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【ルカによる福音書 第6章20~26節】
6:20 そこで、機会をねらっていた彼らは、正しい人を装う回し者を遣わし、イエスの言葉じりをとらえ、総督の支配と権力にイエスを渡そうとした。
6:21 回し者らはイエスに尋ねた。「先生、わたしたちは、あなたがおっしゃることも、教えてくださることも正しく、また、えこひいきなしに、真理に基づいて神の道を教えておられることを知っています。
6:22 ところで、わたしたちが皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。」
6:23 イエスは彼らのたくらみを見抜いて言われた。
6:24 「デナリオン銀貨を見せなさい。そこには、だれの肖像と銘があるか。」彼らが「皇帝のものです」と言うと、
6:25 イエスは言われた。「それならば、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」
6:26 彼らは民衆の前でイエスの言葉じりをとらえることができず、その答えに驚いて黙ってしまった。

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「貧しい人々は幸い」というのは、普通に考えれば、とても受け入れ難い教えです。貧困は、やはり克服すべき事柄です。飢えている人には、食べ物が与えられなければなりません。泣いている人の涙は、ぬぐわれなければなりません。
そして、貧しい人ではなく富んでいる人、飢えている人ではなく満足に食べることのできる人、泣いている人ではなく笑っている人、そういう人たちこそが幸福だ、と思うのが自然であると思います。

聖書の中で貧しい人とは、文字通り衣食住に事欠く人たちでした。イエスの周りに集まってきた人たちは、貧しく、あるいは社会の隅に追いやられ、神様からも見放されたと考えられていたような人たちでありました。そんな彼らに対して、皆さんこそが幸いなのだ、皆さんのところにこそ神が共におられるのだ、と語ったわけです。

イエス自身も、貧しい大工の息子として生まれます。そして、自ら持たざる者として育ち、貧しい者、社会から見放された者、罪人とされた人たちと共に暮らしました。そのようなイエスが、決死の思いでイエスのもとに集まってきた貧しい人たち、困難の中にある人たちを目の前にして、あなた方こそ幸いなのだ、神は決して見捨てることはないのだ、神の国はあなたがたのものだ、あなたがたのものにならなければならないのだ、と宣言したのでありました。
そして、イエスは、その言葉通り、彼らと共に生涯を送り、人生をかけて、生き方として、そのことを示したのでありました。「貧しい人々は幸い」というイエスの発言は、自分がどうなろうとも、あなたがたといつも一緒だ、という決定的な覚悟と決意の表れでもありました。

そもそも、すべての人間は、本来ひとりで生きることはできません。助けを求めなければ暮らしが成りません。とりわけ困難の中にある人は、そのことを、その弱さを、身にしみて理解しています。貧しさゆえに、自分が不完全であることを、弱い存在であることを、お互いに頼って生きる必要があることを、知っています。イエスのいう「幸い」とは、そのような人と人のつながり、愛をもって仕える関係の中にこそ、神様はいてくださる、ということであると思います。

このイエスのメッセージは、私たちにも向けられています。イエスは、その生涯を通して、自ら痛み、苦しんだ者として、私たちの悲しみ、不安、弱さ、不完全さを知っておられます。神様は決して見捨てることはない、神は必ずあなたとともにおられると語っておられます。
今、それぞれの生活において、さまざまな不安、悲しみ、疎外感、孤独に苛まれることがある方もいらっしゃるかもしれません。イエスは、そうした、一人一人の具体的な苦しみの中に、自ら低くなって、身を挺して、一緒にいてくださいます。神様が、共におられることを覚え、人と人との愛のつながりの中で歩んでいくことができればと思います。(チャプレン相原太郎)


ヒガンバナ

【ルカによる福音書14章7~14節】
14:7 イエスは、招待を受けた客が上席を選ぶ様子に気づいて、彼らにたとえを話された。
14:8 「婚宴に招待されたら、上席に着いてはならない。あなたよりも身分の高い人が招かれており、
14:9 あなたやその人を招いた人が来て、『この方に席を譲ってください』と言うかもしれない。そのとき、あなたは恥をかいて末席に着くことになる。
14:10 招待を受けたら、むしろ末席に行って座りなさい。そうすると、あなたを招いた人が来て、『さあ、もっと上席に進んでください』と言うだろう。そのときは、同席の人みんなの前で面目を施すことになる。
14:11 だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」
14:12 また、イエスは招いてくれた人にも言われた。「昼食や夕食の会を催すときには、友人も、兄弟も、親類も、近所の金持ちも呼んではならない。その人たちも、あなたを招いてお返しをするかも知れないからである。
14:13 宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。
14:14 そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ。正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる。」

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今日の箇所を読みますと、日本の上座・下座の文化の話に聞こえてきます。謙虚でいなさいというような教訓に聞こえるかもしれません。そして、これが天国のたとえであるとすると、天国は日本の宴会の場のようなところなのかと思うかもしれません。天国には序列があるのかと、思うかもしれません。しかし、そういうことではありません。
ここで大事になってくるのが、この場面で誰がこの話を聞いていたか、ということです。それは、ユダヤ教のファリサイ派と呼ばれる人たちでした。ファリサイ派は、当時、ユダヤ教の教えとその規則を熱心に守っていた人たちでした。それ自体はいいのですが、問題は、彼らが自分たちのことを他の人達と比べて正しいことをしている、と考えていたことでした。そして、その規則を守ることのできない人たちの気持ちを軽視し、ユダヤ社会から排除しようとすることでした。

