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【ルカによる福音書10:25-37】
10:25 すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」
10:26 イエスが、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と言われると、
10:27 彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」
10:28 イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」
10:29 しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」と言った。
10:30 イエスはお答えになった。「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。
10:31 ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。
10:32 同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。
10:33 ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、
10:34 近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。
10:35 そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』
10:36 さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」
10:37 律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」

ルカによる福音書15章25 節から37節は「善いサマリア人のたとえ」と呼ばれ、イエスさまのたとえ話の中で有名なものの一つです。

サマリア人とは紀元前721年、北のイスラエル王国がアッシリアによって侵略された時、外国人と結婚するようになった民族で、その当時、一般のユダヤ人はサマリア人を混血ゆえに軽蔑、差別し、付き合わず、旅行する時もサマリア人の住む土地を避けて行きました。このような民族間の憎悪、差別の感情を背景に、このたとえ話が成り立っています。

また、登場する律法学者はユダヤ教のパリサイ派という宗派に属し、モーセの律法に大変忠実かつ厳格でしたが、多くの場合、律法を形式的で欺瞞に満ちた守り方をしたため、イエスに彼らは偽善者と呼ばれました。

ある時、一人の律法学者がイエスに「何をしたら永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」と質問しました。何をしたら永遠に残る本当のしあわせをつかむことができるかという生きる上での本質に関わる質問を、イエスを試すためにしました。それによって自分の虚栄心、イエスへの敵愾心を満たそうとしました。イエスはその質問に対して直接答えず、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と逆に質問されました。律法学者は聖書の専門知識をいかんなく発揮し、「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。(申命記6:5) また、隣人を自分のように愛しなさい。(レビ記19:18)』」と答えました。これは、聖書の全内容を「神への愛と隣人への愛」という2点に要約した模範解答でした。それに対してイエスは「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば、命が得られる。」と言われました。この言葉は律法学者にとって、実に不愉快な、痛いところを突かれた言葉でした。なぜなら、彼にとって聖書の知識は誰にも引けを取らないほど豊かでしたが、聖書のみ言葉を知っていることと、聖書のみ言葉を実行することとは別のことであったからです。しかし、自分を正当化しようとして、では「わたしの隣人とはだれですか」と質問しました。そこには律法学者の自分を変えずに、相手だけを変えようとする自己中心的な思いがありました。

「善いサマリア人のたとえ」をこれに答えるものとして話されたのです。イエスは「わたしの隣人とはだれですか」との質問には答えず、「あなたはこの三人の中で、誰が追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」と問い返されています。

律法学者は「自分が愛すべき対象はだれか」をイエスに問い、愛すべき対象を自分の同胞であるユダヤ人に限定しました。愛する対象を自分の好む人に限定するならば、愛することは簡単なことです。

ところが、イエスの「誰が追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」との質問は、律法学者の質問「わたしの隣人とはだれですか」とは正反対のことを言っています。

あのユダヤ人から軽蔑され、敵対視されているサマリア人が、傷つき倒れているユダヤ人に近づき、自分の身の危険も顧みず、親切の限りを尽くしたのです。イエスの質問はわたしたちをちょうど追いはぎに襲われた人の立場に立たせます。わたしたちを愛する側ではなく、愛される側に、傷つき倒れている半死半生のユダヤ人の側において「だれがこの傷つき倒れ苦しんでいるあなたの隣人なのか」と尋ねられます。わたしたちは往々にして、自らを苦しむ者、悩む者の側に置くことを避け、同情者、あるいは一段高い立場に置いて、人に親切にし、愛の行動をし、それに満足して、いつの間にか本当の愛の姿から遠ざかってしまいがちです。自分自身を変えることなしに、人を本当に愛することはできません。そうでなければ、愛の押し売りによる自己満足だけが残ります。

