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入学式 2018

カテゴリー:入学式

2018年度入学式の模様をかいつまんでお届けします。
(式全体の流れは昨年度と同じですので、こちらをご覧ください。

●学長式辞

・ご入学おめでとうございます。

・幼児教育と保育への道に夢を抱く皆さんは、今、人生の節目に立っています。一人ひとりに命と個性が与えられている…、オンリーワンを目指して自分の人生を築いてください。

・今年は柳城学院が120周年を迎えまる年です。1898年、カナダの宣教師マーガレット・ヤングが保母養成所を開いた時の生徒数は一人。それが今では8,000名以上の卒業生が社会で活躍するまでに成長しています。建学の精神である「愛をもって仕えなさい」は保育者養成には実にふさわしいと言えます。

・本学の教員、勝間田先生の本(共著)『あそんでまなぶ わたしとせかい』が4月20日に発売になりますが、子どもは遊びの中で世界を認識していきます。ジェームズ・ヘックマンも乳幼児期の大切さを指摘しています。皆さんは、神から与えられたかけがえなのない命を育む仕事に就くわけです。

・2年間は短いです。集中力を高めてください。それが人間力、保育力、就職力につながります。苦しいこともあるでしょう。柳城は皆さん一人ひとりに与えられた場です。そこで一生懸命に咲いてください。そして愛をもって仕える人になってください。

・皆さんの夢の実現のため、教職員一同、応援をいたします。

●理事長祝辞

・ご入学おめでとうございます。柳城学院が今年120周年を迎える節目に入学された皆さんは、創設者のマーガレット・ヤング先生から受け継がれてきた歴史を担うことになります。

・入学の目的は資格を取るだけに終わるものではありません。本学院設立の目的には「キリスト教の理想に遵い国際平和と民主国家建設に貢献する幼稚園教諭、保育士、介護福祉士を養成する」と書かれているからです。創設者ヤング先生はカナダ聖公会の宣教師として来日されたのですが、本学は1970年頃まではそのカナダ聖公会からの支援を受けていました。私たちは、その恩返しの意味を含めて国際平和のために仕えたいと思います。

・建学の精神である「愛をもって互いに仕えよ」を身に付けるためにも、是非とも大学礼拝に参加してください。最初は意味が分からないかもしれませんが、そのうちに馴染んできて、覚えた聖書の言葉が何かの時に役立つことでしょう。静かな祈りが、困難を乗り越える力になります。

●前奏と司式者団入場

●聖書  ガラテヤの信徒への手紙 第5章1、13~14節

この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛(くびき)に二度とつながれてはなりません。兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。律法全体は、「隣人を自分のように愛しなさい」という一句によって全うされるからです。

●新入生認証(保育科、専攻科保育専攻、専攻科介護福祉専攻)

 

歓迎のことば/誓いのことば

 

●平和の挨拶

 

●祝祷

●校歌

●後奏と司式者団退場

貴重な2年間です。
短大にいる間でしか体験できないことを最優先にしながら、子ども達や要介護者さんらのために、高いものを求めて欲しいですね(^^♪

入試広報ブログでもご覧いただけます】


 

 

 

 

 

2018年度 年間標語:「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」(ヨハネによる福音書13章34節)

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柳城の建学の精神は「愛によって互いに仕えなさい」ガラテヤの信徒への手紙5章13節)という聖書のみ言葉にあります。皆さんは入学以来何回もこのみ言葉を聞いてきたことでしょう。このみ言葉の背景には、今年度の年間標語であるイエスさまが言われた「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」(ヨハネによる福音書13章34節)があります。

この言葉はイエスさまが十字架の死を目前にして、弟子たちに言われた遺言です。

キリスト教の教会では来週1週間(25日の日曜日から31日まで)を受難週と呼び、1年の中で最も厳粛で大切な日々を守ります。イエスさまがエルサレムの都に入られ、弟子たちと木曜日に最後の晩餐(夕食)をされ、その夜、ユダの裏切りによって捕らえられ、その翌日の金曜日には裁判で死刑の判決を受け、自分がはりつけになる十字架を背負って、ゴルゴダの丘へと歩まれました。そして午後3時頃、十字架の上で息を引き取られました。

