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本日は「マルコ通読」の八回目が行われました。

今回響いたイエスの御言葉は…
イエスは、「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである」と言われた。そこでは、ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、そのほかは何も奇跡を行うことがおできにならなかった。そして、人々の不信仰に驚かれた。(マルコ6:4~6)

イエスは弟子たちを従えて故郷ナザレにお帰りなりました。
会堂でお話になられると、人々はその教えやお姿に大変驚き「この人は大工ではないか(マルコ6:3)」とイエスを訝(いぶか)りました。

そのような故郷の人々の様子を、マルコは「人々はイエスにつまずいた(マルコ6:3)」とあらわしています。

彼ら彼女らはイエスを昔馴染みの「俺たちの知っているイエス」と見てタカをくくったのですね。イエスはそんな人々の姿をご覧になり、彼らの信仰心の無さに驚かれ、奇跡をおこされることなく故郷を離れられました。

私はこの記事より、心から純粋にイエスを欲し慕う信仰心こそがその人を救うのだ…、そんな思いを持ちました。

そしてイエスを信じる信じないの差はどこから来るのだろう。そんな問いかけを与えられたと感じています。

私たち人間では計り知れない愛と力をお持ちになられるイエス…。

そのようなイエスの御業を私はこれからも福音書から学び続けます。

それは真理につながる光、深い生き方への道しるべだと信じて😊✨

主に感謝。

本日は「マルコ通読」の七回目が行われました。

今回響いたイエスの御言葉は…
女は自分の身に起こったことを知って恐ろしくなり、震えながら進み出てひれ伏し、すべてをありのまま話した。イエスは言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」(マルコ 5:33~34)

この長血の女は社会より拒絶され孤独に苛まれていました。宗教指導者らから「汚れた者」として扱われていたからです。

そんな彼女がイエスの存在を知ったとき、どれほど純粋に畏敬の念を持ったのか…。私は、その思いをじっくり体感することに集中しました。

「この方の服にでも触れればいやしていただける。」(マルコ5:28)
彼女は押し迫る群衆を横目に、言葉を発することなく、彼にただすがりました。

イエスは言われた。
「娘よ。あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」(マルコ5:34)

そんな彼女の思いに応え、イエスは彼女の願いを体で感じて、すぐさま癒しを与えられました。人に近づくことも家族と交わることも絶たれていた彼女にとって、唯一の「希望」が信仰であったことを、イエスは一瞬にしてお気づきになられたのです。

「真剣な祈りから発せられる願いは、まさに信仰の証」
私はイエスの御言葉を真理だと確信して喜びを感じています。

さて✨バイブルタイムではその時代の地図を手もとに、イエスの軌跡を辿っています。また難解な言語である古代ギリシャ語に触れるチャンスもいただいています。

好奇心と真実に満ちた学び。
次回も真摯に理解できる私でありますように…✨

主に感謝。

本日は「マルコ通読」の六回目が行われました。

今回響いたイエスの御言葉は…
また、イエスは言われた。「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。 」(マルコ 4:26~29)

イエスは引き続きたとえを用いて民衆に話されますが、今回は「信じること」の大切さを噛み締めながら読み進めました。それは前回の学びから「神の国の秘密は素直に信じることで知ることができる」と感じたからです。

ブログを投稿するにあたり御言葉を何度も何度も繰り返し読んでいた私は、ハッとしました。

「御言葉の深さを読みきれない、このような今の私であっても。ひたすら真理を知りたいと願い、神さまを信じ、全てをおまかせしても良いのだ…。神さまはそんな幼い私の育ちをも、いつも見守ってくださるのだ」と。

私は小さい種…ひとりでに実を結ばせる…。
そんな私は「どうしてそうなるのか知らない種」なのです。

つまり、全てをおまかせし生きるのみです!

今喜びと共に一日一日が安心に包まれています。そしてバイブルタイムを重ねるごとに「師」としてのイエスへの憧れが増していきます。

また、今回は頭が爆発しそうな程、難しい宿題をいただきました😊✨

イエスさまの道をたどる旅は続きます…✨

主に感謝。

朝の祈り」タイム同様、「お昼の賛美歌タイム」もしぶとく続いています。

たった15分の賛美ですが、いつも来てくれる学生さんは「これがないと気持ちが悪い(笑)」と言ってくれています。伴奏担当の私もその気持ちが分かる気がします。

主を賛美できるだけでなく、午前中のハードワーク(笑)で疲れた頭をリフレッシュできますからねえ。

清い時間が与えられて、本当に主に感謝です。(加藤)

他方、祭司長たちや、律法学者たちは、イエスがなさった不思議な業を見、境内で子供たちまで叫んで、「ダビデの子にホサナ」と言うのを聞いて腹を立て、
イエスに言った。「子供たちが何と言っているか、聞こえるか。」イエスは言われた。「聞こえる。あなたたちこそ、『幼子や乳飲み子の口に、あなたは賛美を歌わせた』という言葉をまだ読んだことがないのか。」(マタイ21:15-16)

