*
ブログページ

本日は「マルコ通読」の二回目が行われました。

あっという間に時間が過ぎてしまった前回の私自身の反省をふまえ、質問や自分が感じたことは通読後にお伝えすることになりました(汗)

すると、歩みを緩めることなく行動し続ける師としてのイエスのお姿が、はっきりと感じられました。

今回私は

イエスは言われた。「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである。」 (マルコ1:38)

この節が印象に残りました

ガリラヤでたくさんの人が押し寄せる中、イエスは民の「信仰」のみを見ながら、癒しをあたたかくお与えになられる。

それは、人の頭の中で考え出された想像や論理をはるかに越えた慈しみの愛の表現。

私にはそのお姿が嬉しく、胸に迫ります。

また「マルコによる福音書」は記事の展開が早く、イエスの道すじを通読初心者がたどるには最も理解しやすい福音書であるなぁと感じました。

今回は難しい…「宿題」をいただきました😊✨

そのお導きに次回がよりいっそう楽しみです。

主に感謝。

バイブルタイムでは福音書を順に読み進める☆春休み特別企画「マルコ通読」☆が始まりました。

毎回、参加者同士が、印象に残った箇所とか感じたことなどを分かち合います。また分からないことは自由に質問できます😊✨

私は今回、「人々はその教えに非常に驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。(マルコ1:22)」が一番印象に残りました。

知識のみではなく人の真理を語るイエスの姿は、律法学者たちとは全く違っていた…。

人々がそのように肌で感じた驚き、そしてイエスの究極さに私は出会いの喜びを感じます。

活発な分かち合いに、1時間があっという間に過ぎてしまいました😊✨

次回も聖書を何度も読んでから参加したいと思います。

主に感謝

【コリントの信徒への手紙一  6:19 】
知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。

「キリスト教の信仰を持つ人には聖霊が宿るのだから、自分の体を神殿だと思って大切にしなさい」と本日の聖書は語っています。今日は、聖霊が宿るその心についてお話をします。

この1年間の学びをまとめる時期に入っていますね。高校までは、どちらかというと進学のための勉強でしたが、柳城では、現場で発揮できる実践的な学びが中心です。授業、実習、礼拝などを通して心が広がったかどうかを今日は考えて欲しいと思います。

心が広いとは、たとえば、色々なタイプの子どもに向かって臨機応変に対応できるか、ということです。心に余裕があると言ってもいいでしょう。全員の子どもに対して一律に教え込もうとしても無理ですよね。でも、心が広いと一人ひとりの状況に対応できるようになります。

自分の心がどうなっているかを客観的に検証する機会はそんなにはないですが、広い心を持つことが皆さんの将来には一番必要ではないでしょうか。

本学の建学の精神である「愛をもって仕えなさい」という心の在り様は、身に付けることがさらに難しいです。でも、その時々のチャレンジが皆さんの成長につながります。どうか励んでみてください。

以上で、私から皆さんへの最後の言葉とします。(名古屋聖マタイ教会 司祭 田中 誠)

プリムラ

12月20日(水)に行なわれた礼拝の模様をお届けします。

●前奏
「牧人ひつじを」…扶瀬ゼミ学生によるハンドベル演奏

 

 

 

 

 

点火の祈り
「大いなる光を造られた主が、豊かな憐れみによってわたしたちの心の闇を照らし、喜びに目覚めさせてくださいますように。光の源である主の輝きによって、救いの光が世の隅々にまでゆきわたりますように。義の太陽であるキリストが皆さんを照らし、行く道の闇を取り除いてくださいますように。」

 

 

 

 

 

 

●聖歌…第69番「もろびとこぞりて」
→司式者団が入場し、中央通路のロウソクが点火されます。

 

 

 

 

 

 

●ページェント…「キリスト教保育」受講生、有志学生
1 受胎告知
2 ベツレヘムへの旅
3 野の羊飼いと天使
4 み子の誕生と羊飼いの礼拝
5 占星術の博士たちの礼拝

→恒例のイエス・キリスト降誕劇。本日の礼拝の意味が伝えられる大切な時間です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

福音書…ヨハネによる福音書 1:1-5、14
●クリスマスメッセージ…チャプレン 主教 大西 修 →こちらでご覧ください。

●手話コーラス…介護福祉専攻学生、有志学生
「YUME 日和」「Smile」

 

