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【ペテロの手紙第一 5:7】
あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。」(新改訳)

わたしは20歳のクリスマスに「自分中心ではなく、神さまを中心にする生き方をしていきたい」と願い、洗礼を受けました。今日は洗礼に至る道のりと、その後に「変化した/しなかったこと」に焦点をあてます。その歩みを振り返ると一本の道にみえますが、実際にはたくさんの分岐点で立ち止まり、その都度「どちらの道を行くのか/行かないのか」を選んできました。わたしが道を選ぶときに働いた「不思議な力」は、そっと背中を押してくれるような、迷い悩むわたしを支え、励ます、ささやかで優しい力でした。

キリスト教に興味を持ったのは、クリスチャンであった伯母の葬儀。当時、わたしは10歳でした。快活で朗らかで、みんなに愛された伯母は43歳で亡くなります。この「伯母の死」が、自覚している「神さまとの出会い」です。伯母は美しい讃美歌と真っ白な花に送られて旅立ちました。そのとき、わたしの葬式はキリスト教式で、みんなに讃美歌を歌ってほしいと思いました。さあ、死んだ後のことが決まったので、次は「どうしたらキリスト教の葬式をあげてもらえるか」、つまり「どう生きるのか」が課題です。

洗礼に直接つながる出会いは、大学のときのこと。わたしは国際基督教大学(ICU)で森本あんり先生(宗教学の先生で当時の大学教会・主任牧師)に出会います。洗礼準備会で「まだ聖書を全部読めていないし(読むと眠くなる)、仏教もいいなと思っている」と話し、キリスト教をもっと理解してからでないと洗礼を受けちゃいけないんじゃないかという悩みを伝えました。先生のお答えは、こんな感じだったかと思います。

1)「これまで」どう生きてきたかというより、「これから」どう生きていきたいかが大事
2)「全て理解してから洗礼を」と言っていたら、きっと、生きている間に洗礼は受けられない
3)理解してから信じるのではなく「信じてからわかることもある」
4)「祈り」は、自分の都合の良いお願いではない
5)「祈り」は集中であり、集中して祈ることは難しく、祈りに集中すれば自ずと道が見える
6)「祈ること」は「的を外さずに生きること」であり、「祈りはおこないである」
7)罪の本質は「自己中心」で、それは「自分を神さまのように扱うこと」

そして、先生は「あなたが神さまを選ぶのではない。神さまが既にあなたを選んだから、あなたは今ここにいるのではないか」と仰いました。あぁ、それならば、わたしなどには到底知る由もないご計画を信じ、いっさいを御手にゆだねようと思いました。こうして10歳で「死に方」が、20歳で「生き方」が決まります。

では「洗礼を受ける前と受けた後」で、わたしはどう変わったのでしょう。わたしの場合、受洗後は間違うことなく常に神さまを仰ぎながら生きてきた…はずもなく、相変わらず自分中心に物事を考え、何度も失敗し、何度も悲しみにくれています。鶏が鳴く前に、3回、イエスを知らないと言ったペテロは、まさにわたしでした。自分の無力を思い知ったとき、「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとへ来なさい。あなたがたを休ませてあげよう」(マタイ11:28)という聖句がうかび、「まことにこの人は神の子であった」(マタイ27:54)という言葉も響きます。

わたし「が」なんとかしよう、という「が」の強い自分を手放すのは難しく、「自分は欠けだらけの土の器だ、本当にそうだ」と今、ここで強く思っているのに、ふと気づくと、自分を中心に考え、例外をつくり、言い訳を繰り返しながら、自分の言動を正当化して振る舞う弱さを抱えています。わたしの弱さは、洗礼によってさっぱり洗い流されてしまうものではありませんが、クリスチャンとして生きることは、自分の力で自分を変えることすらできない自分に絶望することなく、その弱さに注がれる神さまの愛と、弱さも豊かに用いて下さる神さまの働きを喜ぶことなんだろうと思います。

