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今回の説教は、柳城短大の元チャプレン市原 信太郎 司祭にお願いしています。

テーマを見てビックリという感じですが、何が飛び出すか分からないドキドキ感があっていいですね。説教中にビデオも見せてもらえるそうですよ。本当に楽しみです!

保育者に限らず、よい教師の条件として先ず思い浮かぶのは次の2点でしょう。
①教える対象/内容が心底大好きであること(愛せること)
②自分自身の人格成長に日々努力できること

一人前の魔女を目指して親元を離れたキキですが、よい保育者になる資質も彼女は持ち合わせていたのでしょうか?

興味津々。礼拝、お待ちしています!

●テーマ:「『魔女の宅急便』のキキはよい保育者になれるか?」
●説教:市原 信太郎 司祭(本学元チャプレン)
●聖書箇所:詩編139:1-14
139:1 【指揮者によって。ダビデの詩。賛歌。】主よ、あなたはわたしを究め/わたしを知っておられる。
139:2 座るのも立つのも知り/遠くからわたしの計らいを悟っておられる。
139:3 歩くのも伏すのも見分け/わたしの道にことごとく通じておられる。
139:4 わたしの舌がまだひと言も語らぬさきに/主よ、あなたはすべてを知っておられる。
139:5 前からも後ろからもわたしを囲み/御手をわたしの上に置いていてくださる。
139:6 その驚くべき知識はわたしを超え/あまりにも高くて到達できない。
139:7 どこに行けば/あなたの霊から離れることができよう。どこに逃れれば、御顔を避けることができよう。
139:8 天に登ろうとも、あなたはそこにいまし/陰府に身を横たえようとも/見よ、あなたはそこにいます。
139:9 曙の翼を駆って海のかなたに行き着こうとも
139:10 あなたはそこにもいまし/御手をもってわたしを導き/右の御手をもってわたしをとらえてくださる。
139:11 わたしは言う。「闇の中でも主はわたしを見ておられる。夜も光がわたしを照らし出す。」
139:12 闇もあなたに比べれば闇とは言えない。夜も昼も共に光を放ち/闇も、光も、変わるところがない。
139:13 あなたは、わたしの内臓を造り/母の胎内にわたしを組み立ててくださった。
139:14 わたしはあなたに感謝をささげる。わたしは恐ろしい力によって/驚くべきものに造り上げられている。御業がどんなに驚くべきものか/わたしの魂はよく知っている。

●日時:9月12日(水) 14:50~全学年、教職員
●礼拝形態:合同礼拝
●場所:チャペル
★礼拝後15:30頃から聖書を学ぶ時間を設けていますので、興味がある方はご参加下さい。

○次回以降の予定
・9/19(水)合同礼拝(チャペル)14:50~ 説教:大西チャプレン ★専攻科説明会へ出席した学生さん向けに、小さな礼拝を実施します。
・9/26(水)合同礼拝(チャペル)14:50〜 説教:大西チャプレン

2018年度後期の礼拝がスタートします。主に感謝です!

今年の猛暑は記憶に残りそうです。8/3には名古屋で最高気温の記録が更新されました(40.3℃)。天候について、これから何が起こるのか予想ができない・・・、そんな気持ちにもなってきますね。それでも、心を落ち着かせ、体力をつけながら、準備を怠らないようにしたいものです。

今回の礼拝ではタイムリーなテーマが選ばれています。
聖書の言葉と防災とがどう結びつくのか、興味津々。

皆さん、ご参加下さい。お待ちしています!

