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今回心に響いた御言葉は…
イエスが神殿の境内を出て行かれるとき、弟子の一人が言った。「先生、御覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう。」 イエスは言われた。「これらの大きな建物を見ているのか。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない。」 (マルコによる福音書13:2〜3)

説教を終えられたイエスは弟子たちと共に神殿から出てこられました。神殿は当時の王が建てさせた力の象徴です。その姿は、「お上りさん」的な弟子たちにとって威厳に満ち溢れていたのでしょう。思わず弟子の一人が神殿をほめ称え、師イエスに伝えました。

ところがイエスはそんな弟子の浅い視点を「こんな派手な上辺だけの建物など、いつか簡単に壊されてしまうよ」と一蹴なさったのでした。

その通り、数十年の後にローマによって神殿は破壊されて、その預言は的中します。しかし、弟子たちに預言を話される事をイエスは重要としたのではありません。

イエスはあくまでも一般的なたとえとして「形あるもの(派手な神殿)ではなく魂(信仰)の部分を見なさいよ」と諭されました。

現代においても、私たちは莫大なお金をかけて建てられたタワーや豪華な装飾で飾られた美しい教会などに目を奪われる時があります。その見せかけの雰囲気に心が一瞬同化してしまうからです。

しかし落ち着いてよく見てみると…その姿は虚勢や人を集める事だけを目的に建てられた安易さが感じられます。私たちはよく見ることで感じ、何故そのように見せかけをとりつくろうとするのか考え、その結果、真実を知るのではないでしょうか。

イエスはその私にも語られます。

「気をつけなさい。心の目を常に研ぎ澄まし、きらびやかな物欲ではなく、確かな魂の真実を見よ」と。

次回はこの御言葉の内容が詳しく明かされます。
引く続き、心で感じながら学びます。


スイートアリッサム

16:30から1号館事務室前で厳かに行われました。

裏番組で就職オリエンテーションが行われていたためか、参加人数は少なめでしたが、ロウソクの灯とツリーのイルミネーションとがとてもキレイで、人数のことなど、どうでもよしって感じ(^_^;) 

式中、クリスマスツリーに関して、大西チャプレンがステキなお話しをしてくださいました。

①ドイツでの話。
伝説によると、幼児を巨木のための生け贄(え)にしていた人々に向かって、キリスト教のある宣教師が「神は生け贄など必要としない。むしろ、神が私たちのために救い主である御子をくださったのだ。」というようなことを語ったのがツリーの起源だという。


・クリスマスツリーに用いる木は常緑樹。つまり「いつも緑色」だから「永遠の命」を表す。
・ロウソク(LED電球)は世を照らす光、イエス・キリストへの「信仰」の表現。
・てっぺんの星はベツレヘムの星、つまり、人々を幼子イエスの居場所に導いた「希望」の星
・赤いリンゴ(オーナメントボール)の赤色はイエス・キリストが十字架で流した血、つまり「」を表す。

お祈りの後はコーヒータイム。喜びを分かち合いました。
いつもながらの柳城らしい和やかで楽しい点灯式。
イエスも喜んでくれたでしょうね(^o^)/

【ルカによる福音書】
5:33 人々はイエスに言った。「ヨハネの弟子たちは度々断食し、祈りをし、ファリサイ派の弟子たちも同じようにしています。しかし、あなたの弟子たちは飲んだり食べたりしています。」
5:34 そこで、イエスは言われた。「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客に断食させることがあなたがたにできようか。

今回、心に響いた御言葉は…
イエスは、弟子たちを呼び寄せて言われた。「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」(マルコによる福音書12:43〜44)

イエスは賽銭箱の前に座り、人々がお金を入れているのを見ておられました。その賽銭箱はラッパ状で、お金を入れるたびに大きな響きが回廊に轟き、それが裕福さをあらわす一つのステイタスとなっていました。

