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今回は、キリスト教の「愛」について熱く語る使徒パウロの手紙が取り上げられます。

かつてはユダヤ教の熱心な宗教指導者で、律法をきちんと守らせることに命を懸けていただけあって、語る言葉は徹底的な迫力に満ちています。突然の神のお告げによってユダヤ教からキリスト教徒に回心した彼ですが、熱く燃えて突っ走る性格は変わらなかったかも(笑)

さて、これらパウロの言葉と結婚準備の話とが、いったいどのように結びつくのでしょうか。興味津々ですね。

お待ちしています!(^^)!

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●日時:10月8日(火)
3限 13:10~:保育科1、2年CDクラス、保育専攻科、教職員
4限 14:50~:保育科1、2年ABクラス、保育専攻科、教職員
●場所:チャペル
●説教:大西チャプレン
●テーマ:「結婚の準備の話 ~結婚の準備って何をすること?~」
●聖書箇所:【コリントの信徒への手紙一 13:1-7】
13:1 たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。
13:2 たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。
13:3 全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。
13:4 愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。
13:5 礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。
13:6 不義を喜ばず、真実を喜ぶ。
13:7 すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。

次回以降の予定
・10/15(火)通常礼拝(チャペル)
★礼拝後、チャペルで柳城タイムを開催します。アジア保健研修所の研修生さんによるミニ講演会です。
・10/22(火)通常礼拝(チャペル)教話:榎戸裕子先生

【マルコによる福音書4:1-9】
◆「種を蒔く人」のたとえ
4:1 イエスは、再び湖のほとりで教え始められた。おびただしい群衆が、そばに集まって来た。そこで、イエスは舟に乗って腰を下ろし、湖の上におられたが、群衆は皆、湖畔にいた。
4:2 イエスはたとえでいろいろと教えられ、その中で次のように言われた。
4:3 「よく聞きなさい。種を蒔く人が種蒔きに出て行った。
4:4 蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。
4:5 ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。
4:6 しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。
4:7 ほかの種は茨の中に落ちた。すると茨が伸びて覆いふさいだので、実を結ばなかった。
4:8 また、ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった。」
4:9 そして、「聞く耳のある者は聞きなさい」と言われた。

イエスさまのこのたとえ話が「たねくんとよいはたけ」という紙芝居になっています。今からその紙芝居をしますので、皆さんは幼児(園児)になったつもりで見てください。

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さて、皆さんは今、見終わってどんな感想を持ちましたか。

皆さんは種を蒔くことを一度や二度は経験していますね。草花の種や野菜の種にしても、麦や稲の種にしても、種を蒔く人が先ず最初に良い種を選別し、それを蒔きます。最初から発芽しないような悪い種は蒔きません。このたとえ話の中で、種を蒔く人とは神さま(イエスさま)を指しています。そして、種は神さま(イエスさま)のみ言葉、みこころを表わしています。神さまは素晴らしい種(み言葉、みこころ)をこの地上にお播きになり、人々がそれによって豊かな実りを得られるようにと望んでおられるのです。

この紙芝居では、蒔かれた土地(道端、石地、茨の中、良く耕された良い地)に視点が当てられています。いろいろな土地として、私たち人間の心の在り方が示されています。

固い道端のようでとりつく島もないような心、ゴロゴロしていて渇いた石のような心、やせこけて成長が不足している心、その場の状況を見て、しっかりそれを受け入れることのできる心を持っている人々のことです。

それと共に、種を蒔く人(神さま、イエスさま)の生き方に視点が当てられています。種を蒔く人はどんな土地(人間)であっても、同じ素晴らしい種(み言葉、御心)を蒔きます。必ず豊かな収穫があることを信じ、希望をもって種を蒔きます。種を蒔く人の良い種は必ず実ることが約束されているからです。私たちひとりひとりは、皆同じ人間でありながら、違う人格、性格、個性をもって生きています。人間の目で見れば、あまり好ましいとは思われない人であっても、神さまは平等に、溢れるような愛をその人に注いでくださるのです。長い目で見ると、神さまのみ言葉はどんな人であっても、そのみ言葉を受け入れるならば、必ず素晴らしい恵みが与えられることを伝えています。

