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【ルカによる福音書19:1-10】
19:1 イエスはエリコに入り、町を通っておられた。
19:2 そこにザアカイという人がいた。この人は徴税人の頭で、金持ちであった。
19:3 イエスがどんな人か見ようとしたが、背が低かったので、群衆に遮られて見ることができなかった。
19:4 それで、イエスを見るために、走って先回りし、いちじく桑の木に登った。そこを通り過ぎようとしておられたからである。
19:5 イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」
19:6 ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた。
19:7 これを見た人たちは皆つぶやいた。「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった。」
19:8 しかし、ザアカイは立ち上がって、主に言った。「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」
19:9 イエスは言われた。「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。
19:10 人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」

今日の福音書に出てくるザアカイの物語は、絵本や紙芝居にもなっている易しい話ですが、これには深い意味があります。

ザアカイという名前には純潔/純粋という意味があります。日本式の名前でいうと清とか純子という感じになりますか。ザアカイの親はこのような名をつけて自分の子どもに期待をかけたはずです。でも、彼は徴税人の頭になりました。当時、支配者だったローマにユダヤは税金を払っていたのですが、それを集めていたのはユダヤ人でした。それを徴税人といいます。金の取り立て役ですから好かれてはいなかったでしょう。ザアカイはその中の「頭」ですので相当の嫌われ者だったはずです。本人も不正を働いて稼いでいたでしょうから当然かもしれません。

そんな金持ちのザアカイですが、自分自身に満足してなかった。背が低かったこともあるでしょう。だからエリコの町に来たイエスに興味が出てイチジク桑の木に登ったのです。葉が大きいので、隠れてこっそり眺めようという気持ちもあったはずです。

ところが、イエスから「ザアカイ」と突然呼びかけられた。これにはザアカイも驚いたことでしょう。「何で私の名前を知っているのか」と。さらにイエスから「ぜひあなたの家に泊まりたい」と言われる。「あくどいことをするな」と叱られても当然なのにイエスから優しく声をかけられたのです。周囲の人も「何であんな奴の家に泊まるのか」と驚いたことでしょう。

イエスの声掛けによって、ザアカイは自然に反省する気になりました。「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します」と。

イエスは上を見上げてザアカイに声をかけられました。英語で「理解する」はunderstandですが、文字通りunder(下に)stand(立つ)ことでイエスはザアカイを理解し、この嫌われ者に寄り添ったのです。イエスは、私たちの下に立って私たちを理解し寄り添ってくださる方です。

「嫌われ者に寄り添えられるか」。ザアカイの物語は私たちにそう問いかけています。(チャプレン大西 修 主教)

マリーゴールド

次回の礼拝は、今年で3年目になるAHI(アジア保健研修所)巡回報告会を兼ねて執り行います。
毎回、草の根の運動を展開する外国人ゲストをお招きするこの企画。今回は、最近ロヒンギャ問題に揺れるミャンマーからです(ゲストのプロフィールはこちら)。諸外国の現実が理解できる数少ないチャンス。ご期待ください!

●奨励のテーマ:ミャンマーの女性と子ども
●奨励者:ナウ イヴ ナン(Naw Eve Nan)さん(AHI研修生)
●通訳:中島 隆宏さん(AHIスタッフ)
●聖書箇所:イザヤ書42:9-10
42:9  見よ、初めのことは成就した。新しいことをわたしは告げよう。それが芽生えてくる前に/わたしはあなたたちにそれを聞かせよう。
42:10 新しい歌を主に向かって歌え。地の果てから主の栄誉を歌え。海に漕ぎ出す者、海に満ちるもの/島々とそこに住む者よ。

●日付:10月11日(水) 13:10~ 対象:保育科1年生・保育科2年生・専攻科学生・教職員
●礼拝形態:合同礼拝
●場所:チャペル

○次回以降の予定
・10/18(水) 合同礼拝(チャペル) 13:10~  ★礼拝中に洗礼/堅信式を行います。また、礼拝後に学生宗教委員・サーバー・奏楽者の打ち合わせを行います。
・10/25(水) 合同礼拝(チャペル) 13:10~ お話:村田先生
・11/1(水) 柳城学院  創立119周年 記念礼拝

【ヨハネによる福音書20:19-21】
20:19 その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。
20:20 そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。
20:21 イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」

