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今日はマルコ通読二十六回が行われました。

今回心に響いた御言葉は…

イエスは、たとえで彼らに話し始められた。「ある人がぶどう園を作り、垣を巡らし、搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て、これを農夫たちに貸して旅に出た。収穫の時になったので、ぶどう園の収穫を受け取るために、僕を農夫たちのところへ送った。だが、農夫たちは、この僕を捕まえて袋だたきにし、何も持たせないで帰した。そこでまた、他の僕を送ったが、農夫たちはその頭を殴り、侮辱した。更に、もう一人を送ったが、今度は殺した。そのほかに多くの僕を送ったが、ある者は殴られ、ある者は殺された。まだ一人、愛する息子がいた。『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』と言って、最後に息子を送った。農夫たちは話し合った。『これは跡取りだ。さあ、殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる。』そして、息子を捕まえて殺し、ぶどう園の外にほうり出してしまった。さて、このぶどう園の主人は、どうするだろうか。戻って来て農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるにちがいない。聖書にこう書いてあるのを読んだことがないのか。『家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。これは、主がなさったことで、わたしたちの目には不思議に見える。』彼らは、イエスが自分たちに当てつけてこのたとえを話されたと気づいたので、イエスを捕らえようとしたが、群衆を恐れた。それで、イエスをその場に残して立ち去った。 (マルコによる福音書12:1〜11)

エルサレム入城後、神殿を歩いておられたイエスに、権力者である祭司長、律法学者、長老たちは「権威についての問答」を仕掛けてきました。しかしイエスの決然とした神の理論に何も言葉を発することが出来ず、彼らは立ち去りました。その後イエスはこの「ぶどう園の農夫のたとえ」をお話になられたのです。

私は今回、旧約時代からの流れの中で誕生されたイエスの使命を、改めて理解することが出来ました。

旧約の時代、ネヘミヤ記9:26に記されていた民の「大罪」、すなわち預言者を排斥する行為はイエスの時代に頂点に達します。神は忍耐強く、その愚かな人間たちを救うために満を持して愛する息子イエスをこの世に送られたのですが、結局、たとえ話にある通り、イエスを十字架上にかけて殺してしまったからです。

また、このたとえ話において、主=神、農夫=イスラエルの民、僕=預言者という背景から、繰り返し自分たちの利害のみで悪に囚われ行動する民の身勝手さ、愚かさの極みを知ることとなりました。

そして私はただ、このたとえ話では人間の愚かさに焦点を当てるだけでなく、勝算がなくとも神のご計画にひたすら突き進まれたイエスの御心と、愛する息子をこの世に送られた神の愛に目を注ぎ、その愛を心で感じることが大切であると思いました。

気づくことの無い律法学者をはじめとする権力者は、神の愛をハートで理解することが出来なかった…。

イエスのこの世における誕生。
それこそが聖書そのものの歴史を学ぶということであると感じました。

エルサレムにおけるイエスの存在は権力者にとって益々大きくなっていきます。
次回もそのイエスの道を辿ることで学びを進めていきます。(Y)


秋咲ヒマワリ

 

長年、たいへんお世話になった本学の卒業生の方に、昨年の「黙想と祈りの集い」などをメールでお知らせしたところ、次のようなお返事を頂きました。

「私の学生の時代は、毎朝、マタイ教会礼拝堂の右側の小さな部屋で、ほとんど相澤先生と二人だけのお祈りでした。自分の汚さが嫌になり、良い人間になりたくて、初めて神さまを知り、祈った若い日々を思い出します。」

スマホやPCの虜(とりこ)になって、自分自身をじっくりと見つめる時間が少なくなりつつある時代です。それら通信機器に仮に答えを求めても、雑多な個人的情報ばかりが返ってきて、結局それらに振り回されて、ますます自分自身を見失ってしまうだけでなく、何となくお利口になった気分になって謙遜さをも失う…。

大先輩のお返事は短いですが、その中に満ち満ちている誠実さとか謙虚さを決して忘れないためにも、朝の祈りを継続できるよう主に向かって尊いお導きに期待したいです。(加藤)

【詩編98:4-9】
98:4 全地よ、主に向かって喜びの叫びをあげよ。歓声をあげ、喜び歌い、ほめ歌え。

98:5 琴に合わせてほめ歌え/琴に合わせ、楽の音に合わせて。
98:6 ラッパを吹き、角笛を響かせて/王なる主の御前に喜びの叫びをあげよ。
98:7 とどろけ、海とそこに満ちるもの/世界とそこに住むものよ。
98:8 潮よ、手を打ち鳴らし/山々よ、共に喜び歌え
98:9 主を迎えて。主は来られる、地を裁くために。主は世界を正しく裁き/諸国の民を公平に裁かれる。