次々に身なりの良い人々が沢山のお金を投げ入れる中、イエスは1人のやもめの姿に目を止められたのです。

やもめが捧げたお金は、当時のユダヤの最小通貨であった1レプトン銀貨2枚。1日の労働賃金分と言われる1デナリオンの64分の1というわずかな額でした。

やもめを食いものしていた律法学者とは対照的なその姿は、世間では「少数で弱い立場」そのものです。しかし彼女には世間の人々が持つことが出来ないものを持っていました。それは、ただひたすらに神を頼りに生きる彼女の信仰の厚さです。そこにイエスは目を止められ、彼女の神への献身、献げる感謝の思いを感じたのです。

1人のやもめは痛いまでに神への献身をあらわしました。

見せかけの祈り、身なり、行動をしていた律法学者たちはイエスの御言葉をどうように聞いたでしょう。

いつもイエスは「見かけ」ではなく「心」を問題にされます。そこには信仰と愛に繋がる献身の思いが頂点にあるのです。そのイエスを、神を、ただひとつ拠り所として生きる。それは失ったものを知っている人間が得られる賜物だと私は思います。イエスはその弱い立場の人間の思いを知っておられます。

次回も学びは続きます。
これからも与えていただけることに感謝し、続けていきます!


ワイルドフラワー

イエス・キリストの誕生日(教会用語では降誕日)がいつなのかを記した記録は残っていません。それでもイエスの誕生をお祝いすることは必要なので、それで12/25がその日に当てられています。詳しくはウィキペディア(^_^;)

わが子の誕生を祝うのと同様に、人類の救い主であるイエスの誕生を祝うことは当然なのですが、問題はその「祝い方」にあります。その人の信仰の在り方がそこに示されるからです。教会で礼拝、家族で団らん、ド派手なパーティーと様々ですが、日常、イエスのことをいつも心に留めている人にとっては、12/25を特別な日とする必要などないかもしれませんね。

あなたはクリスマスをどう備えますか?
礼拝、お待ちしています(^o^)/

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●テーマ:「クリスマスに備える」
●説教:大西チャプレン
●聖書箇所:マタイによる福音書1:18-25
1:18 イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。

1:19 夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。
1:20 このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。
1:21 マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」
1:22 このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。
1:23 「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。
1:24 ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、
1:25 男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。そして、その子をイエスと名付けた。

●日時:12月12日(水) 14:50~ 全学年、教職員
●礼拝形態:合同礼拝
●場所:チャペル
礼拝後15:30頃から聖書を学ぶ時間を設けていますので、興味がある方はご参加下さい。

●次回以降の予定
・12/19(水)クリスマス礼拝(体育館)14:50~
・1/9(水)合同礼拝(体育館)14:50~ 説教:大西チャプレン
1,2月誕生日の祈り 特別活動奨励奨学生表彰式
・3/15(水)卒業/修了礼拝、終業礼拝(体育館) 説教:大西チャプレン
3月誕生日の祈り

ルカによる福音書1:1-4
1:1‐2 わたしたちの間で実現した事柄について、最初から目撃して御言葉のために働いた人々がわたしたちに伝えたとおりに、物語を書き連ねようと、多くの人々が既に手を着けています。

1:3 そこで、敬愛するテオフィロさま、わたしもすべての事を初めから詳しく調べていますので、順序正しく書いてあなたに献呈するのがよいと思いました。
1:4 お受けになった教えが確実なものであることを、よく分かっていただきたいのであります。キリスト教の暦(教会暦)について

2週間にわたる実習が終って、今どんな気持ちですか。長かったですか、短かったですか。もう少し続けたかったなあと思っている人もいれば、もう十分と思っている人もいるかもしれません。いずれにしても保育者になるための貴重な体験、これからの日々の学びに生かしていってください。

さて、わたしたちが生きていく上で、暦は必要不可欠なもので、重要な役割を果たしています。暦のない生活を考えたことがありますか。とても考えられないですよね。

て、人間は早くから宇宙の法則、また1年間の自然界の規則正しい循環に思いを凝らすことよって生活のリズムを作り上げて来ました。社会的存在として生きる人間にとって、1年間の春夏秋冬という季節の移り変わり、1日の朝、昼、夜という時の流れが、共同生活を営んでいくために必要な自然暦を作り出してきました。それにそれぞれの民族固有のライフスタイルを維持し、受け継いできた習慣や歴史的出来事が付加され、今日の暦が出来上がってきました。