けれども、父である神さまは3日目(日曜日)の朝早く、イエスさまを復活させられました。これが復活日(イースター)の出来事です。イエスさまの復活の出来事からキリスト教が生まれたのです。

キリスト教は愛の宗教であると言われます。それは、イエス・キリストが2000年前、この世のご生涯の中で、神の愛を目に見える形で、はっきりお示しになったからです。何の罪もないお方が罪ある人の身代わりになって、その罪を背負って死んでくださり、罪を滅ぼしてくださいました。これが十字架の出来事です。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(ヨハネ15:13)と言われたイエスさまは、そのお言葉どおりの生き方を十字架の上で実現されました。イエスさまの死は、罪を滅ぼす神さまの愛、罪ある人をお赦しになる神さまの愛そのものであり、イエスさまの復活(よみがえり)は神さまの愛の勝利であり、死が終わりではなく、希望をもって新しく生きる命の出発点となりました。

わたしたちはとてもイエスさまのようには生きられませんが、その生き方をしっかり見つめる時、わたしたちが日々出会う人々に対して、どのような関わり方をしていけばよいかがわかってきます。本当に愛していこうとすれば、そこには痛みや苦しみを伴う多くの赦しが必要となってきます。痛みや苦しみを伴う赦しを通して、愛することの本当の意味、素晴らしさがわかってきます。また愛されていることの中には、愛してくれる人の、目に見えない痛みや苦しみを伴った赦しがあることに気づかされます。

2年生の新学期を迎える今、同学年の友人たち、そしてまた入学してくる新入生とともに希望をもって、イエスさまが示してくださった愛の実現(人を赦し、受け入れること)を目指して、豊かな学び舎での日々を送ってください。(チャプレン主教大西 修)

卒業式 2017

カテゴリー:卒業式

3/17(土)に行なわれた卒業式についてお伝えします。
式の流れは昨年と同じなので、こちらをご覧ください。

今年の主な内容をかいつまんでご紹介します。

●式辞:名古屋柳城短期大学 学長 長縄 年延

 

 

 

 

 

 

・将棋棋士の藤井 聡太さんは個性を尊ぶ指導を受けて強くなったと聞きます。面白いことに集中することで、人は自信と学ぶ力を身につけます。神の愛を受けて産まれた子ども達がオンリーワンの個性を発揮できるように、皆さんは子どもの未来の実現に向けてのお手伝いをする責任が課せられるのです。

2年前の入学式の際、ノートルダム清心女子大学の元学長渡辺和子さんの著作『置かれた場所で咲きなさい』を紹介しました。どうか皆さんも、神によって与えられたそれぞれの場所で咲いてください。本学の建学の精神「愛をもって仕えなさい」は保育に携わる人にはピッタリの言葉です。柳城に学んだことを誇りに思って、子どもに慕われる人になってください。

・ホームカミングディなどの機会に、皆さんの元気な姿を見るのを楽しみにしています。

●祝辞:学校法人 柳城学院 理事長 主教 ペテロ 渋澤 一郎

 

 

 

 

 

 

・「霊の父はわたしたちの益となるように、御自分の神聖にあずからせる目的でわたしたちを鍛えられるのです。」(ヘブライ人への手紙 12:10)

社会に出ると自己決断が求められ責任も負うことになります。辛い経験もすることでしょう。でも、その時には柳城での経験を思い出してください。そして少々の挫折は気にしないことです。神様は皆さんの成長の糧となるよう鍛えてくださる方なのです。

・「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」(ヨハネによる福音書13:34)

聖書は愛について多く語っていますが、神やイエスがあなた達を愛してくださっていることを知ることが大切です。

・卒業しても、いつまでも柳城とつながっていてください。

●後援会会長挨拶 三宅 美穂子

 

 

 

 

 

 

