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【ヨナ書3:1-4:11】
3:1 主の言葉が再びヨナに臨んだ。
3:2 「さあ、大いなる都ニネベに行って、わたしがお前に語る言葉を告げよ。」
3:3 ヨナは主の命令どおり、直ちにニネベに行った。ニネベは非常に大きな都で、一回りするのに三日かかった。
3:4 ヨナはまず都に入り、一日分の距離を歩きながら叫び、そして言った。「あと四十日すれば、ニネベの都は滅びる。」
3:5 すると、ニネベの人々は神を信じ、断食を呼びかけ、身分の高い者も低い者も身に粗布をまとった。
3:6 このことがニネベの王に伝えられると、王は王座から立ち上がって王衣を脱ぎ捨て、粗布をまとって灰の上に座し、
3:7 王と大臣たちの名によって布告を出し、ニネベに断食を命じた。「人も家畜も、牛、羊に至るまで、何一つ食物を口にしてはならない。食べることも、水を飲むことも禁ずる。
3:8 人も家畜も粗布をまとい、ひたすら神に祈願せよ。おのおの悪の道を離れ、その手から不法を捨てよ。
3:9 そうすれば神が思い直されて激しい怒りを静め、我々は滅びを免れるかもしれない。」
3:10 神は彼らの業、彼らが悪の道を離れたことを御覧になり、思い直され、宣告した災いをくだすのをやめられた。
4:1 ヨナにとって、このことは大いに不満であり、彼は怒った。
4:2 彼は、主に訴えた。「ああ、主よ、わたしがまだ国にいましたとき、言ったとおりではありませんか。だから、わたしは先にタルシシュに向かって逃げたのです。わたしには、こうなることが分かっていました。あなたは、恵みと憐れみの神であり、忍耐深く、慈しみに富み、災いをくだそうとしても思い直される方です。
4:3 主よどうか今、わたしの命を取ってください。生きているよりも死ぬ方がましです。」
4:4 主は言われた。「お前は怒るが、それは正しいことか。」
4:5 そこで、ヨナは都を出て東の方に座り込んだ。そして、そこに小屋を建て、日射しを避けてその中に座り、都に何が起こるかを見届けようとした。
4:6 すると、主なる神は彼の苦痛を救うため、とうごまの木に命じて芽を出させられた。とうごまの木は伸びてヨナよりも丈が高くなり、頭の上に陰をつくったので、ヨナの不満は消え、このとうごまの木を大いに喜んだ。
4:7 ところが翌日の明け方、神は虫に命じて木に登らせ、とうごまの木を食い荒らさせられたので木は枯れてしまった。
4:8 日が昇ると、神は今度は焼けつくような東風に吹きつけるよう命じられた。太陽もヨナの頭上に照りつけたので、ヨナはぐったりとなり、死ぬことを願って言った。「生きているよりも、死ぬ方がましです。」
4:9 神はヨナに言われた。「お前はとうごまの木のことで怒るが、それは正しいことか。」彼は言った。「もちろんです。怒りのあまり死にたいくらいです。」
4:10 すると、主はこう言われた。「お前は、自分で労することも育てることもなく、一夜にして生じ、一夜にして滅びたこのとうごまの木さえ惜しんでいる。
4:11 それならば、どうしてわたしが、この大いなる都ニネベを惜しまずにいられるだろうか。そこには、十二万人以上の右も左もわきまえぬ人間と、無数の家畜がいるのだから。」

ヨナ書は旧約聖書の中で4章と短いものですが、ヨナという預言者を通してとても興味深く、示唆に富む物語です。ヨナは北王国のヤロブアム2世(紀元前786~746)の時代に活躍した預言者(列下14:25)で、この時期、ニネベはアッシリア帝国の重要な都市でした。

ヨナは「鳩」という意味で、預言者ホセアは「エフライムは鳩のようだ。愚かで、悟りがない」(ホセ7:11)と言っています。ここにはイスラエルの民の愚かさを自嘲する意味が込められていると言われています。ヨナ書が書かれたのはペルシャ時代(前539~333)後半で、バビロン捕囚後の独立も心もとないけれども、人一倍独善性と自尊心の強いユダヤ人に正しい自己認識を与え、新たな生き方を示唆しようとしているようです。