✝ ✝ ✝

●テーマ:「災害から学ぶこと」
●説教:大西チャプレン
●聖書箇所:マルコによる福音書13:32-37
◆目を覚ましていなさい
13:32 「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存じである。
13:33 気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたには分からないからである。
13:34 それは、ちょうど、家を後に旅に出る人が、僕たちに仕事を割り当てて責任を持たせ、門番には目を覚ましているようにと、言いつけておくようなものだ。
13:35 だから、目を覚ましていなさい。いつ家の主人が帰って来るのか、夕方か、夜中か、鶏の鳴くころか、明け方か、あなたがたには分からないからである。
13:36 主人が突然帰って来て、あなたがたが眠っているのを見つけるかもしれない。
13:37 あなたがたに言うことは、すべての人に言うのだ。目を覚ましていなさい。」

●日時:9月5日(水) 14:50~全学年、教職員
●礼拝形態:合同礼拝
●場所:チャペル
★礼拝後15:30頃から聖書を学ぶ時間を設けていますので、興味がある方はご参加下さい。

○次回以降の予定
・9/12(水)合同礼拝(チャペル)14:50~ 説教:市原信太郎 司祭(元本学チャプレン)
・9/19(水)合同礼拝(チャペル)14:50~ 説教:大西チャプレン ★専攻科説明会へ出席した学生さん向けに、小さな礼拝を実施します。

今日はマルコ通読二十三回が行われました。

今回心に響いた御言葉は…
「しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」(マルコによる福音書10:43~45)

弟子であるヤコブとヨハネの兄弟が「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。」 (10:37)と、師イエスに願い出ました。

そんな勢いづく二人の姿に他の弟子たちが腹を立てる中、イエスは二人がこれから受けるであろう苦難への覚悟をお尋ねになられた後、冷静に理路整然と語られました。

「しかし、わたしの右や左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、定められた人々に許されるのだ。」(10:40)「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい」(10:43)

「序列を決めるのは神だ。あなた方は自身の信仰を深めて皆に仕える者となり、神のご判断を待て。」イエスのご意図はこういうことであったと思われます。

さらにイエスは弟子に命じるだけでなしに、はっきりと十字架の意味を語り、自らの覚悟を示されたのです。

「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」(10:45)

人の罪のあがないのため、身をもって十字架で命を捨てられたイエス。

この究極の愛は、「子どもの最善」を胸に、保育者として喜びをもって子どもたちや社会に献身する私たちの永遠の指針となります。

今回は素敵な卒業生の飛び入り参加(笑)があり、とても嬉しく思いました。
バイブルタイムでは、これからも真摯に楽しく✨御言葉を学び続けていきます。


キアゲハ

今日はマルコ通読二十ニ回が行われました。

今回心に響いた御言葉は… しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」 (10:14~15)

我が子に触れていただきたいと願う人々が、子どもたちを連れイエスのもとに集まりました。しかし弟子たちはその姿を叱り、断とうとしたのです。

イエスは「これを見て憤り」(10:14)強く弟子たちの心の小ささを戒められました。

まず今回、弟子たちは何故このように親たちを叱ったのかその理由を、その当時の背景とエルサレムに向かうイエスへの弟子たちの心の模様から考えていきました。

子どもたちは2,000年前の当時、女性と同じに立場が弱く価値のない者として扱われていました。

弟子たちは、その役にたたない、物の数にも入らない子どもたちを親たちが、これから「エルサレム」に向かうイエスの前に引き連れて来たことに対し叱りつけました。

そこには「お忙しいイエスの時間を少しでも守り、その残り短い時を共に過ごしたい」という弟子としての思いあがりがあったのではないでしょうか。

イエスはそのような利己的な弟子たちの姿を猛然と憤られ、戒められました。

イエスは役にたたない者や価値のない者は一人もいないとなされています。それが神の愛であり、その愛を感受する純粋さを受け入れなければ、人は神の国に入ることはできないのだ、と述べられていると私は感じました。

私は今回のイエスの御言葉より保育者として常に忘れてはならない目線、心があることを学びました。

子どもたちはこの世の希望の光です。私たち保育者はその大切な希望を日々、お授かりいただくのです。

次回もイエスの御言葉から学びを進めていきます。


学食の天津飯

「なんという空しさ、すべては空しい(1:2)」で始まる「コヘレトの言葉(「伝道者の書」とも呼ばれています)」。この難解な書物に「青春時代を楽しく過ごせ」と記されていても、そのまますんなり受け取るわけには行かない気分です(笑) というのも、人生の空しさを痛感した著者が出した結論は、
「神を畏れ、その戒めを守れ。」これこそ、人間のすべて(12:13)

聖書の奥行きを感じる絶好の機会です。
ご参加、お待ちしています!