「一粒の麦は、地において死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」(ヨハネによる福音書12:24)と言われたイエスさまのみ言葉は、死んでしまったと思われた種が、本当は生きていることを語っています。「もうだめだ、何の希望がない」と思っている私たちに、「そうではないよ、あなたたちの中でわたしは生きているよ」とイエスさまは語りかけておられるのです。種を蒔く人のたとえは、どんな人でもみ言葉を受け入れる人には、神さまは豊かな恵みを与えてくださることを語っています。


学食北側のヘデラ

今回はガリラヤ湖畔でのお話です。

群衆の魂を揺さぶるような声で語りかけるイエス。日がサンサンと照る中、鳥たちがにぎやかにさえずり、やわらかい風が首筋に心地よい。そして、遠くには畑仕事に精を出す人々の姿が…。そんな光景を勝手に想像しても決して怒られはしないような、そんな美しいたとえ話です。

イエスは目に映る風景を使ってアドリブで語ったことでしょうね。彼の庶民的感覚が本当に嬉しいです。彼のベースがそこにあるから、私たちはイエスを信じ切ることができるのかもしれません。

キリスト教を理解する以前に、イエスの人柄を心静かに感じてみてください。
お待ちしています!(^^)!

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●日時:10月1日(火)
3限 13:10~:保育科1、2年CDクラス、保育専攻科、教職員
4限 14:50~:保育科1、2年ABクラス、保育専攻科、教職員
●場所:チャペル
●説教:大西チャプレン
●テーマ:「種を蒔く人のたとえ」
●聖書箇所:【マルコによる福音書4:1-9】
◆「種を蒔く人」のたとえ
4:1 イエスは、再び湖のほとりで教え始められた。おびただしい群衆が、そばに集まって来た。そこで、イエスは舟に乗って腰を下ろし、湖の上におられたが、群衆は皆、湖畔にいた。
4:2 イエスはたとえでいろいろと教えられ、その中で次のように言われた。
4:3 「よく聞きなさい。種を蒔く人が種蒔きに出て行った。
4:4 蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。
4:5 ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。
4:6 しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。
4:7 ほかの種は茨の中に落ちた。すると茨が伸びて覆いふさいだので、実を結ばなかった。
4:8 また、ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった。」
4:9 そして、「聞く耳のある者は聞きなさい」と言われた。

次回以降の予定
・10/8(火)通常礼拝(チャペル)説教:大西チャプレン
・10/15(火)通常礼拝(チャペル)教話:アジア保健研修所 研修生

今回私は、すべては神のご計画の手のうちにあるのだということが理解できました。それは洗礼者ヨハネ、そしてイエスの誕生においても…。

記事では、前回にひきつづきヨハネの誕生物語が記されています。またマリア受胎の場面が、その後に続きます。

ルカは旧約聖書の記事(民数記6:3、マラキ書3:23)を引用することにより、ヨハネを神に遣わされた特別な人間だと強調しています。つまり、民にイエス・キリストに耳を傾けさせる準備をした人間、民に神への信仰に心を向けさせた人間と記しているのです

ヨハネは民が待ち望むメシアの先駆けとしてあらわれました。イスラエルの民が待ち望んでいた救世主がいよいよ、この世にあらわされるのです。特別な人間、ヨハネを遥かに超えた存在が。

後半ではクリスマスの時期ページェントでもお馴染みのガブリエルとマリアの受胎告知の場面が続きます。

マリアは夫と離れて暮らす婚約の期間に、イエスを身ごもります。それは世の負い目を追って生きるマリアへの試練、また福音でもありました。

天使の言葉を信じず、ヨハネが生まれるまでの間、罰として「沈黙」を余儀なくされたザカリアと同じく、はじめは天使の言葉に戸惑ったマリアでしたが、最後は、神から与えられた使命を「お言葉どおり、この身に成りますように。」(1:38)と受け入れたのでした。

私は今回の記事を通して、信仰には、福音の前では「沈黙」し、神のご計画に生きる謙遜さが常に重要であると感じました。それは、私たちがイエス・キリストに少しずつでも近づくことが出来る唯一の方法であると思います。

