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次回の聖書箇所に出てくるタラントンという貨幣単位は6,000日分の賃金に相当する額と言われています(マタイ20:2からの推測)。日本の今に置き換えると、ざっと6,000万円! すると5タラントンは3億円!!! これを使ってすぐに商売をしたというのですから、たぶん、金貸し業で儲けたのでしょうね。一方、1タラントンを預けられた僕は、その額の大きさにビビッてか、土の中に隠しました。当時、それが一番安心安全な保管方法だったからです。でも、イエス・キリストは彼を「怠け者の悪い僕だ」と言うのです。

悩ましい聖書箇所ですが、イエス・キリストの真意はいかに。
お待ちしています。

●説教のテーマ:「自分の賜物を用いて生きる」
●説教者:中尾志朗司祭(一宮聖光教会
●聖書箇所:マタイによる福音書 25:14-30
「タラントン」のたとえ
25:14 「天の国はまた次のようにたとえられる。ある人が旅行に出かけるとき、僕たちを呼んで、自分の財産を預けた。
25:15 それぞれの力に応じて、一人には五タラントン、一人には二タラントン、もう一人には一タラントンを預けて旅に出かけた。早速、
25:16 五タラントン預かった者は出て行き、それで商売をして、ほかに五タラントンをもうけた。
25:17 同じように、二タラントン預かった者も、ほかに二タラントンをもうけた。
25:18 しかし、一タラントン預かった者は、出て行って穴を掘り、主人の金を隠しておいた。
25:19 さて、かなり日がたってから、僕たちの主人が帰って来て、彼らと清算を始めた。
25:20 まず、五タラントン預かった者が進み出て、ほかの五タラントンを差し出して言った。『御主人様、五タラントンお預けになりましたが、御覧ください。ほかに五タラントンもうけました。』
25:21 主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』
25:22 次に、二タラントン預かった者も進み出て言った。『御主人様、二タラントンお預けになりましたが、御覧ください。ほかに二タラントンもうけました。』
25:23 主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』
25:24 ところで、一タラントン預かった者も進み出て言った。『御主人様、あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方だと知っていましたので、
25:25 恐ろしくなり、出かけて行って、あなたのタラントンを地の中に隠しておきました。御覧ください。これがあなたのお金です。』
25:26 主人は答えた。『怠け者の悪い僕だ。わたしが蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集めることを知っていたのか。
25:27 それなら、わたしの金を銀行に入れておくべきであった。そうしておけば、帰って来たとき、利息付きで返してもらえたのに。
25:28 さあ、そのタラントンをこの男から取り上げて、十タラントン持っている者に与えよ。
25:29 だれでも持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。
25:30 この役に立たない僕を外の暗闇に追い出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。』」

●日時:5月9日(水)
14:50~ 保育科1年生・専攻科生・教職員
15:40~ 保育科2年生・教職員
●礼拝形態:通常礼拝
●場所:チャペル

○次回以降の予定
・5/16(水)通常礼拝(チャペル)14:50~ 説教:大西チャプレン
・5/23(水)通常礼拝(チャペル)14:50~(前半のみ実施) 説教:大西チャプレン

【ヘブライ人への手紙6:10-12】
6:10 神は不義な方ではないので、あなたがたの働きや、あなたがたが聖なる者たちに以前も今も仕えることによって、神の名のために示したあの愛をお忘れになるようなことはありません。
6:11 わたしたちは、あなたがたおのおのが最後まで希望を持ち続けるために、同じ熱心さを示してもらいたいと思います。
6:12 あなたがたが怠け者とならず、信仰と忍耐とによって、約束されたものを受け継ぐ人たちを見倣う者となってほしいのです。

皆さんは、子どもたちの命と成長に携わるという大切で尊い夢と希望を抱いて、この名古屋柳城短期大学に入学し、今この時を過ごしています。その夢と希望の中で学びに取り組む皆さんの姿を傍らで見つめていると、皆さんひとり一人の為人(ひととなり)を感じることができるような気がし、皆さんの存在を身近に感じることができます。私個人はそのように(勝手に)皆さんを身近に感じていますが、皆さんにとって私は“最近、大学構内でよく見かけるけど、何者?!”的な存在だと思います。ですから、今日は、なぜ、私が司祭になったのかを自己紹介も兼ねて、お話ししたいと思います。私が幼児教育者を目指す皆さんの夢と希望を見つめて、皆さんのことを身近に感じるように、皆さんも、かつて皆さんと同年代であった頃の私の夢と希望を知り、私のことを少しでも身近に感じてくだされば幸いです。