そもそも、自分はいつからこの「音楽」という道で生きることを決めたのか、いつからこの道に生かされているのかということは、実はこのお話を頂いてから、初めて考えたことでした。家族は、小さい頃のお稽古のひとつとして「バレエとピアノ、習うならどちらがいい?」と、私に選択の余地を与えたようですが、バレエよりピアノを習わせたかった母親の意図どおりに、4歳の私(緑区あけの星幼稚園の年中さんでした♪)は「ピアノ」を選択。以来、ピアノに関する弱音を吐くたび「自分で選択したのよ」と言われることになります。

家族と恩師に支えられながら、愛知県立明和高等学校音楽科、愛知県立芸術大学音楽学部ピアノ科へ進学。反抗期真っ盛りながらも、今なお深い関係の続いている「自分と同じ夢をもつ同級生」たちと切磋琢磨する毎日は本当に刺激的で、充実した日々でした。しかしちょうど皆さんと同じ年齢くらいの頃、試験や課題、コンクールに追われるばかりで “いま”しか生きていない感じがして、当時の私は少しの焦りを感じていました。 “いま” より少し先の未来のことを考えたり、これまでの過去を振り返ったりしたとき、「社会に出てどう生きるのか」という不安が漠然と襲ってきたのです。いまさら音楽以外の道へ後戻りできないことに、恐怖心さえありました。

そんな心を知ってか知らずか、そのころ恩師から送られたポストカードに書かれていたのが、「くちびるに歌を、心に太陽を」という言葉でした。恐れず一歩を踏み出してみなさいというような力強さと、それでいてどこか たおやかさ を兼ね揃えたこの言葉が私の心の中にすっと落ち、ずいぶん励まされたことを今でもよく覚えています。のちに、この言葉はドイツの詩人ツェーザル・フライシュレンによるものであることを知りました。カードのお礼も兼ねて後日恩師を訪ねたところ、彼女もこの詩を人生のモットーとしていることを教えてくださいました。

くちびるに歌を。
こころに太陽を。

加えて恩師は、

目ではほんものをみること。
耳には人から、ものから、あらゆることばと音色を聴くこと

…も大切よ、とご自身の言葉を付け加えられました。

その後私は、ほんものを見るため、そして耳を育てるため、心の中にひそかに思い描いていた海外留学について、自分の未来のために、準備しようと決心しました。「自分が学んでいるクラシック音楽の、本場に行ってみたい。」という思いから、私の人生の第2楽章、フランスでの生活が始まったわけですが、そこでの波乱万丈生活…いや…波乱爆笑生活!の全ては、今日この時間だけではきっとお話しきれないので、またの機会に。

フランスは街の中にメロディーがあり、リズムがあり、祈りがあり、表情に富んだ美しい国でした。また、そこにいるフランス人、彼らは誰よりも、人生を愉しむ天才だとつくづく感じました。私は音楽を学びにフランスへ行きましたが、それ以外の面でも多くの宝物をもらったように思います。人生が変わったとは言い過ぎかもしれませんが、ほんとうに、そんな気もしています。

振り返ってみれば、人と幸運に恵まれた人生でした。

“いま”だけをがむしゃらに生きてきてしまったことに危機感を覚え、踏み出した一歩でしたが、言い換えればそれは、今しか見つめなくても過ごせるよう守られていたからこそ、とも思い、感謝しています。

また、出会いの中で本当にたくさんの恵みを受け、いまの私があります。

人生の選択肢のひとつに、音楽という道をくれた家族からは、愛情の深さを。
恩師からは、あたたかで厳しい覚悟の力を。
親友からは、共に弱さを認めあうことの安らぎを。
ここ柳城学院にご縁をいただいてから時を共にさせていただいている先生方、職員の皆さまからは、私もこんなふうに働いてみたいという憧れを。
そして大切なあなたたち…学生からは、教え、教えられる歓びを。

よく、「ピアノをやめたいと思ったことはないのか」と、問われることがあります。やめたいと思った日…少なく見積もっても、何十回とあります。もともと、譜読みが得意なタイプではありませんでしたし(だからいま苦労している学生さんの気持ち、よく分かりますよ^^)、それに、数十分の演奏に対して何百・何千時間の月日を積み重ねるのって、なんだか割に合わない気がしませんか?!

