることを覚えたいと思います。 (チャプレン・相原太郎)


シャスタデージー

【マタイによる福音書 5章43-45節】
「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。
しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。
あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。 

新約聖書の時代、因果応報、すなわち、神は正しいことをした者には良いものを与え、正しくないことをした者には罰を与える、という考え方は現代よりもはるかに強く、常識的なものでした。そして、当時のユダヤ教のルールに従って生きていること、これが、正しい者と呼ばれる人たちの姿でした。そのようにしていれば神様は祝福してくださるのであり、当時の宗教指導者たちは、正しく律法にしたがって生きることを庶民に強く求めていました。
一方、例えば、不治の病にかかった人、障害を持つ人などは、律法を守ることもできず、そのような境遇になったのはその人の罪の結果であるとされていました。そして、神から見放された者であるみなされ、社会から排除されていました。

しかし、イエスは「正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」と言います。それはすなわち、律法に従って生活する正しいと言われる人も、その律法を守れない、正しく生きることができないが故に罪人と呼ばれる人も、神は大切にされるのだということです。この発言は聞き方によっては、律法を守っても守らなくても神から見ればそんなものは関係ない、ということになります。これは、律法を守ることによって成り立っていた当時の社会秩序を崩壊させる発言に思われました。イエスの言動は、社会の安定を守る立場の人から見れば大変に不穏当なものであったわけです。

一方、貧しい民衆たち、社会の底辺にいる人たちは、このように発言をするイエスを支持し始めていました。そこで、当時の宗教的政治的指導者たちは、あのイエスをなんかしないと、まずいことになると考え、結果的にイエスは逮捕され、最終的には処刑されるに至ります。
しかしイエスは、そのような結末を迎えることを察しながらも、その言葉と行いを徹底しました。因果応報の考えが強く浸透した社会にあって、当時の宗教指導者たちから正しくないとされた人、罪人とされた人に、イエスは、あなたは罪人ではない、あなたは悪くない、あなたは神さまから愛されている、と寄り添っていかれたのでした。例えば、重い病にある人々などは、自分が悪いことをしたから、自分の努力が足りないから、こんな状態に陥ってしまったと、応報思想を内面化していました。イエスは、そうした人たちに対して、例えば「あなたの信仰が足りない」とか「正しく生きなさい」などと言うことは決してありませんでした。そうではなく、その反対に、あなたたちはそのままで幸いだ、あなたたちこそ神さまから愛されているのだ、ということを、イエスはその言動で表現していきました。
このように、当時の社会の宗教的・倫理的な正しさを満たすことができない人、いわば、天国への資格・アクセス権が与えられないと思われていた人をこそイエスは大事にされました。そうした人々との交わりこそが神の愛の働きであると教えられたのでした。

現代に生きる私たちも、因果応報的な感覚が内面化されているところがあります。ですので、この社会にあって、社会が設定した要請に従って正しく生きることが、宗教的にも優れた人であると思いがちなことがあります。しかし、神の愛は徹底して無条件です。激しいほど平等です。神は、正しい者にも正しくないとされる者にも雨を降らせてくださいます。ですので、そのような愛を受けている私たちは、その応答として、私たちが接する人、例えば子どもたち、あるいは、さまざまな病にある人、この社会において隅に追いやられて生きざるをえない人たちをこそ、無条件に愛する、大切にする、そんな関わり方をしていきたいと思います。
(チャプレン 相原太郎)


イトバハルシャギク

【コリント人への手紙 第一 15章10節】
神の恵みによって今日のわたしがあるのです。そして、わたしに与えられた神の恵みは無駄にならず、わたしは他のすべての使徒よりずっと多く働きました。しかし、働いたのは、実はわたしではなく、わたしと共にある神の恵みなのです。

〈アイコンをクリックすると下原太介チャプレンのお話が聞けます〉

新型コロナウイルスが日本で流行が始まった2020年は、知見の不足や恐怖心から、入学式は中止を余儀なくされました。それから1年、感染者は増え続け、4/2時点はいわゆる「第4波」の最中ではありましたが、大きな犠牲を伴いつつも知見が増えたことが幸いして、「感染拡大を防ぐ対策を講じれば開催は可能」との判断ができるようになりました。このあたりの判断は卒業式とまったく同じです。

本学においては、消毒の徹底、式の時間短縮、聖歌の割愛、座席間隔の確保など、できる限りの対策をした上で2021年度の入学式を実施しました。以下、その模様を簡単にお伝えします。

●前奏

●聖語

愛によって互いに仕えなさい。(ガラテヤ5:13)
神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり
神もその人の内にとどまってくださいます。(Ⅰヨハネ4:16)