私たちは礼拝中に平和のあいさつを行っていますが、皆さんは、いったいどんな感じであいさつしていますか? まさか、怒りながらあいさつをする人はいないでしょうね(笑)

あいさつとは自分の心をオープンにすることです。ですので、自分から進んで心を込めることが必要です。実習中でもそうでしょう? もちろん子どもたちは皆さんにあいさつして来るでしょうが、その前に皆さんの方から名前を呼んであいさつしてあげることで、子どもたちは心が開き、良い気分で一日がスタートできるのです。

私は先日、ある5つの施設を訪問しましたが、はっきりランク付けができると感じました。ある施設では、玄関を入るなり、すぐに職員の方が出てきて詳しく案内をしてくださる一方、他では、受付に人はいない、「何のご用でしょうか」とけげんそう、「場所はここです」とだけ伝えるだけで詳しい案内もなし、という調子でした。この受付の様子から、その施設の入居者へのサービス精神が垣間見える思いでした。

学校も同じですね。入口の所でその施設の雰囲気が分かる。柳城はどうでしょうか?

柳城の保育の先生はいつもにこやか、という伝統が今も残っていると思います。これも先輩方のおかげ。来年120周年を迎える柳城学院です。後輩のためにも、皆さんがお手本になってください。

今の時代、子どもたちには「知らいない人には声をかけないように」と教えています。仕方のないことでしょうが、世の中、悪い人ばかりではないので大変残念です。こんな時代でも、「知らない人にごあいさつ」という気持ちを大切にすれば、それが皆さんや柳城にとって宝物になってゆくことでしょう。

ヘブライ語で「シャローム」というあいさつがありますが、これは「平和がありますように」という意味です。この思いであいさつを心がけてください。(チャプレン大西 修 主教)

ニーレンベルギア

【創世記11章1~9節】
11:1 世界中は同じ言葉を使って、同じように話していた。
11:2 東の方から移動してきた人々は、シンアルの地に平野を見つけ、そこに住み着いた。
11:3 彼らは、「れんがを作り、それをよく焼こう」と話し合った。石の代わりにれんがを、しっくいの代わりにアスファルトを用いた。
11:4 彼らは、「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう」と言った。
11:5 主は降って来て、人の子らが建てた、塔のあるこの町を見て、
11:6 言われた。「彼らは一つの民で、皆一つの言葉を話しているから、このようなことをし始めたのだ。これでは、彼らが何を企てても、妨げることはできない。
11:7 我々は降って行って、直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬようにしてしまおう。」
11:8 主は彼らをそこから全地に散らされたので、彼らはこの町の建設をやめた。
11:9 こういうわけで、この町の名はバベルと呼ばれた。主がそこで全地の言葉を混乱(バラル)させ、また、主がそこから彼らを全地に散らされたからである。

今日はセクシャル・マイノリティ(性的少数者)についてお話しようと思います。

2015年にアメリカ全州で、同性結婚が異性結婚と同等の権利を持つことが認められました。日本でも、2016年までに、東京都の渋谷区と世田谷区、三重県伊賀市、兵庫県宝塚市、沖縄県那覇市で、同性結婚の権利を一部認める「パートナーシップ宣誓制度」が開始されています。最近では、今年8月22日に愛知県の豊明市が「LGBT(※)ともに生きる宣言」をしました。

日本が同性結婚に関心を持った背景としては、2020年の東京オリンピック誘致も絡んでいます。2014年に国際オリンピック委員会が性差別の禁止をオリンピック憲章に盛り込んだため、LGBTを差別する国は誘致ができなくなったのです。

私も性的少数者の一人です。元は男として生活していたのですが、途中から女にかわりました。世の中、人と違うと生きにくいものです。たとえば、選挙に行くと、私は「あなた男じゃないの?」と聞かれることがあります。確かに戸籍上は男なのですが。杉原千畝が生まれた岐阜県加茂郡八百津町は、つい最近、住民らの要望に応え印鑑登録証明書から性別欄をなくしました。

さて、今日の聖書は「バベルの搭」で有名な個所です。

シンアルの地に住み着いた人々は、自分たちの町を有名にするために、力を合わせて高い塔を建てようとしました。協力し合うことは良いことですが、それがあまりに行き過ぎて、仕事が画一化して一人ひとりの多様性が失われることもあるわけです。そうなると仕事ははかどりますが、人間のおごり高ぶりに火がついて「神などいらない」という思いが生まれます。