でもそこで結局「やめる」という選択には至らないのは、それ以外の味わいに悦びを見出していたことと、やはり先ほどにも述べた、人との出会いのおかげでしょう。

それからもうひとつ、「音楽の中では、自分の人生以上の時間を生きられる」ということに、私自身とても惹かれているのだと思います。言葉が足りず伝わりにくいかもしれませんが、たとえば今ここで、J.S.バッハ(1685-1750)とドビュッシー(1862-1918)の曲を演奏したとしたら、そこには200年ほどの時間が流れていて、いまここに生きる私たちは、それらを数分のうちに聴いたり弾いたりできるわけです。人類の長い歴史をみれば、それもまたごくわずかな時間ですが、音楽の中ならば時間を遡ることができるというのは、私にとって極上の自由であり、自分が自分らしく生きるための、表現のかたちです。

あたたかな心をもって耳を傾けてくださり、ありがとうございました。

皆さまの中にいつも、うたと太陽がありますように。(扶瀬 絵梨奈 本学教員)

 

今回は本学学長からお話を頂きます。

洗礼を受けてキリスト教信仰に入ったころの様子が語られるとのことです。信仰とは神と本音の関係で生きることですので、きっと赤裸々な内容になるかと思われます。楽しみですね(^^♪

扱われる聖書個所はイエスの「山上の説教」と呼ばれる重要な個所の一部です。朝の祈りでも取り上げている大切な言葉ですので、ぜひ、こちらで予習をお願いします(笑)

お待ちしています(^o^)/

✝ ✝ ✝

●テーマ:「生きがいを求めて~私の学生時代~」
●奨励:長縄 年延 学長
●聖書箇所:マタイによる福音書7:7-8
7:7 「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。

7:8 だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。

●日時:10月24日(水) 14:50~ 全学年、教職員
●礼拝形態:合同礼拝
●場所:体育館
礼拝後に、奨励奨学生表彰式と新生病院リトリート報告会があります。

●次回以降の予定
10/31(水)合同礼拝(チャペル)14:50~ 説教:大西チャプレン
礼拝後15:30頃から聖書を学ぶ時間を設けていますので、興味がある方はご参加下さい。
11/1(木)創立記念礼拝(体育館)9:30~

昨年、「黙想と祈りの集い」で奏楽を担当してくれたマコちゃんで~す!
大西チャプレンとツーショットでキャワイイ~(笑)

運動会の代休日。何しよっかな~と悩んだところ「柳城短大があるじゃん!」とひらめいて、ホッと一息、静かな時間を過ごしたくなったということです。

嬉しいですね。こういう発想。母校が心のオアシスになってる。

お昼の讃美歌タイムと礼拝後のバイブルタイムにも参加してくれて、こちらも飛び上がるほど楽しかったです(^^♪

こういう機会が与えられ、あらためて、柳城に「清さ」を保つことの大切さを思い知らされた感じです。

主に感謝! (加藤)

今日はマルコ通読二十五回が行われました。

今回心に響いた御言葉は…
それから、一行はエルサレムに来た。イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いしていた人々を追い出し始め、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けをひっくり返された。また、境内を通って物を運ぶこともお許しにならなかった。 そして、人々に教えて言われた。「こう書いてあるではないか。『わたしの家は、すべての国の人の祈りの家と呼ばれるべきである。』ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にしてしまった。」祭司長たちや律法学者たちはこれを聞いて、イエスをどのようにして殺そうかと謀った。群衆が皆その教えに打たれていたので、彼らはイエスを恐れたからである。(マルコ11:15~18)

今回の記事は「宮清め」と言われる有名な場面です。エルサレムに入られたイエスは激しく憤られました。それは神に祈りを捧げる神殿という「祈りの家」が、宗教指導者が民から金を搾取するための不誠実な「強盗の巣」となっていたからです。

イエスはその不誠実な人間たちに向けて決然と、神殿が本来どうあるべきなのか、宮清めのお姿によって真理をお伝えになられました。

私は今回、イエスが語られた「祈りの家」がイザヤ書56:7、「強盗の巣」はエレミヤ書7:11に記載されていることも知りました。そのようにイエスは常に聖書に基づいて神の真理をお伝えになり、神のご計画の道を歩まれていたのです。