「弱さこそが恵みであり、弱いからこそ、強い」。20歳のクリスマスに、わたしは今日の讃美歌の一節「寒い冬の中 春は目覚める」にあるような「逆転の発想」を会得し、「信じる人」になりました。これまでの悲しいことや辛いこと、これから経験する苦しみや痛みも、わたしは恵みとして両手で丁寧に受け取り、祈りの中で喜びにかえることができます。…一緒に信じる人になりませんか? (勝間田 明子 本学教員)

イエス・キリストの言葉に、「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。(マタイ10:34)」という衝撃的なものがあります。説教ではあまり扱いたくない箇所のようですが(笑)、イエスの心を理解するには避けて通れない言葉です。

人とのいさかいが無い状態だけを「平和」だと思っていると、力の持った者が好き勝手やる傾向になり、世の中は、ゆっくりと、そして確実に衰退していくことでしょう。イエスの時代がまさにそうでした。宗教指導者らの身勝手な信仰が社会を硬直させていたのです。

世の中全体の平和も大切ですが、一人ひとりが属するいくつもの小さな集団の平和についても考えたいものですね。礼拝、お待ちしています。

●説教のテーマ:「沖縄慰霊の日(6.23)を前にして、平和を祈る」
●説教:大西チャプレン
●聖書箇所:マタイによる福音書5:9
5:9 平和を実現する人々は、幸いである、/その人たちは神の子と呼ばれる。

●日時:6月20日(水) 14:50~全学年、教職員
●礼拝形態:合同礼拝
●場所:チャペル

○次回以降の予定
・6/27(水)合同礼拝(チャペル)14:50~ 奨励:ギデオン協会員による証(あかし)
・7/4(水)合同礼拝(チャペル)14:50~ 説教:大西チャプレン ★7月誕生日の祈り

今日はマルコ通読十七回が行われました。

今回心に響いた御言葉は…
イエスは言われた。「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる。」その子の父親はすぐに叫んだ。「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」イエスは、群衆が、走り寄って来るのを見ると、汚れた霊をお叱りになった。「ものも言わせず、耳も聞こえさせない霊、わたしの命令だ。この子から出て行け。二度とこの子の中に入るな。」

高い山に登られたイエスを待つ群衆には様々な人間がいました。汚れた霊をもつ子どもの父親もイエスを待ち望む人間の一人でした。

山腹に残された弟子たちには、この子どもの悪魔払いができません。それに目をつけた律法学者らは彼らに難癖をつけていたことでしょう。しかしイエスが急にお帰りになられたので、皆は大変驚きます。

弟子たちの不甲斐なさを見たためでしょうか。この父親は「できれば…」という言い回しでイエスに霊を出してくれるよう頼むのでした。ここに人間の不信仰を見ることが出来ます。

イエスは信仰の乏しいその言葉を決して見逃しはしませんでした。
「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる。」

このイエスの言葉に我にかえった父親は叫びます。「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」と。この父親の叫びは真の心から湧き出た祈りです。

人は時として不信仰な存在であることをこの父親と同じように、隠しとおすことが出来ない場面に遭遇します。しかし、イエスはそんな人間の浅ましい心を知ったうえで、父親の悔い改めと子どもへの思いに愛をもって応えられ、悪魔をお叱りになられました。

私たちはイエスの限りない愛を、福音書をとおし学ぶことが出来ます。

「信じる者には、何でも出来る。」
このイエスの御言葉を忘れることなく、私は一歩一歩学んでいきたいと思います。


カフェ棟の花壇

【コリントの信徒への手紙一 3:6-7】
3:6 わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。
3:7 ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です。

6月に入りそろそろ梅雨の時期を迎えようとしています。この時期、園では子どもたちが花壇や植木鉢、プランターなどにひまわりや朝顔の種を蒔いたり、きゅうりやトマトの苗を植えたりします。毎日お当番が喜び勇んで水をあげたり、時には肥料を施したりしながら、それらが花を咲かせ、実を結ばせる日を楽しみに待っている姿を見ていると、とても嬉しくなってきます。