イエスはこのたとえ話の中で、わたしたちを低く、倒れ、傷つき、苦しんでいる者の側に置いて問いかけています。「一体だれが、このように苦しみのうちにあるあなたに近づき、あなたを心から愛した人なのですか」と。わたしたちは自分自身が本当に苦しむ者の側に立つことなくしては、苦しむ者を愛することができません。愛とは苦しみを共に担うことです。愛とは決して観念的抽象的なものではなく、具体的な人間としての出会いを通して生まれてくるものなのです。

イエスの十字架に見られる愛の姿には、神への全幅の信頼と、真に自分を投げ捨て、自分を否定することによる隣人への愛が交差し合っています。イエスの十字架の苦しみと死は、わたしたちの苦しみ、悩み、重い罪を背負ってくださることであり、血の滴るような現実の苦しみがそこにあります。イエスは「行って、あなたも同じようにしなさい。」と、わたしたちを苦しみの真っただ中へと押し出していくお方でもあります。

わたしたちが目をそむけ、避けて通りたい誘惑にかられる時、あえてその現実の中へ「行って、あなたも同じようにしなさい。」と、呼びかけられるのです。あの善いサマリア人と同じように、苦しみ、悩みの中にある人の側に立ち、それを共に負いなさい。「あなたはそれを一人で負うのではありません。わたしもそこに一緒にいます。」そう呼びかけておられるお方の声をこのたとえ話から聴き取りましょう。(チャプレン 大西 修)


ベゴニア

今日はマルコ通読二十回が行われました。

今回心に響いた御言葉は…

「人は皆、火で塩味を付けられる。 塩は良いものである。だが、塩に塩気がなくなれば、あなたがたは何によって塩に味を付けるのか。自分自身の内に塩を持ちなさい。そして、互いに平和に過ごしなさい。」(9:49~50)

イエスはこの直前で罪への誘惑に対する教えを厳しく話されました。
その上で「人は皆、火で塩味を付けられる」と火と塩をたとえに諭されました。

今回は「火と、塩とは何であるのか?」と、通読を深めていきましたが、その問いはとても難しく感じました。

私は火も塩も人間に必要であり火は、エネルギー源。一方塩は長い人生をおくる上で「命」を支える意味をもつ、重きものであると考えました。

結果、人間は試練(=火)により強められ、信仰は(=塩)(保存にはなくてはならないもの)人間に不可欠なものと、教えていただきました。

つまり火で塩味を付けられる…とは、試練で信仰は深められるという意味になります。

「自分自身に塩を持ちなさい。」
そう、イエスは話されます。外側からでなく自身の内に信仰を持ち続けなさいと…。

私はこの御言葉を深く知るほど、イエスの愛の本質を感じました。それはやさしいだけではない真実の愛の厳しさです。試練を恐れ嫌う人もいますが、イエスを知った人には、その試練こそが喜びとなる…。私はそう考えます。

私は今回の記事で、常に初心にかえり、今自分の「塩」はどのような味なのか内省する時が大切であると教えていただきました。

感情から理性へと。
これからもイエスの深いお導きに感謝して、バイブルタイムで学んでいきます。


クローバー

 

今日は七夕ですが、日本列島各地は梅雨末期の記録的大雨に見舞われています。災害にあわれた方々も多いようです。神のご加護を切にお祈りします。

さて、柳城の朝の祈りが復活して、今日で2年目に入りました。毎回、ノートに参加者名を記録して来ましたが、こうして日々積み重ねることができた成果は、すべて神からのお恵み。神に栄光です(^o^)/

2018年度からは新築の学生食堂に場所を移して実施しています。朝のやわらかい光と時折吹き込む爽やかな風を感じながら、清らかな時間が与えられています。登校する学生さんは、大きなガラスの窓越しに祈りの様子を見ていることでしょう。まさに、福音書に出てくる偽善者の祈りのように?(笑)

「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。(マタイ6:5)」

朝の祈りは、他人の目に自身をアピールするものではなく、柳城のあるべき日常の風景の一つにしたいのです。それは、深い信仰を持つ先人らによって築かれてきた柳城の証。人間の意識とは無関係の、ただ、そこに「ある」もの。

人間の思いわずらいをはるかに超えて、神への全き信頼の祈りはこれからも続けられることでしょう(^^♪ (加藤)