反面、私はイエスの時代同様、現代でも、自身を中心に考え他人を動かす権力者には、神の真理は奥深く身を焦がす痛烈な怒りと痛みとなるのではないかと考えました。

イエスの宮清めに歓喜したであろう民の姿を見た宗教指導者たちは、イエスを殺す計画を心に固めることになります。

そうなることを承知で、神に祈りを捧げ「宮清め」を実行なさったイエス…。

次回もそのイエスの歩まれた道を、知識だけでなしに、心に深く刻んで学んでいきたいと思います。


腹話術ショー

「くちびるに歌を、こころに太陽を!」というタイトルを見て、どこかで聞いたことある~と思ってネット検索したら、出てきました。
—————————
苦しんでいる人、
なやんでいる人には、
こう、はげましてやろう。
「勇気を失うな。
くちびるに歌を持て。
心に太陽を持て。」

💛

『心に太陽を持て』(部分)
チェーザレ・フライシュレン
(訳:山本 有三)
—————————
爽やかさの中にも力強さがみなぎっている詩ですね(^^♪
今回、奨励デビューする扶瀬先生のモットーなのでしょうか?
お話が楽しみです!

礼拝、お待ちしています(^o^)/

✝ ✝ ✝

●テーマ:「くちびるに歌を、こころに太陽を!」
●奨励:扶瀬 絵梨奈 先生(本学教員)
●聖書箇所:詩編98:4-9
98:4 全地よ、主に向かって喜びの叫びをあげよ。歓声をあげ、喜び歌い、ほめ歌え。

98:5 琴に合わせてほめ歌え/琴に合わせ、楽の音に合わせて。
98:6 ラッパを吹き、角笛を響かせて/王なる主の御前に喜びの叫びをあげよ。
98:7 とどろけ、海とそこに満ちるもの/世界とそこに住むものよ。
98:8 潮よ、手を打ち鳴らし/山々よ、共に喜び歌え
98:9 主を迎えて。主は来られる、地を裁くために。主は世界を正しく裁き/諸国の民を公平に裁かれる。

●日時:10月17日(水) 14:50~ 全学年、教職員
●礼拝形態:合同礼拝
●場所:チャペル
礼拝後15:30頃から聖書を学ぶ時間を設けていますので、興味がある方はご参加下さい。

●次回以降の予定
10/24(水)合同礼拝(体育館)14:50~ 奨励:長縄 年延 学長
礼拝後に、奨励奨学生表彰式と新生病院リトリート報告会があります。
10/31(水)合同礼拝(チャペル)14:50~ 説教:大西チャプレン

 

 

今回は、AHIアジア保健研修所の巡回報告会を兼ねて、研修生のカミール・アンデロス・レイェス・ジュゴ(ミンミン)さんにお話を頂きました。通訳はAHIスタッフの中島隆宏さんです。

ミンミンさんはフィリピンのカピス大司教区社会活動部というNGOに所属するクリスチャン(カトリック)です。まだ20代で、AHIの研修生としては異例の若さだそうです。

そんな将来性を持った彼女ですが、大学生の頃はどちらかというと受け身の構えで、ただ漫然と卒業を目指すようなタイプの学生だったそうです。でも就職先で仕事を任されるほど上司に認められたという経験を得てから、急にスイッチが入ったといいます。

人を認め、その能力を最大限に活かす役割の大切さを感じた彼女は、現在の道に進み、大いに自分の力を発揮します。特に、コミュニティー・オーガナイザーとして、若い人たちの自己啓発を後押ししながら、彼ら/彼女らに地域で活躍できる場を提供することを目指しています。お話の中では、その具体的な事例が2件紹介されました。

こうして、貧困や不便さを抱えた地域でコミュニティつくりに励むミンミンさんですが、彼女はそうした活動の中で自分自身の成長に関心を払うことを忘れません。その謙虚さが彼女の信仰者たるゆえんでしょうか。

ヘブライ人への手紙
13:1 兄弟としていつも愛し合いなさい。
13:2 旅人をもてなすことを忘れてはいけません。そうすることで、ある人たちは、気づかずに天使たちをもてなしました。
ガラテヤの信徒への手紙
6:10 ですから、今、時のある間に、すべての人に対して、特に信仰によって家族になった人々に対して、善を行いましょう。
イザヤ書
1:17 善を行うことを学び/裁きをどこまでも実行して/搾取する者を懲らし、孤児の権利を守り/やもめの訴えを弁護せよ。