物語は以下の5つの部分に分けられています。①イスラエルの国において主とヨナの関わり、②海においてヨナと船乗りたちとの関わり、③魚の中で主とヨナの関わり、④ニネベにおいて主とヨナとニネベの人々の関わり、⑤ニネベ郊外での主とヨナの関わり

さて、預言者は主の言葉を預かって、そのまま伝えるべき人々に伝えることが本来の使命です。けれどもヨナはニネベに行って、その住民に主の言葉を伝えること、その町が悪のゆえに滅ぼされることを伝えることが任務であったにも関わらず、ニネべに行くことを恐れ、ヤッファに下り、ニネベとは正反対のタルシシュ(スペイン)行きの船に船賃を払って乗り込み、主からの逃亡を図ったのです。人の力(船賃を払うこと)で主から逃げることが果たしてできるのでしょうか。

主が大風を起こし、ヨナの乗った船を襲います。船乗りたちはそれぞれが信じている神々に救いを求め、さらに全力を尽くして船を軽くするため積み荷を海に投げ捨て、必死に助かろうとしましたがダメでした。その時ヨナは船底で寝ていたのです。船長はヨナにお前の神に救いを求めて祈れと言いますが、ヨナは祈りません。人々は災難の原因がどこにあるかくじを引いたところ、ヨナにくじが当たります。ヨナは、「わたしはヘブライ人だ。海と陸とを創造された天の神、主を畏れる者だ」と自分の素性を白状しました。主から逃げて来たからこのようなことが起こったのです。だからわたしを海に投げ込めば海は穏やかになります。彼はこう言って、スケープ・ゴート(贖罪の山羊)として海に投げ込まれます。すると海は静まり、人々は助かりました。人々は大いにヘブライ人の主を畏れ、いけにえをささげて誓いを立てました。

一方、海に投げ込まれたヨナは、主によって巨大な魚に呑み込まれ、その腹の中で三日三晩を過ごします。これはイスラエル民族の滅亡とバビロン捕囚の状況を暗示しています。暗黒の大海の深淵、苦難のどん底、死の淵から主に祈りをささげ、悔い改め、命を与えてくださる主を賛美します。すると、主は巨大な魚の口からヨブを陸地に吐き出させます。

悔い改めは新たに立ち上がること、再出発することです。ヨナは再び立ち上がって、主の言葉「あと40 日すればニネベの都は滅びる」を携えてニネベへと向かいます。3日かかって一回りできる都を1日分歩いて主の言葉を叫び続けたところ、「ニネベの人々は、神を信じ、断食を呼びかけ、身分の高い者も低い者も身に荒布をまと」いました。王もそれを聞き、「王座から立ち上がって王衣を脱ぎ捨て、粗布をまとって灰の上に座し」、「布告を出し」てニネベに断食を命じ、「ひたすら神に祈願せよ。おのおの悪の道を離れ、その手から不法を捨てよ。そうすれば、神が思い直されて激しい怒りを静め、我々は滅びを免れるかもしれない。」と言いました。その結果、神は彼らの業、彼らが悪の道を離れたことを御覧になり、思い直され、宣告した災いをくだすのをやめられました。

ヨナはこの神の態度に大きな不満を抱き、神に抗議します。ヨナは何を抗議したのでしょうか。神が「ニネベは滅びる」と言った約束を反故にしたことです。自分がニネベの人々に叫んだ言葉が実現しなかったこと、すなわち、ニネベが滅びなかったことは、彼の面目を丸つぶれにしたと思ったのです。しかしそれは大きな誤りでした。なぜなら、彼が叫んだ言葉は神の言葉だったからにほかなりません。自分の考えで言った言葉が実現しなかったならば、確かに面目丸つぶれだったでしょう。預言者は神の言葉を預かってそれを伝える役目を果たします。神の言葉が実現しなかったことは、神の面目が丸つぶれになることなのです。神の面目丸つぶれこそ、神の喜びなのです。なぜなら、多くの人々が滅びから救われ、新たに生まれ変わることができるからです。ヨナは多分こうなると思ったから、タルシシュに向かって逃げたのですと言い逃れをしました。