従来、聖書のこの箇所は神の祝福が与えられないケースとして解釈されてきましたが、私はむしろ、人々がバラバラにされることに神の愛の祝福を感じるのです。人々が多様になると、まとまるのに苦労しますが、それは私たちにとって必要な過程なのです。

皆さんも社会に出ると様々な人々に出会いますね。考え方の違う人同士が互いに認め合うこと。そこに楽しみを見出して欲しいものです。保育の仕事でもそうです。多様な子どもに出会うはずです。中にはLGBTの子もいるかもしれません。私も子どもの頃、女の子の服が着たかったのに「変なこと言わない!」と怒られたこともありました。こんな私の様な子どもがいたら、今日のLGBTの話を思い出して、その子と一緒に考えてあげてください。(後藤 香織 司祭:名古屋聖マルコ教会牧師、柳城幼稚園チャプレン)

(※)同性愛者のレズビアン(L)、ゲイ(G)両性愛者のバイセクシュアル(B)、心と体の性が一致しないトランスジェンダー(T)といった性的少数者の総称

 

木に登るザアカイ。教会の日曜学校の定番ですね。

イエス・キリストが十字架へと向かう途上の最終局面で行った癒しです。いわば総仕上げ。相手は徴税人の頭です。同胞からは罪人中の罪人とさげすまれていた人物だったでしょう。その彼があっという間に改心してしまうのです。いったい何が起こったのか…。ご期待ください!

●説教のテーマ:徴税人ザアカイの話
●説教者:大西 修 チャプレン
●聖書箇所:ルカによる福音書19:1-10
19:1 イエスはエリコに入り、町を通っておられた。
19:2 そこにザアカイという人がいた。この人は徴税人の頭で、金持ちであった。
19:3 イエスがどんな人か見ようとしたが、背が低かったので、群衆に遮られて見ることができなかった。
19:4 それで、イエスを見るために、走って先回りし、いちじく桑の木に登った。そこを通り過ぎようとしておられたからである。
19:5 イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」
19:6 ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた。
19:7 これを見た人たちは皆つぶやいた。「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった。」
19:8 しかし、ザアカイは立ち上がって、主に言った。「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」
19:9 イエスは言われた。「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。
19:10 人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」

●日付:10月4日(水) 13:10~ 対象:保育科1年生・保育科2年生・専攻科学生・教職員
●礼拝形態:合同礼拝 ★礼拝後、新生病院リトリート報告会
●場所:チャペル(場所が変更されています)

○次回以降の予定
・10/11(水) 合同礼拝(チャペル) 13:10~ ★奨励を兼ねてAHI巡回報告会を開催
・10/18(水) 合同礼拝(チャペル) 13:10~  ★礼拝中に洗礼/堅信式を行います。また、礼拝後に学生宗教委員・サーバー・奏楽者の打ち合わせを行います。
・10/25(水)合同礼拝(チャペル) 13:10~ お話:村田先生

本学の大学礼拝の特徴の一つに「平和の挨拶」があります。式文では次のようになって-います。
————————–
平和の挨拶
【司式者】 主の平和が皆さんとともに
【会 衆】 また、あなたとともに
【司式者】 平和の挨拶を交わしましょう
(ここで、互いに「主の平和」と唱えて挨拶を交わします)
————————–
礼拝中に「主の平和」と互いに言葉を交わす本来の意味を、次回は学ぶことになるでしょう。ご期待ください!

●説教のテーマ:平和のあいさつ
●説教者:大西 修 チャプレン
●聖書箇所:ヨハネによる福音書20:19-21
20:19 その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。
20:20 そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。
20:21 イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」

●日付:9月27日(水) 13:10~ 対象:保育科1年生・保育科2年生・専攻科学生・教職員
●礼拝形態:合同礼拝 ★礼拝後、奉仕活動(学生生活委員会企画)
●場所:体育館

○次回以降の予定
10/4(水) 合同礼拝(体育館) 13:10~ ★礼拝後、新生病院リトリート報告会を開催
10/11(水) 合同礼拝(体育館) 13:10~ ★奨励を兼ねてAHI巡回報告会を開催
10/18(水) 合同礼拝(チャペル) 13:10~  ★礼拝中に洗礼/堅信式を行います。また、礼拝後に学生宗教委員・サーバー・奏楽者の打ち合わせを行います。