こうした聖句を引用しながら、ミンミンさんは力を込めて語ります。
「行動のない信仰は本当の信仰ではありません!」
「私はAHIの経験を通して、人に尽くすことを惜しみません。約束します。」

 

礼拝後に学生食堂で歓談した際にも、彼女は、「もしもAHIの研修生として採用された場合は、今の仕事を続けます」と祈ったことを告白してくれました。隣に座るAHIスタッフの中島さんが、それを聞いて嬉しそうにしていたのが印象的でした。

神のご計画の偉大さと祈りの力をあらためて感じさせてくれた今回の報告会。
名古屋柳城短期大学に集う私たちは、与えられたチャンスをチャレンジに変えられるでしょうか。

主に感謝 (加藤)

礼拝後のお楽しみ会ということで、腹話術ショーを企画しました。

いつも大学礼拝を守ってくれている学生さんへのご褒美かな?
取り計らってくださった神さまに感謝です!(^^)!

出演は、ろごす腹話術研究会の会員で枇杷島教会の信徒さんである犬飼倭子(しずこ)さん。そして相棒のジュンちゃんで~す。

そして、彼女を紹介くださったのは、本学の卒業生で附属柳城幼稚園 元園長の先田泰子さんです。先田さんは犬飼さんから腹話術を学んだというご関係です。

ショーが始まると、生き物のように生々しく(笑)動くジュンちゃんに、皆さん、アッという間に目が釘付け(@_@) 腹話術を初めて間近に見た私も大興奮でした。

犬養さんオリジナルのお話が面白くて、チャペルが笑い声であふれました。神さまも一緒に楽しんでくださったかな?

ショーの後は学生食堂でティータイムを持ちました。

人形に触れさせていただくことで、益々興味がわいてきました。そして、「昔は腹話術が流行っていて…」という話から始まって色々なお話が聞けました。

「毎日6分の練習でよいけど、それがなかなか出来ないのよ~。」
そう話す犬飼さんは、腹話術研究会に入ったのが20年前で、何と50代の時です!
ベテランの域に達している感じは十分するのに「今日は、私のような者ですみません」と、いたくご謙遜。

それでも「せっかくのチャンスを頂きましたので」とチャレンジ精神が旺盛で、気持ちが若い若い(^^♪ 見習わなくっちゃ!

今でも幼稚園や介護施設等で皆さんに喜ばれている腹話術です。
だれか若い人が後を継いでいけるといいですね(年とった方でも、もちろん大丈夫ですけど)。

今回の企画がそのきっかけになり、そして、こういう「ゆとりの文化」が柳城に根付くと嬉しいです(^o^)/ (加藤)

【コロサイの信徒への手紙4:5-6】
4:5 時をよく用い、外部の人に対して賢くふるまいなさい。
4:6 いつも、塩で味付けされた快い言葉で語りなさい。そうすれば、一人一人にどう答えるべきかが分かるでしょう。

✝ ✝ ✝

「塩で味付けされた快い言葉」とは、どんな言葉でしょうか。

「塩で味付けされた言葉」とは、ちょうどよい塩加減であり、その料理のおいしさがじわっと口の中に、もっと言えば体の中に広がっていく、そんな言葉です。

「快い言葉」とは、さわやかで、心地よく、生きる勇気が与えられ、将来への希望が湧き上ってくる言葉です。

わたしはそんな言葉を語っているだろうかと振り返ってみますと、悲しいかな、語っていません。塩は塩でも、しょっぱ過ぎて、なめることさえできず、体中が受け付けず、拒絶反応を起こさせてしまうような言葉を、日ごろ平気で語っている自分に驚いています。また快い言葉ならいざ知らず、相手を不愉快にさせ、気分を悪くさせ、やる気をなくさせ、落ち込ませてしまうような言葉を平気で使っていることも多いのです。

イエスさまが語られた塩で味付けされた快い、素晴らしい言葉を探してみますと、マタイによる福音書5章から7章の「山上の説教」をはじめとして、数えきれないほどたくさんの素晴らしい言葉が福音書には散りばめられています。

直接、弟子や病人、その他行きずりで出会った人々に語られた言葉にも、素晴らしいものがたくさんあります。

「わたしについてきなさい。人間をとる漁師にしよう。」ペテロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレ、そしてゼベダイの子ヤコブとヨハネに語りかけられた言葉、これは彼らの人生を方向づけさせ、生きる希望を与えました。