ヨナの不満、怒りに対して、神は一つの出来事を彼に経験させます。

ヨナは郊外で小屋を建て、ニネベの成り行きを見届けるため、日射しを避けてその中に座り込んでいました。神はとうごまの木を生えさせ、その大きく育った緑の葉がヨナを暑さの苦痛から解放しましたが、翌朝虫が木をすべて食い荒らしてしまい、さらに太陽が照りつけ、東風が熱風を運んできたため、ぐったりしたヨナは「生きているより、死んだ方がましです」と神に訴えます。神はそれに対してヨナに言います。お前は何もしないでいて、一夜で生じ、一夜で滅びたとうごまの木さえ惜しんでいる。それならわたしが、この12万人もいるニネベの人々とそこに住む家畜を惜しまずにいられるだろうか。(いや、惜しまずにいられはしない!)

このように結ばれているヨナ書は、ヨナを通して自らの正当性を主張し、他者を断罪することに、何ら痛みを感じない人間の独善的な生き方に対して、それを見つめ直すことを訴えているのではないでしょうか。

自分より弱い者、小さい者、劣っていると思われる者が、神に滅ぼされて当然であるという驕った考えが、正されなければならないと思います。

「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」「天の父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる。」(マタイ5:43~48)というイエスの言葉が思い起こされます。 (チャプレン大西 修)


恵みの雨

 

約40年前に私は溢愛館に就職しました。当時はオイルショックの時代で、大変な不景気でした。トイレットペーパーの買い占め騒動など、社会が騒然とする中、就職するのも難しかったのですが、私は楽観的で「何とかなるさ」と高をくくっていました。そういうおごった性格が禍してか、公務員試験に落ちて困り果てていました。

そんな状況で溢愛館の求人にたまたま出会いました。もともと福祉の仕事がしたかった私は運よく採用されたわけですが、後から聞いた話では、「おまえは大学出たばかりだから給料が安くすむし、経験がないのも教えがいがある。器用さも力もないが、真面目さだけはありそうだ」という評価だったということです。実際、私は3年くらいは全く役に立たなかったのです。これも後から聞いた話ですが、同僚らが施設長に向かって「成瀬を辞めさせて、キャリアのある女性を採用してくれ」と嘆願したくらいのひどさだったようです。

さて、こんな私でも40年もの間、溢愛館に勤められたのはどうしてでしょう。それは、職場環境が私を育ててくれたからなのです。特に、溢愛館で出会った子どもたちやその親たちとの関わりが私を成長させてくれました。里親との関係もそうでした。児童相談所の方針に異議を唱えて里親探しを進めてうまくいったこともありましたし、逆に、十分な検討を重ねることができないまま里親へ子どもを預けて、結局、残念な結果に終わったこともありました。両親とも精神疾患を患ってしまったその子どもが、親元に引き取られてから立派に成長していく姿にも出会えました。

どんな人も未熟なままで就職します。でも、与えられた環境の中で完成体に近づいていくのです。たとえ最初は力がなくても、人間関係の広がりを通して成長していきます。だから、あきらめる必要はありません。こんな私でも、今こうして話をしながら学ばせてもらっています。活かされていることが実感できます。(成瀬 英雄 本学非常勤講師、要約は加藤)

今回は「ヨナの物語」が扱われます。当時の時代背景を知らないと物語の意味がサッパリ分からないという難点はありますが、この短いお話には「神は愛です(1ヨハネ4:16)」というメッセージが鮮明に記されています。加えて、私たちの胸の奥に潜む邪悪な心(持ってない人もいるかも)をあぶり出してくれるので、とても刺激的です。

チャプレンのお話にも、きっと気合が入ることでしょう(笑) 「乞うご期待」です‼

お待ちしています!(^^)!