・卒業の今日、皆さんの中には小学校からの夢がかなった人もいるでしょう。すばらしいことだと思います。社会に出ると嫌なこと苦しいこともありますが、夢を実現できた自分を信じて頑張ってください。

・学生時代に得た友人は貴重だと思います。私自身もそうでした。どうかいつまでも大切にしてください。

●同窓会監査役挨拶 加藤 久美子

 

 

 

 

 

 

・私は今、主任児童委員としてお母さん方と一緒に楽しい保育活動を進めていますが、柳城で学んだことが本当に役立っています。

・皆さんには4つのHを心がけて欲しいと思います。頭(Head)でよく考え、優しさと思いやりの心(Heart)で人に接し、健康(Health)に気を使い、そして幸せ(Happy)を感じて生きる。

・明けない夜はありません。頑張って、大きな人間に成ってください。

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●入場する司式者団

●卒業証書・修了証書・学位記 授与

●送辞

●答辞

●卒業パーティー

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ご卒業する皆さん全員が向上心を持って人生を歩まれるよう、神のお導きを心から祈願します。

「求めなさい。そうすれば、与えられる。
探しなさい。そうすれば、見つかる。
門をたたきなさい。
そうすれば、開かれる。」
(マタイによる福音書7:7) 

(加藤)

【入試広報課のブログもご覧ください】

 

 

 

 

 

今日はマルコ通読十回目が行われました。

今回心に響いた御言葉は・・・

弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、幽霊だと思い、大声で叫んだ。皆はイエスを見ておびえたのである。しかし、イエスはすぐ彼らと話し始めて、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われた。イエスが舟に乗り込まれると、風は静まり、弟子たちは心の中で非常に驚いた。パンの出来事を理解せず、心が鈍くなっていたからである。(マルコによる福音書6:49~52)

またしても弟子たちはイエスを恐れ、おののきます。

イエスにただひたすら救いを求め集まった、五千人もの民衆にお腹いっぱいのパンや、魚をお与えになられた奇跡を目の当たりにしたはずなのに…。

私はこの記事から、人とは自身の体験にそぐわないことを無意識に封じ込み、恐れるもの(=イエス・キリスト)から「逃れたい」という性質があるのだと思いました。

そして、弟子たちを通して人が見えない光を無意識に心から「信じきる」ことの難しさも痛感しました。

一方、私は今回伝えられた御言葉から「信じられる」存在に出会えたことの喜びも感じます。今の私にとって、言葉をどれだけ上手く操られても、行動を伴わない状況には心が動くことはありません。

イエスは私たちに「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」との御言葉とともに、その姿で私たちに生きる希望を与えてくださいます。

頼りない私であっても、イエスは常に私の前に光の道を連ねてくださる✨

「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」

信じることの喜びこそ、信仰の道。

今回の通読により、私はその思いを一段と重ねることになりました。
御言葉から学びつつ、信じるその道をひたすら歩んでいきます。

まっすぐに、前を見つめて…。
主に感謝。(Y)

 

東日本大震災復興支援として今も続けられているチーム・パティシエの活動に対して、日本聖公会東北教区の震災支援室から嬉しい便りが届きましたよ  )^o^(

お互いが励み励まされて…。

遠く離れていても、心はつながっていますね

(名古屋柳城短期大学 チーム・パティシエについてはこちら

「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む」
(ローマの信徒への手紙5:3~4)

皆さんご卒業おめでとうございます。今日は柳城生としての最後の大学礼拝になります。はなむけに上記の聖書のみ言葉を贈ります。

イエスさまを世界に宣べ伝えたパウロは、1世紀のローマの教会へ上記の言葉を送りました。苦難、忍耐、練達といった言葉は、何か無理をして頑張らなければならない、精神修行のような大変厳しい印象を与えます。あまり好きな言葉でないと感じる人もいるかもしれません。でも苦しみが最後には希望を生むのです。素晴らしいとは思いませんか。わたしたちは皆、神さまに愛されているので、苦しみを耐え忍ぶことができます。なぜなら、愛してくださる方のことを思うと、苦しみを積極的に受け入れることができるようになるからです。皆さんも愛する人のためなら、その人の喜ぶ顔を想像するだけで、きっと苦しいことも耐え忍ぶことができるようになると思います。