わたしたちが今使っている日本の暦は、いつから使い始めたか知っていますか。今から145年前の1873(明治6)年、明治政府が太陽暦(グレゴリオス暦)を採用したことに始まります。そして3年後の1876(明治9)年、日曜日を休日とするキリスト教的な7曜制が法制化されました。1週間を7日とする暦の源は言うまでもなく、ユダヤ教が聖典とする旧約聖書の創世記に書かれている神が7日間で天地を創造された物語です。日曜日の休日は、神が6日間で天地を造られ、7日目にお休みになったとされる安息日から来ています。そしてキリスト教の時代になって、イエス・キリストが復活された日が安息日となり、それが休日になりました。ですから、日曜日はイエス・キリストの復活を覚えて感謝する日が起源です。

このように明治の初期から、キリスト教文化圏の影響を受けた暦が使われました。普段、何も考えず無意識に使っている暦、実はキリスト教の暦なのです。因みに、それ以前の日本では太陰暦が使われていました。もちろん日曜日はなく、休日はお盆と正月だけでした。

キリスト教の暦はその前身であるユダヤ教から受け継いだ部分もあります。教会の暦(教会暦と言います)はキリスト教の暦と深い関わりがあります。教会暦は1年間の自然界の巡りを通して、聖書に書かれている神さまの出来事、歴史的なイエス・キリストの出来事、それに続く教会の出来事が折り込まれています。

わたしたちに与えられた1年間の日々を、一つの目標達成を目指して有意義に過ごすために役立つ暦として教会暦があります。

教会暦の新年は11月後半から12月初めのクリスマスを迎える4つ前の日曜日から始まります。アドヴェント(降臨節、待降節)と呼ばれています。今年は12月2日の日曜日から始まり、4つ目の日曜日12月23日を守り、12月25日の降誕日(クリスマス)を迎える準備期間がアドヴェントです。アドヴェントとは「来る、接近する」という意味のラテン語です。キリストが来られた降誕を祝い、キリストが再び来られる再臨の約束を、希望をもって待ち望むときです。そのために深い悔い改めと祈りと慎みをもってこの時を過ごします。紫の期節と呼ばれ、祭壇にかけられる布や司祭が着けるストールなどの祭色は紫を用います。この期間は祭壇にお花は飾りません。教会暦ではお祝い(勝利と祝福と純潔と喜び)の時を迎える前に準備の期間が定められています。心からお祝いし、喜びを分かち合うためには、悔い改めと祈りが必要です。クリスマスを祝い、感謝と賛美と喜びが大きなものになるための備えとして、悔い改め、心を清めることが大切なのです。クリスマスには勝利と祝福と喜びと命を表わす白の祭色の装飾布を祭壇にかけ、お花を飾ります。

1月6日の顕現日(公現日、エピファニーデイ~彩色は白)から占星術の学者の来訪に始まる顕現節~祭色は緑~に入り、イエス・キリストの神の子としての姿が、教会暦の礼拝で読まれる聖書を通して示されます。クリスマスから顕現日までが降誕節です。クリスマスツリーなどは1月6日に取り外されます。顕現節に続くキリストのご復活前の40日間は、大斎節(受難節、レント)と呼ばれる紫の期節で、キリストの荒野での悪魔の誘惑と断食の苦しみを覚えるとともに、最大の出来事であるイエス・キリストが十字架上で亡くなられた受苦日(受難日、聖金曜日)を祈りと断食と節制のうちに過ごします。

十字架の死から3日目、復活日を迎えます。キリストのご復活を祝うイースター(復活日)も勝利と祝福と喜びと命を表わす白を祭色として用います。 教会暦はイエス・キリストのご復活とご降誕という2つの中心点を軸にして出来上がっています。11月後半から3月から4月にかけては、イエス・キリストのご生涯の出来事に添った形で暦が作られ、4月から11月にかけての半年は復活節、昇天日、ぺンテコステ(五旬祭)の時、聖霊が降臨し教会が誕生した出来事(赤)、イエス・キリストの事績、お話になったことなどが教会の暦の中で、順次示されていく聖霊降臨節(祭色は緑~命、平和、成長を表す)を経て暦の1年間が巡る形になっています。

