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【ローマの信徒への手紙12:9-17】
12:9 愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れず、
12:10 兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。
12:11 怠らず励み、霊に燃えて、主に仕えなさい。
12:12 希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい。
12:13 聖なる者たちの貧しさを自分のものとして彼らを助け、旅人をもてなすよう努めなさい。
12:14 あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません。
12:15 喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。
12:16 互いに思いを一つにし、高ぶらず、身分の低い人々と交わりなさい。自分を賢い者とうぬぼれてはなりません。
12:17 だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。

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止揚学園の福井達雨 1932(昭和7)年滋賀県近江八幡市に生まれる。1956(昭和31)年.同志社大学神学部に学ぶ。学生時代から障害児の教育(教育心理学を専攻)と差別問題に取り組む。

1962(昭和37)年、20歳の時初めて精神年齢1歳ぐらいの知能に重い障害をもつ子どもたちに出会い、大きなショックを受け、自分の無知と傲慢に気づかされ、27歳の時から知能に重い障害をもつ子どもの施設を作り始め、1972(昭和47)年、30歳の時「止揚学園」を設立。今年でこの働きを始めて60年、設立57年になる。今年87歳。

止揚学園の「止揚」(アウフヘーベン・Aufheben)とは?
ヘーゲルの弁証哲学用語
・あるものを、そのものとしては否定しながら、さらに高い段階で生かすこと。
・矛盾するものをさらに高い段階で統一し解決すること。
・二つのものが一つになって、今よりももって高い次元に入って大きなものに変わっていくこと。

知能に重い障害をもつ子どもたちの将来を思い描きながらこの学園名が付けられた。

彼に感化を与えた人たち

~韓国人、海南島(ナメドン)出身。20歳で来日。結婚し、のちに帰化。在日1世としての民族差別、結婚差別を受ける。*メレル・ヴォ―リスとの出会いから、近江兄弟社のドライバーとして奉職。戦後、満州奉天(現在の瀋陽)から引き揚げて来る。信仰の確立は「謙虚であること」「感謝を忘れないこと」「希望を失わないこと」「忍耐をもつこと」にあると、日常生活を通して達雨に教えた。他人のうわさ話、非難を口にしない人だった。106歳で死去。

*ウイリアム メレル ヴォーリズ(William Merrell Vories)一柳米来留(ひとつやなぎめれる)1880(明治13)年10月28日~1964(昭和39)年5月7日83歳で逝去。米国カンザス州生まれ。建築家、社会事業家、信徒伝道者。「近江兄弟社」の創立者の一人、メンソレータムを普及させた。

~日本人。高2の時、38歳で死去。3男1女の母。達雨は長男。キリスト者として戦争に反対し、天皇は神にあらずと主張し、「非国民」の汚名を着せられ、孤独で苦しく、大変な時を過ごしたが、それに負けることなく、信仰をもって明るく生き生きと過ごしていた。彼は「非国民の子ども」といじめられ、友だちとして遊んでもらえなかったため、母を憎んだこともあった。母のそんな姿が、わがまま、利己的な人間、子供への愛のない人間としかその当時、彼には映らなかった。母の素晴らしさがわかってきたのは、知能に重い障害をもつ子どもたちと共に生き始めてからだった。小中学生時代、友だちと遊んでもらえない孤独な日々を過ごしたが、その試練こそ、知能に重い障害をもつ子どもたちと共に生きる源になった。と彼は言う。

「いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい。信仰が試されることで、忍耐が生じます。試練を耐え忍ぶ人は幸いです。」(ヤコブ1:1-3,12)

一柳(ひとつやなぎ)満喜子先生 1884(明治17)年~1969(昭和44)年 85歳1919(大正8)年 35歳でウイリアム メレル ヴォーリズと明治学院で結婚。達雨の幼稚園教師(清友幼稚園1922年~現・近江兄弟社幼稚園)。厳しい先生だったが怖い先生ではなかった。怖さの中には冷たさがあるが、厳しさの中には温かさ、ぬくもりがあり、優しさがあった。人間的に言えば、「円満な人格者」ではなかったが、自分が弱さを持ちながら自らをキリストに向け、完全に向かって努力し、そこから自分の人格のすべて、弱いことも強いことも、達雨にぶつけて、聖書を、キリストを、人間の生き方を教えてくれた先生出会った。その先生との人格的な関わりの中で、知能に重い障害をもつ子どもたちの教育に入った。キリスト者、教育者に円満な人格者像はない。欠陥の多い人間が、弱い人間がキリストによって、子どもたちによって強くさせられ、完全に向かって歩もうとする努力者像を彼女から教えられた。「掃除」は心でするもので、見えないところをきれいにすることである、そんなことも日常生活の中で教えられたと彼は言っている。