✝ ✝ ✝

●テーマ:「青春時代を楽しく過ごせ」
●説教:大西チャプレン
●聖書箇所:コへレトの言葉11:9‐12:2
11:9 若者よ、お前の若さを喜ぶがよい。青年時代を楽しく過ごせ。心にかなう道を、目に映るところに従って行け。知っておくがよい/神はそれらすべてについて/お前を裁きの座に連れて行かれると。
11:10 心から悩みを去り、肉体から苦しみを除け。若さも青春も空しい。
12:1 青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ。苦しみの日々が来ないうちに。「年を重ねることに喜びはない」と/言う年齢にならないうちに。
12:2 太陽が闇に変わらないうちに。月や星の光がうせないうちに。雨の後にまた雲が戻って来ないうちに。

●日時:7月25日(水) 14:50~全学年、教職員
●礼拝形態:合同礼拝
●場所:チャペル
★8月誕生日の祈りを行います。

○次回以降の予定
・9/5(水)合同礼拝(チャペル)14:50~ 説教:大西チャプレン
・9/12(水)合同礼拝(チャペル)14:50~ 説教:市原信太郎司祭(元チャプレン)

【ルカによる福音書18:15-17】
18:15 イエスに触れていただくために、人々は乳飲み子までも連れて来た。弟子たちは、これを見て叱った。
18:16 しかし、イエスは乳飲み子たちを呼び寄せて言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。
18:17 はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」

イエスさまは弟子たちの常識的な考え方を覆されました。小さく弱くこの世で無視されているような者への深い思いと行動こそが、神の愛の働きであると教えられたのです。

子供のようになるとはどういうことでしょうか?

「そんな子供っぽいことをして!」と叱られたことはありませんか。それとは逆に「もっと大人になりなさい。」と言われたこともあるのではないでしょうか。この言葉の中に大人は子供より偉い、優れているといった先入観があるように思われます。

子供が持っている特性をいくつか挙げることができます。バプテスト連盟東山キリスト教会の牧師であり、教育評論家であった玉木 功先生(2012.1.28.逝去、84歳)の「子どもの声が」という教育エッセイの中にそれが書かれています。

信頼、素直さ、純粋さ、優しさ、感受性、環境への順応、開放性などがそれです。これらは成長してから身につける学問や知識にもまして、神の国で喜ばれるものです。

信頼とは疑わないこと。大人はまず疑います。子供は疑いませんので、全幅の信頼を大人に、ことに母親父親に、そして教師、保育者に寄せます。

素直さとは愛情を素直に受け入れること。人の愛情を目の動きで、言葉(口)で、体の動き(行動)で受け入れていきます。

純粋さとはありのままを受け止めること、こうすればああなる、だからやめておこうなどといった損得勘定をしたり、利害関係にとらわれないことです。

優しさとは小さな命に対する心のこもって思いやりと溢れる優しさ。踏みつけて殺してしまいそうな小さな虫をも大切に守り育てることなど。

感受性が豊かなこと。身の回りのどんな小さなことにも、驚きと感動の態度を示します。大人が忘れてしまったTHE SENSE OF WONDERをしっかり保持しています。

環境への順応が早い。親や保育者・先生の態度(言葉遣い~しゃべり方、イントネーション、身のこなし方)が似てきて、身についてくる。親は自分の姿を子供から教えられます。

開放性とはいつも何かにとらわれず、生き生きとしていること。

これらの特性を認めることは、子供のすべてが素晴らしいということではありません。これらの特性を持っている子供の成長を見守りながら、共に歩むことが保育の営みです。子供の特性に触れつつ、そこから教えられ、大人は子供と共に生き成長していきます。

教育実習、保育実習、施設実習の機会を通して、これらのことを実際の現場で経験していってほしいと願っています。(チャプレン大西 修)