今日はマルコ通読十九回が行われました。

今回、心に響いた御言葉は…、

ヨハネがイエスに言った。「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました。」 イエスは言われた。「やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける。(9:38~41)

この記事を読み、「集団」を盾にする、かたくなな弟子たちの姿に私は違和感を持ちました。

師イエスは「わたしたちに逆らわないものは、わたしたちの味方なのである」とはっきり、ヨハネら弟子たちに対し布教における心がまえをお伝えになられました。

集団を作ることで自分たちだけのルールを重んじ許容範囲を狭くし、異なるものを受けいれることなく排除しようとした弟子たちを戒められたのです。

今回、「逆らわない者」とは、中立な人々もその中に含まれることを知りました。従わずとも敵対しない人はイエスの「味方」なのです。

私はそこにイエスの御心の深さ、赦しの大きさを感じ、血の通ったイエスのあたたかさに嬉しくなりました。

私たちは十字架に向かわれるイエスの道のりを福音書により知ることが出来ます。私はこれからも通読により、ヨハネをはじめとする弟子たちの心がどのように戸惑い葛藤し、変化していくのか、その過程も学んでいきたいです。


六角形の折り紙作品

今日はマルコ通読十八回が行われました。

今回心に響いた御言葉は…
「そして、一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われた。「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」(マルコによる福音書9:36~37)

「誰が一番えらいのか。」 そう論じあっていた弟子たちに、イエスは厳しい言葉で戒めをお与えになられました。

今回の御言葉でイエスは人に仕えるということはどういうことなのか、つづけて弟子たちにお伝えになられています。イエスは小さな子どもを抱き上げ、彼らの真ん中、彼らの目の前で直に導かれました。その姿は神々しく一方では、とても人間的な御姿であられたと思います。

今回の通読では「子ども」とは価値のない者の意と教えていただきました。もちろん、2000年前のユダヤではそのように思われていたということです。イエスは、そのように価値のない者を受け入れることを弟子たちに求められました。また、そうすることで、不完全な私たち人間は神に受け入れられるのだと話されました。

さらにイエスは「わたしの名のために受け入れよ」と語ります。

イエスのお名前から、彼のご生涯すべてが思い起こされますから、そのお名前を辱しめないよう、私はイエスに向かって歩みたいと思いました。

イエスのご命令は現代において見事に実現し、私たちは子どもを価値ある者として尊ぶ時代に生きています。

今回の記事を通し、小さき者に仕える保育者として、日々どうあるべきか…私は主に頼り、問い続けていきたいと思います。


収穫したミニトマトとゴーヤ

福音書にはマルコ、マタイ、ルカ、ヨハネの4種類がありますが、今回取り上げられる放蕩息子のたとえ話を紹介する「ルカによる福音書」が一番好きだという方も多いと思います。

話の内容はシンプルで理解しやすいのですが、後半部分で登場する兄の不平不満に共感した途端に、「ちょっと待てよ。不公平じゃないか。」という感じに陥るのです。それは、「ぶどう園の労働者のたとえ(マタイ20:1-16)」で抱く感覚に良く似ています。

読者がこのように感じるということは、福音書の記者らも分かっていたとは思いますが、イエス・キリストの言葉や信仰を保存することを最優先にした彼らは、ためらうことなく、たとえ話をありのままに記述しました。

「弟子たちは、このたとえはどんな意味かと尋ねた。(ルカ8:9)」
弟子ですらイエスのたとえ話を理解することは難しかったようです。
礼拝に出て、たとえ話の解き明かしに触れてみませんか?
お待ちしています。