そして耐え忍ぶことを通して、人として熟練した域に達します。するとそこに希望が生まれてきます。自分の力で耐え忍び、練達の域に達するのではなく、わたしを愛してくださっている神さまの愛の力、支えによって希望が生まれるのです。

深い雪の下の地中で凍死しているようにみえるチューリップの球根は、雪解けとともに芽を出し、やがてきれいな花を咲かせます。冬の間、枯れたように見える固い桜のつぼみも、寒さを通して春を迎え、満開の花びらをつけます。同志社の創立者 新島襄は「真理は寒梅に似たり、あえて風雪を侵して開く」という詩を作りました。苦難、忍耐、練達は、約束されている希望、素晴らしい実りをもたらすための一里塚です。

皆さんは柳城での2年間の大学生活で、勉学、実習で苦しかったこと、人間関係、お友達との関係で忍耐したことも幾度かあったことでしょう。でもそのことが、今後のあなたがたの歩みの中で、きっと豊かに花開き、身を結ぶものになると信じます。

これからの歩みの中で心に留めておいてほしいことを書きます。

・他人と比較しないこと。あなたにはあなただけの良さがあることに気づくこと。
・目先のことに惑わされず、長い目で見ること、長期的な展望を持つこと。
・生活の質を大切にすること。量より質。大きいことは良いことかどうか?
・結果ではなくプロセスを大事にすること。「結果良ければすべて良し」の考えはダメ。
・どんな境遇にあっても、それを受け入れる心を持つこと。「幸いな時も、災いの時も、富かな時も、貧しい時も、健康な時も、病気の時も 」

皆さんのこれからの日々の上に、神様の豊かな見守りがありますように! 主の平和。(チャプレン主教大西修)

「受けるよりは与える方が幸いである。」(使徒言行録20:35)

イエス・キリストの言葉として、パウロがエフェソの教会を去る時、伝えた言葉です。イエスさまを模範とする生き方がこの言葉に示されています。

人が人として生きていく上で、受けること(もらうこと)と与えること(あげること)はだれもが体験するとても重要なことです。この体験なしには人は生きていけません。

イエスさまは与えることがどんなに人を生かし、人に喜びを与えるものであるかを、弟子たちと寝食を共にする中で、お教えになりました

しかし、正直なところ、わたしたちは「与えるより受ける方が幸いである」と思っています。だって、あげるよりも、もらう方が得だし、嬉しいし、いいに決まっているからです。それに反して、イエスさまは人が人として生きていく上で、受けるよりは与える方が、本来的な生き方であると言われ、ご自分の命を与えること(十字架におかかりになり死ぬこと)を通して、与えることがどのような意味を持つのかをお示しになりました。

イエスさまはわたしたちに想像できないほどの、大きく、広く、深い愛をお与えくださいました。それが十字架の上で愛する全人類のために死なれたことだったのです。

肉体的にも精神的にも未成熟な乳幼児の時、老齢期を迎え、気力や体力が衰え、援助が必要となる時、また肉体的、精神的なハンディキャップを負って生きる時、さらに経済的に苦しく困難な日々を過ごしている時などは、ある意味で受けることが多く、与えることが少ないと言えるでしょう。

乳幼児はお乳を飲ませてもらい、ご飯を食べさせてもらい、おむつを交換してもらい、お風呂に入れてもらい、抱っこしてもらい、遊んでもらい、寝かせてもらいます。母親、父親からあふれるばかりの愛を注がれて育った乳幼児は、受ける喜びを心身で体得します。

その受けた喜びは、与えることを喜びとする人に成長していく力となります。外見的には弱く、力なく、受けることが多いと思われている人々(乳幼児、お年寄り、ご病人、ハンディキャップを負っている人々など)から、実に多くの目に見えるもの、見えないものを受けていることを忘れてはなりません。