ザカリアもエリサベトもヨハネも、そしてマリアも、そうやって生きていました。福音書は常に、私たちにその姿を通して学ぶよう促しています。

次回もイエス誕生の記事を通して学びます。救世主を待ち望んだ当時の民と、現在の私たちが同じ思いで繋がっていることを感じながら。(Y)


中庭のミニヒマワリ

バイブルタイムでは今回より、ルカによる福音書の学びが始まりました。

まず序文では、「すべてのことを」「はじめから」「くわしく」「順序正しく」(ルカ1:3)という言葉に注目しました。そこでは福音書に寄せるルカの自信のあらわれに気づくことが出来ました。

また、合わせてルカが「確実なものであることを」(ルカ1:4)と述べていることから、それ以前に著されていた福音書の内容にルカは十分満足していなかったと推測出来ました。

続く記事では、洗礼者ヨハネの誕生以前についての出来事が記されています。

ヨハネの両親、ザカリアとエリサベトは良家の出であり、信仰の深さでも「非のうちどころがなかった(ルカ1:6)」人でした。ただ、二人の間には子どもが生まれていなかった点を除いては…。

当時のユダヤでは不妊は「神の裁きが起きた」などと思われていました。その中で肩身の狭い暮らしをしていた二人のもとにヨハネは誕生したのです。

聖所にて香を焚くという名誉ある仕事に招かれたザカリアは、またとないチャンスに思わず自分の願いを祈っていたのでしょうか。その祈りは聞き入れられ、イエスの御業の道を備えるため、ヨハネは誕生しました。

ルカはイエス・キリストの様々な行い、御言葉、すなわち神の御業を述べることの「はじめから(ルカ1:3)」をヨハネ誕生の物語から綴っています。

今回、ルカによる福音書は「物語」として豊かであること、また他の福音書と比べ、豊かなたとえ話が多いと知りました。

愛するイエス・キリストをどのように伝えたらよいか、ルカは熱い志と使命感を持って、考えに考えながら福音書を綴ったのですね。私たちは、それによって、あたかもイエスを昔から知っている人のように感じられます。

今回最も大切なこととして、イエスを深く知っている人、また知らない人にかかわらず、イエス・キリストをどう伝えるか、そこに力点を置くことが福音書を解き明かす上での重要なことと学びました。そして私たちは福音書を通して千分の一でもよいからイエス・キリストと同じ行動をすることが福音書が掲げる「到達点」であると理解できました。

さて、イエスの御姿を豊かに感じられる、ルカによる学びは始まったばかりです。次回も福音書を通して、イエスの歩かれた道を辿っていきたいと思います。(Y)


河川敷で遊ぶ園児たち

ルカによる福音書には、今回の聖書箇所に似た記事が記されています。それは老夫婦のザカリアとエリサベトの間に、神の慈愛によって子どもが授かるという話です。不妊は不名誉なことで神の罰のしるしだとも言われていた時代のことですから、二人は飛び上がって喜んだことでしょう。そして無事に生まれた子どもはヨハネと名付けられ、やがて、イエス・キリストの登場を人々に告げ知らせる「案内人」として活躍することになります。

言うまでもなく子どもの愛らしさは人類の光です。保育というお仕事の素晴らしさと責任の重さを改めて感じ、自分自身を振り返るきっかけにしてはどうでしょうか。

お待ちしています!(^^)!

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●日時:9月24日(火)
3限 13:10~:保育科1、2年CDクラス、保育専攻科、教職員
4限 14:50~:保育科1、2年ABクラス、保育専攻科、教職員
●場所:チャペル
●説教:村田康常先生
●テーマ:「子どものいるところに生まれる笑い」
●聖書箇所:【創世記21:1-6】
◆イサクの誕生
21:1 主は、約束されたとおりサラを顧み、さきに語られたとおりサラのために行われたので、21:2 彼女は身ごもり、年老いたアブラハムとの間に男の子を産んだ。それは、神が約束されていた時期であった。
21:3 アブラハムは、サラが産んだ自分の子をイサクと名付け、
21:4 神が命じられたとおり、八日目に、息子イサクに割礼を施した。
21:5 息子イサクが生まれたとき、アブラハムは百歳であった。
21:6 サラは言った。「神はわたしに笑いをお与えになった。聞く者は皆、わたしと笑い(イサク)を/共にしてくれるでしょう。」

