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【ヨハネによる福音書 10章11-16節】
わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。
羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。――狼は羊を奪い、また追い散らす。――
 彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。
 わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。
 それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。
 わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。

新約聖書の時代、羊飼いの仕事は、毎朝羊の群れを囲いから出して牧草地に導き、夕方になるとまた囲いの中に連れ帰るというものでした。遠くの場所に連れて行く時には野宿しながら夜通し羊の番をしていました。大変な重労働だったそうで、現代風に言えば、いわゆる3K、きつい、きたない、危険な働きでありました。当時としては必ずしもイメージの良くない羊飼いであったわけですが、イエスはあえてその3K的なイメージを重ね合わせ、自分はそのような働きを担う羊飼いだと語ります。
ここで良い羊飼いと雇い人が対比されています。良い羊飼いは自分の羊のために命を捨てます。しかし、雇い人はいざとなったら自分の都合を優先し、羊を置き去りにして逃げるというものです。

イエスは、ユダヤ教の権威である教師たちに向かってこの羊飼いの話を語りました。なぜイエスが教師たちに向かってこの話をしたかというと、次のような出来事をめぐって教師たちがイエスを非難したからでした。それは、生まれつきの目の見えない人が、イエスの言う通りにシロアムの池に行くと、目が見えるようになって帰ってきた、という出来事です。イエスは目の見えない人に出会い、彼にシロアムの池に行くように指示して癒すのですが、それを行ったのがユダヤ教の安息日、すなわち働いてはならない日でした。
この出来事の後、ユダヤ教の教師たちが登場します。そして彼に対して、誰がこのようなことをしたのかと問いただします。イエスだと答えると、教師たちはイエスがユダヤ教の規定を破って安息日に働いたことに憤慨し、イエスによって癒やされた彼を街から追放してしまいます。誰にも見向きもされていなかった彼は、イエスによって立ち直り、ユダヤ社会の一員として、失われた人生を生きなおそうとしていました。それなのに、ユダヤ社会から追放されてしまったのでした。

彼が追放されたことを知ったイエスが、ユダヤ教の指導者たちのところに出向いていって語ったのが羊飼いの話です。「羊のことを心にかけていない」、「羊を置き去りにして逃げる」というのは、当時のユダヤ教の指導者たちのことであると言えます。彼らは、真面目に律法を守ろうとしていた人たちではあります。しかしながら、彼らが律法を厳格に守ろうとするあまり、杓子定規に人を排除し、追放してしまうことをイエスは批判したのでした。
羊飼いが何千もの羊を全て見分け、一匹一匹の名前を呼んで養っていたように、イエスは、当時の宗教指導者が排除してしまう人々をこそ心にかけ、その痛みや苦しみを理解し、その人たちのために命を尽くすべきであると考え、実際そのように行動したのでした。

私たちの社会にも様々な形で排除されている人たちがいます。そして私たち自身もまた、弱く、小さなもの、さまざまな欠けがあるものです。羊飼いが羊のために、きつい、きたない、危険な場所に赴くように、イエスは、人々の弱さや欠け、悩み、恐れ、至らなさの中に降りて行かれ、それらを自らのこととして受け止めておられます。

良い羊飼いが、全ての羊を一見分け、一匹一匹の名前を呼んで養っていたように、イエスが私たち一人一人の名前を呼び、そして、この社会から排除されている人々の痛みや苦しみの現場に自ら出向いていかれることを覚えたいと思います。そして、私たちも、そのような者として歩むことができるよう、努めてまいりたいと思います。   (チャプレン 相原太郎)


ヤマアジサイ

【ヨハネによる福音書 13章31-35節】
さて、ユダが出て行くと、イエスは言われた。「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった。
神が人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神も御自身によって人の子に栄光をお与えになる。しかも、すぐにお与えになる。
子たちよ、いましばらく、わたしはあなたがたと共にいる。あなたがたはわたしを捜すだろう。『わたしが行く所にあなたたちは来ることができない』とユダヤ人たちに言ったように、今、あなたがたにも同じことを言っておく。
あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。
互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」