✝ ✝ ✝

●テーマ:「放蕩息子のたとえ」
●説教:大西チャプレン
●聖書箇所:ルカによる福音書15:11-32
15:11 また、イエスは言われた。「ある人に息子が二人いた。
15:12 弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。
15:13 何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄遣いしてしまった。
15:14 何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた。
15:15 それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。
15:16 彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。
15:17 そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。
15:18 ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。
15:19 もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』
15:20 そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。
15:21 息子は言った。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』
15:22 しかし、父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。
15:23 それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。
15:24 この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた。
15:25 ところで、兄の方は畑にいたが、家の近くに来ると、音楽や踊りのざわめきが聞こえてきた。
15:26 そこで、僕の一人を呼んで、これはいったい何事かと尋ねた。
15:27 僕は言った。『弟さんが帰って来られました。無事な姿で迎えたというので、お父上が肥えた子牛を屠られたのです。』
15:28 兄は怒って家に入ろうとはせず、父親が出て来てなだめた。
15:29 しかし、兄は父親に言った。『このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。
15:30 ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる。』
15:31 すると、父親は言った。『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。
15:32 だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。』」

●日時:7月11日(水) 14:50~全学年、教職員
●礼拝形態:合同礼拝
●場所:チャペル
★8月誕生日の祈りを行います。

○次回以降の予定
・7/18(水)合同礼拝(チャペル)14:50~ 説教:大西チャプレン ★8月誕生日の祈り(保育科1年生)
・7/25(水)合同礼拝(チャペル)14:50~ 説教:大西チャプレン ★8月誕生日の祈り(保育科2年生)【前期最終礼拝、保育科1年生は補講期間中のため礼拝なし】

【イザヤ書55:8-11】
55:8 わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり/わたしの道はあなたたちの道と異なると/主は言われる。
55:9 天が地を高く超えているように/わたしの道は、あなたたちの道を/わたしの思いは/あなたたちの思いを、高く超えている。
55:10 雨も雪も、ひとたび天から降れば/むなしく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ/種蒔く人には種を与え/食べる人には糧を与える。
55:11 そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も/むなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ/わたしが与えた使命を必ず果たす。

ギデオンの唯一の目的
「人々を主イエス・キリストの救いに導くこと」

今、拝読していただきましたイザヤ書55章8-11節のなかで特に11節のみ言葉である「そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も/むなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ/わたしが与えた使命を必ず果たす。」を信じ、わたしたちギデオンはその聖書のみ言葉を贈呈することによって私たちの唯一の目的であり、神様のご命令である「人々を主イエス・キリストの救いに導く」ことに専念しています。

さて、私たちが所属する国際ギデオン協会とはどのような組織でしょうか。現在ギデオンが活躍している国々は世界で200ヵ国です。世界で奉仕しているギデオン会員はギデオン・夫人合わせて271,000人です。世界での1年間の聖書贈呈数は91,000,000冊。ギヂオン協会が創設された1899年より累計でこれまでの聖書贈呈総数は2,103,570,000冊です。ギデオン聖書の言語は100ヵ国語に訳されて、それぞれの国々に読まれています。ちなみに百万冊贈呈に要する日数は3.9日(1分間に178冊)の計算になります。活躍している200ヵ国の国々の中で国際理事国は11ヵ国あり、その中に日本も含まれています。

私たち日本のギデオン協会の働きをご紹介いたしましょう。全国の支部数は170支部で、ギデオン会員数はギデオン1,217名、夫人604名の合計1,821名。1年間の贈呈数は昨年度540,000冊です。日本でギデオン活動が始まった1950年より累計でこれまで40,000,000冊を超える贈呈を行って来ました。聖書の贈呈先は中学校、高校、大学、専門学校、病院、クリニック、薬局、ホテル、刑務所、警察官、自衛隊、個人等。

ギデオン協会の始まりは1899年に3人のクリスチャンによってアメリカで創設されました。“ギデオン”は、旧約聖書の「士師記」の6章に登場する士師の名前からつけられました。この3人によってクリスチャンで旅行をする実業家たちが互いに交わり、証をし、相ともに主イエスのために労しようと決意が表明されたのです。今より119年前の話です。

