【ルカによる福音書 16:19-31】
◆金持ちとラザロ
16:19 「ある金持ちがいた。いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。
16:20 この金持ちの門前に、ラザロというできものだらけの貧しい人が横たわり、
16:21 その食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていた。犬もやって来ては、そのできものをなめた。
16:22 やがて、この貧しい人は死んで、天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。
16:23 そして、金持ちは陰府でさいなまれながら目を上げると、宴席でアブラハムとそのすぐそばにいるラザロとが、はるかかなたに見えた。
16:24 そこで、大声で言った。『父アブラハムよ、わたしを憐れんでください。ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの炎の中でもだえ苦しんでいます。』
16:25 しかし、アブラハムは言った。『子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ。
16:26 そればかりか、わたしたちとお前たちの間には大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこからわたしたちの方に越えて来ることもできない。』
16:27 金持ちは言った。『父よ、ではお願いです。わたしの父親の家にラザロを遣わしてください。
16:28 わたしには兄弟が五人います。あの者たちまで、こんな苦しい場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。』
16:29 しかし、アブラハムは言った。『お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい。』
16:30 金持ちは言った。『いいえ、父アブラハムよ、もし、死んだ者の中からだれかが兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう。』
16:31 アブラハムは言った。『もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。』」
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「金持ちとラザロのたとえ」はイエスさまが、当時のユダヤ教の宗教的指導者であるファリサイ派の人々、律法学者たち、そして弟子たちにお話しになったものです。彼らは貧富の差があるのは神のご意思なのだから、その状態を変える必要はない、富は神の愛のしるしであり、貧しさは神の裁きのしるしである。その理由は神だけが知っておられることであり、人間はそのことに関わる必要はない、そう信じていました。
このような考え方に対する一つの挑戦としてこのたとえをお話しになりました。
イエスさまは富と貧しさの現実を無視して、愛と平等と平和を説くことはなさいませんでした。ルカによる福音書では富と貧しさの問題を大切な事柄としてよく取り上げています。有名な「マリアの賛歌」ではマリアが、生まれてくるイエスさまをこの世界に送られる神の働きを「主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、飢えた者を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます。」(1:51~53)と歌いました。
神の望まれる世界は貧乏や不幸が否定され、無くなる世界です。神は貧しい者の味方であり、貧しさを追放されるお方です。「主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、あなたがたが彼の貧しさによって富む者になるためです。」(Ⅱコリント8:9) 神はイエスさまを通してご自身を貧しい者として表されました。すべて貧しい者を富ませるために、貧しい者の味方になられたわけです。ですから貧しい者に目を向けず、ただ自分だけが富んでいることに満足している者は神の目にはふさわしくないのです。「金持ちとラザロのたとえ」はこのことを語っています。
このたとえの中では対照的な二人の人物が登場します。金持ちは立派の家に住み、高価な着物を身につけ、贅沢に遊び暮らす生活によって、神から与えられたものを自己満足のためにだけ用いました。働くこともできず食べていけない人間と、食べて有り余るほどゆとりのある人間とが対照的に描かれています。金持ちが豊かであることが罪であるとは言われていません。金持ちが持っているもので隣人とどのような関わりを持って生きていたかが問題とされています。多くのお金を持つことは罪ではありません。しかし、多くのお金を持ちながら玄関先にいる貧しい人と関わりを持たないことが罪なのです。金持ちは信仰深かったから富が与えられ、ラザロは不信仰だったから、神の罰として貧しくなったとは言われていません。隣人とどのように関わるかが信仰の問題です。その意味で金持ちは信仰深くありませんでした。信仰を誤って理解していたのです。
わたしたちのすべての生活と豊かさが、ただ単に自分を富ませ、満足させるためにだけあるのではありません。「財産のある者が神の国に入るのは、何と難しいことか。金持ちが神の国に入るよりは、ラクダが針の穴を通る方がまだ易しい。」(ルカ18:24~25)とイエスさまは言われました。富は魔物です。時としてわたしたちの良心を麻痺させることもあり、隣人とその魂を見失わせ、さらには神さえ見失わせてしまいます。
ところでこのたとえの共通点は二人が死ぬこと、死を迎えることです。単なる犬死であろうが、有名な大病院で最大限の医療処置を施されて死に、盛大な葬儀がなされ、故人の遺徳が称えられようが、いずれにせよ例外なく平等に二人は死ぬのです。死はどこまでも平等です。金持ちが金銀財宝を携えて死後の世界に行くこともできなければ、ラザロができ物を背負ってそこへ行くこともありません。この世の価値観で、この世で通用する財産によって死後の世界を決めることもできません。死後の世界で残るものは、生前持っていた富をどのように用いて、隣人といかなる関わりを持っていたかということです。神の前で問われるのはこのこと、この世での生き方です。天国や地獄の状況は一つのたとえとしてここに描かれています。
このたとえの核心は、今、わたしたちの前にある現実にしっかり目を留め、それをどう受けとめ、それとどう関わりながら生きていくかということにあります。
このたとえは、イエスさまが今、わたしに、そしてあなたに向かって語りかけておられるのです。わたしたちはまさか自分をラザロの側に置くことはしないでしょう。だからと言って金持ちの側に置いて考えることもしないのではないでしょうか。どちらでもない第3者の立場に自分を置いていないでしょうか。しかしそのような立場に立つことは許されません。
イエスさまはあなたを金持ちの立場に置いて語りかけておられます。また、地上で残された生活を楽しんでいる5人の兄弟にたとえてもおられます。あなたはその中の一人ではないですかと…。わたしたちは答えるでしょう。「いや、わたしはそんなに金持ちじゃないし、贅沢に遊び暮らしてもいない。ごく平凡な生活をしている一市民だ」と。
しかし、ラザロはわたしたちの門前にいます。飢え渇いて、死を目前にしているラザロが世界中、特に東南アジアの国々、中東、アフリカの国々に何億人といます。日本の中にもたくさんいることを知っていますか。数え上げればきりがありません。神はそのような人々を愛され、大切にされるお方です。「ラザロ」という名前は「神はわたしの助け」という意味です。神は「ラザロ」を助けられると共に、「ラザロ」の神なのです。そしてこの「ラザロ」の姿こそ、地上を歩まれたイエスさまのお姿なのです。
貧しい家畜小屋に生まれ、見捨てられた人々の友として生涯を過ごされ、自らも人々に見捨てられ、ゴルゴタの丘で盗賊と共に犯罪者として十字架につけられ死んだイエスさま。神はこのイエスさまを貧しい人、病気の人、悩む人の友としてお遣わしになり、その復活・よみがえりによって本当の慰めと開放と自由を与えてくださったのです。
わたしたちはまた、イエスさまによって自分自身を「ラザロ」に置き換えることが許されています。わたしたちは正義のゆえに、貧しく虐げられた人間として損をし、倒れ、傷つき、失敗したことがあるかもしれません。そんな時にこそ、神はあなたを「ラザロ」として支え、励まし、助け、あなたの味方になってくださることを信じましょう。(チャプレン大西 修)
学生食堂に飾られた折り紙作品