✝ ✝ ✝

●日時:7月16日(火)
3限 13:10~:保育科1年ABクラス、2年CDクラス、保育専攻科、教職員
4限 14:50~:保育科1年CDクラス、2年ABクラス、保育専攻科、教職員
●場所:チャペル
●説教:大西チャプレン
●テーマ:「わたしの中に生きているヨナ ~ヨナの生きざまから学ぶ~」
●聖書箇所:【ヨナ書3:1-4:11】
3:1 主の言葉が再びヨナに臨んだ。
3:2 「さあ、大いなる都ニネベに行って、わたしがお前に語る言葉を告げよ。」
3:3 ヨナは主の命令どおり、直ちにニネベに行った。ニネベは非常に大きな都で、一回りするのに三日かかった。
3:4 ヨナはまず都に入り、一日分の距離を歩きながら叫び、そして言った。「あと四十日すれば、ニネベの都は滅びる。」
3:5 すると、ニネベの人々は神を信じ、断食を呼びかけ、身分の高い者も低い者も身に粗布をまとった。
3:6 このことがニネベの王に伝えられると、王は王座から立ち上がって王衣を脱ぎ捨て、粗布をまとって灰の上に座し、
3:7 王と大臣たちの名によって布告を出し、ニネベに断食を命じた。「人も家畜も、牛、羊に至るまで、何一つ食物を口にしてはならない。食べることも、水を飲むことも禁ずる。
3:8 人も家畜も粗布をまとい、ひたすら神に祈願せよ。おのおの悪の道を離れ、その手から不法を捨てよ。
3:9 そうすれば神が思い直されて激しい怒りを静め、我々は滅びを免れるかもしれない。」
3:10 神は彼らの業、彼らが悪の道を離れたことを御覧になり、思い直され、宣告した災いをくだすのをやめられた。
4:1 ヨナにとって、このことは大いに不満であり、彼は怒った。
4:2 彼は、主に訴えた。「ああ、主よ、わたしがまだ国にいましたとき、言ったとおりではありませんか。だから、わたしは先にタルシシュに向かって逃げたのです。わたしには、こうなることが分かっていました。あなたは、恵みと憐れみの神であり、忍耐深く、慈しみに富み、災いをくだそうとしても思い直される方です。
4:3 主よどうか今、わたしの命を取ってください。生きているよりも死ぬ方がましです。」
4:4 主は言われた。「お前は怒るが、それは正しいことか。」
4:5 そこで、ヨナは都を出て東の方に座り込んだ。そして、そこに小屋を建て、日射しを避けてその中に座り、都に何が起こるかを見届けようとした。
4:6 すると、主なる神は彼の苦痛を救うため、とうごまの木に命じて芽を出させられた。とうごまの木は伸びてヨナよりも丈が高くなり、頭の上に陰をつくったので、ヨナの不満は消え、このとうごまの木を大いに喜んだ。
4:7 ところが翌日の明け方、神は虫に命じて木に登らせ、とうごまの木を食い荒らさせられたので木は枯れてしまった。
4:8 日が昇ると、神は今度は焼けつくような東風に吹きつけるよう命じられた。太陽もヨナの頭上に照りつけたので、ヨナはぐったりとなり、死ぬことを願って言った。「生きているよりも、死ぬ方がましです。」
4:9 神はヨナに言われた。「お前はとうごまの木のことで怒るが、それは正しいことか。」彼は言った。「もちろんです。怒りのあまり死にたいくらいです。」
4:10 すると、主はこう言われた。「お前は、自分で労することも育てることもなく、一夜にして生じ、一夜にして滅びたこのとうごまの木さえ惜しんでいる。
4:11 それならば、どうしてわたしが、この大いなる都ニネベを惜しまずにいられるだろうか。そこには、十二万人以上の右も左もわきまえぬ人間と、無数の家畜がいるのだから。」

●次回以降の予定
・7/23(火)通常礼拝(チャペル)説教:大西チャプレン
・9/3(火)通常礼拝(チャペル)説教:大西チャプレン

「目を覚ましていなさい」(マルコによる福音書13:37)

今回は、愛ゆえの厳しさによってイエス・キリストが私たち人類にお求めになられる真実の信仰の姿について学ぶことが出来ました。

前回に続いて十字架に向かわれる直前の貴重な時を用いられ、イエスは弟子たちに終末について述べられました。その中でイエスは「目を覚ましていなさい」と4回も繰り返し諭されました。私たちが油断し真の信仰から離れてしまうことのないように念を押されたのです。