イエスは、このようなファリサイ派たちの考え方は間違っていると考えました。このたとえに出てくる最初から上座に座ろうとしている人とは、ファリサイ派のことだと言えます。一方、ファリサイ派のようなエリートによって断罪され、ユダヤ社会から排除されていた人たちは、そもそも自分は天国に行けないのではないか、そもそも席がないのではないか、と思っていました。

しかしながら、このたとえにおいて、神様は、そのように思っている人たちに向かってこう言うのです。

友よ、もっと上席にお進みください。

自分などだめな存在だ、神様に愛されているはずがない、と思うような人たちにむかって、宴会の主催者、すなわち神様は呼びかけます。「友よ」。神様は、あなたこそ友なのだ、あなたこそ私のそばに来てほしいのだと、言われているわけです。
今、この世界の中で排除されている人たち、自分などだめな存在だと思っている人たちに対して神様は「友よ、もっとも上席に」と招いていること、これこそが、イエスの語る神の国、天国のイメージです。

この例えには、宴会に招かれたときだけでなく、自分で宴会を開くときのことが出てきます。そのポイントは、人を宴会に招くときには、相手にお返しを期待しない、見返りを求めない、というところにあります。
私たちがパーティーなどを行うとき、何らかの意味で利害関係者を招くのが普通だと思います。この人を招いて、あの人を招かなければおかしい、とか、この人を呼ばないと、後で困ったことになるかもしれない、といった具合です。そして、こうしたことは、パーティーなどに限ったことではありません。私たちが人に何かをする時、相手のためと思いながら、実際には、何らかの自分へのメリット、見返りを期待しているということが、多かれ少なかれあると思います。この人にお願いされたことをやっておけば、後で自分が得することがあるのではないか、この人に親切にしておけば、後でみんなから尊敬されるのではないか、といった具合です。相手のためと言いながら、実はお返しを求めている、つまり実は自分のためにしている、ということは、よくあることだと思います。

しかしながら、天国、あるいは神の支配とは、それとは全く異なる原理である、ということです。
たとえの中で、婚宴に招くべき人としてリストに出てくる人たちとは、貧しい人たちなどでした。その人たちは、当時の社会においては、社会の期待に答えられない、すなわち、お返しができない人たち、と考えられていました。そして、イエスは、そのようにお返しができないからこそ、婚宴に招かれるべきなのだ、と言われます。それはどういうことかというと、神の国、天国は、何もお返しができない人、何も持っていない人、あるいは、神様の期待に応えることなどとてもできないと思っているような人こそ招かれているのだ、ということです。

これらのたとえが示していることは、神様は私たちに見返りを求めていない、ということです。私たちは、神様に対して何かを差し出す必要はない、ということです。私たちは、そもそも一人一人大切な存在として、神様によって創造されました。であるから、神さまは、私たちが何かを差し出すことによって、あるいは私たちの能力によって、その人の存在価値を判断する、というようなことはないわけです。そもそも神様にとって、私たちの価値とは、私たちの存在そのもので十分です
私たちは、この社会の判断基準、あるいは、自分が持っているたくさんのものから離れ、神様の前に、何も持たないありのままの自分で、神様に立ち帰りたいと思います。 (チャプレン相原太郎)

 

【マルコによる福音書10章2~9節】
10:2 ファリサイ派の人々が近寄って、「夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」と尋ねた。イエスを試そうとしたのである。
10:3 イエスは、「モーセはあなたたちに何と命じたか」と問い返された。
10:4 彼らは、「モーセは、離縁状を書いて離縁することを許しました」と言った。
10:5 イエスは言われた。「あなたたちの心が頑固なので、このような掟をモーセは書いたのだ。
10:6 しかし、天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。
10:7 それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、
10:8 二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体である。
10:9 従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」

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 今日の箇所では、まずユダヤ教のファリサイ派の人が登場します。ファリサイ派というのは、ユダヤ教の中でも、とりわけ律法のさまざまな規定に忠実に従って暮らしていた人たちです。そのファリサイ派がイエスに、「夫が妻を離縁することは律法にかなっているか」と問いかけます。夫が妻に離婚を言い渡すことは、正しいですか、と聞いているわけです。
当時の離婚は、基本的には、夫に強い決定権がありました。夫だけが自分の都合で、妻を自由に離縁することができる、ということです。しかもその都合が、いかなる場合であっても認められるというのが、ファリサイ派の基本的な考え方でした。実際、当時、鍋を焦がしたといった本当に些細で身勝手な理由で、夫は妻と離縁する人たちがいました。しかし、ファリサイ派は、そうした離縁も、律法に基づいて手続きが行われれば許される、と考えていました。
当時の社会では、夫から離縁させられた女性は、穢れたものとされ、再婚も困難でした。女性たちは生計手段を持っていませんでしたので、離縁とは、そのまま路頭に迷うことを意味します。