暦はわたしたちの人生行路を日々豊かに、目標に向かって導いていく役目を果たしています。キリスト教の暦(教会暦)に従っていく時、生きる意味が見えてきます。

皆さんはどんな暦に従って生活していますか?( チャプレン大西 修)


折り紙クリスマスツリー(学生食堂)

「朝の祈り」の際に、皆で一緒に唱えている祈りを掲載しています。

この祈りはチャプレンの監修のもと、試行的に作られたものです。
「柳城短大の公式の祈り」などという仰々しいものではありません。
その時々の心の状態に応じて、祈りつつ修正を重ねていくつもりです。

6:自由になる私たち(ヨハネ8:32)

主よ、
すばらしい朝を
いつもありがとうございます。
私たちは学びを求めて
あなたがたてた柳城に集まりました。
学ぶ自由
表現する自由
主張する自由
将来を語る自由
未来を切り開く自由
主よ、小さいことでよいのです。
私たちに本当の自由を
好きなことに集中できる自由を下さい。
その自由を使って、
私たちはもっと成長します。
人のために役立ちます。
子どもたちを慈しみます。

イエス・キリストは言われます。
「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」

主よ、あなたに従うことによって
私たちは愛と真理を知り、
罪から解放され、
矛盾から、
不平等から、
束縛から自由になります。
私たちがその自由を手にできるよう、
主よ、どうか導いて下さい。

この祈り、
イエス・キリストによってお願いします。
アーメン

「朝の祈り」の際に、皆で一緒に唱えている祈りを掲載しています。

この祈りはチャプレンの監修のもと、試行的に作られたものです。
「柳城短大の公式の祈り」などという仰々しいものではありません。
その時々の心の状態に応じて、祈りつつ修正を重ねていくつもりです。

5:イエス・キリストを知る私たち(ヨハネ15:5)

主よ、
今日も、この小さな集まりを
イエス・キリストの言葉を
ありがとうございます。
イエス・キリストは私たちの光です。
愛です。
あこがれです。
希望です。
いやしです。
ちからです。
ゆるしです。
イエス・キリストを通して、
私たちに神を、
道を、
真理を、
命を教えてください。

イエス・キリストは言われます。
わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。」

私たちをイエス・キリストの枝にして下さい。
イエス・キリストにつながることで、
子どもをいつくしみ、
私たちが分け隔てなく、
交われますように。
傲慢を、
軽蔑を、
偏見を取り去って、
私たちにまことの平等を与えてください。

この祈り、
イエス・キリストによってお願いします。
アーメン

「朝の祈り」の際に、皆で一緒に唱えている祈りを掲載しています。

この祈りはチャプレンの監修のもと、試行的に作られたものです。
「柳城短大の公式の祈り」などという仰々しいものではありません。
その時々の心の状態に応じて、祈りつつ修正を重ねていくつもりです。

4:人を愛する私たち(マタイ22:39)

主よ、おいで下さい。
今日も一日、
私たちの先頭に立って、
私たちを導いて下さい。
1人でも多くの仲間を、
そして子どもたちを、
愛せる心を与えて下さい。
愛せるチャンスを与えて下さい。
愛せる勇気を与えて下さい。
自分の喜びよりも、
他の人の喜びに、
自分の悲しみよりも、
他の人の悲しみに、
自分の怒りよりも、
他の人の怒りに、
関心が持てるような愛を与えて下さい。

イエス・キリストは言われます。
「隣人を自分のように愛しなさい。」

この言葉を柳城に響かせて下さい。
私たちの心を
いつも高ぶらせて下さい。
前向きにさせて下さい。
主よ、どうか私たちが
イエス・キリストの愛に近づけるように。
イエス・キリストの愛が理解できるように。
イエス・キリストの愛で満たされるように。
私たちを導いて下さい。