けれども、連休明けに登園して来た子どもたちは、心配そうな顔をして草花や野菜の様子を見に行き、元気に成長しているのを見届けてひと安心します。そしておもむろに尋ねます。「先生、お休みの間、お水あげなかったのにどうして枯れなかったの?」と。

使徒言行録9章を読みますと、紀元30年代の中頃、熱心なユダヤ教徒であったサウロはキリストを信じる者を捕縛するためダマスコへ向かう途中、復活された主イエスに出会い、劇的な回心をし、熱心なキリストを信じる者となります。その後、パウロと呼ばれ、1世紀中頃、ギリシャ・ローマ世界へ伝道活動をして歩き、ギリシャのアテネ、コリントという当時の商業文化の盛んな都市に教会の基礎を築きました。コリントの教会ではパウロが去った後、信徒の中に妬みや争いが起こり、「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロにつく」などと言って、何人かの指導者の名を掲げた分派が生まれました。これに対してパウロはこの手紙を書きました。「アポロとは何者か。また、パウロとは何者か。この二人は、あなたがたを信仰に導くためにそれぞれ主がお与えになった分に応じて仕えた者です。わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です。」と。

パウロもアパロもコリントの教会の指導者として大切な役割を担ってきました。けれども、彼らはどこまでも神のために力を合わせた働く同労者であり、自分が最も優れているなどとは全く考えていませんでした。なぜなら、彼らにとって主イエスをこの世に遣わしてくださった神こそすべてであり、その神によって自分たちが生かされていると信じて疑わなかったからです。パウロはわたしやアポロを見てそこに留まるのではなく、わたしたちが示す神を、主イエスを見て歩むことが最も大切なことであると訴えました。

コリントの教会の出来事を通して教えられることは、わたしたちはいつも自分を中心に、自分を基準にして物事を考え、行動していないだろうかということです。少しでも学力や知能が他者より優れていると、皆から注目され、敬われていると思い込み、いつの間にか舞い上がって、自らを誇る言動に出てしまいがちです。わたしたちは自分の言動が高く評価されることを期待します。「わたしが植えたから成長したのよ」「うそ~、わたしが水をあげたからこそ成長したのよ」と、各々自分のしたことをPRします。自己PRは時として自己主張となり、さらには自己正当化へ、そして他者を否定する危険にもつながる要素を持っています。このことは保育の現場、学内においても言えることではないでしょうか。

「父母(保護者)が植え、保育者(教師)が水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。大切なのは父母(保護者)でも保育者(教師)でもなく、成長させてくださる神です。」と、言葉を置き換えてみてはどうでしょうか。わたしたちは目に見えない神さまの大きな力に見守られ、保育者(の卵)として現在生かされていることを自覚しつつ、常に謙遜さを身にまとうことを忘れないようにしたいものです。

「先生、お休みの間、お水あげなかったのに、どうして枯れなかったの?」と質問してきた子どもに、あなただったらどのように答えますか。(チャプレン大西 修)

ビオラとツマグロヒョウモン

先日、あるラジオ番組で「宗教を信じる人は弱い人間か?」というテーマが取り上げられていました。「宗教に頼る人は自立できていない証拠だ」と考える人が結構いるようです。信仰を持つにいたった理由は人それぞれですので、「信仰を持つ」=「宗教に頼る」=「自立できていない人」という短絡的な公式が、宗教を信じる全ての人に当てはまるものではありません。信仰を持った人でも、しっかり自立している方はいます。マザー・テレサの例を挙げるまでもありません。

人は何らかの影響を受けながら成長するものです。礼拝を通して、自分の今と未来を静かに考えてみてはどうでしょうか。お待ちしています。

●説教のテーマ:「不思議に導かれて歩む -クリスチャンになる前となった後-」
●奨励:勝間田明子先生
●聖書箇所:ペテロの手紙第一 5:7
5:7 あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。」(新改訳)