次回以降の予定
・10/1(火)通常礼拝(チャペル)説教:大西チャプレン
・10/8(火)通常礼拝(チャペル)説教:大西チャプレン

【マタイによる福音書19:13-15】
19:13 そのとき、イエスに手を置いて祈っていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。
19:14 しかし、イエスは言われた。「子供たちを来させなさい。わたしのところに来るのを妨げてはならない。天の国はこのような者たちのものである。」
19:15 そして、子供たちに手を置いてから、そこを立ち去られた。

毎朝8時40分~50分の10分間、「キッチンはらぺこ」で朝の礼拝をしています。その礼拝の中で聖歌を歌い、主の祈りを唱え、そして次の祈りを時々することがあります。

「子供たちを愛する私たち」
主よ、今朝も柳城に集えることを感謝します。
柳城はフレーベルの思想を大切に、保育を価値あるものとして120年もの道を歩んで来ました。
あなたのご計画に驚くばかりです。
創設者マーガレット・ヤング宣教師の思いが、いつまでも私たちと共にありますように。
イエス・キリストは言われます。「子供たちを来させなさい。わたしのところに来るのを妨げてはならない。天の国はこのような者たちのものである。」と。
フレーベルはこの言葉から、子どもの生命(いのち)の偉大さを、子どもに自由な成長が保証されることを学んでいます。
子どもたちを教え、かわいがる対象としてだけではなく、愛し、敬意を払う対象にできるように、主よ、どうか私たちを成長させてください。
フレーベルは語りかけます。「子どもたちから、学ぼうではないか。」と。
主よ、この謙虚さ、誠実さ、信仰心を私たちにも与えてください。
私たちを高いレベルに導いてください。
この祈り、主イエス・キリストによってお願いいたします。 アーメン

子どもたちと長い時間を一緒に過ごしたことがある人ならだれでも、子どもたちが素晴らしい天使のような存在ではないことをよく知ってます。走り回って物をひっくり返したり、壊したり、親の会話の邪魔をしたり、面倒で厄介な質問をしてきたりします。イエスの時代も同じだったでしょう。多分いろんな性格や気質の子どもたちがいっぱいいて、中にはやんちゃな子もいれば、内気な子、好奇心いっぱいの子、わがままな子もいたことでしょう。実に多種多様な子どもたちでしたが、イエスに惹きつけられたのです。そんな子どもたちをすべてイエスは喜んで受け入れられました。子どもが最も弱く、小さな存在とされていた当時の文化の中で、イエスはご自分が子どもたちを祝福できるよう、子どもたちがそばに来ることを歓迎なさいました。

イエスは私たちに対しても同じまなざしで見ておられます。私たちがすべてを持っていなくても、完璧なふるまいをしなくても気になさいません。そんなことを期待しておられるのではなく、いつも私たちのそばにおいでになりたいのです。イエスは私たちが人々から歓迎され、大事にされ、仲間にしてもらいたいという願望を持っていることをご存じです。イエスにとっての理想像(私たちが勝手に考えた)など問題になさいません。ただ、私たちがイエスのもとに来ることだけを望んでおられるのです。

イエスのもとに連れてこられた多種多様な子どもたちに、深い愛情と忍耐力を示され、子どもたち全体と、個々の子どもたちとのやり取りを通して、イエスはあふれるばかりの愛と喜びを与えられました。

私たちに対しても、イエスは子どもたちに対すると同様に手を差し伸べてくださいます。イエスは私たちの良いところと悪いところすべてをご存じの上で、そのままの私たちを受け入れてくださり、良いところはさらに伸ばしてくださるのです。イエスを信じてイエスのもとに行く時、子どもたちのようにイエスに近づけるようになれることを、保育者を目指す私たちも覚えたいものです。(チャプレン大西 修)