イエスがこのような離縁のあり方を批判していることは、ファリサイ派も知っていたはずです。しかしその離縁は、形式的には、律法に基づいているわけです。ですので、イエスがもし、夫が妻を離縁するのは間違いだ、と言い出したら、イエスが法律を無視する発言をしたとして、告発しようと思っていたわけです。

そこで、イエスは、ファリサイ派に「モーセはなんと命じたのか」と尋ねます。するとファリサイ派は「離縁状を書いて離縁することを許しています」と答えます。確かに聖書にはそのように読める記述があります。しかしながら、それは、本来、女性の権利を守る意味合いがありました。というのも、離婚する夫は、離縁状を作成する際に、自分自身の身勝手さを認めるような形で署名をしなければならなかったそうです。イエスは、身勝手な男性による離縁という問題意識から、聖書はそのように記したのだ、ということをファリサイ派に述べます。

そして、イエスは、「神が結び合わせた者を、人は離してはならない」と語ります。この言葉は、結婚式の大切な場面でよく用いられる箇所です。しかし、この言葉は、もともとは結婚式に臨んでいるカップルに対するものではありません。また、単純に、離婚をしてはならない、ということでもありません。
この言葉は、夫の全く身勝手な理由で離婚するのは許されない、男性の身勝手によって女性が苦しむようなことがあってはならない、ということです。

「結び合わせた」という言葉は、もともとの意味は「複数でくびきを担う」ということです。くびきとは、家畜が一緒に荷物を引っ張るための道具です。つまり、結び合わせるとは、重荷を一緒に並んで共に担う、ということです。男性が女性を支配するのではなく、男性も女性も、神のもとで、一緒に重荷を分かち合う関係となるのだ、ということです。
イエスの時代、男性と女性はそもそも対等ではありませんでした。一夫一婦制すら確立していませんでした。そうした中で、イエスは、全ての人は、そして夫婦となるカップルは、神の前で等しく尊厳を持っているのだと、激しい平等を主張したのでした。

そして、このことは、結婚する男女カップルの関係だけのことではありません。あらゆる人間関係について、言うことができます。私たち人間は、そもそも共同体的に生きるように創造されています。私たちは、生まれながらに繋がりあって生きています。そもそも、世界の全ての人は、本来、「神によって結び合わされた者たち」に他なりません。愛によって仕え合う関係、それが、神によって結び合わされた状態である、ということです。
神に結び合わされているはずの関係なのに、例えば、男性の都合、あるいは、大人の都合、あるいは、力の強いものの都合によって、一方的に支配するようなことがあってはならないわけです。

私達の社会には、さまざまな不平等が存在しています。そうした中で、私たちは、神に結び合わされた者、共に生きる者として創造された者、対等に共にくびきを担うものとしての関係を、築いていきたいと思います。

時に、私たち自身も、この社会から切り離され、その存在を否定されるようなことがあるかもしれません。イエスは、そうした私たちの間に立って、「神が結び合わせた者を、人は離してはならない」のだ、と宣言されます。私たちは、そのようなイエスによる宣言を通して、私たち一人一人が、神のかたちに似せて創られた尊厳を持つ者であり、共に繋がりあって生きる者として造られたことを覚え、日々を過ごしてまいりたいと思います。     (チャプレン 相原太郎)


正門のメランポジューム

【マルコによる福音書 1章29~34節】
1:29 すぐに、一行は会堂を出て、シモンとアンデレの家に行った。ヤコブとヨハネも一緒であった。
1:30 シモンのしゅうとめが熱を出して寝ていたので、人々は早速、彼女のことをイエスに話した。
1:31 イエスがそばに行き、手を取って起こされると、熱は去り、彼女は一同をもてなした。
1:32 夕方になって日が沈むと、人々は、病人や悪霊に取りつかれた者を皆、イエスのもとに連れて来た。
1:33 町中の人が、戸口に集まった。
1:34 イエスは、いろいろな病気にかかっている大勢の人たちをいやし、また、多くの悪霊を追い出して、悪霊にものを言うことをお許しにならなかった。悪霊はイエスを知っていたからである。

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 イエスの時代は、病気は悪魔の力によると考えられていました。悪魔に支配されているから病気になるのだ、ということです。言い換えれば、神から見放されているから、あるいは、神に呪われているから病気になるのだ、というわけです。こうしたことを背景としていますので、イエスが病人を癒したというのは、イエスが医学的な意味で、治療したということとは、少し違います。イエスが癒す際には、イエスが悪霊を追い払ったと表現されたりしますが、それは、イエスによって、その人が悪魔的なものから解放された、ということを意味します。それは別の表現を用いれば、その人が、神との交わり、そして人々との交わりを回復した、ということです。