【マタイによる福音書第20:1~16】
20:1 「天の国は次のようにたとえられる。ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行った。
20:2 主人は、一日につき一デナリオンの約束で、労働者をぶどう園に送った。
20:3 また、九時ごろ行ってみると、何もしないで広場に立っている人々がいたので、
20:4 『あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう』と言った。
20:5 それで、その人たちは出かけて行った。主人は、十二時ごろと三時ごろにまた出て行き、同じようにした。
20:6 五時ごろにも行ってみると、ほかの人々が立っていたので、『なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか』と尋ねると、
20:7 彼らは、『だれも雇ってくれないのです』と言った。主人は彼らに、『あなたたちもぶどう園に行きなさい』と言った。
20:8 夕方になって、ぶどう園の主人は監督に、『労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい』と言った。
20:9 そこで、五時ごろに雇われた人たちが来て、一デナリオンずつ受け取った。
20:10 最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。しかし、彼らも一デナリオンずつであった。
20:11 それで、受け取ると、主人に不平を言った。
20:12 『最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。』
20:13 主人はその一人に答えた。『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。
20:14 自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。
20:15 自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。』
20:16 このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」

聖マタイによる福音書だけに記されている「ぶどう園の労働者」のたとえですが、イエスはこれを通して、神の支配されている世界とはどのようなところか、神が持っておられるお考え、価値観とはどのようなものか、すなわち「天の国」「神の国」についてお教えになりました。

季節はちょうど夏の終わりの今頃です。パレスチナではぶどうの収穫がまっ盛りで、猫の手も借りたいほど多忙な時期です。ぶどう園の雇い主(主人)は朝早くから寄せ場(広場)に出て行って働き手(労働者)を呼び集めます。ぶどう園の主人は人出が足りなかったのか、さらに9時、12時、3時ごろにも、出かけて行って同じようにしました。さらにまた、日暮れ時の5時ごろに行ってみると、まだ立っている人たちを見つけ、「なぜ、何もしないで1日中ここに立っているのか?」と聞くと、彼らは「誰も自分たちを雇ってくれないからです。」と答えます。主人は「あなたたちもぶどう園に行きない。」と言って彼らを送り込みました。

さて、このたとえ話の興味深いところは、最後の日暮れ時の5時ごろに来て僅か1時間しか働かなかった人たちにも1デナリオンが渡されたことです。さらには、最後に賃金が支払われたのは、早朝から来て暑い昼(ひる)日中(ひなか)を1日中働いた人たちというおまけつきで「こんな不公平はない、理屈に合わない、おかしい」と彼らは主人に抗議しますが、主人は彼らに「わたしは何も不当なことはしていないし、約束も破ってはいない。わたしがしたいようにしてどうしていけないのだ。わたしの気前の良さを妬ましく思うのか」と答えたというのです。

5時ごろの人たちは1日ぶらぶら遊んでいたわけではありません。働きたくても仕事がない、どこへ行けばいいのか、今夜何を食べ、どのように過ごしたらいいだろう、日暮れ近く、そのような厳しい状況の中にいる人びとの思いを知って、主人は声をかけて招いたのです。この主人こそ、神を指し示しているのではないかと思います。彼らは主人に何を期待したでしょう。ほとんど何も期待していなかったのではないでしょうか。予想すらしていなかった、考えてもいなかった無価値と思われる者への呼びかけと1デナリオンの支払いに、ただただ驚くばかりだったのではないでしょうか。

主人は自分の考えとして「最後の者にも、最初の者と同じように支払ってやりたいのだ」と言います。それが主人の考え方であり、世界を見る目であり、主人の価値観、すなわち「天の国」でのものの見方、考え方、価値観なのです。神の平等はこの世の平等とは明らかに違うこと、そこに、計り知ることのできない神の絶大な恵みがあることをいつも心にとめていたいと思います。

働きたくても様々な要因(身体的、精神的、社会的、その他物理的な要因)で働くことのできない人もいます。「働かざる者は食うべからず」の格言はぶどう園のたとえにはあてはまりません。この格言でいう「働かざる者」とは「働くことが出来るにも関わらず、怠けて働かない者」を指しているからです。