 

 

 

 

 

●ハンドベル演奏…扶瀬ゼミ学生によるハンドベル演奏
「いのちの奇跡」 編曲:扶瀬 絵梨奈

 

 

 

 

 

●演奏…保育専攻学生  伴奏: 内山 尚美
「Ave Verum Corpus」 (W.A. モーツァルト)
「Hail Holy Queen 」映画「天使にラブ・ソングを」から(Traditional)

 

 

 

 

 

聖歌…第76番「かいばおけの干し草に」
●奉献の祈り
●聖歌…第91番「荒野のはてに」
●聖歌…「おほしがひかる」
→聖歌の間にロウソクの火がすべて灯されます。

 

 

 

 

 

主の祈り(主イエス・キリストが教えてくださった祈り)

天におられるわたしたちの父よ、
み名が聖とされますように。
み国が来ますように。
みこころが天に行われるとおり地にも行われますように。
わたしたちの日ごとの糧(かて)を今日もお与えください。
わたしたちの罪をおゆるしください。
わたしたちも人をゆるします。
わたしたちを誘惑におちいらせず、
悪からお救いください。
国と力と栄光は、永遠にあなたのものです。アーメン

 

 

 

 

 

●諸祈祷
・名古屋柳城短期大学のための祈り
・東日本大震災と熊本地震を受けて―祈りをともに
・アッシジの聖フランシスの祈り

主よ、
あなたの平和を人々にもたらす道具として、
わたしをお使いください。
憎しみのあるところに愛を、
不当な扱いのあるところにはゆるしを、
分裂のあるところには一致を、
疑惑のあるところには信仰を、
誤っているところには真理を、
絶望のあるところには希望を、
暗闇には光を、
悲しみのあるところには喜びを、
もっていくことができますように。
慰められることを求めるよりは慰めることを、
理解されることよりは理解することを、
愛されることよりは愛することを、
求める心をお与えください。
私たちは自分に死ぬことによって自分を見いだし、
自分自身に死ぬことによって
永遠のいのちをいただくのですから。

 

 

 

 

 

 

祝祷
●聖歌…第81番「神には栄え」
→聖歌の間に司式者団が退場します。

 

 

 

 

 

後奏

この後、今年のクリスマスプレゼントが紹介されて、礼拝は無事終了となります。

 

 

 

 

 

 

いくつかの出し物に彩られた、すてきなクリスマス礼拝だったと思います。イエス・キリストご誕生の意味がすべての参加者の心に届く、そんな礼拝を求めて、柳城短大のチャレンジはこれからも続くことでしょう。(加藤)

「このようにあなたたちも、外側は人に正しいように見えながら、内側は偽善と不法で満ちている。」(マタイによる福音書23:28)

【入試広報課ブログもご覧ください】

【ヨハネによる福音書 1:1-5、14】

初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。

 

 

 

 

 

 

クリスマス~受けた愛に答える時

「神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3:16)

今年もクリスマスを迎えようとしています。柳城では早目の今日、お祝いしていますですが。

わたしの記憶に残っているだけでも、これまで60回を越えるクリスマスを経験してきました。それら一つ一つを思い出すことはできませんが、同じクリスマスは一度もなかったことだけは確かです。毎年毎年、違う思いをもってこの日を迎えてきました。

ことのほか、この日が待ち遠しくて、楽しくて、嬉しくて仕方がなかったのは小学生の時までだったでしょうか。サンタクロースからのプレゼントを、宝物のように大切にして過ごした日々がそれでした。

中学、高校時代は教会で日曜学校(教会学校)のお手伝いをしたり、新米の教師をしたりする中で、自分よりも小さな子たちにいっぱい楽しんでもらいたいという熱い思いに満たされ、クリスマスの喜びを共に分かち合うことの素晴らしさを学びました。

大学時代には教会から外に出て、現実の世界に目を向け、歳末の町でキャロルを歌い、クリスマスの案内を道行く人々に手渡したり、救世軍の慈善鍋に倣って募金活動をしたりしました。また、少年刑務所に行って、入所している人たちと一緒にクリスマスソングを歌うひと時を送ったこともありました。