イエスの一行がシモン・ペテロとアンデレの家に行くと、ペテロの姑が熱を出して寝ていました。当時の常識では、結婚した女性は、自分の夫の家で暮らします。しかし、彼女は、自分の夫ではなく、娘の夫の家にいたわけです。これはすなわち、彼女の面倒を本来見てくれるはずの家族がいない、ということになります。彼女にとって、ペテロの家は本来自分がいるべき場所ではないところと考えていました。しかし、他に頼りにできるところもなく、肩身の狭い思いをしながらも、そこに身を寄せていました。
そんな彼女のいる家に、イエスがやってきます。するとイエスは、他でもなく彼女のところに真っ先に近づきます。そして手を差し伸べて、彼女を癒やされました。イエスとの出会いを通じて、孤独の中にあった彼女は、人々との関係性、そして見放されていたと思い込んでいた神との関係性を回復していきました。

現代の社会では、神と人、人と人との関係を断ち切るような力が、私たちを取り囲んでいるように思います。私たちは競争を強いられ、孤立し、大きなストレスを抱えながら日常を送っています。そして、そんな中で社会から脱落していく人に対しては「自己責任」、その人が悪いのだ、と言って、切って捨てるのが、現代の社会の厳しい現実です。これは、イエス時代、重い病にかかると、悪魔に支配されたのだから仕方がない、その人が悪い、と切って捨てていたことに似ているようにも思います。

そうした中で、イエスは、切って捨てられていた人々の間に入っていき、人々の関係を回復していきました。私たちも、その働きに連なり、隣人との人間的なつながりの回復を求めていきたいと思います。
(チャプレン 相原太郎)


色合い豊かな柳城花壇

【マタイによる福音書 第14章13~21節】
14:13 イエスはこれを聞くと、舟に乗ってそこを去り、ひとり人里離れた所に退かれた。しかし、群衆はそのことを聞き、方々の町から歩いて後を追った。
14:14 イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て深く憐れみ、その中の病人をいやされた。
14:15 夕暮れになったので、弟子たちがイエスのそばに来て言った。「ここは人里離れた所で、もう時間もたちました。群衆を解散させてください。そうすれば、自分で村へ食べ物を買いに行くでしょう。」
14:16 イエスは言われた。「行かせることはない。あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい。」
14:17 弟子たちは言った。「ここにはパン五つと魚二匹しかありません。」
14:18 イエスは、「それをここに持って来なさい」と言い、
14:19 群衆には草の上に座るようにお命じになった。そして、五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子たちにお渡しになった。弟子たちはそのパンを群衆に与えた。
14:20 すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二の籠いっぱいになった。
14:21 食べた人は、女と子供を別にして、男が五千人ほどであった。

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 聖書の中には、イエスさまが人々と食事をするシーンがたくさん出てきます。今日の5000人の食事もその物語の一つです。

人々が大勢イエス様のところに押しかけてきました。彼らの多くは、貧しい人、病気の人、罪人と呼ばれて社会から排除された人たちでありました。夕暮れになりました。弟子たちは、そろそろ解散にしましょう、そして夕食に食べるものを買いに行きましょうとイエスに提案します。しかしイエスは言います。「ここにいる人たちみんなに、あなたがたが食べ物を与えなさい。」弟子たちは、これだけの人々に配る食べ物なんてありませんとイエスに言います。しかし、イエスは、弟子たちが持っていた少量のパンを手に取り、感謝してこれを割いて、弟子たちに渡します。すると、そこで何かが起きて、そこにいたすべての人達は満腹になりました。

実際に何が起きたかは確かめようがありませんが、次のようなことが考えられます。最初に、イエスと弟子たちが持っていたパンを全て差し出します。すると、その様子を見ていた周りの人たちは、そのパンが入った小さなカゴが回ってくると、それぞれがポケットやカバンに持っていた食べ物を差し出したのではないか、ということです。場所は、人里離れたところです。自分の食べるものぐらいは持っていたはずです。みんなのために全てのパンを差し出すイエスを見て、自分も一人だけで食べるわけにはいかないと思い、それぞれが持っていたものを差し出し、そのようにして、食べ物は減るどころか、むしろ、増えていった、ということです。

そんなものは奇跡ではない、と思うかもしれません。しかし、大人数での食事は、当時の常識ではあり得ない、奇跡的なものでした。例えば、当時の社会において守るべき規則として、食前に手を洗い清めること、というものがありました。この手洗いは、単に手を清潔にする、というだけではなく、外でどんな人に触れているかわからないから穢れた手を清める、という宗教上の理由がありました。しかし、これだけの人数が一緒に食事をしたわけです。誰に触れたかわからないといったことを理由に手を洗ったとは思えません。また、同じようなことですが、穢れた者と食事の席を共にしないこと、という決まりもありました。5000人で一緒に食事をしたわけですので、そこに誰がいるのか、もはや誰にもわかりません。しかも、そもそも、イエスの周りに集まってきた人たちとは、社会から排除された人たち、つまり罪人や穢れた者ということです。そのような人たちが大勢集まって、堂々と一緒に食事をするなど、当時では考えられないことでした。