イエスが諭された「目を覚ましている」こととは、日々の生活の中で福音書に触れてイエスを仰ぎながら暮らすことだと、私は今回学びました。それは毎日の努力の積み重ねを要し「行動」であらわされるものです。

私は本学保育科の二年次、洗礼堅信にあずかりました。学びの中、イエスのお姿を辿るうち、行動を伴わない信仰は真の信仰とは言えないというキリスト教の厳しさがあることを知りました。しかし一方で、イエスの計り知れない愛のお姿も学んでいます。

今回の聖書記事において、終末がやってきた時にすべての人が神に選ばれ救われて欲しいとイエスが願われていることが分かります。イエスはそのためにこの世に遣わされたのです。私はその愛に心が熱くなります。でも、イエスを受け入れて救われるかどうかは私たちが判断することです。ここに現実の厳しさが感じられます。

イエスに出会う人生。それはたとえキリスト教徒でなくても、人生をまっすぐに生きる指針となり、喜びであると私は思います。

次回もイエスに真中に感じ、仲間とともに、学び、そして祈ります。(Y)


ミニヒマワリ

【マタイによる福音書25:31-46】
25:31 「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。
25:32 そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、
25:33 羊を右に、山羊を左に置く。
25:34 そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。
25:35 お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、
25:36 裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』
25:37 すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。
25:38 いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。
25:39 いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』
25:40 そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』
25:41 それから、王は左側にいる人たちにも言う。『呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ。
25:42 お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせず、のどが渇いたときに飲ませず、
25:43 旅をしていたときに宿を貸さず、裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに、訪ねてくれなかったからだ。』
25:44 すると、彼らも答える。『主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えたり、渇いたり、旅をしたり、裸であったり、病気であったり、牢におられたりするのを見て、お世話をしなかったでしょうか。』
25:45 そこで、王は答える。『はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。』
25:46 こうして、この者どもは永遠の罰を受け、正しい人たちは永遠の命にあずかるのである。」

✝ ✝ ✝

皆さんはこの柳城に入学し、保育者になることを目指しておられます。しっかりと目標、目的がおありです。皆さんの志に敬意を表し、応援したいと思います。

今日の機会に今一度質問をしたいと思います。何故、保育者を志したのでしょう。

自分にそう決意させたもの、促したものは何なのでしょう。よく振り返ってよく見つめて欲しいのです。自覚している方もあらためて意識してみて下さい。

皆さんは水俣病を知っていますか? 九州水俣湾で起きた水銀汚染公害病です。その悲惨さや公害の深刻さを世界に示しました。

工場が水銀を含んだ排水を海に垂れ流し、汚染された魚介類を食べていた人達が発症した公害病です。水俣湾の魚は食べられなくなってしまい漁師は漁をなりわいとしていたので生活保障として汚染源となった工場が市価と同額でとってきた魚を買い取っていました。漁をすればそれだけ収入になるので毎日漁に出掛けていました。工場では買い取った魚をすぐコンクリートづめにして廃棄していました。その事を知った漁師達は自分たちのしていることに疑問を持ち始め、次第に漁に出る意欲を失い、ついに漁をやめてしまったそうです。

人が生きるのに大切なことが示されているように思います。それは、「何のために」という目的なのではないでしょうか。生きがい、張り合いと言ってもいいでしょう。自分のしていることが何かしら社会の中で何らかの役に立っていると思えれば、たとえどんなにしんどくても意欲や喜びをもって生きることができるようですが、「何のために」という目的を失ったり、自分が納得が出来ない場合には意欲も喜びも失ってしまいます。

学校で勉強していることも「何のために」するのかということをあらためて考えてみると良いと思います。結局のところ「試験があるから」というのが本音かも知れませんが…。では何故「何のために」試験するのかという事も問われることにもなるでしょう。ただ単に学校教育の問題だけでなく、ひいては「何のために」という問いは、広く社会や人生そのものに関わる重大な事柄となっていることは言うまでも無いことのように思います。

聖書は人生にもテストがあると語っています。神様は問いかけます。財力、地位や名誉を持っているかではなく、「わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者にしたかどうか」という問いです。

