【マルコ11:17】
「わたしの家は、すべての国の人の祈りの家と呼ばれるべきである。」
今回のテーマは「イエスの宮清め」と言われている有名な記事です。私はお話を聞くうち、その当時の人々の心や姿がイメージできて強い臨場感を持ちました。そしてイエスの真の愛について学ぶことができました。
神聖であるはずの当時のエルサレム神殿は、商人と祭司長、律法学者のための商業システムが成り立つ偽りの神殿でした。
いけにえの動物は無傷かどうかが事前に調べられ、「不合格」ならば商人が用意した動物を購入する必要があるとか、献金専用の貨幣への両替を強制され、その手数料も取られるなどといった見事な金儲けのシステム・・・。もちろん、商人が儲かれば、その「元締め」である祭司長らの懐も潤うということです。
参拝者は不満を抱えていたでしょうが、エルサレム神殿の絶対権力には手も足も出せません。
そんな状況でイエスは「わたしの家は、すべての国の人の祈りの家と呼ばれるべきである。」と宣言して商人たちを蹴散らしたのです。表向きは「宮清め」ですが、実際は「宗教権力者への警告」と呼んでもいいほどの衝撃的な出来事で、イエスの十字架への道がこれによって確定したと言ってもいいでしょう。
一方、商人らが混乱する様を見ていた群衆はきっと大喜びだったでしょう。イエスの「祈りの家」宣言に心打たれた群衆はイエスをますます慕うようになります。それがかえって宗教権力者らの嫉妬心をさらに強めることになりました。
イエス・キリストは「愛の人」であるとよく言われます。私もクリスチャンになる前には、そのように大きな優しさに溢れるイエス像を感じていたものです。
しかし福音書を学ぶごとに真のイエスが見えてきました。
もちろん、最高の愛の人であることに変わりはありませんが、その愛の内容がもっと深いのです。
今回、私は「警告」が愛の一つの表現であると学びました。愛があるから、イエスは祭司長や律法学者の偽りの行いに対して無視することができなかった…。彼らに悔い改めのチャンスさえ、お与えになったのです。マザー・テレサが言うように「愛の反対は無関心」だからです。優しさばかりを強調して、それがかえって人の成長を妨げる場合があります。「甘やかし」がその典型ですが、人の成長に無関心という意味では愛とは言えないと思います。
人が普通は避けたがる「怒り」ですが、その中には真の愛が含まれることがあります。それは悪を戒め浄める力です。私はそのイエスの御心を心から尊敬し仰ぎます。
次回も福音書を通して、イメージを膨らませながらイエスの道を学んでいきます。(Y)