神学校に学び、卒業後は教会の牧師として、また時には教会付属の幼稚園・保育園の園長として各地で迎えたクリスマスは、都市化し、世俗化し、人間関係が希薄化する中で、教会と関わりのある諸施設、学校、幼稚園、保育園でクリスマスをお祝いする意味、意義はどこにあるのだろうかと絶えず自問しつつ過ごす時でもありました。

よくクリスマスを「苦しみます」と言ったりしますが、自分でそのことを体験することも多くありました。満面の笑みを浮かべて登園して来る園児たちの姿を思い浮かべながら、園児たちにどんな喜びがあげられるだろうか?と思案しながら、夜遅くまで一人一人のプレゼントに名前とメッセージを書いて、包装したこと、夜明け前の園庭に出て、1m以上降り積もった雪かきをし、汗びっしょりになって通園路の確保に腐心したこと、野宿を余儀なくされている人々の越冬炊き出しのお手伝いや、夜回りに行ったこと、洪水、地震による多くの被災者の支援活動を進めていくため、オープンスペースを教会や保育園に開設したことなど、考えてみればこのような「苦しみます」と思える事柄と、クリスマスの出来事・主イエスの御降誕の情景が重なり合うとき、不思議に「苦しみます」と思える事柄がいつの間にか喜びへと変えられていく経験を何度もしました。神様はいついかなる時にも、どこにおいても一緒にいてくだり、見守り、支えてくださるお方です。

主イエスの御降誕は飼い葉桶の中に眠る幼子が、厳しい貧困の現実の只中で、ひたむきに生きる羊飼いたちに生きる喜びを与えました。この世界から全く孤立し、顧みられなかったような羊飼いたちが、天使の呼び掛ける歌声に答えることを通して生きる意味を見出したのです。

神によってこの世に遣わされた幼子は、貧しく、小さく、か弱い姿で、わたしたちに呼びかけてこられます。「あなたは愛されている。神から、そしてわたしから。あなたは与えられた大切な命を惜しみなく用いなさい。あなたの命はかけがえのない命、何ものにも代えがたい命なのだから」と。その声に耳を傾け、その声を聴き取り、それに答える人に、クリスマスの喜び、救い主キリストの到来の喜びが現実のものになるのです。

皆さん、クリスマスおめでとうございます。(チャプレン 大西 修 主教)

シェア17
生きるための視点②
【マルコ8:34】「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」

シェア17ではイエスの強いメッセージを受け取ることになりました。

権力に関心はないイエス。しかし貪欲なまでの愛の究極の形を求め続けるその姿に、私は心をうたれます。

「犠牲的な愛をいとうな」
イエスはそう話し、いつも私たちに投げかけ、見つめ、微笑んでいます✨

イエス・キリストならどうするだろうか?

その問いかけに対し、いつでも生まれなおし、いつでも始められる喜びと。
自ら選択することを、いつも心にとどめ過ごしていきたいと思います。

【マタイによる福音書2:13-16】
2:13 占星術の学者たちが帰って行くと、主の天使が夢でヨセフに現れて言った。「起きて、子供とその母親を連れて、エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデが、この子を探し出して殺そうとしている。」
2:14 ヨセフは起きて、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトへ去り、
2:15 ヘロデが死ぬまでそこにいた。それは、「わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した」と、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。
2:16 さて、ヘロデは占星術の学者たちにだまされたと知って、大いに怒った。そして、人を送り、学者たちに確かめておいた時期に基づいて、ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させた。

クリスマスをお祝いしたわたしたちの思いは、もう年末年始へと向かっていますが、

教会ではクリスマスの期間を12月25日から1月6日(東方の占星術の学者がやってきたことを覚える日。顕現[公現]日~エピファニーデイと言います)まで守ります。ですから,

クリスマス・ツリーなどの飾りなどもその期間飾っておいておかしくありません。日本人にはピンとこないかもしれませんが、キリスト教を背景にする国ではメリー・クリスマスとハッピー・ニューイヤーが重なっています。