●新入生のための祈り

祈りましょう。
全能の神よ、この世の時はすべてあなたのみ手の内にあります。どうか、いま本学に入学し、この学院で過ごす時の始めに立っている学生たちに、恵みのまなざしを注いでください。この学院での時を通して、あなたの知恵のうちに学び、あなたの愛を知り、そして愛によって互いに支えあうように、わたしたちを導き、育んでください。わたしたちの主、イエス・キリストによってお願いいたします。アーメン

●聖 書

この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛(くびき)に二度とつながれてはなりません。兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。律法全体は、「隣人を自分のように愛しなさい」という一句によって全うされるからです。
(ガラテヤの信徒への手紙5:1;13-14)

●名古屋柳城女子大学 新入生認証
こども学部 こども学科
●名古屋柳城短期大学 新入生認証
保育科
専攻科保育専攻

●式辞 名古屋柳城女子大学・名古屋柳城短期大学 学長 菊地 伸二
【内容はこちらでご覧ください】

●祝辞  学校法人 柳城学院 理事 日本聖公会中部教区 主教補佐 テモテ 土井 宏純 司祭

●祝電披露

●平和の挨拶
【司式者】主の平和が皆さんとともに
【補式者】また、あなたとともに
【司式者】平和の挨拶を交わしましょう。

●主の祈り

【司式者】主イエス・キリストが教えてくださった祈りを、ともに唱えましょう。
【司式者】主よ、憐れみをお与えください
【補式者】キリストよ、憐れみをお与えください
【司式者】主よ、憐れみをお与えください
【チャプレン団】天におられるわたしたちの父よ
み名が聖とされますように。
み国が来ますように。
みこころが天に行われるとおり
地にも行われますように。
わたしたちの日ごとの糧を今日もお与えください。
わたしたちの罪をおゆるしください。
わたしたちも人をゆるします。
わたしたちを誘惑におちいらせず、
悪からお救いください。
国と力と栄光は、永遠にあなたのものです。
【一 同】アーメン

●名古屋柳城女子大学・名古屋柳城短期大学のための祈り

【司式者】名古屋柳城女子大学ならびに名古屋柳城短期大学のために、ともに祈りましょう。
【司式者】主は皆さんとともに
【補式者】また、あなたとともに
【司式者】祈りましょう。

全能の神よ、わたしたちはただ主の賜物によってまことの知恵を得ることができます。どうか、み名によって建てられた名古屋柳城女子大学ならびに名古屋柳城短期大学に恵みを下し、教える者と学ぶ者を祝福して、共に知識を深め、主の真理を悟り、愛をもって互いに仕え、謙遜な心で唯一の神を仰ぐことができるようにしてください。主イエス・キリストによってお願いいたします。

【一 同】アーメン

●祝 祷

【司式者】計り知ることのできない神の平安がキリスト・イエスにあって皆さんの心と思いを守り、ますます深く父とみ子を知り、かつ愛させてくださいますように。父と子と聖霊なる全能の神の恵みが、常に皆さんとともにありますように。
【一 同】アーメン

●後 奏

✝ ✝ ✝

希望を胸に、多くの新入生が柳城の仲間入りをしてくれました。感謝です。
保育の道を歩むのに必要な愛の心。それを育むことを柳城は120年以上も大切にしてきました。
その意味を理解することが柳城生として卒業する証となります。
この一点だけでも押さえながら学生生活を送ってもらえたらな嬉しいです。

「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。」【マタイ7:7】

【ヨハネによる福音書15章1-10節】
「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。
わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。
 わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。
 わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。
 わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。
 わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。
 あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。
 あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。
 父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。
わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。 

キリストと私たちがぶどうの幹とその枝のようにつながっているというたとえですが、この「つながっている」と訳されている単語は、「留まる」とか「宿る」といったニュアンスを持つ言葉です。そこから考えますと、私たちと神がつながっている、というのは、私たちが神に留まっている、神の中に宿っている、というイメージです。あるいは、神が私たちに留まっている、神が私たちの中に宿っている、ということです。言い換えれば、私たちが神の働きの中に生かされている、あるいは神自身が私たちの間に宿って、働いておられるということです。