日本にこの働きがおよんだのは1950年9月1日に東京支部が作られたのが始まりです。戦後の荒れ果てた世相を反映してか、読むべき本もない学生たちを見て憐み、当時のG.H.Qの幹部がアメリカ本土のギデオン本部に打電し、聖書が日本に運ばれてきたのです。そして日本で自立(我が国で聖書を印刷し、その聖書購入資金を我々が賄う)が成った2000年までアメリカの援助で贈呈が続けられたのでした。感謝です。

私たちギデオン協会の活動は
プロテスタントのクリスチャンビジネスマン・専門職業人(医者、学校の先生等)による、この目的のための協力と交わり。
個々のギデオン会員が個人的な証しと、伝道を行うこと.
新約聖書を、ホテル・旅館・病院に無料で備え付けること。
また新約聖書を、中学生・高校生・大学生・警察官・自衛官・看護師/療養所患者・受刑者・個人などに無料で贈呈すること。

これらの活動が皆様がたのお祈りに支えられて行われること、この働きに参加される新しい会員が増し加えられるよう、そして聖書購入資金(教会でギデオン会員が報告と証をしてお捧げいただく献金、海外のための聖書献金、ギデオンカードによる聖書献金、会員による聖書献金、召天記念・遺言などによる記念聖書献金)が与えられるよう、今後ともよろしくお願いいたします。(日本国際ギデオン協会 全国会長 高田 須磨雄)

今回の聖書箇所は、イエス・キリストのお人柄というか、ポリシーを理解するうえで大変参考になる場所かと思います。ただ、それらをできる限り知るには当時のユダヤ社会の情勢を把握する必要があります。特に、29節に隠された律法専門家の心情が読み取れるかどうかがポイントになります。彼らはイエス・キリストの主張したいことが分かっていたので、それを拒もうとして自分たちの律法解釈を正当化しようとしたのです。

イエス・キリストの愛に満ちた、そして「誰をもはばからない(マルコ12:14)」お姿に触れるチャンスです。礼拝、お待ちしています!

●テーマ:「善いサマリア人のたとえ」
●説教:大西チャプレン
●聖書箇所:ルカによる福音書10:25-37
10:25 すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」
10:26 イエスが、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と言われると、
10:27 彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」
10:28 イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」
10:29 しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」と言った。
10:30 イエスはお答えになった。「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。
10:31 ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。
10:32 同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。
10:33 ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、
10:34 近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。
10:35 そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』
10:36 さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」
10:37 律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」

●日時:7月4日(水) 14:50~全学年、教職員
●礼拝形態:合同礼拝
●場所:チャペル
★礼拝後に、7月誕生日の祈りを行います。

○次回以降の予定
・7/11(水)合同礼拝(チャペル)14:50~ 説教:大西チャプレン
・7/18(水)合同礼拝(チャペル)14:50~ 説教:大西チャプレン ★8月誕生日の祈り(保育科1年生)
・7/25(水)合同礼拝(チャペル)14:50~ 説教:大西チャプレン ★8月誕生日の祈り(保育科2年生)【前期最終礼拝、保育科1年生は補講期間中のため礼拝なし】

今回は日本国際ギデオン協会会長の高田さんをお招きします。

当協会ホームページには、1899年(柳城学院が誕生した翌年!)「たった3人の発会式」で始まったギデオン協会が、今や世界200の国々で組織されるまでに発展した様子が記されています。また、その活動によって人生が救われた方々の手記も挙げられていて、たいへん読み応えがあります。

志の高い人々の自主的な活動が、結果を出しながら大きく広がって行くなんて、本当に素晴らしいです。高田さんのお話が楽しみですね。どうか、皆さんご参加ください。

・「わたくしが一番愛する本は聖書です。寂しい時、悲しい時、望みを失った時に、いつも我々を導いて、明るい、希望にみちた世界に連れ出してくれたものは聖書です。」(ヘレン・ケラー)
・「いかなる世界の歴史におけるよりも聖書の中には、よりたしかな真理がある。」(アイザック・ニュートン)
・「私の生涯に最も深い影響を与えた書物は聖書である。」(マハトマ・ガンディー)