ポーチュラカの実

【マルコ15:34】「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」

今回イエスの御姿を通して、苦しみを味わっている時にこそ神を賛美するという祈りの基本を学びました。

場面はイエスの十字架上、死の直前のことです。イエスは「(エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ)わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と大声で叫ばれました。

この言葉は詩篇22篇の冒頭で用いられています。神への嘆きに聞こえますが、十字架の上で苦しみもがくイエスです。断片的な言葉しか話せない状況であったはずです。

この詩篇は後半に入ると、神への賛美と信頼への言葉が続きます。

今回私は、イエスは十字架の上で22篇全体の意味を思い出して祈り、主を賛美されたと推測できることを学びました。

イエスは死の直前、ゲツセマネでの祈りと同様に、神に「本音」で祈られました。

その時、イエスでさえ神に疑問を抱いたのではないでしょうか。まさしくその言葉は綺麗事では無く、腹を割った本音の問いかけです。しかしイエスは、ご自身の最期の場面においても、神への信頼と賛美に満ちた祈りのあるべき姿を伝えられたのです。

神の前では無理をしなくていいのだよ。
神には本音を話せるのだ。
だから、こうやって私のように祈るんだよ、と。

十字架刑のイエスのお姿を間近で見ていたローマ軍の百人隊長は、「本当に、この人は神の子だった」(マルコ15:39)と語っています。私は、今回この言葉が彼の「信仰告白」であると知りました。むごたらしい死の直前に、神を賛美するイエス・キリストを彼はずっと見ていたのです。

苦しみを味わっているその祈りの始まりは神への嘆きであったとしても、賛美へと続くその祈りは、イエスの神への愛そのものです。

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さて、このシェア32をもって、マルコによる福音書の学びは一区切りとなりました。私の洗礼準備期間から一貫してイエスの信仰の「糸、愛、ご人格」について学びを与えていただいています。

次回からはいよいよルカ福音書による学びが始まります。

イエスが神に信頼し祈られるお姿を模範に、私はこれからも学び、祈りの日々を続けていきたいと思います。(Y)


ワイルドフラワー

【マタイによる福音書23:25-28】
23:25 律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。杯や皿の外側はきれいにするが、内側は強欲と放縦で満ちているからだ。
23:26 ものの見えないファリサイ派の人々、まず、杯の内側をきれいにせよ。そうすれば、外側もきれいになる。
23:27 律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。白く塗った墓に似ているからだ。外側は美しく見えるが、内側は死者の骨やあらゆる汚れで満ちている。
23:28 このようにあなたたちも、外側は人に正しいように見えながら、内側は偽善と不法で満ちている。

わたしたちは見えないところをきれいにすることをあまり得意としていません。ですから掃除をする時も、見えるところ、例えば部屋の真ん中をまるく掃いてきれいにしますが、それでは隅の方はきれいになりません。隅の方からきれいにすれば、真ん中のほうは自然にきれいになっていきます。

小学校の家庭訪問で担任の先生がおいでになり、お母さんと話しをしていた時、子供が入って来て、いつもおもちゃが入れてある押入れを開けた途端、中からお母さんが投げ込んでいたいろんな物が転がり落ちてきて恥ずかしい思いをしたというた話を聞いたことがあります。コーヒーを飲もうとしてカップを手に取ろうとした時、外側はきれいに見えますが、きれいに洗われていないため、内側にはコーヒーの滓と汚れが付着しており、期待していたようなきれいなコーヒーカップではないことに気づきます。メッキは当初きれいでもやがて剥げます。わたしたちは外側をきれいにすることにどれだけ神経を使い、労力を使い、たくさんのお金を使っていることでしょうか。着るもの、化粧品、アクセサリーなどはまさにその代表的なものと言っていいでしょう。外見は美しくても、心の内側はどうでしょうか。