光子夫人 香川県の浄土真宗寺院の娘で高校時代に洗礼を受け、18歳で開園したばかりの止揚学園を訪れ、30歳の達雨と出会い、21歳の時、33歳の達雨と結婚。結婚生活50 年間、主に見守られ、祈りつつ、達雨にとってかけがえのない伴侶として、止揚学園を世の光として輝かせてきた。彼は不器用ではあるが、実直で、イエス・キリストを信じ、希望をもって生きる姿勢に惹かれて歩んでいる。
彼女は止揚学園への募金に対するお礼として、いつも真心の籠った直筆で、園の様子、子どもの様子を生き生きと伝えてくださる謙虚さには頭が下がる。信仰とは人間が神を造り、信ずるのではなく、神が人間に信仰を与えてくださるものである。教育者とは、自分が子どもたちを選ぶのではなく、子どもたちに選ばれて、はじめて教育者になることができるのである。

知能に重い障害をもつ子どもたちへの偏見と差別

*施設を建てる時の反対運動~止揚学園の子どもが怖い、恐ろしい、環境が悪くなる。自分の子どもたちが外で遊べなくなる。止揚学園の子と遊ぶとアホになる。(大人が持っている偏見が、子どもたちの行動となって現れる) 著書「こわいことなんかあれへん」
*みんなが一緒に学んだり遊んだりできないことへの反対運動(学校教育)
*障害者お断わり(諸施設への入場制限、飛行機に乗れなかったことへの反対運動で、それをクリアーでき海外旅行に行ったこと~「みなみの島にいったんや」
*止揚学園の子どもたちが洗礼を受けられるようになったこと~これまでは、信仰告白をしなければ受けられなかった。その壁が取り払われたこと。

達雨は聖書のみ言葉と、それによって歩んできた上記の人々から、忍耐と練達、それが希望を生みだすことを実生活の中から学び、自らもその道を歩み続けているのである。

「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、力を落としてはいけない。なぜなら、主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからです。おおよそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。」(へブル12:4-5,11

【マタイによる福音書5:9】
5:9 平和を実現する人々は、幸いである、/その人たちは神の子と呼ばれる。

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今年も5月3日「憲法記念日」を迎えました。ゴールデン・ウイーク中だったので、知らないうちに過ぎてしまったと思っている人もいるかもしれません。

でもこの日は大切な日です。「日本国憲法」が1946(昭和21)年11月3日に公布され、1947(昭和22)年5月3日に施行されたことを記念して、1948(昭和23)年に「憲法記念日」という祝日に制定されました。

第2次世界大戦後、制定された「日本国憲法」は、戦前まであった明治時代に制定された「大日本帝国憲法」とは、大きく変わりました。「日本国憲法」が制定された目的は、民主国家をつくりあげ、2度と侵略戦争を起こさないためです。「日本国憲法」には三大原則があります。まず第1は主権が天皇から国民に移ったこと、国のあり方を決める政治の主役は天皇ではなく国民であるということです。国民主権です。第2は「基本的人権の尊重」です。これは人が人間らしく生きる権利を尊重することです。この権利の中には自由権、平等権、社会権(生存権)、参政権、請求権などがあります。第3は「平和主義」です。世界平和のために日本は戦争をしない、戦争を放棄すること。憲法第9条を守ることがとても大切なことです。現在、憲法第9条の改正が取り沙汰されていますが、わたしたちはしっかり憲法第9条を守っていく責任があります。憲法は主権者であるわたしたち国民が、国を、そして政府を縛るものであることを忘れないようにしたいものです。

先の大戦の犠牲者はアジアで2,000万人以上、国内で300万人以上と言われています。人間の為す愚かな争いは、なくさなければなりません。

紀元前8世紀後半のユダの預言者イザヤはこう言っています。
「主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない。ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう。」(イザヤ2:4~5)