皆さんがこの柳城で、「愛によって仕える」者として生きようとするその志をどうぞ全うされますよう心から願い、お祈りしております。(中尾 志朗 司祭:一宮聖光教会)

「わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」(マルコによる福音書13:13)

今回はイエスのお姿を通して、どんな状況にあっても相手に真実を伝える正直な愛のお姿を学びました。

イエスは十字架刑に処される目前のある日、弟子たちに終末について述べられました。

その中でイエスは、弟子たちがこれから迎えるであろう災難について警告をなさり、弟子であることの厳しさを超然と当たり前のこととしてお伝えになられました。

一方で、イエスはこの災難こそが、福音書が伝えられる最大のチャンスであると語ります。そして災難を成就した果てには神の国に入る道が与えられるとお約束なさったのです。

イエスは常にどのような時も本音を丁寧に語られます。それがいかに厳しい道に至るものだとしても。そして自ら、十字架上の処刑という災難を通して全世界に福音が述べ伝えるきっかけを作られたのです。

今回私は、師とは言葉だけでなく行動によって真実を証しすべきものと知りました。私はそのお姿に心からの信頼を感じます。

相手に真実を伝えることは一見とても冷酷に感じます。しかし今回私はお話を聞いているうちに、イエスの深い真意が感じられました。そこには、イエスの私たちに与えてくださる愛と真実が見えます。

次回も福音書を通しイメージを膨らませ、よりいっそう人間イエス・キリストのお姿を感じられるよう学んでいきます。(Y)


モンシロチョウ

今回の説教は変則で、3限と4限で担当が異なります。

3限は非常勤講師の成瀬英雄先生です。本学の学生さんが施設実習でいつもお世話になっている児童養護施設「溢愛館(いつあいかん)」の職員兼理事を務めておられます。本学と同じように、キリスト教精神のもとに建てられたこの施設。約70年の歴史が熱く語られることでしょう。

4限は大西チャプレン。復活したイエス・キリストが弟子のペトロに向かって何度も「わたしを愛しているか?」と問い掛ける場面が扱われます。イエスはペトロのことが大好きだったのでしょう。茶目っ気たっぷりのイエスをイメージして読むと、深刻な内容を愛をもって伝えようとするイエスの姿が浮かび上がってきて、なんだか嬉しくなってきます。

どちらも外せない感じですので、可能な人は、頑張って両方出席してみては?
お待ちしています!(^^)!

✝ ✝ ✝

●日時:7月9日(火)
●場所:チャペル
【3限】13:10~:保育科1年ABクラス、2年CDクラス、保育専攻科、教職員
●教話:成瀬 英雄先生(本学非常勤講師、児童養護施設「溢愛館」職員兼理事)
●テーマ:「溢愛館(いつあいかん)の働きを通して思うこと」

【4限】14:50~:保育科1年CDクラス、2年ABクラス、保育専攻科、教職員
●説教:大西チャプレン
●テーマ:「わたしはあなたを愛している」
●聖書箇所:【ヨハネによる福音書21:15-19】
21:15 食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに、「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と言われた。ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの小羊を飼いなさい」と言われた。
21:16 二度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの羊の世話をしなさい」と言われた。
21:17 三度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロは、イエスが三度目も、「わたしを愛しているか」と言われたので、悲しくなった。そして言った。「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」イエスは言われた。「わたしの羊を飼いなさい。
21:18 はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」
21:19 ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである。このように話してから、ペトロに、「わたしに従いなさい」と言われた。

●次回以降の予定

・7/16(火)通常礼拝(チャペル)説教:大西チャプレン
・7/23(火)通常礼拝(チャペル)説教:大西チャプレン
・9/3(火)通常礼拝(チャペル)説教:大西チャプレン

「主なる神が地と天を造られたとき、地上にはまだ野の木も、野の草も生えていなかった。主なる神が地上に雨をお送りにならなかったからである。また土を耕す人もいなかった。しかし、水が地下から湧き出て、土の面をすべて潤した。主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」(創世記2:4~7)

チャプレンタイムの中で、高校の時、どこへ修学旅行に行った?と質問したら、そのうちの何と3分の1くらいが「沖縄へ行った」と答えました。それに「広島」「長崎」を加えると、何と修学旅行の行先の6~7割になります。

