【ヨハネによる福音書9章35~41節】
9:35 イエスは彼が外に追い出されたことをお聞きになった。そして彼に出会うと、「あなたは人の子を信じるか」と言われた。
9:36 彼は答えて言った。「主よ、その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが。」
9:37 イエスは言われた。「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ。」
9:38 彼が、「主よ、信じます」と言って、ひざまずくと
9:39 イエスは言われた。「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」
9:40 イエスと一緒に居合わせたファリサイ派の人々は、これらのことを聞いて、「我々も見えないということか」と言った。
9:41 イエスは言われた。「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る。」
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「議論が煮詰まる」という言葉を聴いたら、みなさんはどんな状況を思い浮かべますか。
文化庁によって行われている「国語に関する世論調査」では、40代を境目にして、まったく正反対の意味に理解しているという結果が出ています。
もともとは「議論が煮詰まる」は、「議論や意見が十分に出尽くして、もう結論が出る状態になること」を意味しているのですが、世論調査の結果に寄れば、みなさんは「議論が煮詰まる」を「議論が行き詰まってしまって、結論が出せない状態になること」と理解しているのでしょうね?
わたしたちは、育った環境や生まれる時代、生まれる地域によって、また属している集団によって様々な偏りを身につけながら、成長し生きています。所変われば品変わるというように、わたしたちの身につけている「常識」は、どこまでも相対的なものでしかありません。その相対的な偏りである、偏見を持って、わたしたちは人と出会うのです。偏見を持っていない人はいません。わたしたちは、物事を見るときに、自分の視点からしか物事を見ることが出来ません。
また、わたしたち人間は、間違いを犯す動物です。どんなに経験が豊富な人でも、どんなに頭が良く聡明な人であっても、どんなに配慮が出来る人であっても、間違えずに人生を送ることの出来る人などありません。わたしたちは、そもそも間違えながら、成長してゆくのです。さらに言えばどんな人にも欠けがあり、その短所がその人の味にもなり、その人を謙虚にもさせるのです。社会生活を送りながら、わたしたちは自分が「完璧な人間などではない」ことを思い知らされています。「自分は偏っていて、間違えることもある」という自覚を、わたしたちが頭のどこかに置いておくことが大切です。
ヨハネ福音書の9章は目が見えなかった盲人が見えるようになる出来事ですが、41節まである9章で、このいやしの出来事は12節でだけ記され、その他のほとんどがイエスさまとファリサイ派との問答です。今日の聖書は、見えなかった人が見えるようになる出来事から、わたしたち人間の思い違いに気づくように語りかけているのです。
盲人の目が開かれた日は安息日でした。律法を守らない人たちを攻撃するファリサイ派の人々は、働いてはならない安息日に盲人の目が開かれたことを問題にして「その人は、安息日を守らないから、神のもとから来た者ではない(9:16)」とイエスさまを非難しました。イエスさまが神から遣わされたとファイサイ派は信じられませんが、見えなかった人が見えるようになった事実を否定も出来ません。ファリサイ派に問いただされ、盲人であった人は、自分を見えるようにしてくれたイエスさまが「預言者(9:17)」だと信仰告白をするのですが、この告白が問題を引き起こします。
安息日に働いて、目を見えるようにしたイエスさまの罪を認めよと迫りますが、目の見えなかった人は「32生まれつき目が見えなかった者の目を開けた人がいるということなど、これまで一度も聞いたことがありません。33あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです。(9:32,33)」と応え、主張を曲げなかったため、ファリサイ派は目の見えなかった人を外に追い出したのです。
今日の福音書はその続きです。ファリサイ派の人々は、イエスさまの当時イスラエルの指導者だった人たちです。人々から尊敬されていましたが、同じ人間です。欠けているところや限界が当然あります。知らないこともあるのも当然です。にもかかわらず、認識できない、気づくことが出来ない事が山ほどあるにもかかわらず、「見える」と言い張っていることが、罪だと指摘されています。
ファリサイ派の人は自分を正しいとすることでそもそも間違っています。神さまの前でさえ自分が正しいと言い張っているのです(ルカ18:9-14)。ですが、このような思い違いは誰にでもあるのです。「自己中心」「自己絶対化」という思い違いです。自分を偉い人間だと思い違いしてしまうのです。このような神さまに代わって、人を審くという誘惑にわたしたちはいつもさらされています。みんなすくなからず思い違いをしていますが、地位や権威を持つと思い違いをし易くなると聖書は注意を促すのです。見えていなくても見えているふりをしたり、「正しいこと」を言っている人に自分の方が正しいと主張し、さらには力で押さえ込もうとするのです。
また反対に自分は「見えないと思い込む」ことも、わたしたちがする思い違いです。人と比較して、自分は出来ない、自分はダメであると卑下して、希望を失ってしまうのです。すべての人が貴い存在です、人と比較をする必要などそもそも無いのです。人と比較することからの解放が、目が見えていなかった盲人に起こった喜びの出来事だったのです。
どこかで人と自分を比較して、思い違いをしているわたしたちにイエスさまは生き方を変えるように語りかけてくださいます。「一億総評論家」の日本社会では、思い違いしている人が山ほどいます。実はわたしたち皆がそうなのです。自己絶対化という鎧をまとい、力、権力、暴言、暴力という剣をふるって、偉そうに振る舞うことです。そのようなわたしたちをイエスさまは、新しい生き方へと導いてくださるのです。
わたしの持っている力は、隣人に仕えるためのものです。「愛をもって仕えよ(ガラテヤ5:13)」というわたしたち柳城学院の建学の精神にも示されているとおりです。
キリスト教では、イエスさまを十字架に付けて殺したのは、わたしたちの思い違いだと受けとめるのです。それは「自己中心」の罪の重大さを教えるための十字架であり、同時にその罪を赦すための十字架だと信じているのです。自分が思い違いをしていると気づくことで、わたしたちはイエスさまの呼びかけに応えて、誰をも犠牲にしない生き方を歩み始めることが出来ます。
ですが、わたしたちはなかなか自分の思い違いには気がつけませんので、チヤホヤされたりすると自分は偉い人間だと思い違いをし、反対に誰からも認められないと虚勢を張って偉い人間を装ったり、自分を卑下したりするのです。イエスさまは、マタイ福音書にある山上の説教の中で「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか(7:3)」と語っておられるように、見えると思う人は見えておらず、見えないと思っている人が見えるようになるのです。
わたしたちは気づいていないのですが、思い込みの偏見に覆われていて、実は見えてなどいないのだということを、心にとめて、「愛をもって仕え」る歩みを始めて参りましょう。(チャプレン 後藤香織)