残念ながら、わたしたちは5時ごろ雇われた人の気持ちにはなかなかなれません。何もしないで1日中不安と焦燥の中で立ったまま待っている辛さ、苦しさ、半ば諦めかけて日暮れ時を迎えようとしている人の思いを、わたしたちはどこまで、共有することが出来るのでしょうか。

東日本大震災のために愛する人を失い、傷つき倒れ、住居をはじめ多くの財産を失い、追い打ちをかけるように放射能汚染の恐怖の中に曝され、今なお不安の中で生きている人々、地震・大雨・洪水などにより、多大な被害の中にある世界各国の被災地にいる人々は、まさに5時ごろの人びとと言っていいのではないでしょうか 。

わたしたちは神と共に一緒に歩く者として、いや、神がわたしたちと共に一緒に歩いてくださっていることを信じる時、実は私たち自身が5時に雇われた者ではないかと気付かされるのではないでしょうか。

そのことに気づく時、はじめてこのようなわたしでも、無条件に、何の見返りも無しに愛し、受け入れてくださる神に感謝の思いをもって歩むことができ、苦難の中にいる人と共に一緒に生きていくことが出来るのではないかと思います。(チャプレン大西 修 主教)

ペチュニア

来週は説教者にゲストをお迎えします。
今回の聖書箇所は「バベルの塔」で有名ですね。「価値観が多様である社会や組織は安定し発展する」との教えによく引用される箇所でもあります。ゲストの後藤司祭さんは、この方面に高い関心をお持ちの方なので、きっと楽しくてためになるお話が伺えることと思います。ご期待ください!

●説教のテーマ:バラバラの祝福
●説教者:後藤 香織 司祭(名古屋聖マルコ教会牧師、柳城幼稚園チャプレン)
●聖書箇所:創世記11章1~9節
11:1 世界中は同じ言葉を使って、同じように話していた。
11:2 東の方から移動してきた人々は、シンアルの地に平野を見つけ、そこに住み着いた。
11:3 彼らは、「れんがを作り、それをよく焼こう」と話し合った。石の代わりにれんがを、しっくいの代わりにアスファルトを用いた。
11:4 彼らは、「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう」と言った。
11:5 主は降って来て、人の子らが建てた、塔のあるこの町を見て、
11:6 言われた。「彼らは一つの民で、皆一つの言葉を話しているから、このようなことをし始めたのだ。これでは、彼らが何を企てても、妨げることはできない。
11:7 我々は降って行って、直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬようにしてしまおう。」
11:8 主は彼らをそこから全地に散らされたので、彼らはこの町の建設をやめた。
11:9 こういうわけで、この町の名はバベルと呼ばれた。主がそこで全地の言葉を混乱(バラル)させ、また、主がそこから彼らを全地に散らされたからである。

●日付:9月20日(水) 13:10~ 対象:保育科1年生・保育科2年生・専攻科学生・教職員
●礼拝形態:合同礼拝
●場所:チャペル

○次回予告
9/27(水) 合同礼拝(体育館) 13:10~ ★礼拝後、奉仕活動(学生生活委員会企画)
10/4(水) 合同礼拝(体育館) 13:10~ ★礼拝後、新生病院リトリート報告会

【テサロニケの信徒への手紙一 5:16-18】
5:16 いつも喜んでいなさい。
5:17 絶えず祈りなさい。
5:18 どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです

今読みました聖書は、みんなに親しまれている聖書の言葉が載っているところで、教会の日曜学校の生徒や、付属の幼稚園、保育園の子どもたちもこの聖句が大好きです。

テサロニケの信徒への手紙1は新約聖書の中で最初に、パウロによって紀元50年ごろに書かれました。イエスは十字架の死を遂げ、三日目におよみがえりになり、40日間にわたって弟子たちに現れ、再びこの地上に来られること(再臨)を約束された後、天に昇られました。パウロをはじめイエスを信じる人々は、再び来ると約束なさったイエス・キリストを熱い思いで待ち望んでいました。パウロはテサロニケの信徒たちに、イエス・キリストがいつおいでになってもいいように準備するため、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。」という言葉を書き送りました。 この言葉は復活されたイエスをキリスト(救い主)と信じる信仰に立ち、神の愛と希望に裏打ちされたもので、喜びと祈りと感謝が一つになって、今を生きる人々に力を与えています。