互いに愛し合いなさい」という新しい掟の新しさとはなんでしょうか。ヨハネ福音書の文脈においてそれは、その補足の部分にあります。「わたしが、あなたがたを愛したように」というこの部分にこそ新しさの鍵があります。そして、それゆえにこの掟は今もなお新しいと言うことができます。
「わたしがあなたがたを愛したように」ということの新しさとは、イエスの愛し方に他なりません。イエスの愛し方とは、十字架で処刑されるほどまでに徹底して出会った相手を大事にする、大切するというものでした。十字架で処刑されるほどまでに人を大事にするとはどういうことでしょう。
ヨハネによる福音書を読み返してみますと、イエスが十字架で処刑される引き金となった事件の記事があります。それはベトザタの池というところでイエスが病人を癒やした出来事です。
ベトザタの池でのイエスによる病人の癒やしは、安息日、すなわち、当時の律法の規定に基づいて、仕事をしてはならない日に行われました。イエスは、この病人とはもともと面識がなく、その日、たまたま歩いていて見かけた病人に過ぎません。しかし、その人が38年もの間、病気で苦しんでいることを知ったイエスは、安息日の掟を守ることをよりも病人を癒すことを優先しました。イエスがこの病人を癒やした直後の様子が、ヨハネ福音書に次にように記録されています。「このために、ユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとねらうようになった。」
イエスがどのように人を大切にしたかというと、この記録が示しているように、自分が社会の中で危うい立場に追い込まれたとしても、社会の常識やルールを打ち破ってでも、出会ってしまった一人ひとりを大事にするというものでありました。そして、このようなイエスの個別具体的で突発的なイエスの愛は、現代に生きる私たちにとっても、新しさをもっています。
キリスト教に連なる学校や福祉施設、あるいは教会は、愛ということをテーマとしつつも、この社会において活動をする上で、さまざまな計画を立てて、社会のルールに従って行動しています。しかしながらイエスは、なにか事前に計画を立てて人を癒していったのではありません。彼はたまたまベトザタの池で病人に出会い、そして彼を癒されました。
たとえば、イエスが一人でも多くの人を癒すことを目的としていたら、もしかしたら、この日には何もしなかったかもしれません。その日は、安息日の規定を守り、あらためて別の日に計画に基づいて行った方が多くの人を癒すこともでき、世間的な活動の評価も上がったかもしれません。しかし、イエスはそうした数値や評価に関心をもった形跡が全くありません。むしろ、ルールを破ってその癒しを行ったことで、十字架という結末をもたらしました。十字架刑とは、いわば当時の社会における最悪の評価です。イエスの愛し方とは、そうしたこの世的な評価や自分のメリットとはまったく関係なく、具体的に出会った人との間で、いわば偶然の出来事として起きてくる行為でした。

もちろん、私たちは、社会生活がありますので、世の中的な数値や評価をまったく無視することは難しいかもしれません。
しかし、イエス自身の愛し方が、当時の掟を超えて、たまたま出会った一人の人物に徹底してかかわっていくという方法であったということ、そのことが、イエスの教えに連なる私たちの活動の基礎にあるということを改めて確認しておきたいと思います。そして、自らの生活の中で、また仕事の中で、この新しい掟にこだわってまいりたいと思います。   (チャプレン 相原太郎)


ヤマアジサイ

【エフェソの信徒への手紙 第3章17節】
信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。 

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ご挨拶

カテゴリー:ご挨拶

名古屋柳城女子大学・名古屋柳城短期大学キリスト教センターは、本学の建学の精神「愛をもって仕えよ」(新約聖書 ガラテヤの信徒への手紙5章13節)の言葉に基づいて、2011年に創設されました。

本学では入学式や卒業式、創立記念日などの主な儀式・式典を礼拝形式で行っています。

大学のチャペルでは、毎週火・木曜日の昼休みに礼拝が行われ、神様と自分自身に向き合う静謐(せいひつ)な時を設けています。参加された人は、聖書の言葉とお祈り、讃美を通して、心が穏やかに満たされる経験をすることでしょう。あわせて、こうしたチャペルでの礼拝を通して大学での学びとも一貫した人間教育ができるように努めてまいります。

また、建学の精神の具体的な実践として、学生と教職員によるボランティア活動を行い、地域社会との交流や貢献活動を行っています。

コロナ禍でも工夫を凝らして大学礼拝や式典、活動を実施し、学生・教職員が本学の建学の精神を体現できる機会を設けていきたいと思います。(キリスト教センター長 高瀬 慎二)

【ルカによる福音書19章1-10節】
イエスはエリコに入り、町を通っておられた。
そこにザアカイという人がいた。この人は徴税人の頭で、金持ちであった。
イエスがどんな人か見ようとしたが、背が低かったので、群衆に遮られて見ることができなかった。
それで、イエスを見るために、走って先回りし、いちじく桑の木に登った。そこを通り過ぎようとしておられたからである。
イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」
ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた。
これを見た人たちは皆つぶやいた。「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった。」
しかし、ザアカイは立ち上がって、主に言った。「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」
イエスは言われた。「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。
人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」 

