【コロサイの信徒への手紙4:5-6】
4:5 時をよく用い、外部の人に対して賢くふるまいなさい。
4:6 いつも、塩で味付けされた快い言葉で語りなさい。そうすれば、一人一人にどう答えるべきかが分かるでしょう。
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「塩で味付けされた快い言葉」とは、どんな言葉でしょうか。
「塩で味付けされた言葉」とは、ちょうどよい塩加減であり、その料理のおいしさがじわっと口の中に、もっと言えば体の中に広がっていく、そんな言葉です。
「快い言葉」とは、さわやかで、心地よく、生きる勇気が与えられ、将来への希望が湧き上ってくる言葉です。
わたしはそんな言葉を語っているだろうかと振り返ってみますと、悲しいかな、語っていません。塩は塩でも、しょっぱ過ぎて、なめることさえできず、体中が受け付けず、拒絶反応を起こさせてしまうような言葉を、日ごろ平気で語っている自分に驚いています。また快い言葉ならいざ知らず、相手を不愉快にさせ、気分を悪くさせ、やる気をなくさせ、落ち込ませてしまうような言葉を平気で使っていることも多いのです。
イエスさまが語られた塩で味付けされた快い、素晴らしい言葉を探してみますと、マタイによる福音書5章から7章の「山上の説教」をはじめとして、数えきれないほどたくさんの素晴らしい言葉が福音書には散りばめられています。
直接、弟子や病人、その他行きずりで出会った人々に語られた言葉にも、素晴らしいものがたくさんあります。
「わたしについてきなさい。人間をとる漁師にしよう。」ペテロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレ、そしてゼベダイの子ヤコブとヨハネに語りかけられた言葉、これは彼らの人生を方向づけさせ、生きる希望を与えました。
「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。・・・わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」(4:18-21 9:9-13)
「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」(11:28-30)
「だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である。」(12:50)
「心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。」(18:3-4)
「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。7回までですか。」イエスは言われた。「あなたに言っておく。7回どころか、7の70倍までも赦しなさい。」(18:21-22)
「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」(20:26-28)
「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第1の掟である。第2もこれと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この2つの掟に基づいている。」(22:37-40)
塩で味付けされた快い、素晴らしい言葉は、聞く人の魂を揺さぶります。心を穏やかにします。そしてその言葉を素直に受け入れることを可能にします。その言葉は語る人の全人格と深く関わっています。ですから、その人の身のこなし方、身振りや手振り、表情、目つき、話し方などと切り離すことができません。素晴らしい言葉は時として、口から出る言葉ではなく、表情や目の動きが言葉になっていることもあるのです。それを聞く側は声のない言葉として受け取っているのです。また、言葉数が多いことが良いとも限りません。ひとことふたことの短い言葉の中に、宝石のような輝く言葉が隠されていることもあります。
イエスさまは人との出会いの中で、あまり多くを語られなかったように思います。二人の間に流れるしばらくの沈黙は、イエスさまの言葉を聞く者に自分自身を見つめさせ、省みさせる時間を提供します。それを通して聞く者に一つの決断を促す機会を与えます。優しい言葉は聞く者の心を自然に開かせるのです。あの放蕩息子を迎え入れた父親の言葉は書かれてはいませんが、「おお、良く帰ってきたなー」との一言だけで、あとは言葉にならない言葉がすべて態度に表わされています。(ルカ15:11-32)
徴税人ザアカイの物語も、桑の木に登っているザアカイに下から声をかけ、「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日、ぜひあなたの家に泊まりたい。」という言葉こそ、イエスさまの塩で味付けされた快い、素晴らしい言葉の集大成です。この言葉がザアカイを生まれ変わらせました。(ルカ19:1-10) さらに、十字架上で隣の十字架にかけられていた犯罪者に対する、イエスさまの神への赦しの願い「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」は、十字架上の犯罪人の心を開かせ、自分の罪深さを自覚させ、イエスさまへの信頼へと変えていったのです。(ルカ23:34)
わたしが中学生のころの忘れられない思い出があります。夜遅くまで遊び過ぎて、門限をはるかに超えて家に帰りました。父にきつく叱られることを覚悟の上、おっかなびっくりで玄関の戸を開けました。そこに父が立っていました。まともに顔を見ることもできず、緊張して立っていたわたしに父は優しく「お腹空いたろう。早くお風呂に入ってご飯にしなさい」とひと言だけ言って部屋に戻って行きました。全く拍子抜けしてしましたが、わたしにとって今も忘れられない出来事です。自分が子供を育てる時、似たような出来事が何度もありましたが、その都度、この出来事が思い出され、その場にふさわしい対応をすることができました。父もザアカイの物語がいつも心にあったのだろうかと思います。
皆さんが保育者として、あるいは子供の親として子供の前に立つ時、どのような言葉がけをしますか。本当に子どもを愛し、子供のことを考えているならば、朝のひとときを大切にすることであると言われています。あるお母さんは朝の食卓に、いつも花を飾るようにしているそうです。一輪の花が飾られた朝の食卓の情景を思い描いてください。そこに豊かで暖かなゆとりある思いに溢れた家庭の様子がうかがえます。服装を身ぎれいにし、髪の手入れをし、笑顔で朝の挨拶を交わし、ちょっとした励ましの言葉をかけることは、子供の精神の健全な成長に欠かせないものです。園や学校での子供の情緒不安定は、朝、出かける前の家庭の空気に大きく影響されます。これは大人であるわたしたちにも言えることです。わたしたちは朝、これだけの気持ちの余裕を持っているでしょうか。
塩で味付けされた快い、素晴らしい言葉を使うことはなかなか難しいですが、いつもイエスさまを見つめること、聖書を開き、読んでみることで、少しでもそれが実現できるようにしたいものです。
終わりに渡辺和子シスターの言葉を引用します。
「女性を美しく、好もしくするものは、昔も今も変わることなく、あたたかいほほえみ、美しいことば、さりげない心くばり、礼儀正しさ、そして恥じらいを知る慎み、と覚えておきたいものである。」(「愛をこめて生きる」より)(チャプレン 大西 修)
ゴーヤの花