ポーチュラカとアシナガバチ

「子供のように」とはどういうことか…。
今回の聖書箇所ではここが話のポイントです。

福音書は2000年も前に書かれたものです。社会状況が今とは違いすぎます。たとえば、当時は、乳幼児の死亡率が高かったこともあって、イエスのような偉大な方に我が子を触れさせたいと思う親はたいへん多かったことでしょう。子に対する親の愛情は今も昔も変わりはないでしょうが、こと人権などという話になると状況は一変します。「子供など役に立たない」という感じの社会通念がはびこっていたようです(ヘロデ大王による幼児虐殺 マタイ2:16-18)。

子供を引き合いに出してイエス・キリストが語りたかった、その真意とは?
礼拝、ご参加ください。お待ちしています(^^♪

✝ ✝ ✝

●テーマ:「子供のようになる」
●説教:大西チャプレン
●聖書箇所:ルカによる福音書18:15-17
◆子供を祝福する
18:15 イエスに触れていただくために、人々は乳飲み子までも連れて来た。弟子たちは、これを見て叱った。
18:16 しかし、イエスは乳飲み子たちを呼び寄せて言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。
18:17 はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」

●日時:7月18日(水) 14:50~全学年、教職員
●礼拝形態:合同礼拝
●場所:チャペル
★8月誕生日の祈りを行います。

○次回以降の予定
・7/25(水)合同礼拝(チャペル)14:50~ 説教:大西チャプレン ★8月誕生日の祈り(保育科2年生)【前期最終礼拝、保育科1年生は補講期間中のため礼拝なし】
・9/5(水)合同礼拝(チャペル)14:50~ 説教:大西チャプレン

【ルカによる福音書15:11-32】
15:11 また、イエスは言われた。「ある人に息子が二人いた。
15:12 弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。
15:13 何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄遣いしてしまった。
15:14 何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた。
15:15 それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。
15:16 彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。
15:17 そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。
15:18 ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。
15:19 もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』
15:20 そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。
15:21 息子は言った。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』
15:22 しかし、父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。
15:23 それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。
15:24 この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた。
15:25 ところで、兄の方は畑にいたが、家の近くに来ると、音楽や踊りのざわめきが聞こえてきた。
15:26 そこで、僕の一人を呼んで、これはいったい何事かと尋ねた。
15:27 僕は言った。『弟さんが帰って来られました。無事な姿で迎えたというので、お父上が肥えた子牛を屠られたのです。』
15:28 兄は怒って家に入ろうとはせず、父親が出て来てなだめた。
15:29 しかし、兄は父親に言った。『このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。
15:30 ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる。』
15:31 すると、父親は言った。『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。
15:32 だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。』」

イエスさまが話された「放蕩息子のたとえ」から少し考えてみましょう。

①このたとえはどんな時に、誰に向かってお話になったものでしょうか。

徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスのもとに近寄って来た時、ファリサイ派の人々や律法学者たちが「イエスはこの人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言い始めた。彼らと共に食事をしたり、交わりを持つことは、不浄であり、神を汚すものであると考えていたファリサイ派の人々や律法学者たちへの答えとして、このたとえをお話になった。

②登場人物3人(父と2人の息子、弟と兄)について考えてみましょう。

放蕩息子のたとえと呼ばれているが、実はこのたとえの主人公は父であり、放蕩息子(弟)ではなく、兄でもないことを覚えておくことが大切です。兄と弟は対照的な人物として描かれているが、勿論、人間を2つのステレオタイプに分類できない。しかし、わたしたちが持っている特徴的な性格の2面をこの兄弟に見ることができる。

弟は物事に対して積極的、行動的、挑戦的であり、父から財産の分け前をもらい、一旗揚げようとして出かけたが、放蕩に身を持ち崩しすべてを使い果たしてしまう。どん底まで落ちて初めて自分の本性に気づき、父のもとに帰り一から出直そうと決断する。