では、ここでイメージされている神の働きとは具体的にどのようなものでしょうか。このぶどうの木のたとえを話す直前のイエス自身の行動が、そのことを端的に示しています。それが、イエスが弟子の足を洗う、という出来事です。
その出来事は、イエスが十字架で処刑される直前の「最後の晩餐」の時のことだったのですが、イエスは、これまで一緒に過ごしてきた弟子たちの足を洗い始めます。当時、他人の足を洗うという行為を実際にしていたのは奴隷たちでした。今でも、他人の足を洗うということは、なかなか起こりえないことだと思いますが、当時としては、さらに屈辱的な行為でした。
イエスの時代、舗装などありません。どこに行くにも歩きでしたし、もちろんスニーカーもありません。素足にサンダルですので、当然、足はかなり汚れていました。そんな汚れた足を差し出すのは、弟子たちもかなりのためらいがあったようです。しかし、イエスは、半ば強引に弟子たちの足を洗ったのでした。そして、弟子たちに、「あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない」と告げます。
この足を洗うという行為でイエスが示したのは、単に足を洗うことによって謙遜とかへりくだりを示すということではありません。そうではなく、自分の立場やプライド、損得勘定を手放して相手と向き合う、ということです。相手に対して自分の弱いところや欠点、見せたくないところを隠さず、あるがまま差し出すということです。弱い自分を隠すのではなく差し出すこと何かを握るのではなく手を離して委ねることです。それは相手への信頼なしにはできません。そのようにして、お互いを大切にする、愛し合うこと、それこそが神の働きの具体的な中身です

私たちは、自分の立場やプライドを守ったり、他人を支配しようとしたりしてしまうことがあると思います。あるいは逆に卑屈になったり、自分をただただマイナスに捉えたりしてしまうこともあると思います。
そのような自分の嫌な部分、汚い部分も含め、イエスは、私たち自身を丸ごとそのまま、受け止めてくださいます。イエスに自分をよく見せる必要もありません。そしてイエスは、私たちにも他者の足を洗うこと、すなわち、隣人を損得勘定や偏見なく、丸ごと受け止めることを求めておられます。
そのようにして、私たちは、ぶどうの木として、豊かにぶどうの実を実らせることに招かれています。この柳城学院が、豊かなぶどうの木へと成長していけるよう、互いに愛をもって仕えてまいりたいと思います。   (チャプレン 相原太郎)


グミ

【マタイによる福音書6:31-34】
6:31 だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。
6:32 それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。
6:33 何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。
6:34 だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」

専攻科2年の松田インマヌエルです。

変わった名前ですが、僕は牧師の息子でして、これを聞かれると「じゃあ、いい人?」と思われそうですが、実はそうではなくて、僕はむしろ悪ガキの一人かもしれません。

さて、僕の大学生活が新型コロナの影響を受けて大変な状況です。学食が利用できない、生きがいであるサークル活動ができない、就活も停滞中…と散々ですが、きっと似たような境遇の人も多いんじゃないでしょうか。では、この今の状況、神から見たら一体どうなるんでしょうか? 聖書には何と「思い悩むな」などと無茶なことが書いてあります。

それでも、神は愛の方です。別の聖書箇所に「神は全ての必要をご存知である」と書いてある通りです。だから、神は解決の道をちゃんと用意してくれる…。でも、本当なんでしょうか? そこで、今日は僕がこの神の愛を献金を通して知った経験をお話します。献金とは神にお金をお返しすることです。決して強制ではありませんが、聖書には「報酬の10分の1は神のものだから神に返しなさい、つまり献金しなさい」と書いてあります。たとえばバイトで8万円稼いだら、何と8千円は献金しなさいということになります‼

ある礼拝の折、僕は献金に迷いました。お金に困っていたのです。僕の財布には千円札3枚と小銭が少々だけ。選択は、小銭全部、千円札1枚、そして3千円の3つでした。僕は神に祈りました。「いくら献金すればいいですか?」 神からの答えは「3千円」でした。僕は結局そのようにしました。

その後日、ある映像祭に向けて撮影と編集の協力をした際のお礼として、何と3万円もの謝礼金がいただけることになったのです。献金した3千円が10倍になって返って来たわけです。「神の名による偶然はない」と言われますが、僕の必要を神はご存じで、それを愛をもって解決してくれたということです。

僕はどちらかというとネガティブな人間ですが、聖書には良いことも悪いことについても感謝しなさいと示されているので、すべてのことに感謝するよう心がけています。なけなしの金を献金できたのも、感謝の気持ちがあったからです。だから、今のコロナ禍でも感謝の気持ちを決して忘れないようにしたいです。
(名古屋柳城短期大学 専攻科2年 松田インマヌエル)


ランタナとアゲハチョウ

【マルコによる福音書7章14-23節】
それから、イエスは再び群衆を呼び寄せて言われた。「皆、わたしの言うことを聞いて悟りなさい。
外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである。」
聞く耳のある者は聞きなさい。
イエスが群衆と別れて家に入られると、弟子たちはこのたとえについて尋ねた。
イエスは言われた。「あなたがたも、そんなに物分かりが悪いのか。すべて外から人の体に入るものは、人を汚すことができないことが分からないのか。
それは人の心の中に入るのではなく、腹の中に入り、そして外に出される。こうして、すべての食べ物は清められる。」
更に、次のように言われた。「人から出て来るものこそ、人を汚す。
中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである。みだらな行い、盗み、殺意、
姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、
これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである。」