ガリラヤから首都に向けて旅をしていたイエスの一行は、いよいよエルサレムに近づき、エリコという町に入ります。エルサレムに到着すると、宗教指導者たちとの激しい対立が予想されるという緊張した状況の中でのエリコ滞在です。このエリコは交通の要所で、経済的にみてもトップクラスの都市でした。そんな町で税金を集めるトップにいたのがザアカイでした。
当時イスラエルは、ローマ帝国に支配されていました。その手先となって税金を取り立てるのが徴税人でした。税金の使い道の多くは福祉や医療などではなく、軍事費など帝国の維持のために使われており、人々の不満は大いにたまっていました。しかも徴税人は規定以上に取り立てて私服を肥やすのが常態化していました。外国の支配者のために働き、その立場を利用して不正な利益を得ていたということで、徴税人は嫌われ者でした。しかも、ザアカイはそのような徴税人の元締めでした。あのザアカイだけは許せないと人々に思われていたことでありましょう。
エリコの町にイエス一行がやってきました。イエスを取り囲むように人だかりができました。そこにやってきたのがザアカイでした。もちろん、人々はザアカイのことを知っていましたが、彼とは誰も目を合わせません。ザアカイも自分の立場がわかっていますので、誰とも目を合わせることがありません。彼には、顔と顔を合わせて話せる人、自分を見て受け入れてくれる人はいませんでした。そんなザアカイは、イエスが自分のような徴税人とも何の垣根もなく交わっていたと噂で聞き、そのイエスがどんな人かを見たいと思っていました。
ザアカイは、群衆に囲まれたイエスを見るため、大きな木に向かって走り出し、木によじ登ります。今でもそうだと思いますが、当時の社会において、大人が走り出して、木によじ登るというのは、まったく考えられない非常識な行為でした。それほどまでに、ザアカイは、自分がどう見られようとお構いなしに、イエスに会ってみたい、顔と顔を合わせて話をしてくれる人、自分を受け入れてくれる人に会いたいと思っていたわけです。
そんなザアカイを見たイエスは、木の下まで来ると、ザアカイにこう言います。
「今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」
ザアカイは影で悪口は叩かれることはあっても、自分を見て、面と向かって自分の名前を親しく呼んでくれる人などいませんでした。イエスが自分の名前を呼んでくれただけでも驚きだったと思います。しかも、あなたの家に泊りたい、泊まることになっている、と言ったのでした。
明日は、いよいよ、エルサレムに登るとても重要な日です。そんな大事な時にもかかわらず、よりによって徴税人の頭であるザアカイの家に泊まる、というイエスの発言に、エリコの人々はショックを受けたことでありましょう。裏切られたと思ったかもしれません。それでもイエスはあえてザアカイの家を選んだのでした。
ザアカイは、顔も見たくないと思われている自分を、「ザアカイ」という名前を持つ一人の人間として呼びかけ、その存在を認めてくださるイエス、エルサレムに向かう大切な前夜に親しい交わりをしてくださるイエスに驚き、そこに神の愛の働きを垣間見たのでした。その時、ザアカイの中に大きな変化が起きました。ザアカイは木から降りて、これまでの自分の拠り所であった財産を投げ出すのでした。

重要なポイントは、この物語の順番です。イエスは、ザアカイが財産を施すことにしたから、あるいは施すことが期待できたから、ザアカイの家に泊まることにしたのではありません。イエスは、初めからザアカイの家に泊まることになっていたのでした。ザアカイが何かするよりも前から、嫌われ者であったザアカイに親しく関わろうとしたというこの順番こそ、神の愛の働きが如何なるものかを明確に表しています。
神は、私達がなにかよいことをしたから、何か条件を達成したから、それを認めて恵みを注ぐ、というようなことはありません。そうではなく、神は私達が何をしようが何をしまいが、そもそも私達を認めている、神は初めから私たちのところに泊まることになっているわけです。

今、自分が誰からも受け入れてもらえないと感じている人、あるいは、この社会から差別され追いやられている人、また、あの日のザアカイのように、なんとかイエスを一目見たいと思っている私たちに、イエスは語りかけます。
「今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」
イエスが、そのように呼びかけてくださっていることを覚えたいと思います。
(チャプレン 相原太郎)