一方、兄は堅実で真面目、与えられた仕事は忠実にこなすが、冒険的な生き方はしない、できない性格である。しかし、弟の生き方をどこかでうらやましく思うところがある。弟の帰宅を知り、心の中の不平不満が爆発する。今までの自分の生き方が報われず、自分と弟への父の対応は不公平極まりないと直訴する。この二人には共通点がある。二人には真の喜びがないことと父から離れていることである。

生きている喜び、生かされている喜びを二人共に感じていない、弟は父から距離的に遠く離れて生活してきたし、兄は父の近くに住んではいても、その心は父から遠く離れていた。父は弟と兄のすべてをありのままに受け入れる。決して叱らない、責めない、それぞれの心と体の痛みを優しく包みこみ、優しく諭す。決して父親の権威を振りかざさない。父の最大の特徴は喜びである。このたとえの中で二人の息子の父は神を表わしている。

③このたとえを通してイエスさまは何を伝えたかったのでしょうか。

死んでいたのに生き返り(再生)、いなくなっていたのに見つかる(再発見)ことが、父である神の最大の喜びであること、神にとっては罪人の再生と最発見こそ、何ものにも勝る喜びであり、それを祝うのは当然なのです。「神は悪人の死を喜ばない」(エゼキエル書33:11)、再生を喜ぶことを教えている。「子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。」すべての人の父である神は、神のもとに来る者は誰をも拒まず、喜んで迎え入れてくださる。一人でも多くの人が、どんな時にでも神が共にいてくださり、すべてのものを与えてくださっていることに気付くよう望んでおられる。( チャプレン大西 修)


クチナシ

今日はマルコ通読二十一回目が行われました。

今回心に響いた御言葉は・・・

イエスは言われた。「あなたたちの心が頑固なので、このような掟をモーセは書いたのだ。しかし、天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」(マルコによる福音書10:5~10)

ユダヤ地方とヨルダン川の向こう側に行かれたイエスと弟子たちに再び群衆が集まる中、ファリサイ派の人々は、その当時意見が分かれていた離縁問題についてイエスに尋ね、試そうとしました。

その彼らの問いかけにイエスは今回「あなたたちの心が頑固なので」と単刀直入に戒められています。

当時のユダヤでは、女性の立場はたいへん弱く、妻を勝手に離縁することができうる状況にあったといいます。

イエスはその女性の側に立ち、モーセ以前の天地創造の視点から御言葉を与えられたのでした。

また「夫を離縁して他の男を夫にする者も、姦通の罪を犯すことになる。」(10:12)と男性の罪だけでなく女性の罪も指摘するところに、革新的な理性あるイエスの御姿が浮かんできます。

次回も福音書の御言葉をとおし、イエスが私たちに求めておられる「道」を心より願い、学んでいきます。


羽化したばかりのセミ

【ルカによる福音書10:25-37】
10:25 すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」
10:26 イエスが、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と言われると、
10:27 彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」
10:28 イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」
10:29 しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」と言った。
10:30 イエスはお答えになった。「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。
10:31 ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。
10:32 同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。
10:33 ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、
10:34 近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。
10:35 そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』
10:36 さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」
10:37 律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」

ルカによる福音書15章25 節から37節は「善いサマリア人のたとえ」と呼ばれ、イエスさまのたとえ話の中で有名なものの一つです。

サマリア人とは紀元前721年、北のイスラエル王国がアッシリアによって侵略された時、外国人と結婚するようになった民族で、その当時、一般のユダヤ人はサマリア人を混血ゆえに軽蔑、差別し、付き合わず、旅行する時もサマリア人の住む土地を避けて行きました。このような民族間の憎悪、差別の感情を背景に、このたとえ話が成り立っています。

また、登場する律法学者はユダヤ教のパリサイ派という宗派に属し、モーセの律法に大変忠実かつ厳格でしたが、多くの場合、律法を形式的で欺瞞に満ちた守り方をしたため、イエスに彼らは偽善者と呼ばれました。