当時の社会には、清いもの、穢れているもの、という区分けが、宗教によって張り巡らされていました。そうした中で、イエスは実際に一緒に食事をすることを通して、そのような区分など無効なのだ、ということを人々に示したわけです。そして、清いもの、穢れたもの、というような区分による壁を壊して、人と人との本来のつながりを回復していきました。そこでは、こぼれ落ちる人もなく、人々は満たされたのでした。このようにして、当時の社会ではあり得ない世界、いわば神の国が目の前に展開されました。これは、当時としては奇跡と呼ぶに値するものであったに違いありません。

この出来事は、4つある福音書の全てに記されています。つまり、この食事は、イエスを特徴付ける忘れるわけにはいかない出来事であったということです。もちろん、実際にどのようにしてみんなが満腹したのかは確かめようがありません。しかし、このような奇跡物語が全ての福音書に記されているということは、その出発点には、イエスがそこに集まった多くの人たちと、当時の社会常識を大きく乗り越えて、みんなで一緒に分け合って食べた、という経験があるはずです。

今、イエスは、そのような食卓の分かち合いに私たちを招いておられます。今、ここにいる私たちは、物理的には飢餓の状態ではないかもしれません。しかしながら、この社会の中で、時には不条理なルールにしばられ、時には人のつながりを断ち切られるような仕組みの中におかれ、不安や孤独に脅かされることもあると思います。そのような中で、イエスは、人と人とを分断する様々な壁を乗り越えて、つながりを回復することを求めておられます。そしてそれは、私たちが、これは自分だけのものとして隠し持っているもの、独り占めしているものを分かち合うことよってこそ、実現するはずです。   (チャプレン相原太郎)


ランタナ

【マタイによる福音書25章31~40節】
25:31 「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。
25:32 そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、
25:33 羊を右に、山羊を左に置く。
25:34 そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。
25:35 お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、
25:36 裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』
25:37 すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。
25:38 いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。
25:39 いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』
25:40 そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』

✝ ✝ ✝

 今日のストーリーを注意深く読むと、神がどこにいるのか、ということについて、大変に興味深いことが書かれています。

神様というと、おそらく一般的には、困っている人を助ける存在、傷ついた人を癒す存在と見られていると思います。ところが、今日の物語では、神様はまったく反対の立場にいます。すなわち、飢えていたときに食べさせた者が神様ではありません。神様は飢えていた人、そのものでありました。のどが乾いていたときに飲ませた者ではありません。神様は、喉が乾いていた人そのものでした。病気のときに見舞った人ではなく、病気の人そのもの、刑務所に入っている人を訪問する人ではなく、刑務所に入っている人そのものでした。それこそが神の姿なのだと、ここでは指摘しているわけです。

多くの人のキリスト教のイメージにおいては、なにか困っている人に対して良いことをした人に、神様の姿、あるいはキリストの姿を重ね合わせると思います。しかし、今日の物語が示しているのは、神様は困難の中にある人と共におられるということです。したがって、私たちは、困難の中にある人に寄り添うとき、そこで、キリストに出会うわけです。その出会いによって、自分のそれまでの生き方は変えられていくこということです。

子どもたちとの関係で言えば、誰かが子どもに優しく接している姿に神様の姿を見るよりも、子どもたちそのものに神様の息遣いを感じるべきであるということです。とりわけこの社会の中で、さまざまな困難な状況の中で生きる子どもたち、助けを求めている子どもたちの叫びを聞くとき、そこに神様の叫びを感じるべき、ということです。

ここに集う皆さんは、子どもたちの声を聞いたら、なんとかできないだろかと思うのではないかと思います。できるかできないかは別として、無視することはできない、耳を塞ぐことなどはできないと思います。私たちがそのように感じるとき、あるいは、そのようにして子どもたちの声に応えるとき、私たちの中には、確かに神様の愛が宿っているはずです。こうして、私たちは私たちの本来の姿、すなわち神様に似せて作られたものとしての姿を取り戻していくわけです。  (チャプレン相原太郎)


アガパンサス

【マルコによる福音書10章13~16】
10:13 イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。
10:14 しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。
10:15 はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」
10:16 そして、子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された。

✝ ✝ ✝

 こどもまんなか、あるいは、こどもまんなか社会という言葉を最近よく耳にするようになりました。今年の4月には、こども基本法が施行され、こども家庭庁が発足しました。4月3日に開かれたこども家庭庁の発足式で、岸田首相は、「こどもたちにとって何が最も良いことなのかを常に考えていく。『こどもまんなか』社会の実現が使命です」と強調して語っています。もちろん、その背景には、少子化、出生率の減少、子育て支援等をめぐる数多くの問題があることは言うまでもありません。ただ、保育・こどもに関わる学校としては、こどもまんなか、という響きは、それ自体、けっして悪いものではありません。今年度に入ってからも、わたしは、大学案内にも、この言葉をさっそく用いましたし、一宮市では、5月下旬に、こどもまんなかオープンキャンパスというのを開催しました。