南の島、トロピカルムード漂う沖縄、異国情緒豊かでハウステンボスなどがある長崎、安芸の宮島など景観に恵まれ、牡蠣やもみじ饅頭で有名な広島ですが、実は「沖縄」」「広島」「長崎」は言うまでもなく、平和学習のための重要な三つの場所(戦跡)なのです。「沖縄」は太平洋戦争末期1945年4月から8月、本土決戦に向けての時間稼ぎの捨て石作戦(持久戦)のため、20万人をこえる人々が亡くなりました。そのうち94,000人が沖縄の一般住民でした。これは県民の4人に一人に相当します。広島の原爆では35万の人口の内14万人、長崎の原爆では24万人の人口のうち74,000人が亡くなりました。名古屋でもB29爆撃機の68回にわたる空襲で約8,000人が亡くなりました。

戦争は人間の理性も良心も麻痺させてしまいます。そして神によって造られた何ものにも代えがたい尊い命を奪ってしまいます。戦争は人間の犯す最も重い罪です。神から与えられたたった一つのかけがえのない命を奪ってしまうからです。人間には人の命を奪う権利はありません。ですから、死刑制度も人が人の命を法律によって奪うことですから、この制度を廃止すべきであると世界各国で叫ばれているのです。(アムネスティーの運動)

創世記では、神の息吹きを受けて生かされている人間の尊厳が語られます。しかし、人間は土の塵で造られた小さく弱い存在なので、神の大きな命の息吹きの中で生きていくことが求められているのです。

「命(ぬち)どぅ宝」とは、恒久平和を求める沖縄の心、沖縄戦の悲惨な体験と今尚続く米軍支配の重圧にあらがいながら、常に願い培ってきた沖縄の心です。人間の尊厳を何よりも重視し、相手を尊び、お互いに支え合い活かし合い、戦争につながる一切の行為を否定し、平和を求める人間性の発露である文化をこよなく愛する沖縄の心を「命(ぬち)どぅ宝」と言います。

ある学生は言いました。楽しいはずの修学旅行が、とっても重く暗い気持ちの旅行になってしまったと。「沖縄から名古屋は見えるけれども、名古屋からは沖縄が見えない。」   沖縄、長崎、広島に行って初めて、わたしたちは沖縄の視点、長崎、広島の視点に立ってものごとを見ることの大切さを学ぶことが出来るのです。

平和は待っていてもやってきません。どんな小さなことでも、平和を実現するための努力を惜しまないこと、また戦争に繋がるようなことは、どんな小さな芽でも早く摘み取る必要があります。多くの犠牲の上に成り立った平和憲法を、しっかり守り抜き、二度と戦争をしない、平和を愛する国であることを声を大にして訴えていきたいものです。

6月23日、沖縄慰霊の日、沖縄戦全戦没者追悼式で糸満市の小学校6年生の少女が読んだ詩「本当の幸せ」をここで紹介します。(朝日新聞6/24 朝刊)

青くきれいな海 この海は どんな景色を見ているのだろうか
爆弾が何発も打ち込まれ ほのおで包まれた町 そんな沖縄を見たのではないだろうか
緑あふれる大地 この大地は どんな声を聞いたのだろうか
けたたましい爆音 泣き叫ぶ幼子 兵士の声や銃声が入り乱れた戦場
そんな沖縄を聞いたのだろうか
青く澄みわたる空 この空は どんなことを思ったのだろうか
緑が消え、町が消え、希望の光を失った島 体が震え心も震えた
いくつもの尊い命が失われたことを知り そんな沖縄に涙したのだろうか
平成時代 私はこの世に生まれた 青くきれいな海 緑あふれる大地 青く澄み渡る空しか知らない私 海や大地や空が七十四年前 何を見て 何を聞き 何を思ったのか
知らない世代が増えている 体験したことはなくとも 戦争の非さんさを 決して繰り返してはいけないことを 伝え継いでいくことは 今に生きる私たちの使命だ
二度と悲しい涙を流さないために この島がこの国がこの世界が 幸せであるように
お金持ちになることや 有名になることが幸せではない 家族と友達と笑い合える
毎日こそが 本当の幸せだ 未来の夢を持つことこそが 最高の幸せだ
「命(ぬち)どぅ宝」 生きているから笑い合える 生きているから未来がある
令和時代 明日への希望を願う新しい時代が始まった この幸せをいつまでも