イエスさまは「平和を実現する人々は幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる」と言われました。わたしたちは礼拝の中で「主の平和」と言って、お互いに「平和の挨拶」を交わします。すべての人の間で神さまの愛が感じられる時、人が作る平和ではなく、神さまからの平和がやってきます。わたしたちはその平和を実現するために、今何をすればいいのでしょうか。わたしたちに出来ることを、小さなことでもいいから見つけ出して実行していきましょう。 (チャプレン 主教 大西修)

【マタイによる福音書6:9-13】
6:9 だから、こう祈りなさい。『天におられるわたしたちの父よ、/御名が崇められますように。
6:10 御国が来ますように。御心が行われますように、/天におけるように地の上にも。
6:11 わたしたちに必要な糧を今日与えてください。
6:12 わたしたちの負い目を赦してください、/わたしたちも自分に負い目のある人を/赦しましたように。
6:13 わたしたちを誘惑に遭わせず、/悪い者から救ってください。』

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「主の祈り」はイエスさまが教えてくださった祈りで、一番基本的で大切な祈りです。マタイによる福音書6章9節―13節(新約聖書9頁)とルカによる福音書11章2節―4節(新約聖書127頁)に記されています。主の祈りはイエスさまの言われたこと、なさったこと「福音全体の要約である」とテルトゥリアヌスという古代の神学者は言いました。

「主の祈り」は1,900年前から今日まで、教会の礼拝の中で絶えず祈り続けられてきています。どこの教会へ行っても祈られています。柳城の礼拝でもいつも用いますので、ぜひ覚えてください。

「主の祈り」の内容は(1)呼びかけ~呼びかける相手がはっきりしています。イエスさまをこの世にお遣わしになった神さまへの呼びかけです。(2)前半の三つ~神(あなた)についての祈り~と(3)後半の三つ~人間(わたしたち)についての祈り~ から成り立っています。

祈りは神さまとの対話です。ですから、必ず対話の相手である神さまに、天におられる(見えなくても、どこにでもいらっしゃる、すべてものを存在させ、わたしたち一人一人に命を与えてくださっている)わたしたちの父よ、と呼びかけます。相手が分からなくては呼びかけられません。その相手(神さま)を本当に信じていなければ、祈りにはなりません。あなたは祈る時、どんな神さまに祈っていますか?

信じている神さまの偉大な力と素晴らしさをすべての人がほめたたえ、賛美し、あなたによる正義と平和と愛がこの地上にも実現しますようにと祈ります。

後半に、わたしたちについての祈りがあります。日本人の多くは、神さまへの祈願(お願い)=祈りと考えています。祈願=祈りではなく、祈願は祈りの一部です。「主の祈り」の大切なところは「わたしの祈り」ではなく「わたしたちの祈り」であることです。全人類のための祈りと言ってもいいと思います。当たり前のこととして、毎日3度の食事をとっているわたしたちが、「わたしたちの日ごとの糧を今日もお与えください」と祈るのはなぜでしょうか。それは現在でも世界で1日に25,000人もの餓死する人がいるからにほかなりません。その人たちのことも覚えて祈るのです。

「わたしの罪」ではなく「わたしたちの罪をおゆるしてください。わたしたちも人をゆるします」と祈ります。わたしたちは神さまの思いをしばしば裏切りますが、わたしたちを愛しておられる神さまは、そんなわたしたちをゆるしてくださいます。ゆるされた喜びを知った人は、他者をゆるすことができる人へと変えられていきます。

誘惑とは、わたしたちを常に神さまの思いから引き離し、自己中心的な生き方へと引き寄せる力、「サタン」「悪魔」の働きのことです。現代のように物質的に豊かな社会では、物質的な欲望への刺激や、性的な誘惑などが巨大化しています。このような中でわたしたちは日々、自己中心的な決断をし、隣人を無視、黙殺し、苦しみ、悲しみ、悩む人々を冷たく切り離しています。そのように悪におちいりやすく弱いわたしたちを支え励ましてくださいと願い、祈ります。

最後には「アーメン」と唱えますが、それは「そうです、そのとおりです、本当に」という意味のヘブライ語です。真心から祈る時、また誰かが祈った時、最後に一緒に「アーメン」と唱えることは、わたしもそう思います、そう祈っていますという心を表明することなのです。(チャプレン大西 修)