ある時、一人の律法学者がイエスに「何をしたら永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」と質問しました。何をしたら永遠に残る本当のしあわせをつかむことができるかという生きる上での本質に関わる質問を、イエスを試すためにしました。それによって自分の虚栄心、イエスへの敵愾心を満たそうとしました。イエスはその質問に対して直接答えず、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と逆に質問されました。律法学者は聖書の専門知識をいかんなく発揮し、「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。(申命記6:5) また、隣人を自分のように愛しなさい。(レビ記19:18)』」と答えました。これは、聖書の全内容を「神への愛と隣人への愛」という2点に要約した模範解答でした。それに対してイエスは「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば、命が得られる。」と言われました。この言葉は律法学者にとって、実に不愉快な、痛いところを突かれた言葉でした。なぜなら、彼にとって聖書の知識は誰にも引けを取らないほど豊かでしたが、聖書のみ言葉を知っていることと、聖書のみ言葉を実行することとは別のことであったからです。しかし、自分を正当化しようとして、では「わたしの隣人とはだれですか」と質問しました。そこには律法学者の自分を変えずに、相手だけを変えようとする自己中心的な思いがありました。

「善いサマリア人のたとえ」をこれに答えるものとして話されたのです。イエスは「わたしの隣人とはだれですか」との質問には答えず、「あなたはこの三人の中で、誰が追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」と問い返されています。

律法学者は「自分が愛すべき対象はだれか」をイエスに問い、愛すべき対象を自分の同胞であるユダヤ人に限定しました。愛する対象を自分の好む人に限定するならば、愛することは簡単なことです。

ところが、イエスの「誰が追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」との質問は、律法学者の質問「わたしの隣人とはだれですか」とは正反対のことを言っています。

あのユダヤ人から軽蔑され、敵対視されているサマリア人が、傷つき倒れているユダヤ人に近づき、自分の身の危険も顧みず、親切の限りを尽くしたのです。イエスの質問はわたしたちをちょうど追いはぎに襲われた人の立場に立たせます。わたしたちを愛する側ではなく、愛される側に、傷つき倒れている半死半生のユダヤ人の側において「だれがこの傷つき倒れ苦しんでいるあなたの隣人なのか」と尋ねられます。わたしたちは往々にして、自らを苦しむ者、悩む者の側に置くことを避け、同情者、あるいは一段高い立場に置いて、人に親切にし、愛の行動をし、それに満足して、いつの間にか本当の愛の姿から遠ざかってしまいがちです。自分自身を変えることなしに、人を本当に愛することはできません。そうでなければ、愛の押し売りによる自己満足だけが残ります。

イエスはこのたとえ話の中で、わたしたちを低く、倒れ、傷つき、苦しんでいる者の側に置いて問いかけています。「一体だれが、このように苦しみのうちにあるあなたに近づき、あなたを心から愛した人なのですか」と。わたしたちは自分自身が本当に苦しむ者の側に立つことなくしては、苦しむ者を愛することができません。愛とは苦しみを共に担うことです。愛とは決して観念的抽象的なものではなく、具体的な人間としての出会いを通して生まれてくるものなのです。

イエスの十字架に見られる愛の姿には、神への全幅の信頼と、真に自分を投げ捨て、自分を否定することによる隣人への愛が交差し合っています。イエスの十字架の苦しみと死は、わたしたちの苦しみ、悩み、重い罪を背負ってくださることであり、血の滴るような現実の苦しみがそこにあります。イエスは「行って、あなたも同じようにしなさい。」と、わたしたちを苦しみの真っただ中へと押し出していくお方でもあります。

わたしたちが目をそむけ、避けて通りたい誘惑にかられる時、あえてその現実の中へ「行って、あなたも同じようにしなさい。」と、呼びかけられるのです。あの善いサマリア人と同じように、苦しみ、悩みの中にある人の側に立ち、それを共に負いなさい。「あなたはそれを一人で負うのではありません。わたしもそこに一緒にいます。」そう呼びかけておられるお方の声をこのたとえ話から聴き取りましょう。(チャプレン 大西 修)


ベゴニア

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