さて、わたしたちはイエス様のお誕生の出来事についてはよく知っていますが、その直後のことについてはあまり聞く機会がないので知らない人もいるかと思います。今読んでいただいたところから続けて先を読んでみますと、イエス様は両親であるヨセフとマリアに守られてエジプトへと逃避行されます。それは、ヘロデが自分の王位を守り続けるため、その地位を危うくする、次の王になる可能性のある幼子の虐殺断行を逃れるためでした。

現在でも国境を越え、海を渡り、他国へ逃れる世界各地の多くの避難民の現実の姿には本当に心が痛みます。生まれて間もないイエス様もそのような避難民として、エジプトへ逃れ、そこで幼少期を過ごされたのです。誰もが想像もしなかった劣悪な環境の家畜小屋でお生まれになり、さらに生まれたばかりの幼子としてエジプトでの避難民生活をされたことは、世界の底辺で生きる人々のつらい思いと苦しい体験を共有される方として、幼子の時からイエス様が神の子として人々と共に歩まれたことを物語っています。

皆さんが4月からこの12月までの9か月の日々を振り返ってみる時、楽しく有意義な時も多かったことでしょう。でも一方では、自分の予想以上に大変で、しんどくて、落ち込んでしまう、そんなはずではなかったという経験をしたかもしれません。一見、マイナスと思われるそのような出来事を体験することを通して、わたしたちは一回り大きな人間へと成長させてもらえます。わたしの大変で、しんどくて、落ち込むような経験は、そのような思いを持っている人に対して、深い同情と共感を寄せることができる暖かな優しい人格を築き上げていくことと思います。

わたしはつらく、苦しく、しんどい思いをしたとき、いつもイエス様のことを思い浮かべます。そうするとイエス様は「大丈夫だよ。わたしが一緒にあなたのつらく、苦しく、しんどい思いを担ってあげますから。」と語りかけ励ましてくださることを信じています。

今日12月27日は福音記者使徒聖ヨハネ日という教会の祝日です。ヨハネはイエス様の弟子であり、「愛の使徒」と呼ばれ、ヨハネによる福音書を書いた人です。彼は「愛」についてたくさんのことを教え、書き記しています。「神は愛である」ことも教えています。その愛はイエス様の生き方、教えに示されています。

今年もあと4日、新しい年を、柳城が拠って立つみ言葉「愛をもって仕えなさい」の具体的実践の年として迎えたいと思います。(チャプレン大西 修 主教)

寒さに耐えるペチュニア

シェア16
生きるための視点①
(マルコ8:33)
「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」

【マルコによる福音書8:31-33】
8:31 それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。
8:32 しかも、そのことをはっきりとお話しになった。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。
8:33 イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」

シェア16では真理の光とは師イエスの御言葉であり、いつも私たちに進化の道すじを与えていることが分かりました。

イエスは弟子たちに公然と神のご計画のもと十字架に向かわれること、またその後の復活について話されました。

「人びとがこれをどのように思うか」ではなく「神がこれをどう思われるのか」

そうシェアで語られたこの言葉を噛みしめています。

イエスはいつも「光」を指し示しています。シェア16ではその光をまざまざと見ることができました。

「その1」の続き

【有志学生さんの感想】

ピアノを人前で弾くことはあまりないから緊張しましたが、今回はこのような企画に参加できてとてもいい体験ができました。中高生のときとはまた違い、より静かな空間の中でお祈りができてよかったです。普段礼拝に来ない人も多いし、この日も学生が少なかったのはとても残念だけれど、久しぶりにシスターにもお会いできたし嬉しかったです。(N)

私は朗読係を担当しました。緊張しましたが、来てくださった皆さんと同じ時を過ごせて嬉しかったです。お越しくださった皆様、開催に協力いただいた学校やマタイ教会の皆様、この集いに一緒に取り組んだ皆様、本当に有難うございました。(H)

祈りの集いに御誘い頂けたこと感謝します😌 誘われなければ出会わなかった方達もいます。私の歌声を評価してくださり、ありがとうございました。とても嬉しかったです。そして楽しかったです! この集いで感じたこと、みんなと過ごしたことを忘れません😂(T)

みなさんとともに祈りの思いを分かち合うができました。上から見たキャンドルの美しさと清らかな空気を忘れることはないでしょう。賛美する喜びを知った日となりました。ありがとうございました。(Y)