ところで、こども・まんなかというとき、皆さんはどのようなイメージをもっているでしょうか。岸田首相が、こども家庭庁の発足を語ったとき、こどもたちといっしょにこども家庭庁の六文字をそれぞれ一文字ずつもって、新聞記者の方に一列に並んで写した写真があります。岸田首相はこども家庭庁と書いたプラカードをもち、隣に女の子が筆で「こどもまんなか」と書いた半紙をもち、こ、ど、も、家、庭を、いろいろな年齢層のこどもたち(肢体不自由の子も含む)が持ち、庁をこども小倉政策担当相がもち、大人が両端に立って、こどもたちがまんなかにいるという並びでした。これが、こどもまんなかのひとつのイメージなのかもしれません。

ところで、聖書では、こども・まんなかのイメージは、どのように描かれているでしょうか。イエスの誕生場面でも、赤ちゃんイエスを中心にして、羊飼いたちや博士たちが集まってくる箇所は記されていますし、イエスの家族も、こどもであるイエスを中心に、三人は生活していたでしょうし、そのような家族の絵画、いわゆる聖家族はたくさん描かれていますが、こども・まんなかと言うとき、わたしは、やはり先ほど、聖書で読みました箇所(「マルコによる福音書」10章13節~16節)が第一に浮かんでまいります。

ただ、この箇所では、お話の最初からこどもがまんなかにいたわけではないのです。むしろ、こどもは端っこにいたのです。より正確に言うならば、こどもとそのこどもを連れてきた、おそらく母親は、まんなかにいるイエスの方に近づこうとしたのだけれども、よりによって、イエスの弟子たちによって近づくことが許されず、端っこに追いやられていたのです。そのような弟子たちの行動を見て叱責し、こどもをまんなかに連れてきたのが、他ならぬイエスだったのです。母親にしてみれば、わが子の将来の幸せを考えて、イエスの方に近づいたということであり、それがまんなかに向かうということだったのでしょう。

じつは、この話は、キリスト教保育の原点ともいえる箇所としてたびたび取り上げられることがあるのですが、キリスト教に基づく児童文学者として世界的に有名な(数多くの絵本も書いていますが…)、ドイツ人のレギーネ・シントラーさんが、その作品である『聖書物語』のなかで、この話を取り上げています。

その話によると、主人公の女の子ミリアムちゃんは、お父さんとお母さんと暮らしていましたが、あのイエスが近く自分たちの町にやってくるらしいことを聞きつけ、一目会って、お話を聞きたいと思うのでしたが、当時、そのような話を聞けるのは、大人の、しかも男だけというのが当たり前のことでした。いよいよイエスがやってくるその当日、お父さんは、イエスの話を聞こうと早々に家を出発してしまいますが、残されたお母さんもミリアムちゃんも、イエスに一目会ってみたかったので、ダメもとで、二人はイエスがやってくると言われているところへ行ってみるのですが、思った通り、人がいっぱいで近づくことはできず、おまけに、近づこうとすると、イエスの取り巻きみたいな人(弟子たち)からは、女性やこどもはダメだダメだ、と言われて追い払われる始末……ミリアム親子以外にも、他にも、追い払われたこどもと母親は何組も集まっていて、近づくことができないでいました。でも、そのようななかで、その様子に気づいて、そのこどもたちをこちらに連れてきなさい、と言ったのが、他ならぬイエスだったのです。

この『聖書物語』の絵を担当したのは、シュチェパン・ザウゼルさんというチェコ人の人で、このザウゼルさんの絵が、なかなか味があって、絵をみてみると、こどもたちが、イエスが座っている近くのところへと集まってきており、イエスは同じ目線でこどもたちと関わっています。そこには、こどもたちや、こどもを連れてきたお母さんたちもいるのがわかります。そして、最初は、イエスの取り巻きで、まんなかにいたはずの弟子たちは、遠くの方で、「なんでイエスさまは、こどもたちを自分の近くに連れてきたのだろう」とキョトンとした顔をしながら、立っている様子が、じつにユーモラスに描かれています。

これが、聖書の語る、こども・まんなかのイメージだと言ってもよいかもしれません。
こども、あるいは、その母親は、自分たちにとって、どのようにすることが幸せであるかをちゃんとわかっているし、自分たちがどうしたいかという自分たちの意志や思いをはっきり表明しており、それを受けとめているのがイエスであると言ってもよいかもしれません。

こども・まんなかというとき、こども一人一人が、自分たちは何をしたいのか、どうなりたいのか、何を望んでいるか、ということに、また、こどもの声にどれだけ耳を傾けているのか、ということに、重点が置かれていることに注目していただきたいと思います。

そして、保育職を目指している皆さんであれば、自分ならば、この絵の中のどこに自分はいるのか、ということも、併せて、考えてもらいたいと思います。それは、これからの、日本社会の中でも、こども・まんなか(の社会)を実現していくために、自分は何ができるか、を考えることでもあります。皆さんはこの絵のどこにいるでしょうか。(まさか弟子たちの場所ではないでしょうね。お母さんの横ですか、こどもの横ですか、それとも、イエスの横ですか、それともイエスのところ…是非考えてみてください)