アオスジアゲハ

【フィリピの信徒への手紙 第3章8-9節】そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、
キリストの内にいる者と認められるためです。わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります。

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【ルカによる福音書 12章49‐52節】
「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。
しかし、わたしには受けねばならない洗礼がある。それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう。
あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。
今から後、一つの家に五人いるならば、三人は二人と、二人は三人と対立して分かれるからである。

イエスは、ガリラヤという辺境の地で宣教活動をしていました。ところが、その活動を通じて、首都であるエルサレムの宗教や政治の指導者と決定的に対立することになります。しかしながら、イエスは対立を避けようとはしませんでした。遠からず十字架によって自分が処刑されてしまうことを知りながらも、イエスは首都エルサレムに向かうことになります。今日の箇所は、その厳しい対立状況の中でのイエスの発言です。

イエスが生涯求め続けたのは平和でした。しかし、イエスが平和を願えば願うほど、当時のエルサレムの支配体制はイエスの活動を問題視します。なぜならば、イエスが宣べ伝える平和とは、誰にでも当たり障りのない平和ではなく、エルサレムの支配体制の矛盾を明らかにすることが含まれていたからです。支配者にとって、これは大変都合の悪いことでした。イエスが平和を宣べ伝えることで、社会にあった矛盾、対立、分裂が表面化していったわけです。その対立は、イエスが首都エルサレムに近づくほど鮮明になっていきました。そのことがイエスの「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためだ」という発言の意味と考えることができます。

今日の箇所でイエスは、家族の中の対立が避けられないとも発言しています。日本では、一般に神社仏閣などで家内安全を願います。このイエスの発言は、そうした願いを否定するかのように感じるかもしれません。もちろん家庭の平和を願うこと、それ自体は悪いことではありません。問題は、そのように家内安全を祈る時、その家庭の中にある矛盾や対立が隠されてしまわないか、ということです。
たとえば、家内安全という時、家庭内において男性による女性への支配を固定化してしまうことがあるかもしれません。子どもに対する暴力的な対応があるかもしれません。あるいは、家族以外の他の人たちの排除につながってしまうことがあるかもしません。イエスは、私達が何となしに平和や家内安全を願うことで社会の矛盾や支配の構造が覆い隠されてしまうことを、厳しく問うているように思います。

今日のイエスのメッセージは大変に厳しいものです。しかし、イエスは対立を暴露して終わり、ということではもちろんありません。ただ古い人間関係を壊すことが目的ではありません。イエスは、人の間に見え隠れしている対立を明らかにすることを通して、平穏無事に過ごそうとしてしまう私たちに気づきを与えます。そのようにして、分裂した関係を乗り越えた豊かな関係性、愛によって仕え合う関係性を私たちの間に回復しようとされるのでした。
私たちは、自分を中心にした生き方、この世の価値観に押し流された生き方をどうしてもしてしまいます。しかし、イエス・キリストに自分の生き方の軸を置き直すこと、イエスが示された神の国に信頼することによって、私たちは自由になり、本当の平和、豊かな人間関係を生きることができるはずです。私たちの社会に横たわる対立や矛盾が解消され、愛によって仕え合う関係へと変えられていくよう、祈り求めていきたいと思います。      (チャプレン 相原太郎)


ガザニア

 

【マルコによる福音書 12章41‐44節】
イエスは賽銭箱の向かいに座って、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられた。大勢の金持ちがたくさん入れていた。
ところが、一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚、すなわち一クァドランスを入れた。 
イエスは、弟子たちを呼び寄せて言われた。「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」