神さまは知らないうちに、どのような人にも与える力をお与えになっています。

4月には2年生へと進級するわたしたちです。喜んで与える人へと成長できるように祈り求めていきましょう。(チャプレン 主教 大西修)

 

本日は「マルコ通読」の九回目が行われました。

今回響いたイエスの御言葉は…
ところが、多くの人々は彼らが出かけて行くのを見て、それと気づき、すべての町からそこへ一斉に駆けつけ、彼らより先に着いた。 イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。そのうち、時もだいぶたったので、弟子たちがイエスのそばに来て言った。「ここは人里離れた所で、時間もだいぶたちました。人々を解散させてください。そうすれば、自分で周りの里や村へ、何か食べる物を買いに行くでしょう。」これに対してイエスは、「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」とお答えになった。(マルコ6:33~37)

イエスは「出かけて行って悔い改めさせるために宣教した(マルコ6:12)」使徒たちをやさしい眼差しでお迎えになられました。

「自分たちが行ったことや教えたことを残らず報告した」(マルコ 6:30)
その様子は、夕に親鳥のもとに帰り一日の報告をする小鳥たちのようです😊✨
私はそこに使徒たちの宣教において経験した達成感と「喜び!」を感じました。こうやってイエスの使徒たちは自立の一歩を踏み出したのです。

一方、民衆たちも、使徒たちと同様に熱い思いを持ってイエスのもとに駆けつけます。
「イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。」(マルコ6:34)

今回の記事ではイエスの有名な奇跡―五千人の給食―を知ることが出来ます。私は初めてこの奇跡に触れた中学生の時「イエスさまは何でも形にしてしまわれる、すごい方なのだなぁ」と思いました。

そして、現実としてイメージできなくても不思議に「信じられる」気持ちが沸いてきました。そして私のイエスへの親愛はここで既に生まれていたのだと今、嬉しく感じられます。

五つのパンと二匹の魚。
これらを象徴とする奇跡をどのように捉えるのかを、福音書は私たちに問いかけています。
それは「目で見えるものと、見えないもの双方を与えられた上で、信頼、真理の拠り所を自分自身で勝ち取れ!」と、私たちに突きつけているように感じます。

光輝くイエスは何度も問いかけます。
そして…、実生活に流され、移ろいやすい私たちの心を導いてくださいます。

「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」(マルコ6:37)
このイエスのお答えに励まされた私は、保育者としてどのように考え行動し生きていくのかをバイブルタイムを通して熱く学んでいくつもりです。

今、私自身が喜びに包まれ益々イエスを頼る「子羊」そして「小鳥」となっていることに…恵みを感じます。

主に感謝。

本日は「マルコ通読」の八回目が行われました。

今回響いたイエスの御言葉は…
イエスは、「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである」と言われた。そこでは、ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、そのほかは何も奇跡を行うことがおできにならなかった。そして、人々の不信仰に驚かれた。(マルコ6:4~6)

イエスは弟子たちを従えて故郷ナザレにお帰りなりました。
会堂でお話になられると、人々はその教えやお姿に大変驚き「この人は大工ではないか(マルコ6:3)」とイエスを訝(いぶか)りました。

そのような故郷の人々の様子を、マルコは「人々はイエスにつまずいた(マルコ6:3)」とあらわしています。

彼ら彼女らはイエスを昔馴染みの「俺たちの知っているイエス」と見てタカをくくったのですね。イエスはそんな人々の姿をご覧になり、彼らの信仰心の無さに驚かれ、奇跡をおこされることなく故郷を離れられました。

私はこの記事より、心から純粋にイエスを欲し慕う信仰心こそがその人を救うのだ…、そんな思いを持ちました。

そしてイエスを信じる信じないの差はどこから来るのだろう。そんな問いかけを与えられたと感じています。

私たち人間では計り知れない愛と力をお持ちになられるイエス…。

そのようなイエスの御業を私はこれからも福音書から学び続けます。

それは真理につながる光、深い生き方への道しるべだと信じて😊✨

主に感謝。

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