●日時:6月13日(水) 14:50~全学年、教職員
●礼拝形態:合同礼拝
●場所:チャペル

○次回以降の予定
・6/20(水)合同礼拝(チャペル)14:50~ 説教:大西チャプレン
・6/27(水)合同礼拝(チャペル)14:50~ 奨励:ギデオン協会員による証(あかし)

 

昨年度からスタートした新生病院リトリート。

その報告会が、今年度の募集案内を兼ねて、礼拝後に行われました。きちんと整えられた原稿をスライドに合わせて、担当の学生さんが思いを込めて読んでくれました。

その詳しい内容は報告書の方に譲りますが、一番印象に残ったのは、現地で本学の卒業生2名から当時のお話が伺えたという内容でした。

「柳城=感謝」
「ホーキンス先生=愛」

その卒業生の方がこのように語ったということです。
これらの短いフレーズが本学の本質を端的に表わしているような気がします。

そういえば、本学のオープンキャンパスにみえた高校生の保護者(本学の卒業生)の方も、
「結局、By Love Serve なんですよね!」
と、目をキラキラさせて語ってくれました。

どんなキーワードを卒業生の魂に刻ませるか。
これが教育機関の腕の見せ所なのでしょうね。(加藤)

今年度から、希望者に対して「誕生日の祈り」を礼拝直後に執り行うことになりました。

今日は6月生まれの5人の学生さんがこの恵みに預かりました。恥ずかしくて、なかなか前に出てこなかったというハプニングもありましたが、皆、チャプレンから頭に手を置いてもらい嬉しそうでしたよ。勇気を出した5人に拍手です(^o^)/

未信徒のカップルさんがキリスト教スタイルで結婚式を堂々と挙げる時代です。愛を誓う儀式をキリスト教式でやってもらえるだけでも、クリスチャンにとっては嬉しいことです。

同様に、誕生日のお祝いや自分自身を振り返る黙想をキリスト教式に行なうのも、何ら不思議ではない気がします。キリスト教は意外に懐が深いのです。(加藤)

今日はマルコ通読十六回が行われました。

今回心に響いた御言葉は…
イエスは言われた。「確かに、まずエリヤが来て、すべてを元どおりにする。それなら、人の子は苦しみを重ね、辱しめを受けると聖書に書いてあるのはなぜか。しかし、言っておく。エリヤは来たが、彼について聖書に書いてあるように、人々は好きなようにあしらったのである。」(マルコによる福音書9:12~13)

イエスはぺトロ、ヤコブ、ヨハネの三人の弟子たちを選び、共に高い山に登られました。そこでは、弟子たちが想像し得ない光景が展開します。すなわち、イエス、エリヤ、モーセの三人が目映いばかりの光の中で会話をするのでした。

その中でもイエスの御姿は言葉ではあらわせないほどの輝きに包まれ、光に満ち溢れていました。「これは私の愛する子、これに聞け。(9:7)」
神はイエスに使命をお示しになり祝福を与えられました。

そしてイエスは、弟子たちに洗礼者ヨハネをエリヤになぞられ、人間たちが行ったヨハネに対する迫害の道のりを示されました。また、その後に続くイエスご自身の十字架へのかん難もお伝えになられました。

今回の通読では、マラキ書、マタイによる福音書の記事も合わせ理解を進めることが出来ました。今回の箇所はマルコによる福音書の中でも、イエスの救世主としての御姿を決定的にあらわす場面であると感じます。

バイブルタイムでは、記事を多面的に学ぶことが出来ます。その度に私はイエスが旧約聖書を熟知なさっていたことや、その理解の深さにただ驚くばかりです。

三人の弟子たちは神からの使命を与えられたイエスの光、真実の御姿をどれくらい理解出来ていたのでしょうか。山を下られたイエスは再び群衆の中に入られます。

次回のバイブルタイムでも御言葉をとおし、イエスの十字架への御姿を学んでいきたいと思います。


ミニトマト

TVドラマ「新スタートレック」の主役であるピカード艦長は向上心を尊ぶ人物でした。準主役級のデータという名のアンドロイドも人間の感情を学ぼうと必死でしたね。人類をこき下ろすQという謎の人物も登場したりして、とにかくドラマ全体が人類の精神面での成長に期待をかけているかのような内容でした。そのメッセージ性に興味のある方には必見です(^^♪

誰もが勉強や業務に追われる毎日でしょうが、その先にあるべき「生きる意味」に思いをはせる時間を持ちたいものです。

礼拝、お待ちしています!