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●テーマ:「ギデオン協会の働き」
●奨励:高田 須磨雄さん(日本国際ギデオン協会会長)
●聖書箇所:イザヤ書55:8-11
55:8 わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり/わたしの道はあなたたちの道と異なると/主は言われる。
55:9 天が地を高く超えているように/わたしの道は、あなたたちの道を/わたしの思いは/あなたたちの思いを、高く超えている。
55:10 雨も雪も、ひとたび天から降れば/むなしく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ/種蒔く人には種を与え/食べる人には糧を与える。
55:11 そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も/むなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ/わたしが与えた使命を必ず果たす。

●日時:6月27日(水) 14:50~全学年、教職員
●礼拝形態:合同礼拝
●場所:チャペル

○次回以降の予定
・7/4(水)合同礼拝(チャペル)14:50~ 説教:大西チャプレン ★7月誕生日の祈り
・7/11(水)合同礼拝(チャペル)14:50~ 説教:大西チャプレン

【マタイによる福音書5:9】
「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。」

先日のチャプレンタイムの時、高校の修学旅行で沖縄に行った人がかなりいることを知りました。どうだった?と感想を聞くと、楽しいはずの修学旅行が戦跡巡りをした日の夜は、暗く重い気持ちになり、なかなか眠れなかったという返事が返ってきました。

「百聞は一見に如かず」のことわざ通り、沖縄戦から70年以上経過しているとはいえ、今なお各所に残る戦跡を訪れ、そこで戦争体験者の証言を聞くとき、想像を絶する悲惨な、むごくおぞましい現実を垣間見る思いがし、人を人として見ることすらできなくしてしまう戦争という恐ろしい人間の歴史の一端を知らされます。

「知らないことは罪である」という言葉があります。1+1=2を知らない、漢字を知らない、英語の単語を知らないといった類の知らないではなく、「わたしたちの生きている現実と深く関わっている歴史的な出来事とその出来事が持つ意味」を知らないことを指します。具体的に言えば、沖縄戦のこと、その持つ意味を知らないことは罪であると言えるのです。なぜなら、「本土防衛のため、本土の捨て石」となった沖縄に住む人々の大きな犠牲の上に、本土にいる今のわたしたちは生きているからです。1945年4~8月までの間に沖縄県民約60 万人の4分の1にあたる15万人が犠牲になりました。沖縄が本土に復帰したのが1972年、戦後27年たってからでした。そのころでもガマと呼ばれる自然の洞窟には遺骨がまだまだ残っていました。また、チビチリガマや嘉渡敷島での集団自決の事実を知りました。

語り部でもある石原絹子司祭(現在81 歳)は「沖縄戦を語り継ぐ」~地獄からの魂の叫び~ を書かれました。その中で、父母と3年生の兄、1年生の彼女と 3歳と1歳の妹の6人家族のうち、彼女一人を残して5人が皆次々に死んでいくすさまじい状況を読んだとき、言葉を失いました。しかし、生きていた祖母に迎えられ、悲しみにむせび泣く中で強く抱きしめられ言われた言葉、「戦争さえなければ、皆幸せに暮らせたのに。でも、どんなにつらくても家族のため、生きて平和のためにお手伝いできる人間になるのですよ」が、彼女のその後の生きる道を決めるきっかけになったのです。

平和を実現する人として彼女は、恒久平和を求める沖縄の心「命どぅ宝」(ぬち どぅ たから)~命こそ宝~を叫び続けておられます。「人間の尊厳を何よりも重視し、相手を尊び、お互いに支え合い活かし合い、戦争につながる一切の行為を否定し、平和を求める人間性の発露である沖縄の心」の大切さを訴えておられます。「平和は黙って向こうからやって来るものではない。どんな小さなことでも平和を実現するための努力を惜しまず、また戦争につながるようなことは、どんなに小さくてもその芽を早く摘み取りたいものである。多くの犠牲の上に成り立った平和憲法を守り抜き、二度と戦争をしない、平和を愛する国であることを国の内外に示すことが肝要かと思う」との言葉を心に深く刻みたいと思います。(チャプレン 主教 大西 修)


琉球新報 2018/6/23より

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