さて第1の「いつも喜んでいなさい。」の聖句で思い出すのは、わたしが園長をしていた幼稚園でのことです。園児のOちゃんがN先生に「先生、わたしのお母さんは毎日お仕事でお出かけなの。先生は毎日遊んでばかりで、お仕事しないの?」と語りかけていました。それに対してN先生はちょっぴり複雑な表情でした。わたしはN先生に言いました。「毎日遊んでばかりで、お仕事しないの?」って言われたことは、素晴らしいことだよ。もし反対に「毎日、お仕事ばかりしていて遊ばないの?」って言われたなら、それは保育者として失格かもしれないよ」と。子どもと一緒になって遊ぶ保育者の姿の中に、いつも喜んで保育者として過ごしている日々を垣間見る思いがしました。

第2は「絶えず祈りなさい。」です。祈りは神様との対話です。わたしの心の思いを神様に語り掛け、時には訴え、ぶつけます。そして神様からの返事を待ちます。神様からの返事は、わたしの思いどおりであるとは限りません。むしろ思いとは別の、あるいは反対のものであるかもしれません。しかしその返事をじっくりと時間をかけて思いめぐらすとき、必ずそこに何かが見えてきます。

祈りに課題があると、その祈りはさらに大きく広がっていきます。例えばあなたが思いを寄せている人と仲良くなりたいと願って祈るとき、その祈りはその人のことだけではなく、自ずからその人の両親、兄弟姉妹、友人のことへと広がっていきます。他の人のために祈るとき心が豊かになり、祈ることが喜びとなり、また他の人にも喜びを与えます。そしてこのわたしが祈られていることを知ったとき、喜びは倍増します。

さて第3は「どんなことにも感謝しなさい。」という聖句です。感謝・ありがとうはわたしたちの生活の土台になるものです。しかし、それをなかなか素直に言葉と態度に表わすことができません。Thank youはThink youからきていると聞いたことがあります。「あなたのことを考えること、思うこと」すなわち「神様のことを考えること、思うこと」が感謝の土台にあるのです。天地万物をお造りになった神様に思いを寄せ、感謝すること、ことに神様はわたしたち人間一人一人にかけがえのない尊い命を与えてくださっていることを覚えましょう。次に衣食住が与えられていること(ただし、富める人間の貪欲な罪のため、世界中の多くの国の人々の必要を満たすことができません。日本でも現在、衣食住にこと欠いている人々がいることを忘れてはなりません。)、わたしたちは多くの人々との緊密な交わりの中にあって生かされていることも心に留めたいものです。現代ほど、物の豊かな時代はこれまでになかったと言われています。確かに欲しいものは、少し余分にお金さえ出せば手に入る時代です。簡単に思いが叶うなら、心も満たされているかと言えば、そうでもありません。物の豊かさと心の豊かさは比例しないようです。ひょっとしたら、物の豊かさが心の豊かさを奪い取っているのではないかとさえ感じます。本当の感謝は有り難い(ありがたい)ところに見られるのかもしれません。それはわたしたちの目には見えにくくされ、隠され、見過ごしにされている人々や、弱く、小さくされた人々の中に見られるのではないかと思います。

わたしたちがやりたくない、したくない仕事を担っている人々、その人々のご苦労によってわたしたちがどれは多くの恩恵を受けているか、そのことに気づき、どれほど感謝しているでしょうか、そんな自分自身の態度をふり返ってみたいものです。

「どんなことにも感謝しなさい」、そんなこと無理、無理と思っているわたしたち。でも感謝できないと思える事柄に、素直に感謝の思いを抱いて「ありがとう」と言ってみると、自分が今ここに生かされている意味、そして意外と自分にも優しい心が与えられていることに気づかされるに違いありません。(チャプレン大西 修 主教)

ポーチュラカ

ビッグスマイルの花が終わって1か月が経ちました。

種がしっかりできるようにと願いながら追肥や水やりに気を使ってきましたが、その甲斐あってか、何とか採種できましたよ (^^♪

写真に撮った種がその全部です。たくさん花がついた割には少ない気がしますが、それでも嬉しいです  )^o^(  種蒔きから始めて、結構な時間をかけてここまでたどり着いたのですから。私たちの汗の結晶です(笑)

これで、あとは、ボランティア活動の際にお世話になったふじ幼稚園さんに、この4か月間の活動記録を報告して、このコーナーは終了となります。

次回の最終回をお楽しみに (^O^) (加藤)

「また、ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった。」(マルコ4:8)

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