「マルコ通読」の五回目が行われました。

今回響いたイエスの御言葉は…

「種を蒔く人は、神の言葉を蒔くのである。」(マルコ 4:14)

イエスはどんな時も民衆の日常生活を題材にしたたとえを用いて話されました。まるで子どもたちに説いて聞かせるような柔らかいイメージです。

一方、弟子たちにたとえについて尋ねられた時のイエスの空気は全く異なっています。それは神の国の秘密を伝える唯一の指導者としての厳しい姿でした。

私はその姿に、「神の国の秘密は素直に信じることで知ることができるのだ」と伝えられているように感じました。

主の御言葉が自分の血となり肉となるためには信念を持って聞くことが重要ではないかと私は思いました。

また御言葉を知った後も繰り返し味わうことが必要なことも教えられました。

種を蒔く…

マルコ通読では毎回のように蒔かれる主の御言葉が、これからも楽しみです。

主に感謝。

本日は「マルコ通読」の四回目が行われました。

今回響いたイエスの御言葉は…

「また、まず強い人を縛り上げなければ、だれも、その人の家に押し入って、家財道具を奪い取ることはできない。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。」(マルコ3:27~29)

律法学者たちはイエスの存在に恐れを抱き右往左往して邪悪な考えを持ちます。でも、そんなことには無頓着なイエスは、稲妻のような光で世を照らし続けるのです。まさに光と闇。私はここに、イエスの深い霊性を感じました。

「あの男は気が変になっている」(マルコ3:21)

当時の風習や律法に縛られて頭でっかちになっていた人々はイエスの言動は理解できません。でもイエスに心を開放された人々は深いイエスの霊性を信じて癒されていったのです。

私は今回もイエスから大きな恵みをいただきました。それは明確なゴールを掲げ、霊的に進み続けることの強さと、その喜びです。

進化を待ち望み、常に前向きに。

これからもバイブルタイムではイエスの御言葉に学び、生きる喜びをいただいていきます。

心にも滋養を😊✨。

主に感謝。

お昼の賛美歌タイムでは、これまで子ども賛美歌を中心に歌いこんできましたが、最近は日本聖公会の聖歌集にも目を向けるようになっています。

「いい歌がたくさんあるね★彡
毎日のように参加してくれる学生さんがふと語ってくれました。ギターコードを苦労して付けて伴奏する私には、たいへん嬉しい反応でした。

手軽に賛美するにはギター伴奏は必須ですね。できれば全ての曲にコードがついて欲しいです。そうすれば主への賛美がもっと広がるでしょう。(加藤)

 

本日は「マルコ通読」の三回目が行われました。

今回、私はファリサイ派の律法学者の含みある問いかけに主がお答えになられた「新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。」(マルコ2:22)
が印象に残りました

記事を深めると、その場には徴税人をはじめ「罪人」と呼ばれる人々やヨハネの弟子たちもおり、なりゆきを見守っていた様子がうかがえます。

私はこのお言葉から「人はいつでも悔い改め、赦され、そして生き直すことができるのだ」と感じるとともに、私自身の洗礼によって得られた喜びを重ねました。

新しいぶどう酒とはイエス・キリストの福音であり、また新しい革袋とは古い体制から解放され新しく生きていく人たちをあらわしていると思います。

主は、私たちに常に呼びかけられておられると私はこの回でも感じました。
「真の福音は新しい意識のもとでこそ得られる。素直な心でその意識を呼びおこせ…と。

次回もさらなる学びが続きます。

主にお赦しをいただいた喜びを常に忘れることなく、これからも学んでいきます。

主に感謝

今の時期、保育科1年生が2週間の実習に入り、他の学生さんは授業がありません。

ということで、柳城短大はひっそりとしています。

そんな中でも、朝の祈りは毎日続けられています。

参加者は多い時でも5人程度ですが、満ち足りた10分間が私たちの魂を毎朝目覚めさせてくれています。

マザー・テレサは語っています。
「すべては祈りから始まります。祈ることを愛しましょう。日中、しばしば祈る必要を感じ、祈るため労を惜しまないようにしましょう。」

今朝も、毎日参加してくれている学生さんが「学校に来ない学生の皆さんがつながっていますように」と祈っていました。

名古屋柳城短期大学が祈りによって益々元気になっていくことを願ってやみません。(加藤)

それから、イエスは神殿の境内に入り、そこで商売をしていた人々を追い出し始めて、
彼らに言われた。「こう書いてある。『わたしの家は、祈りの家でなければならない。』/ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にした。」【ルカ19:45-46】

by:a4gpa

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