【ヨハネによる福音書3:1-6】
3:1 さて、ファリサイ派に属する、ニコデモという人がいた。ユダヤ人たちの議員であった。
3:2 ある夜、イエスのもとに来て言った。「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。」
3:3 イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」
3:4 ニコデモは言った。「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」
3:5 イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。
3:6 肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。
本日の礼拝の中で、一人の姉妹の洗礼堅信式が行われます。この式が柳城の礼拝の中で行われることは多分初めてのことと思います。これはとても素晴らしい出来事です。
ほとんどの皆さんは洗礼堅信式という言葉を初めて聞くし、勿論見たこともないでしょう。
ですから今日はしっかり見て、なるほどこういうことなのかという体験をしてください。
「洗礼」とは神様の子どもとして新しく生まれるために行われるキリスト教の一番大切な式です。今までの自分本位な古い生き方に死んで、わたしは神様に生かされているのだという自覚のもとに、新しく生まれ変わらせていただくため、イエス様がお残してくださったものが洗礼です。洗礼には目に見える外のしるしとして「水」を使います。
「水」はものを洗い流します。汚れを落としてきれいにします。洗礼で頭から水を注がれることが、見えない心の中の醜いものを洗い流していただく神様の恵みのしるしとなります。そこに神様の見えない力(聖霊)が働き、罪が洗い清められ、古い自分は死に、新たに生まれ変わるのです。洗礼をバプテスマと言いますが、バプテスマとは水の中に浸して一度死ぬことを意味しています。ですからバプテスト教会ではその名の通り、全身水に浸かる形の洗礼が行われています。
洗礼は「入信の式」と言われ、イエス様を信ずる教会(共同体)のメンバー、神の家族になる式です。私たちは家に入る時、土足では入りません。教会に入る時、入口で心をきれいにしてから入るために、洗礼盤は一番後ろに置かれており、そこで洗礼を受けます。
洗礼を受けるとき先ず「教名」(洗礼名、クリスチャンネーム)を付けていただきます。この名前は、この世でも、死んだのちにも神の国(天国)で通用する名前です。今、私たちが持っている名前はこの世での名前(俗名)で、死ねばなくなる名前です。
そして「教父母」(ゴッドファーザー、ゴッドマザー)が与えられます。成人の場合、男女一人ずつの教父母です。教父母は洗礼を受けた人の信仰上の両親となり、その人の相談役になったり、良きアドバイザーにもなります。
洗礼を受ける人は「捨てること」「信じること」「守ること」を、日々の生活の目標にします。「捨てること」とは、罪の虜であった自分を捨てること、新しい自分になることです。「信じること」とは、イエス・キリストを信じることです。イエス・キリストの父なる神様、そして今も歴史を通して働いておられる聖霊なる神様を信じることです。さらにすべての人々を信じることです。
「守ること」とは、モーセの十戒、イエス・キリストの愛のおきて、神を愛すること、自分を愛するように、隣人を愛することです。これらを自力でクリアーすることはできません。ですから、この微力な私を支え、励まして下さる神様の力に信頼していくとき、これを達成できるのです。
「堅信式」は洗礼を受けた人が、主教様に頭に手を置いていただき、聖霊なる神様の力をいただき、それぞれ与えられた場所へと進んでいけるよう、励まし祈っていただく式です。
これらのことを思い浮かべながら、今日の礼拝に出席してくださるようお願いいたします。(チャプレン大西 修 主教)