「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。・・・わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」(4:18-21  9:9-13)

「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」(11:28-30)

「だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である。」(12:50)

「心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。」(18:3-4)

「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。7回までですか。」イエスは言われた。「あなたに言っておく。7回どころか、7の70倍までも赦しなさい。」(18:21-22)

「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」(20:26-28)

「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第1の掟である。第2もこれと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この2つの掟に基づいている。」(22:37-40)

塩で味付けされた快い、素晴らしい言葉は、聞く人の魂を揺さぶります。心を穏やかにします。そしてその言葉を素直に受け入れることを可能にします。その言葉は語る人の全人格と深く関わっています。ですから、その人の身のこなし方、身振りや手振り、表情、目つき、話し方などと切り離すことができません。素晴らしい言葉は時として、口から出る言葉ではなく、表情や目の動きが言葉になっていることもあるのです。それを聞く側は声のない言葉として受け取っているのです。また、言葉数が多いことが良いとも限りません。ひとことふたことの短い言葉の中に、宝石のような輝く言葉が隠されていることもあります。

イエスさまは人との出会いの中で、あまり多くを語られなかったように思います。二人の間に流れるしばらくの沈黙は、イエスさまの言葉を聞く者に自分自身を見つめさせ、省みさせる時間を提供します。それを通して聞く者に一つの決断を促す機会を与えます。優しい言葉は聞く者の心を自然に開かせるのです。あの放蕩息子を迎え入れた父親の言葉は書かれてはいませんが、「おお、良く帰ってきたなー」との一言だけで、あとは言葉にならない言葉がすべて態度に表わされています。(ルカ15:11-32)

徴税人ザアカイの物語も、桑の木に登っているザアカイに下から声をかけ、「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日、ぜひあなたの家に泊まりたい。」という言葉こそ、イエスさまの塩で味付けされた快い、素晴らしい言葉の集大成です。この言葉がザアカイを生まれ変わらせました。(ルカ19:1-10) さらに、十字架上で隣の十字架にかけられていた犯罪者に対する、イエスさまの神への赦しの願い「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」は、十字架上の犯罪人の心を開かせ、自分の罪深さを自覚させ、イエスさまへの信頼へと変えていったのです。(ルカ23:34)

わたしが中学生のころの忘れられない思い出があります。夜遅くまで遊び過ぎて、門限をはるかに超えて家に帰りました。父にきつく叱られることを覚悟の上、おっかなびっくりで玄関の戸を開けました。そこに父が立っていました。まともに顔を見ることもできず、緊張して立っていたわたしに父は優しく「お腹空いたろう。早くお風呂に入ってご飯にしなさい」とひと言だけ言って部屋に戻って行きました。全く拍子抜けしてしましたが、わたしにとって今も忘れられない出来事です。自分が子供を育てる時、似たような出来事が何度もありましたが、その都度、この出来事が思い出され、その場にふさわしい対応をすることができました。父もザアカイの物語がいつも心にあったのだろうかと思います。

皆さんが保育者として、あるいは子供の親として子供の前に立つ時、どのような言葉がけをしますか。本当に子どもを愛し、子供のことを考えているならば、朝のひとときを大切にすることであると言われています。あるお母さんは朝の食卓に、いつも花を飾るようにしているそうです。一輪の花が飾られた朝の食卓の情景を思い描いてください。そこに豊かで暖かなゆとりある思いに溢れた家庭の様子がうかがえます。服装を身ぎれいにし、髪の手入れをし、笑顔で朝の挨拶を交わし、ちょっとした励ましの言葉をかけることは、子供の精神の健全な成長に欠かせないものです。園や学校での子供の情緒不安定は、朝、出かける前の家庭の空気に大きく影響されます。これは大人であるわたしたちにも言えることです。わたしたちは朝、これだけの気持ちの余裕を持っているでしょうか。

塩で味付けされた快い、素晴らしい言葉を使うことはなかなか難しいですが、いつもイエスさまを見つめること、聖書を開き、読んでみることで、少しでもそれが実現できるようにしたいものです。

終わりに渡辺和子シスターの言葉を引用します。

「女性を美しく、好もしくするものは、昔も今も変わることなく、あたたかいほほえみ、美しいことば、さりげない心くばり、礼儀正しさ、そして恥じらいを知る慎み、と覚えておきたいものである。」(「愛をこめて生きる」より)(チャプレン 大西  修)


ゴーヤの花

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