先日、柳城の学内で、死んだハムスターの埋葬に立ち会いました(詳しくはこちら)。「天国へ行くんだよっ!」と遺体に向かって何度も言葉をかける飼い主の胸の内が周囲に広がっていました。命の大切さが実感できる機会となりましたが、尊い命が死によって自覚できるというのも実は妙な話です。本当は元気に生きていながら感じたいものですが、命って空気のように「いつもあって当然」みたいな感覚の言葉なのかもしれません。

「命こそ宝」を意味する沖縄の言葉「命(ぬち)どぅ宝」が今回のテーマです。平和運動のスローガンとして有名ですね。聖書が語る「人の命」のルーツも振り返りながら、命について深く考える機会にしましょう。

礼拝、お待ちしています!(^^)!

●テーマ:「命(ぬち)どぅ宝」
●聖書箇所:【創世記2:4-7】
2:4 これが天地創造の由来である。主なる神が地と天を造られたとき、

2:5 地上にはまだ野の木も、野の草も生えていなかった。主なる神が地上に雨をお送りにならなかったからである。また土を耕す人もいなかった。
2:6 しかし、水が地下から湧き出て、土の面をすべて潤した。
2:7 主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。

●説教:大西チャプレン
●日時:6月25日(火)
3限 13:10~:保育科1年ABクラス、2年CDクラス、保育専攻科、教職員
4限 14:50~:保育科1年CDクラス、2年ABクラス、保育専攻科、教職員
●場所:チャペル

●次回以降の予定
・7/2(火)通常礼拝(チャペル)説教:中尾 志朗 司祭(一宮聖光教会)
・7/9(火)通常礼拝(チャペル)お話(3限):成瀬英雄先生 説教(4限):大西チャプレン
・7/16(火)通常礼拝(チャペル)説教:大西チャプレン

今回の聖書は、パウロという宣教者が書いた手紙が取り上げられます。彼は精力的にイエス・キリストの福音を伝道して、キリスト教の布教に多大な影響を及ぼした人物です。

元々は厳格なユダヤ教徒で、キリスト教徒を迫害する中心人物の1人であったという点が、彼の存在感を大いに高めています。彼がキリスト教に回心した様子が聖書にも記されていますが、そのように生まれ変わったとはいえ、普通に考えれば、彼自身、過去の自分との葛藤に相当悩まされたことでしょう。

キリスト教の普及に伴う迫害に加え、自分自身とも戦わなければならなかったパウロ。試練に立ち向かう彼の態度は、今日の私たちに生きる勇気を与えてくれます。

その勇気を皆で感じ合いましょう。
礼拝、お待ちしています!(^^)!

✝ ✝ ✝

●テーマ:「試練に立ち向かった人たち」
●聖書箇所:【ローマの信徒への手紙12:9-17】
12:9 愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れず、
12:10 兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。
12:11 怠らず励み、霊に燃えて、主に仕えなさい。
12:12 希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい。
12:13 聖なる者たちの貧しさを自分のものとして彼らを助け、旅人をもてなすよう努めなさい。
12:14 あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません。
12:15 喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。
12:16 互いに思いを一つにし、高ぶらず、身分の低い人々と交わりなさい。自分を賢い者とうぬぼれてはなりません。
12:17 だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。

●説教:大西チャプレン
●日時:6月18日(火)
3限 13:10~:保育科1年ABクラス、2年CDクラス、保育専攻科、教職員
4限 14:50~:保育科1年CDクラス、2年ABクラス、保育専攻科、教職員
●場所:チャペル

●次回以降の予定
・6/25(火)通常礼拝(チャペル)説教:大西チャプレン
・7/2(火)通常礼拝(チャペル)説教:中尾 志朗 司祭(一宮聖光教会)
・7/9(火)通常礼拝(チャペル)お話(3限):成瀬英雄先生 説教(4限):大西チャプレン

「だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、ぶどう酒は革袋を破り、ぶどう酒も革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。」(マルコ2:22)

「あなたの弟子たちはなぜ断食をしないのか」と、ヨハネの弟子たちとファリサイ派の弟子たちに聞かれ、イエスはこう答えました。

「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客は断食できるだろうか。花婿が一緒にいるかぎり、断食はできない。しかし、花婿が奪い取られる時が来る。その日には、彼らは断食することになる。」(2:19-20)