私は代々からのクリスチャンの家に生まれました。高祖父は伝道師、曾祖父は司祭、大叔父も司祭という家で、両親も信仰厚く、私も“神様”という存在に対する祈りの中で成長しました。しかし、私自身が信仰厚く、その信仰から司祭になったという訳ではありません。

そこには、父に対するある思いがありました。父は私が小学生の頃から長年、病を患い、寝たきりの生活を20年以上送りました。私が幼少の頃の父は体格も大きく逞しく、片腕でいとも軽々、私を抱き上げてくれました。父の逞しい腕に抱えられ、父にしがみ付き、父の胸元で嗅いたタバコの微かな香りが、父が私にとって“全てのものから何があっても守ってくれる存在”の象徴でした。しかし、その数年後、父は病に臥し、長年の闘病生活で腕は骨と皮だけになり、父の胸元から香るのはタバコの香りではなく、消毒液にも似た薬品の匂いに変わりました。

それから十数年後、大学卒業を控え、夢も希望もなく、将来の展望もないまま学生生活をしていた私に、母はこう告げました。「あなた、司祭にならない?お父さん、あなたに司祭になってもらって、あなたに自分のお葬式をしてもらいたいみないなの」と。

“人生で最初の、そして最後の父親孝行”、“全てのものから何があっても守ってくれていた父への恩返し”…。いろいろな想い、複雑な想いの中で、純粋に“父のために自分が今、できること”を選び、大学卒業後、司祭になるために神学校へ進学しました。その間、必死に学び、懸命に祈り、焦りの中で父の寿命と競争し、6年かけて司祭になることができました。その時、父は…。

その時、父はまだ頑張って生きていてくれました。そして、私が司祭になって2か月後、亡くなりました。父の葬儀を司祭として執り行いながら、私は、父の寿命と私が司祭になる時間を合わせて下さった神の摂理に感謝し、神の存在を心の底から実感することができました。厚い信仰もなく、ただ父の葬儀を挙げるためだけに司祭になった私は、司祭となり、父の葬儀を挙げている最中(さなか)、初めて神を感じ、初めて真の祈りを捧げたのだと思います。そして、その瞬間、本当の司祭になったのだと。

今、私は神への恩返し、そして、私が司祭になることを後押ししてくださった教会・教区の全ての方々への恩返しをするために、そして、神が愛する人類全てのために、司祭として生きています。その恩返しをする方々の中に、もちろん柳城に通う皆さん全ても含まれています。

私は今、皆さんの夢と希望を支えるため、皆さんのために、ここにいます。これから、いつも、傍らで皆さんを支え、応援しています。(名古屋聖マタイ教会 司祭 下原太介)

今日はマルコ通読十二回目が行われました。

今回心に響いた御言葉は・・・

そこで、イエスは言われた。「それほど言うなら、よろしい。家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘からもう出てしまった。」女が家に帰ってみると、その子は床の上に寝ており、悪霊は出てしまっていた。「(マルコによる福音書 7:29~30)

イエスは静かに祈るため、また体を休めるためにユダヤの地を離れたのでしょう。

ところが、汚れた霊に取りつかれた幼い娘を持つギリシア人の女が、娘から悪霊を追い出して欲しいと言いながらイエスの足もとにひれ伏し願います。

イエスは異邦人である彼女たちを「小犬」にたとえられました。たぶん、その幼い娘は家に飼われている子犬をいじめていて、その話を彼女はイエスにしたのでしょう。私はそこに人間イエスのユーモアを感じます。

その女も、そんなイエスに親しみを覚え、そして「イエスは慈しみをお与えくださる方なのだ」と直感したのではないでしょうか。

異邦人である自身の立場を理解しながらも謙虚に、彼女はイエスに願い続けます。
イエスは、そのようにすがる思いに、そして弱い立場の人間に、どのような時にも手をさしのべてくださるのでした。

私はイエスの慈しみを感じるたびに、その存在の大きさに包まれ、瞳から安心します。異邦人の女と同じように…。

これからもバイブルタイムをとおし、そのイエスの御跡を学んでいきます。
ただひたすら目の前のイエスの御心を信じて。(Y)

心地よい音楽は私たちの感情を素直にしてくれます。「魂の開放」と言ったら大げさですが、でも、心に響く賛美歌をうたうとき、信仰心が高ぶるのは確かなことです。

「よく歌う人は、倍祈る」と言われています。

今回、礼拝後に江崎理子さんをお迎えして、ノリノリのゴスペルを体験する恵みに預かります。

ゴスペルに込められた「祈り」を、体と魂で感じてみましょう。
お待ちしています!