最後にヒロシマの詩人 峠 三吉の詩ユネスコ憲章を読んで終わります。

ちちをかえせ ははをかえせ
としよりをかえせ こどもをかえせ
わたしをかえせ わたしにつながる
にんげんをかえせ
にんげんの にんげんのよにあるかぎり
くずれぬへいわをへいわをかえせ

「戦争は人の心の中で生まれるものであるから、人の心の中に平和の砦を築かなければならない。」(1945年 ユネスコ憲章)

(チャプレン大西 修)

今回の聖書は、あのマザー・テレサが好んで良く利用した箇所です。

「わたしが飢えていた時に食べさせてくれ、わたしが見知らない者であったのに、喜んで迎え入れてくれ、裸の時に着せてくれ、病気の時に介抱してくれた。私たちの仕事の土台は、このイエスの言葉なのです。」

40節にあるイエスの言葉「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」を、彼女はこのように実践で活用しました。

私たちにも、このような「座右の銘」が与えられるといいなあと思いますが、どうでしょう。

礼拝、お待ちしています!(^^)!

✝ ✝ ✝

●テーマ:「何のために生きるのか?」
●聖書箇所:【マタイによる福音書25:31-46】
25:31 「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。
25:32 そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、
25:33 羊を右に、山羊を左に置く。
25:34 そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。
25:35 お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、
25:36 裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』
25:37 すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。
25:38 いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。
25:39 いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』
25:40 そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』
25:41 それから、王は左側にいる人たちにも言う。『呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ。
25:42 お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせず、のどが渇いたときに飲ませず、
25:43 旅をしていたときに宿を貸さず、裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに、訪ねてくれなかったからだ。』
25:44 すると、彼らも答える。『主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えたり、渇いたり、旅をしたり、裸であったり、病気であったり、牢におられたりするのを見て、お世話をしなかったでしょうか。』
25:45 そこで、王は答える。『はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。』
25:46 こうして、この者どもは永遠の罰を受け、正しい人たちは永遠の命にあずかるのである。」

●説教:中尾 志朗 司祭(一宮聖光教会)
●日時:7月2日(火)
3限 13:10~:保育科1年ABクラス、2年CDクラス、保育専攻科、教職員
4限 14:50~:保育科1年CDクラス、2年ABクラス、保育専攻科、教職員
●場所:チャペル

●次回以降の予定
・7/9(火)通常礼拝(チャペル)お話(3限):成瀬英雄先生 説教(4限):大西チャプレン
・7/16(火)通常礼拝(チャペル)説教:大西チャプレン
・7/23(火)通常礼拝(チャペル)説教:大西チャプレン【前期最終】

「これらの大きな建物を見ているのか。1つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない」(マルコによる福音書13:2)

神殿の境内を出て行く時、一人の弟子がイエスに向かってこう言いました。「先生、御覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう(13:1)。」するとイエスは表題にある御言葉をお返しなさったのです。

今回学んだ内容は以下の通りです。

・物よりも愛や心を大切にする、イエスの基本姿勢。
・「石が、絶対に崩れ去らない石の(=基礎の石)の上に残されることは決してない。」と訳した方が分かり易い。つまり基礎以外の石は全部破壊されるということ。
・この箇所は、紀元70年、ローマ軍によって攻撃され廃墟と化したエルサレム神殿の姿をイエスが予言されていると論じられることが多い。でも、イエスの純粋な本性に倣い、これは一般論としてお話になっていると考えた方が自然。
・栄華を極めた荘厳な建物は、しょせんは人間が作ったものでしかない。それよりも大切なのは愛や心である。「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。(マタイ6:33)」とイエスが語る通りである。
・祈りは立派な建物がなくても出来る。そんな建物を神が要求なさるとは思われない。場所にこだわらないイエスは次のように語る。「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。(ヨハネ4:21)」(Y)


学食の花瓶

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