ここで出てくる花婿はイエスのことであり、婚礼の客というのはイエスの弟子たちのことを指しています。つまり、イエスと一緒に喜びに浸っている時に断食などできはしないが、イエスが十字架にかけられた時には、弟子たちはしっかりと断食することになる、という解釈になります。

断食を規則的に行なうという古いルールに縛られずに、その時々の状況に応じ、気持ちを込めて断食をしなさいとイエスは教えられたのです。

私はイエスが言った言葉を聞き、イエスはとても頭がよくて、いつか自分が十字架にかけられて死ぬことを予見していた感のいい人物だと思いました。そして、古いものから離れる勇気、つまり、今までと同じやり方から離れる勇気は、保育者を志す私たち柳城生にとって、とても必要だと思いました。

そのような意味でイエスは新しい存在だといえます。福音書を手に取り、イエスの生涯を学んでいくうちに、私はこれからどんな人生を歩むべきなのか、勉強になったことが沢山ありました。福音書はすごく奥が深いと思います!


学食から見えた虹

 

今回取り上げられる創世記ですが、ここから性別差について読み解くのか、それとも、24節まで読み進めて神関係について学ぶのか、読み手によって随分と差の出る場所です。「聖書全文はイエス・キリストについて語っている」とも言われていますので、「もしイエスなら、この箇所をどう説教されるだろうか」と想像するのも楽しいかもしれません。

教話をしていただく後藤香織司祭は、以前、大学礼拝で性的少数者について語られた方です(記事はこちら)。弱者の立場を守る視点でのお話が聞けるかなと思うとワクワクしてきますね。

礼拝、お待ちしています!(^^)!

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●テーマ:「エバが最初に蛇にそそのかされたからなの?」
聖書箇所:【創世記3:1-19】
3:1 主なる神が造られた野の生き物のうちで、最も賢いのは蛇であった。蛇は女に言った。「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか。」
3:2 女は蛇に答えた。「わたしたちは園の木の果実を食べてもよいのです。
3:3 でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました。」
3:4 蛇は女に言った。「決して死ぬことはない。
3:5 それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」
3:6 女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた。女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。
3:7 二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした。
3:8 その日、風の吹くころ、主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた。アダムと女が、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れると、
3:9 主なる神はアダムを呼ばれた。「どこにいるのか。」
3:10 彼は答えた。「あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。わたしは裸ですから。」
3:11 神は言われた。「お前が裸であることを誰が告げたのか。取って食べるなと命じた木から食べたのか。」
3:12 アダムは答えた。「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました。」
3:13 主なる神は女に向かって言われた。「何ということをしたのか。」女は答えた。「蛇がだましたので、食べてしまいました。」
3:14 主なる神は、蛇に向かって言われた。「このようなことをしたお前は/あらゆる家畜、あらゆる野の獣の中で/呪われるものとなった。お前は、生涯這いまわり、塵を食らう。
3:15 お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に/わたしは敵意を置く。彼はお前の頭を砕き/お前は彼のかかとを砕く。」
3:16 神は女に向かって言われた。「お前のはらみの苦しみを大きなものにする。お前は、苦しんで子を産む。お前は男を求め/彼はお前を支配する。」
3:17 神はアダムに向かって言われた。「お前は女の声に従い/取って食べるなと命じた木から食べた。お前のゆえに、土は呪われるものとなった。お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ。
3:18 お前に対して/土は茨とあざみを生えいでさせる/野の草を食べようとするお前に。
3:19 お前は顔に汗を流してパンを得る/土に返るときまで。お前がそこから取られた土に。塵にすぎないお前は塵に返る。」

●教話:後藤 香織 司祭(名古屋聖マルコ教会牧師、柳城幼稚園チャプレン)
●日時:6月11日(火)
3限 13:10~:保育科1年ABクラス、2年CDクラス、保育専攻科、教職員
4限 14:50~:保育科1年CDクラス、2年ABクラス、保育専攻科、教職員
●場所:第1学生ラウンジ
礼拝直後に柳城タイム「茶話会」が開催されます。

●次回以降の予定
・6/18(火)通常礼拝(チャペル)説教:大西チャプレン
・6/25(火)通常礼拝(チャペル)説教:大西チャプレン
・7/2(火)通常礼拝(チャペル)説教:中尾 志朗 司祭(一宮聖光教会)

「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。」(マルコによる福音書12:43)