今日の聖書の箇所は、こども・まんなか、ということについて考える上で、そのようなヒントを与えてくれるように思います。

そして最後にもう一つ。じつは、イエスは、弟子たちが、お互いの間で誰が一番偉いか、という他愛もない議論をしているようなときに、議論している弟子たちの間に、こどもをまんなかに連れてきて、こどもの姿を見倣うことを促すことがありました。
誰が一番偉いか、というランクづけをしたがる大人に対して、そのような競争よりも、お互いに相手を思いあって一緒にいることを大切にしているこどもをまんなかに連れてくることがありました。
こども・まんなかというときには、相手を思いやる気持ち、相手といっしょに生きていこうとする思いを、自分のなかの中心部分に置く、という意味もあることを最後にお伝えしておきたいと思います。
(学長 菊地伸二)


創立125周年記念講演会

 

【マタイによる福音書 第5章13~16節】
5:13 「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。
5:14 あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。
5:15 また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。
5:16 そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」

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 塩は、塩は単独で用いられるものではなく、何かの味を引き立たせるために用いられています。塩は、人間の命に不可欠なものですが、しかし、塩そのものが自己主張することはなく、自分を溶かし込んでその味を整えます。
私たちが地の塩であるとは、私たちが何か特別な存在となるのではなく、隣人の間にあって、その人々が持つ本来持っている個性が引き出され、その人々の人生が豊かなものとなり、一人ひとりの固有の人生が大切にされること、そのようなことに仕えるということです。
また、光も、光そのもののために輝くのではありません。何かを照らすために輝きます。世の光である、ということは、自分が自分のために輝くのではなく、他者を照らし出すものとして生きる、ということです。

「あなたがたは地の塩である」 「あなたがたは世の光である」という言葉を聞きますと、いつか立派なクリスチャンになって、人々を導かなければならないと思ってしまうかもしれません。しかし、それは大きな誤解です。

イエスは、聞いていた人々に対して「地の塩になりなさい」「世の光になりなさい」とは言っていません。イエスが語ったのは「あなたがたは地の塩である」であり、 「あなたがたは世の光である」です。イエスは、そもそも、あなたがたは、今、すでに地の塩なのだ、世の光なのだ、と断言しているわけです。
当時、このイエスの言葉を聞いていた人たちは、例えば、社会で大きな責任を担っている人とか、宗教指導者とか、学校で勉強したエリートとか、そういう人たちではありませんでした。そうした人たちから最もかけ離れた人たち、すなわち、貧しい人たち、病気の人たち、社会から差別され、疎外されていた人たちでした。そのような人たちを見て、イエスは、そういうあなたがたこそが、世の光だ、地の塩だ、と語られたわけです。

私たちは、様々な不安や悲しみなどを抱えています。イエスは、そういった不安を乗り越え、悲しみを振り払って、地の塩になりなさい、と言っているのではありません。立派な人物になって、いずれ周囲に光を与えなさい、とも言っていません。そうではなく、不安や悲しみをかかえる一人ひとりの存在そのものが地の塩なのだ、神様から愛されている大切な存在なのだ、ということです。様々な痛みや悲しみをいだいているあなたがたこそが、世の光なのであり、愛をもって仕えることのできる人に他ならないのだ、ということです。
(チャプレン相原太郎)


アジサイ

【マタイによる福音書21章28~32節】
21:28 「ところで、あなたたちはどう思うか。ある人に息子が二人いたが、彼は兄のところへ行き、『子よ、今日、ぶどう園へ行って働きなさい』と言った。
21:29 兄は『いやです』と答えたが、後で考え直して出かけた。
21:30 弟のところへも行って、同じことを言うと、弟は『お父さん、承知しました』と答えたが、出かけなかった。
21:31 この二人のうち、どちらが父親の望みどおりにしたか。」彼らが「兄の方です」と言うと、イエスは言われた。「はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう。
21:32 なぜなら、ヨハネが来て義の道を示したのに、あなたたちは彼を信ぜず、徴税人や娼婦たちは信じたからだ。あなたたちはそれを見ても、後で考え直して彼を信じようとしなかった。」

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 イエスの話を聞いていた人たちは、神の言うことの聞く人は、当然のことながら、お兄さんのように、言われたことを実践する人だ、と考えました。
ところが、ここでイエスは、そのように答えた人たちに対して、あなたたちは、弟のように、口では「わかりました」と言っておきながら、結局は、神様の言うことを聞かないでは、と批判します。ここでイエスの話を聞いていた「あなたたち」とは、ファリサイ派や律法学者と呼ばれる、当時の社会のエリートたちでした。そのような人たちに対して、あなたがたは、神に対して「はい、わかりました」と口では言っているが、結局は何もしないではないか、と言っているわけです。

ファリサイ派とは、ユダヤ教のグループの一つで、ユダヤ教の教えにとても忠実で、真面目な人たちでした。彼らは、ユダヤ教の細かな規定を生活の隅々にまで生かしてしっかりと守り、また、それを人々にも教えていました。律法の規定を守ることこそが、ユダヤ教徒にとって、もっとも大事なことと考えていました。そして、その熱心さや実績ゆえに、自分たちこそ律法を守っている正しい者だと言うような自負がありました。
それゆえに問題だったのは、さまざまな理由でそうした規定を守ることのできない人たちに対する彼らの態度でありました。彼らは、規定を守ることができない人々を排除していました。また、そのように排除された人々の痛み、悲しみに共感することが、もはやできなくなってしまっていました。そして、自分たちこそが、他の人々に比べ、神さまに最も従っている、と思い込んでしまっていましたのでした。そして、彼らは「後で考え直す」ができませんでした。