ハレルヤ。新しい歌を主に向かって歌え。主の慈しみに生きる人の集いで賛美の歌をうたえ。(詩篇149:1)
・「歌うのは愛している証拠」(聖アウグスティヌス)

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●説教のテーマ:「ゴスペルって何?」
●説教者:大西チャプレン
●聖書箇所:マルコによる福音書 16:14-15
16:14 その後、十一人が食事をしているとき、イエスが現れ、その不信仰とかたくなな心をおとがめになった。復活されたイエスを見た人々の言うことを、信じなかったからである。
16:15 それから、イエスは言われた。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。

●日時:5月2日(水) 14:50~
●礼拝形態:合同礼拝
★礼拝後にゴスペルワークショップ(講師:江崎理子さん)を開催します。
●場所:体育館

○次回以降の予定
・5/9(水)通常礼拝(チャペル)14:50~ 説教:中尾志朗司祭(一宮聖光教会
・5/16(水)通常礼拝(チャペル)14:50~ 説教:大西チャプレン

今日はマルコ通読十一回目が行われました。

今回心に響いた御言葉は・・・

それから、イエスは再び群衆を呼び寄せて言われた。「皆、わたしの言うことを聞いて悟りなさい。 外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである。(マルコによる福音書 7:14~15)

ファリサイ派の人々と数人の律法学者たちが、イエスを監視しようとエルサレムからやって来ました。それは弟子たちの日常生活にまで及びました。

イエスはいつものように彼らの質問に付き合わず、神の真理を解いて、逆に彼らの矛盾をつこうとされます。

私は今回伝えられた御言葉から、神から離れ、慣習に基づいた「人間の論理」を大切にし過ぎることの愚かしさを感じました。そんなものをいくら声高々に清いとしたところで、しょせんは人間が解釈したものに過ぎません。

その証拠にイエスは「人から出て来るものこそ、人を汚す」(7:20)と語ります。

神の真理に解釈を入れず、ひたむきに、信じ求めることの大切さを教えてくださるイエスに、私は畏敬の念を感じます。そして、それほどの栄光を与えてくださる方なのだと嬉しくなります。

イエスは幾度となく「悟りなさい」と仰っています。それは、かたくなな「現状維持」ではなく、神の光の「進化」へと私を導いてくださる。

師であり父のように…。(Y)

ハナダイコン

キング牧師の有名な言葉「私には夢がある。」
説教全文では、この言葉が何度も繰り返されています。その一つ…、

「私には夢がある。いつの日か、私の4人の幼い子どもたちが、肌の色ではなく、人格の中身によって評価される国で暮らすという夢が。」

夢や希望、進歩、改革…。こういったものを魂に秘めながら人生を送れる人は幸せだと思います。

今回の説教者の下原司祭は、以前、本学のチャプレンをなさった方です。今年度から、お隣のマタイ教会の司祭になり、柳城の仲間として再びお迎えすることになりました。礼拝に参加して、歓迎の気持ちを表したいですね(^^♪

●説教のテーマ:「私には希望がある
●説教者:下原 太介 司祭(名古屋聖マタイ教会)
●聖書箇所:ヘブライ人への手紙6:10-12
6:10 神は不義な方ではないので、あなたがたの働きや、あなたがたが聖なる者たちに以前も今も仕えることによって、神の名のために示したあの愛をお忘れになるようなことはありません。
6:11 わたしたちは、あなたがたおのおのが最後まで希望を持ち続けるために、同じ熱心さを示してもらいたいと思います。
6:12 あなたがたが怠け者とならず、信仰と忍耐とによって、約束されたものを受け継ぐ人たちを見倣う者となってほしいのです。

●日時:4月25日(水)
14:50~ 保育科1年生・専攻科生・教職員
15:40~ 保育科2年生・教職員
●礼拝形態:通常礼拝
●場所:チャペル

○次回以降の予定
・5/2(水)合同礼拝(体育館)14:50~ 説教:大西チャプレン
★礼拝後にゴスペルワークショップ(講師:江崎理子さん)を開催します。
・5/9(水)通常礼拝(チャペル)14:50~ 説教:中尾志朗司祭(一宮聖光教会