スッピンの顔は恥ずかしくて見せられないと言います。それならば、スッピンの心は比較にならないほど恥ずかしくて、とても見せられないのではないでしょうか。

律法学者たちとファリサイ派の人々とは、イエスさまの時代、社会の中で人々から敬われていたユダヤ教の宗教的指導者たちでした。イエスさまは彼らとしばしば論争されました。彼らの外側の態度や行動はきれいに見えても、心の内側は見るに堪えない偽善に満ち溢れていたため、そのことをはっきり指摘し、悔い改めを迫りました。しかし、彼らはその指摘を素直に受け入れようとはせず、本当のことを言われたことに憤りを感じ、挙句の果てにイエスさまを無き者にすることによって、偽善者と呼ばれた屈辱を晴らし、自分たちの社会的な立場を固守しようとしたのです。彼らは見栄のため、人に見せようとして律法を形だけ表面的に守り、その精神をないがしろにし、人々に天国への道を示すどころか、閉ざしてしました。それは、最も重要な正義、慈悲の心、誠実な思いを無にしていたからにほかなりません。

わたしたちも内側をきれいにする必要があるのではないでしょうか。一見素晴らく思われることも、それを誤った態度や気分ですることがあるのです。たとえば、ホームレス支援活動で貧しい人々に奉仕している時、この人々はなぜこのように底辺まで落ちてしまったのだろう。きっと何か悪いことをして、こうなってしまったのではないだろうかと、その人々を裁いてしまっていることがあるかもしれません。また、友人が自分にはとても真似のできない勇気ある行動をした時、「すごいなー、立派だなー」と素直な思いを表わせないで、あの人はお金があり、余裕もあるからそれが出来たんだと決めつけてしまうような、醜く狭い心の自分に気づかされることがあります。そのような自分の心の内側が、いかに薄汚く、暗く、傲慢や偽善に満ちているかを思い知らされ、気づかされることは重要です。

わたしたちは誰一人として、自分の心の中に入ってくる思いをすべて制御出来ないことをイエスさまはよくご存じです。しかし、わたしたちにも何かできることがあります。それは自分の態度が間違っていると気づいたときに、迷わずすぐに立ち止まって、イスさまに赦しを願うことです。イエスさまは憐れみ深く、あなたが人を裁こうとしたり、批判したり、怒りの思いに誘われたりするときには助けてくださいます。その瞬間にもイエスさまはあなたの心に、その人に対する愛を溢れさせてくださるかもしれません。

あなたは心の内側も外側もきれいになることができます。イエスさまに目を注ぎ、あなたの心をもっとイエスさまの御心に近いものに変えてくださいと、信頼しお願いすることです。(チャプレン大西 修)


ワイルドフラワーとポーチュラカ

 

 

今回の福音書は、子連れの親がイエスのうわさを聞いて集まり、子どもの健やかの成長を祈って欲しいと願う場面です。2000年前の話ですから、当時の子どもの死亡率は今の日本よりも相当に高く、親も必死だったことでしょうね。でも、イエスと話をしている最中だった弟子たちが、その親たちを叱ったのです。「邪魔だ」というわけです。「結婚する意味なんてあるのか」と弟子たちが迷っていたというタイミングの悪さも災いしたのかもしれません。それ以前に、子どもの人権もへったくれもない時代ですからね。

それでも、イエスは違っていました。「子供たちを来させなさい。わたしのところに来るのを妨げてはならない。天の国はこのような者たちのものである。」 つまり、「神が支配する国は、子どものような弱者のためにあるのだ」と高らかに宣言したのでした‼

柳城に集う私たちにとって、イエスのご人格に感動できる最適な個所です。
お待ちしています!(^^)!

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●日時:9月17日(火)
3限 13:10~:保育科1、2年CDクラス、保育専攻科、教職員
4限 14:50~:保育科1、2年ABクラス、保育専攻科、教職員
●場所:チャペル
●説教:大西チャプレン
●テーマ:「子供たちを来させなさい」
●聖書箇所:【マタイによる福音書19:13-15】
19:13 そのとき、イエスに手を置いて祈っていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。
19:14 しかし、イエスは言われた。「子供たちを来させなさい。わたしのところに来るのを妨げてはならない。天の国はこのような者たちのものである。」
19:15 そして、子供たちに手を置いてから、そこを立ち去られた。

次回以降の予定
・9/24(火)通常礼拝(チャペル)奨励:村田先生
・10/1(火)通常礼拝(チャペル)説教:大西チャプレン

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