クリスマスツリー点灯式の記念企画を2年前から行ってきましたが、今年はテゼの楽曲を用いた「黙想と祈りの集い  ~テゼの歌とともに」にチャレンジしました。保育科2年の学生さん4名による有志企画です。

きっかけは八事聖霊修道院の「賛美の集い」にセンタースタッフ1人が2年程前からプライベートで参加していたことでした。この清くて静寂な集いを柳城でも実現させたいという気持ちが高ぶり、ずっとアイディアを温めてきたのです。それで、今年のXmasミニコンサートが残念にも開催不可能になったことが逆にチャンスとなり、本企画を実現させようとの動きに繋がったというわけです。

幸いにも本学で洗礼/堅信の恵みに預かった学生さんの協力が得られ、話が一気に現実味を帯びてきました。これが今年の7月頃のことです。この学生さんにとっては洗礼を受けたことへの証にもなるということで、彼女は積極的に仲間を募ってくれました。そして10/3に4名からなる準備チームが結成され、特設LINEも立ち上がったのでした。

有志4名は総指揮&BGM、独唱、伴奏、朗読の4パートに分かれ、個人がそれぞれの練習に入りました。なお、シナリオはセンタースタッフが担当しました。全体リハーサルを4回行い12/7の本番に備えました。その間、キャンドル作りやBGMの選曲、チャペルの雰囲気作りなど細々とした作業も続きましたが、伴奏楽器の選択に一番苦労しました。チャペルのオルガンでは音が大き過ぎたからです。結局、キーボードに頼ることにしました。テゼの集いでは、ギターを使うのが一般的ですが、今回は聖霊修道院に準じました。まあ、人間の声がメインですので、伴奏は手軽な方が企画としては長続きしそうですね。

今回は日本聖公会中部教区の名古屋聖マタイ教会と教区センターのご協力も得られました。特に教区センターのスタッフの方には集いのお手伝いと宣伝をしていただきました。感謝です。

なお、開催当日、八事聖霊修道院から8名のシスターさんにご出席いただいたおかげで、集いが一層清らかなものになりました。終了後に設けたティーパーティーにも参加していただき、準備チームリーダーの手作りアップルパイも飛び出して、何だかすべてが満たされた感じがしました。

さて、今回の集いのテーマは「イエス・キリスト降誕の意味」です。キーワードは「わたしの息子なら敬ってくれるだろう(マルコ12:6)」。「ぶどう園と農夫のたとえ」(マルコによる福音書12:1-9)を用いて、神が私たちの成長に期待をかけてくださっていることが強調されました。信徒/未信徒の区別なく、イエス・キリストを人として見つめ、その教えのヒューマニズム的要素を学ぶことがどれほど重要か。有志学生メンバーは全員、主から与えられた力を十二分に発揮して、このメッセージを見事に参加者へ届けてくれました。

闇の中に美しく輝くキャンドルと清らかに響くテゼの歌。この雰囲気の中で流れる黙想と祈りの時間は、それを繰り返すことで人を人格的に整えてくれるはずです。柳城短大の重要イベントに成長するよう願ってやみません。主に栄光 (加藤)

★「その2 スタッフさんの感想」はこちら

「ぶどう園と農夫」のたとえ(マルコによる福音書12:1-9)

12:1 イエスは、たとえで彼らに話し始められた。「ある人がぶどう園を作り、垣を巡らし、搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て、これを農夫たちに貸して旅に出た。
12:2 収穫の時になったので、ぶどう園の収穫を受け取るために、僕を農夫たちのところへ送った。
12:3 だが、農夫たちは、この僕を捕まえて袋だたきにし、何も持たせないで帰した。
12:4 そこでまた、他の僕を送ったが、農夫たちはその頭を殴り、侮辱した。
12:5 更に、もう一人を送ったが、今度は殺した。そのほかに多くの僕を送ったが、ある者は殴られ、ある者は殺された。
12:6 まだ一人、愛する息子がいた。『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』と言って、最後に息子を送った。
12:7 農夫たちは話し合った。『これは跡取りだ。さあ、殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる。』
12:8 そして、息子を捕まえて殺し、ぶどう園の外にほうり出してしまった。
12:9 さて、このぶどう園の主人は、どうするだろうか。戻って来て農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるにちがいない。

このページの先頭へ