イエスが神殿を訪れると、ある一人の貧しいやもめがやってきます。当時、夫と死別すると、妻は収入源を失い、様々な社会的な権利も無くなってしまいました。今以上に男性中心の社会の中で、大変に貧しく苦しい生活を強いられていました。
そんな貧しい一人の女性が、神殿を訪れます。そして、生活費の全てを、賽銭箱に入れたのでした。生活費をすべて投げ出したと聞くと、この女性はなんと無謀なことをしたのかと思われるかもしれません。しかし、この物語はこの貧しい女性と当時の宗教指導者たちとのコントラストで、考える必要があります。
イエスは、当時の宗教指導者、神殿で働く人たちを批判してこんなことを言っています。彼らは長い衣をまとって歩き回り、広場で挨拶されることを喜んでいる。会堂や宴会の席ではなるべく一番の上座に座りたがろうとする。そして、見せかけの長い祈りをしている。
イエスはこのように述べて、当時の指導者たちが、さまざまな行為を人に見せびらかすためにやっているに過ぎず、それはすなわち、自分が少しでも今以上に優位な立場に立つためなのだ、と批判しています。祈りすらも、それを見せることで自分が高く評価され、安定した地位に居座るための手段になってしまっている、というわけです。
それに対して、賽銭箱に生活費全部を入れた女性の行動は全く正反対でした。生活費全部とは、人生の全て、あるいは生活丸ごと、という意味です。人生を全て差し出してしまったら、そして文字通り全財産を差し出してしまったら、女性に残るものはありません。それはすなわち、この女性が宗教指導者たちとは異なり、こうした行為を人に見せびらかすためでもなく、自分の安定のためでもなく、もっと大切なもの、つまり、神のため、そして他者のために行っているということです。
ところが、この女性の純粋な人々の気持ちを踏みにじるように、当時の宗教指導者たちは、こうした女性たち、貧しい人たちを、神から見放された者であるかのように扱い、さらには、例えば献金の一部を自分の懐に入れたりするなどしていました。
このような有様を見て、イエスは神殿に失望してそこを去り、神殿は遠からず崩壊すると話すことになります。

この物語をどのように受けとめますでしょうか。
こんなふうに思うかもしれません。すべてを投げ出すのは、確かに美しいことかもしれない。神のため、そして人のために、持っているものを全て差し出すことができれば、確かに、それは素晴らしことだろう。でも、そんなこと、私にはとてもできない。生活をしていかなければならないしと。
確かに、イエスの要求は、私たちにとって厳しく激しいものです。この世の常識に囚われ、日々の生活の安定を求めてしまう私たちには、なかなかそんなことはできません。生活の全てを投げ出すなど、不可能だと考えると思います。
ただ、この話のポイントは、この貧しい女性と宗教指導者たちとのコントラストで考える必要があります。
貧しい女性と宗教指導者の間では、献金に対する考え方が、全く異なっていました。貧しい女性は、献金を文字通り、神に返すため、神に用いてもらうために、自分の欲望を投げ出すようにして差し出しました。そこには私利私欲はありませんでした。
しかし、ここで批判されている宗教指導者たちは、宗教的な行為を人に見せびらかすために行っていました。つまりそれは紛れもなく自分ためでありました。神のため、他者のためか、それとも単に自分のためか、ここに大きな違いがあります。

例えば、災害が起きた時などに、どこかに寄付をしたり、あるいは自ら出向いて時間を割いてボランティアをしたりすることもあると思います。
こうしたことは、見せかけのため、自分が人からどう見られるかと自分の評価を高めるために行っているのではないはずです。本来的には、自分の時間、自分のお金、自分の身を削って奉仕する、ということのはずです。自分の時間が余っているから、自分のお金が余っているから、その余った部分、自分が痛まない部分だけで活動する、ということではないと思います。
人に関わる行為をする時に、自分が痛むか痛まないかということ、これが、自分だけのためなのか、それとも他者のためなのかを見定めるヒントになります。愛によって仕える、ということは、自分が痛まない範囲で、あるいは自分が余っている部分でする、というものではありません。ましてや、人に見せて自分の手柄にするために行うようなものではありません。
もちろん、全てを投げ出すことなど、なかなかできないかもしれません。しかし、人に何かをする、という時に、それが、単に自分のためではなく、自分がある程度痛むことがあっても、その人のためになれば、と行動したという経験はきっとどこかであると思います。
そして、そもそも私たちがそのように自らを投げ出そうとするよりも前に、まずイエス自身が、私たちのために全てを投げ出され、命そのものを私たちに与えられた、ということを覚えたいと思います。彼は持っているものの一部を切り取って、投げ出したのでもありませんし、ましてや自分のために行ったのでもありません。
キリスト教の神とは、イエスが十字架で示されたように、神自身が自ら痛み、私たちのために自らを差し出される愛の神です。
神自身が私たちのために身を投げ出されること、そのような愛が、私たちに降り注いでいるということ。そこにこそ、私たちが自分の利益のみを求めて生きることを超えて、お互いに愛によって生かし合うことができるという希望があります。

あの神殿の女性の行為に現れたように、すべてを投げ出し、痛みを持って私たちを愛されるのが神の姿です。そのような神に導かれて、私たちもまた、自分の利益を超えて他者に仕える者として歩んでまいりたいと思います。   (チャプレン 相原太郎)


タイム・ロンギカウリス

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