【フィリピの信徒への手紙2:3-8】
2:3 何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、
2:4 めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。
2:5 互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。
2:6 キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、
2:7 かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、
2:8 へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。

夢ゼミを明日に控え、天気も回復し、楽しく有意義な2日間を過ごせるようにと願っています。

さて、今日は、へりくだり(謙り、遜り)従順について考えてみたいと思います。

へりくだるとは他者を敬って、自分が進んで低い位置に立つこと、従順とはおとなしく素直で、人に逆らわないことです。

へりくだり、従順には思いやりの心が根底にあります。他者への思いやりの深さは心の輝きとしてわたしたちの表情、態度、身のこなしに現れます。わたしたちは自分のことには最大限の注意を払いますが、他者のことについては驚くほど無関心であり、思いやりの心が欠落しています。独占欲が強く、他者の思いを汲むことが下手です。相田みつを(詩人)は「うばい合えば足らぬ、わけ合えばあまる」と言いました。この詩には、いつも他者を大切にする思いがあふれています。

河野 進 牧師(1990年逝去、86歳)は、こんな詩を書きました。

主は問われる
「何を望むか」 「謙遜を」
「つぎに何を」 「親切を」
「さらに何を」 「無名を」
「よかろう」
「用が済めば すぐ忘れられる ぞうきん
台所のすみに小さくなり、むくいを知らず、
夜も昼もよろこんで仕える ぞうきんになりたい。」

謙遜さ、へりくだり、親切さ、従順な心がわたしたちの中に育つようにしたいものです。

ともに過ごす全学ゼミはそのための素晴らしい訓練と養成の場です。

自己顕示欲の強いわたしたちが、自己本位に行動するのではなく、どのようにしたら、ほかの人たちに喜んでもらえるように行動できるかを、他者に視点を置くことを通して体験してみる良い機会だと思います。今まで気づかなかったお友だちの素晴らしいところ、長所、見習いたいところなどをぜひ探してみてください。そしてそれを思いやりの心をもって、素直に、親切に真心を込めてその人に伝えてあげてください。わたしは自分のためだけに生きているのではなく、他者のため、共に生きる喜びを分かち合うために生きているのです。そのことを忘れないようにしましょう。

イエスさまは、わたしたち一人ひとりを愛し通され、生かしてくださるために、ご自分の命さえ惜しまず、十字架の上にその命を投げ出されました。イエスさまの死は、欠点だらけで救いようのないわたしたちを救うための尊い犠牲の死でした。その死によって神さまの本当の愛を知り、生きることができる者とされたのです。 (チャプレン大西 修)

こぼれ種から咲いたノースポール

宝塚歌劇団に「ブスの25箇条」(笑)というものがあるそうで、その中に
・自分が最も正しいと信じている
・いつも周囲が悪いと思っている
と記されています。
私も耳が痛い(@_@)
さて、皆さんは? 礼拝へのご参加、お待ちしています。

●説教のテーマ:「従順(へりくだり)」
●説教者:大西 修 チャプレン
●聖書箇所:フィリピの信徒への手紙2:3-8
2:3 何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、
2:4 めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。
2:5 互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。
2:6 キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、
2:7 かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、
2:8 へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。

●日時:4月18日(水) 14:50~ 対象:全学生・教職員
●礼拝形態:合同礼拝
●場所:体育館
★礼拝後に学外合同ゼミナールのガイダンスがあります。

○次回以降の予定
・4/25(水)通常礼拝(チャペル)14:50~ 説教:下原司祭(名古屋聖マタイ教会)
・5/2(水)合同礼拝(体育館)14:50~ 説教:大西チャプレン ★礼拝後にゴスペルワークショップ(講師:江崎理子さん)を開催します。

「見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び。」(詩編133:1)

新年度最初の大きな行事として、恒例の学外合同ゼミが4月19~20 日、西浦温泉にて開催されます。1、2年生が1泊2日を一緒に過ごし、寝食を共にし、楽しい交わりと語らいと学びの時を過ごせるのは、柳城短大だからこそできる素晴らしい恵みと喜びの機会です。「同じ釜のご飯を食べる」「裸の付き合いをする」といった言葉がありますが、このゼミはまさにそのことを実践する絶好の場です。

みんなが共に座るとは、顔と顔とをつき合わせ、目と目を見つめ合って、真剣に話し合い、ご飯やお菓子を食べたり、お茶やジュ―スを飲んだり、笑顔をもって、お互いの心を開放すること、開くことを意味しています。初めて出会う人、この1年間友人として関わってきた人、顔は知っていても話す機会のなかった人、様々な人たちとの出会いを通して、相手をもっと深く理解していく大切な2日間です。そのためには、まず私が勇気をもって、みんなの前で心を大きく開くことを心がけましょう。そのことによって相手もきっと心を開いてくれるでしょう。