この祈り、
イエス・キリストによってお願いします。
アーメン

今回のテーマは「キリスト教の暦」。

教派によって違いがありますが、聖公会では1年を次のように6つに区分します。私なりに分かり易く説明させてもらうと・・・、
降臨節(こうりんせつ):イエスの誕生を待ち望む期間
降誕節(こうたんせつ):イエスの誕生を喜び感謝する期間
顕現節(けんげんせつ):イエスの存在が世に知れ渡る過程を振り返る期間
大斎節(たいさいせつ):イエスが十字架刑を受ける過程を追体験する期間
復活節(ふっかつせつ):イエスの復活に歓喜する期間
聖霊降臨後の節(せいれいこうりんごのせつ):教会活動の発展を願い、実践する期間

一番目にある降臨節は、今年は12/2(日)に始まります。この日から教会では新年がスタートし、12/25のクリスマスを迎える準備に入ります。柳城短大では、すでに様々なクリスマス用品が展示されていて、後は、現在実習中の学生さんが12/3から学校に戻って来るのを待つばかりです。

クリスマスを迎える最初の礼拝です。どんなお話になるか楽しみですね。

お待ちしています(^o^)/

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●テーマ:「キリスト教の暦」
●説教:大西チャプレン
●聖書箇所:ルカによる福音書1:1-4
1:1‐2 わたしたちの間で実現した事柄について、最初から目撃して御言葉のために働いた人々がわたしたちに伝えたとおりに、物語を書き連ねようと、多くの人々が既に手を着けています。

1:3 そこで、敬愛するテオフィロさま、わたしもすべての事を初めから詳しく調べていますので、順序正しく書いてあなたに献呈するのがよいと思いました。
1:4 お受けになった教えが確実なものであることを、よく分かっていただきたいのであります。

●日時:12月5日(水) 14:50~ 全学年、教職員
●礼拝形態:合同礼拝
●場所:チャペル
12月誕生日の祈りを行います。
礼拝後15:30頃から聖書を学ぶ時間を設けていますので、興味がある方はご参加下さい。

●次回以降の予定
12/6(木)クリスマスツリー点灯式 (事務室前) 16:30~
12/12(水)合同礼拝(チャペル)14:50~ 説教:大西チャプレン
12/19(水)クリスマス礼拝(体育館)14:50~

今日はマルコ通読二十九回が行われました。

今回心に響いた御言葉は…
イエスは神殿の境内で教えていたとき、こう言われた。「どうして律法学者たちは、『メシアはダビデの子だ』と言うのか。ダビデ自身が聖霊を受けて言っている。『 主は、わたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着きなさい。わたしがあなたの敵をあなたの足もとに屈服させるときまで」と。』このようにダビデ自身がメシアを主と呼んでいるのに、どうしてメシアがダビデの子なのか。」大勢の群衆は、イエスの教えに喜んで耳を傾けた。 (マルコによるよる福音書12:35〜38)

大群衆が見ている中、イエスは詩編110章で記されているダビデの言葉を使って律法学者たちを厳しくとっちめました。

律法学者や当時の人々によってメシア化されたダビデ本人が『主は、わたしの主にお告げになった』と記しているのに、なぜ、お前たちは「メシアはダビデの子だ」と言っているのかと。

私はこのダビデの言う二つの「主」が誰にあたるのか、すぐには理解できませんでした。しかし主を崇めるダビデの目線で読むというヒントを頂くうち、最初の「主」が神であり、後の方は「メシア(救い主」であると分かりました。

ダビデ自身が「主(神)は、わたしの主(メシア)にお告げになった」と言って、自分の子以外の何者かをメシアと呼んでいるのです。従って「メシアがダビデの子である」はずはなくなります。

律法学者たちはこの理路整然としたイエスの御言葉に、ぐうの音も出ません。

当時、事細かな律法や決まりを守れない民衆は罪人呼ばわりされて蔑まれていた時代です。イエスの御言葉に何も言い返すことが出来ない律法学者たちの様子を見た民衆たちは、きっと「イエスよ!よく言ってくれた!律法学者たちよ、聞け!」と、日頃から虐げられてきた胸の内がスッとなり大喜びしたことでしょう。

イエスは常に今でも、弱い立場の人間の味方です。

次回のイエスの道のりも楽しみです。


干し柿

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