ここで言われている「考え直す」とは何を意味するのか、と言うこと、視点を変える、あるいは、自分の生きる向きを変える、向き直す、ということです。では、どのような視点に変えるということでしょうか。
それは、言うまでもなく神の視点です。神の視点に向き直すとは、たとえば、自分を高めて、上から社会を見渡せるようなポジションにつくとか、そういうことではありません。むしろその反対に、この世界の中で、最も低い立場に追いやられている人たちの立場に自分の身を置き、そこからこの世界を見直す、ということです。そして、自分にはメリットがなくても隣の人を大切にし、愛をもって人々に仕えるような生き方へと変えられていく、ということです。

自分はそんなことはしたくない、あるいは、こんな私でいいのだろうか、と思われるかもしれません。
そこで大事なことは、そういう気持ちを隠し、押し殺して、あるいは、「私こそ、ふさわしい者だ」と勘違いして、神に対して「はい、わかりました」と優等生ぶって言う必要は全然ない、と言うことです。むしろ、正直に「いやです」「できません」という弱さを隠さない、ということです。どのみち神はすべてをご存じです。神は、私たちにそのような弱さがあるゆえにこそ、神の営まれるぶどう園で、ともに働くよう私たちを招いています。それゆえに私たちは、後からでも考え直し、視点を変え、神とともに愛をもって仕えるものとなってまいりたいと思います。その時、私たちは、働いているのが自分ではなく、神ご自身であることに気付かされるはずです。  (チャプレン相原太郎)


クリーピングタイム

【マタイによる福音書20章1~16節】
20:1 「天の国は次のようにたとえられる。ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行った。
20:2 主人は、一日につき一デナリオンの約束で、労働者をぶどう園に送った。
20:3 また、九時ごろ行ってみると、何もしないで広場に立っている人々がいたので、
20:4 『あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう』と言った。
20:5 それで、その人たちは出かけて行った。主人は、十二時ごろと三時ごろにまた出て行き、同じようにした。
20:6 五時ごろにも行ってみると、ほかの人々が立っていたので、『なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか』と尋ねると、
20:7 彼らは、『だれも雇ってくれないのです』と言った。主人は彼らに、『あなたたちもぶどう園に行きなさい』と言った。
20:8 夕方になって、ぶどう園の主人は監督に、『労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい』と言った。
20:9 そこで、五時ごろに雇われた人たちが来て、一デナリオンずつ受け取った。
20:10 最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。しかし、彼らも一デナリオンずつであった。
20:11 それで、受け取ると、主人に不平を言った。
20:12 『最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。』
20:13 主人はその一人に答えた。『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。
20:14 自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。
20:15 自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。』
20:16 このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」

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この話を読むと、朝から一生懸命働いた人にも、最後の1時間しか働いていない人にも、同じように1デナリオンを支払った主人のやり方に、釈然としない思いを持つかもしません。なぜそのような感覚になるかというと、それは、この物語を朝から働いていた人の立場に立って読んでいるからです。
ここで確認しておきたいことは、イエスがこのたとえ話を通して語っている天国、神の支配とはどんな状態なのか、ということです。天国というと、なんの厄介ごとも悩みもない楽しい夢の世界というようなイメージがあるかもしれません。しかしながら、イエスが語る神の国とは、そのようなイメージとは異なるものです。

たとえば、こんなエピソードがあります。イエスが人々に話をしていたところ、子どもたちが近づいてきます。弟子たちは、イエスの話が、遮られてしまって邪魔だと思い、子どもたちを排除しようとしました。するとイエスは言います。「子どものように受け入れるのでなければ神の国に入ることはできない。」これが意味するところは、神の国とは、自分たちにとっては邪魔だと思うような人たちも共にいられるところ、誰もが排除されず、自分とは異なる他者を受け入れ合うところなのだ、ということです。

今日のたとえも同様です。最初からいた者から見れば、後から来た者は邪魔だと思ったかもしれません。しかし、そのように後から来た者も一緒に生きるべきなのだということです。これは逆に言えば、自分が他の人から厄介な人だと排除されたり、この社会に居場所を失ってしまっていたりしているとすれば、まさにそうした人たちこそが、神の国に真っ先に受け入れられる、ということです。

主人の言葉に、「私はこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ」というものがあります。「支払う」と訳されている言葉は、「与える」「プレゼントする」という意味の言葉です。私は、最後の者にも、生きるために必要なものを与えたい、プレゼントしたいのだ、ということです。

このように、神の恵みとは、これをしたから得られる、というような、労働の対価のようなものではありません。一方的に与えられる、プレゼントである、ということです。ぶどう園の主人が、出会った人全てに、その人に必要なものをプレゼントしたように、神は、私たちに、無条件に、私たちに必要な恵みを与えてくださいます。         (チャプレン相原太郎)


香るネメシア

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