この体験は、あなたがたのこれからの幼稚園、こども園、児童養護施設などでの実習の中で、保育者・介護者として、子どもたち、さらには先生や保護者の前に立つ時にも、きっと役立つ自己訓練になると思います。

そしてもう一つ大切なことは、あなたが出会う人との関わりの中で、その人の持っている良いところ、長所、素敵だなあと感じるところをできるだけたくさん探し出すことです。それをまねることです。わたしたちは相手の短所、良くないなあと思われるところを探すのが得意ですが、短所探しをやめて、長所を探し出すようにしましょう。そうすると、不思議なことに、いつの間にかあなたの心が優しくなり、美しくなっていきます。そしていつも笑顔になり、そのことによって相手の人からも笑顔が返ってきます。

「なんという恵み、なんという喜び」~振り返ったみたときに「本当に素晴らしい合同ゼミだったね」とみんなで分かち合うことができるような、そんな思い出に残る合同ゼミになることを願っています。(チャプレン 大西 修)

3年目に入ったペチュニア

「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」(ヨハネによる福音書13:34)

柳城の建学の精神は「愛によって互いに仕えなさい」ガラテヤの信徒への手紙5章13節)という聖パウロの言葉からとられています。皆さんはこれからも何回もこの聖句を聞くことでしょう。この聖句の背景には、今年度の年間聖句であるイエスさまが言われた「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」(ヨハネによる福音書13:34)があります。

これはイエスさまが十字架の死を目前にして、弟子たちに言われた遺言です。

キリスト教は愛の宗教であると言われます。それは、イエス・キリストが2000年前、この世のご生涯の中で、神の愛を目に見える形で、はっきりお示しになったからです。「わたしがあなたがたを愛したように」とは、「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(ヨハネ15:13)と言われたイエスさまが、そのお言葉どおりの生き方を十字架の上で実現されたことです。その生き方をしっかり見つめていく時、わたしたちが日々出会う人々に対して、どう関わっていけばよいかが見えてきます。

さて、皆さんの多くは入学式で初めての経験をされたことと思います。柳城では入学式、卒業式、創立記念日などの式典は、すべてキリスト教の礼拝の形が進められていきます。初めて歌う聖歌(賛美歌)、聖書のみ言葉を聞くこと、声を出して祈ることなど、とても珍しかったと思います。今日皆さんがいるチャペル(短大の付属礼拝堂)は名古屋聖マタイ教会の聖堂でもあり、神聖な祈りの場所ですから、礼拝の時は私語を慎み、心静かに、自らを省みる時としても過ごしましょう。

チャペルの正面には「十字架」が掲げられています。十字架はキリスト教のシンボルです。イエスさまがおかかりになった十字架を表しています。キリスト者は十字架を拝みません。十字架は神の愛を示すシンボルなのです。ですから、それを仰ぎ見ながら、神さまを愛する信仰を深めていくのです。

礼拝では「ろうそく」がともされます。ろうそくの火はこの世を照らす神の光と、「わたしは世の光である」と言われたイエスさまを黙想させるものです。

ところで、礼拝の中で皆が声を揃えて「アーメン」と唱えます。「アーメン」とは、ヘブライ語で「本当にそうです、そのとおりです、真実に」といった意味を持つ言葉です。

ですから、例えば「世界が平和になりますように」とか「〇〇さんの病気が早く治りますように」と祈った後、みんなで声を揃えて、はっきりと「アーメン」と唱えることは、思いと祈りを一つにすることなのです。「異議なし,賛成!そのとおりです」といった祈りの言葉ですから、ぜひ心を込めて唱えましょう。

「平和のあいさつ」が礼拝の中ほどで交わされます。神によって愛されているわたしたちが、お互いに愛し合っていくことを笑顔で握手することによって表現します。

礼拝についは、聖書、聖歌、主の祈り、そのほか大切な事柄がありますが、これから少しずつお話していきたいと思います。

新年度を迎えた今、新入生、在学生ともどもに希望をもって、イエスさまが示してくださった愛の実現(人を赦し、受け入れること)を目指して、豊かな学び舎での日々を送りましょう。(チャプレン主教大西 修)

校内に咲くハナニラ

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