今読んだ7章の冒頭に、イエスと、当時の宗教指導者であったファリサイ派との激論が出てきます。ファリサイ派というのは、ユダヤ教の教えを人々が日常生活の中で極めて厳格に守ることを求めていた宗教指導者たちのことです。
そのファリサイ派が、イエスに対して、あなたたちのやっていることは問題だ、と指摘します。何が問題かというと、イエスの弟子たちが手も洗わずに食事をしているということでした。これは単に食べる前には手を洗いましょう、という衛生上の事柄ではありません。そんなことだったら激論にはなりません。これの何が問題かというと、ユダヤ教において食事の前に手を洗うことは、宗教的な意味での汚れを防ぐためでありました。
例えば神社に行くと参拝の前に水で手を清める習慣があります。水で手を清めることが宗教的な意味を帯びている、という点では似ていますが、これをしなかったからといって神主さんの逆鱗に触れるようなことはないと思います。しかし、ファリサイ派にとって、食事の前に手を水で清めるというものは、大変に重要な宗教的な意味を帯びていました。
ところが、イエスの弟子たちの中には、それをせずに食べていた人たちがいました。そこで、ファリサイ派の指導者たちは、そのことを批判したのでした。

しかしイエスは、そのように指摘するファリサイ派を偽善者だと批判します。ファリサイ派の人々は、さまざまな規則をきちんと守ることによって、汚れから身を守ることができると考えていました。そして、汚れから身を守る人間と身を守ることができない人間、言い換えれば、清い者と清くない者、正しい人と、正しくない罪人、というふうに、人間を線引きしていました。ファリサイ派は、そのように人間を分離することによって、自分たちが清い存在、特別な存在、いわば神に近い存在になろうとしていました。
こうした考え方から、ファリサイ派は、自分たちがいつも清さを保つために努力している一方、イエスの弟子たちは汚らわしい人たちだと捉えます。そして、そのような汚れた人たちが、民衆から人気を得ていることを問題視し、自分たちの優越性を守りたい思いから、弟子たちを見下した発言をしたのでありました。

イエスは、そのように人間を区別し、優越感を保ち、差別するようなファリサイ派の振る舞いを批判したのでありました。というのも、イエスの神理解、宗教理解はファリサイ派とはかけ離れているものでした。すなわち、神は、そのように人間の振る舞いに基づいて、人間の種類を清い者と汚れた者に分類したりすることは決してない、ということです。全ての人々は神の子であり、神は全ての人を愛されている、ということです。

「人の中から出てくるものが、人を汚すのである」という言葉は、「群衆に対して語った」と書かれています。この言葉はファリサイ派に対して語ったものではなく、ファリサイ派とイエスの激論を周りで見ていたガリラヤ湖畔の人たちへのメッセージとして語られたものです。
ガリラヤ湖畔でイエスの周りに集まっていた人々は、貧しさや不治の病に苦しんでいた民衆たちでした。ファリサイ派から見れば、宗教的な清さから遠い人々、弟子たちと同様、「汚れた人々」とされた人々でした。その人々は、ファリサイ派が主張していた宗教的な清さを保つための様々な戒めを守ることもできず、自分たちは汚れている、自分たちは神から見放された者だと思っていました。

イエスはそんな民衆たちに、断じてそれは違う、と宣言します。それが、「外から人の中に入るもので、人を汚すことができるものは何もない」ということです。

あなたたちは様々な要因で汚れてしまったと思っているかもしれない。自分はダメな人間だと思っているかもしれない。例えば、貧しさによって、病によって。しかし、そうしたことでみなさんが汚れることはないのだ、すなわち、神から見放されることはないのだ、ということです。あなたは汚れていない、あなたは神から愛されている。このように民衆たちを祝福されるのでした。このガリラヤ湖畔の民衆たちへのメッセージは、私たちに対するメッセージでもあります。
日々の生活の中で、あるいはこの複雑な社会の中で、自分は生きている価値がないと感じたり、自分は役に立たない、ダメな人間だ、と思ってしまったりすることもあるかもしれません。人間関係に疲れ、どうせ自分なんてロクなものではない、と思ってしまうことがあるかもしれません。
そんな私たちに、イエスは言われます。「外から人の中に入るもので、人を汚すことができるものは何もない」。あなたは汚れてなんかいない、なんびとも、あなたを汚すことなどできない。誰が何と言おうと、あなたはそのままで神から愛されている。

私たちは、このようにしてイエスによって祝福されていることを覚えたいと思います。そして、私たちも、隣人を社会の価値基準や世間の目に基づいて判断したりせず、その人をそのまま丸ごと受け入れ、豊かな交わりを求めていきたいと思います。  (チャプレン 相原太郎)


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