●説教のテーマ:「あなたを成長させてくださったのは誰?」
●説教者:大西チャプレン
●聖書箇所:コリントの信徒への手紙一 3:6-7
3:6 わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。
3:7 ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です。

●日時:6月6日(水) 14:50~全学年、教職員
●礼拝形態:合同礼拝
●場所:体育館
★礼拝後に奨励奨学生表彰式と新生病院リトリート報告会を開催します。

○次回以降の予定
・6/13(水)合同礼拝(チャペル)14:50~ 説教:勝間田明子先生
・6/20(水)合同礼拝(チャペル)14:50~ 説教:大西チャプレン

【詩編19:2】
「天は神の栄光を物語り、大空は御手の業を示す。」

レイチェル・カーソン(アメリカの海洋生物学者、1907~1964年、56歳で死去)のわたしたちへの贈り物は、「センス・オブ・ワンダー」(彼女の遺作)です。1965年に出版され、最初に邦訳されたのは1991年、死後25年以上たってからでしたが評判を呼び、若い母親や幼稚園、保育園、小学校の先生たちにも注目され、50年以上たった現在も必読書として読み継がれている名著です。

「センス・オブ・ワンダー」とは、すべての子どもたちに備わっている天性で、自然界の美しいもの、未知で神秘的で不思議なものを、驚きの目をもって見つめる感性のことです。これはわたしたち大人がいつの間にか、身に着けてしまった知識や経験、常識や習慣などの既定の基準にとらわれない、物事の本質を見極める生命力の原点とも言えます。

子どもたちが生まれながらに持っている素晴らしい感性の力を、いつも新鮮に保ち続けるためには「わたしたちが住んでいる世界のよろこび、感激、神秘などを子どもといっしょに再発見し、感動を分かち合ってくれる大人が、少なくともひとり、そばにいる必要があります。」と彼女は言っています。

残念なことに、わたしたちの周囲を見回すとき、日に日に自然環境が破壊され、環境汚染が進んでいます。自然界のありのままの姿が人間の誇る科学の力によって破壊され、修復できない状況にまで至っています。レイチェルは「センス・オブ・ワンダー」を書いた数年前に「沈黙の春」を書きましたが、その中で、すでにこのことが起こることを予測し、警告を発したことにより注目されました。

子どもとともに大人がまず、自然をじっくり見つめることから始める必要があります。子どもが自然界に生きる大小の動植物に驚きの目を見張り、それに触れて歓声を上げ、喜びを全身で表現すること、また夜空に輝く月や星を見て神秘の世界に没入することなどを、大人のわたしたちもいっしょになって追体験することにより、これから新たに保育者として子どもとかかわりを持ち、触れ合っていく基本的な準備ができるのではないでしょうか。大人が保育者が、子どもに優しく寄り添うことは、子どもに安らぎと安心感と信頼感を与え、心豊かな成長を助け、出会う人々との優しい関わりを豊かなものにしていきます。

このように他の命に対する率直で優しい子どもの感性こそ、人と人、国と国の関わりだけでなく、自然界のあらゆる命の全地球的な調和のとれた平和を作り出す礎になりうるとレイチェルは信じていました。

個性豊かでいつもキラキラ輝いている感性を持った子どもたちと向き合う保育者、保護者の働きがいかに大切であるかを思わされます。自然の中に身を置いて、「天は神の栄光を物語り、大空は御手の業を示す。」(詩編19:2)のみ言葉を通して、「人間を超えた存在」を感じとることができれば、最高です。 (チャプレン 主教 大西 修)

ドクダミ

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