エルサレム入城を果たされたイエスは、神殿の賽銭箱の近くにお座りになり群衆が献金する様子をご覧になっていました。当時、献金者は、自分の献金の目的と金額とを声高く告げたので、周囲の人は、それを聞くことができたといいます。そういう習慣は「見え」のための献金を助長したに違いありません。

その時、貧しいやもめが最小単位のレプトン銭2枚、今の日本で言うと1円玉2枚を献金しました。それは彼女にとって生活費の全てだった事をご存知だったイエスは、「彼女は誰よりも多く献金した」と語って彼女を称賛されたのです。

確かに、彼女の献金額は金持ちのそれに較べれば取るに足らないものでした。でも、その額は彼女にとって大きな痛みを伴うものでした。それを痛みとは思わない彼女の厚い信仰、つまり神への絶大な信頼心は感動的です。

今回この場面を通して、イエスは献金のススメと同時に「見かけではなく心を大切にしなさい」と教えられていることを知りました。そして、イエスはお金というものは「悪」ではなく、その人が変わるチャンスに繋がる可能性を持つものと捉えられていることに、イエスの現実的な感性を感じました。そして、保育者を目指す私も、目に見える現象に囚われることなく、心の目を常に磨き続ける必要があると思いました。

「サタン引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」(マルコ8:33)。人間関係よりも神関係を大切にせよとのこの御言葉を常に心に留めながら。(Y)


花壇の花を摘む親子

「律法学者たちに気をつけなさい。彼らは、長い衣をまとって歩き回ることや、あ広場で挨拶されること、会堂では上席、宴会では上座に座ることを望み、また、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる。」(マルコによる福音書12 :38~40)

神関係をいつも第一に考えるイエスのお姿をとおして、今回は、時代を切り開き作る「原動力」について学びました。

記事においてイエスは律法学者の見せかけだけの善行を明るみにし、一刀両断なさいました。彼らの利己的で蛇のような心のうちをイエスは見抜いておられたのです。律法学者たちは自分たちの地位を自分の利益のために利用していたからです。

イエスは弱い立場の側にいつも立たれる方です。ですから、律法学者らの虚栄心を忌み嫌い、強く断罪なさるのです。

今回もイエスは権力者に対して真っ向から挑んでいます。世渡り上手な人は人間関係に恐れるあまり、足並みを揃えて危険を回避しますが、神の子イエスは常に自ら身を危うくすることになろうとも、悪いことは悪いと、真実を語ることを決して恐れません。

そのような勇気ある姿こそ、イエス・キリストそのものです。クリスチャンは時代を切り開く先駆者としてのイエスの原動力に憧れを持つのです。そしてイエスと同じようには出来ないと知りつつも、一生を通して少しでも近づきたいと努力するのです。

次回も、御言葉を丁寧に見つめることでイエスの真摯なお姿を学んでいきます。(Y)


ブルーベリー

今回取り上げられる福音書には「愚かな金持ちのたとえ」という表題が付いています。裕福に成れたことを神に感謝しようとせずに、自分のためだけに財産を使おうとする愚かな金持ちが、神の裁きによって命を取り上げられてしまうという話。イエス・キリストのこのたとえ話を聞いていた庶民は「そら見たことか」と大喜びしたかもしれませんね。イエスの巧みな話術がここでも炸裂しています。

人や社会の為に生きる人生。柳城がずっと目指してきた道です。礼拝を通して深く心に刻みたいものです。

お待ちしています‼

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●テーマ:「自分の為(な)すことは、誰の為(ため)?」
●聖書箇所:【ルカによる福音書12:21】
「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」

●勧話:下原太介司祭(名古屋聖マタイ教会牧師、三好丘聖マーガレット幼稚園チャプレン)
●日時:6月4日(火)
3限 13:10~通常礼拝:保育科1年ABクラス、2年CDクラス、保育専攻科、教職員
4限 14:50~通常礼拝:保育科1年CDクラス、2年ABクラス、保育専攻科、教職員
●場所:体育館
礼拝直後に「リトリート報告&案内」が、その後には柳城タイム(バスケットボール)が予定されています。

●次回以降の予定
・6/11(火)通常礼拝(第1学生ラウンジ)説教:後藤香織司祭(名古屋聖マルコ教会)
・6/18(火)通常礼拝(チャペル)説教:大西チャプレン
・6/25(火)通常礼拝(チャペル)説教:大西チャプレン

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