【マタイによる福音書 19:16-22】
19:16 さて、一人の男がイエスに近寄って来て言った。「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか。」
19:17 イエスは言われた。「なぜ、善いことについて、わたしに尋ねるのか。善い方はおひとりである。もし命を得たいのなら、掟を守りなさい。」
19:18 男が「どの掟ですか」と尋ねると、イエスは言われた。「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、
19:19 父母を敬え、また、隣人を自分のように愛しなさい。』」
19:20 そこで、この青年は言った。「そういうことはみな守ってきました。まだ何か欠けているでしょうか。」
19:21 イエスは言われた。「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」
19:22 青年はこの言葉を聞き、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。
「若い」とはどんなことをいうのでしょうか。これを青春と言い換えてもいいかもしれません。皆さんは自分自身で、あるいは友人同士で「若いということ」「青春とは何だろう」ということについて考えたり、話し合ったりしたことがありますか。
もちろん、一言で若いとは、青春とはこんなことだ、というには、あまりにも複雑で難しいことです。けれども若い時、青春の特徴を2つ3つ挙げることができます。そのことについて考えてみたいと思います。
第一は「焦燥感」です。いらいらした気分、自分自身に対するいらだたしさ、そしてこの社会、自分の住んでいる世界、生きている世界に対する不満、怒りなどがそれです。すべてのことに対して何か物足りなさを感じ、何とかならないのか、あるいはまた、何とかしなければ・・・という気分を抱いています。
「わが青春に悔いなし」という言葉がありますが、悔いのない青春は多分ないと思います。過ぎ去った青春を振り返ってそのように言えたとしても、現に今、青春真っ只中にいる人には、その言葉は当てはまらないでしょう。あらゆる点において青年から大人へと移り行く時期、この時期は言い換えれば、汗と怒りと不眠と不安の時期、苦しい戦いの時期ともいえるかもしれません。青春時代は腹の立つことも多い時です。親の言うことが癪に障り、友人の態度が気にいらず、またこの世界に向かって、言いようのない怒りをぶちまけてみたくなるそんな時ではないでしょうか。何か漠然とした、言いようのない憤りを覚える時でもあります。このようなエネルギーは考え方によれば、消極的で、非建設的、非生産的なもののように思われますが、必ずしもそうとは言えません。確かに、ある明確な対象に向かって発散されるエネルギーは、積極的、建設的で生産的なものに違いありません。
しかし、言葉では到底言い表せない部分、わたしたちの心の奥深くに潜んでいる焦燥感、あるいは欲求不満といったものを、どのように自分の中で蓄え、生産的なエネルギーにしていくか、この点に青春の生き方の重要さがあります。
第二は「挫折」です。青春には挫折がつきものです。挫折することは若さの一つの表れと言ってもいいでしょう。
二十歳になる一人の男性がいました。彼の前途は洋々としており、たくさんの可能性に満ちていました。洋服屋の前を通ると、自分も将来あんな最新流行のスーツを着ることができるのだと思い、本屋の前を通ると、よーし、あらゆる本を読破してやるぞと考え、きれいな女性を見ては、今にあんな女性と結婚するぞと憧れる、そんなバラ色の日々でした。
そして、五年経ち彼は苦労してやっと就職しましたが、低賃金のため安い吊るしのスーツしか着ることができず、大学卒業後は漫画以外の本は読まず、せいぜい通勤電車の中で週刊誌を読む程度、家に帰ればテレビを見て寝てしまうという疲れた毎日でした。恋愛から結婚へという甘い夢は無残にも消え、今までの女性観(女性を見る目)があまりにも理想的過ぎたことに気付きました。
これはほんの一例ですが、現実の青春とは大なり小なりこのようなものではないかと思います。わたしたちの人生は挫折の連続です。けれどもその挫折の一つ一つにどのように対処し、戦い、耐え、それを生かしていくか、そこに青春の道が開けていくか否かの分岐点があるように思います。
なぜ、このようなことを話してきたかと言いますと、最初に読まれた聖書の箇所がそのことを教えているからです。ここに登場する青年はイエス様のところへ来て質問しました。「先生、永遠の生命を得るには、どんな善いことをすればいいのでしょうか」と。彼は礼儀正しい優秀な青年で、真剣にどうしたら本当に幸せになれるかを尋ねました。永遠の命を得るという、とても真面目な、宗教的、倫理的な質問でした。イエス様はモーセの十戒・隣人愛の教えを守るようにとおっしゃいました。それに対して「それらはすべて守ってきました。まだ何か欠けているのでしょうか」と、青年は聞き返しています。彼にはすべての教えを守ってきたという自負の念はありましたが、まだどこか満たされない気持ちがあったのではないかと思われます。青年の熱心さの中に、確かなものをつかみ取りたいという焦燥感を見ることができます。
イエス様の次の言葉によって、この青年の志は無残にも打ち砕かれ、挫折してしまったのです。「もし完全になりたいのなら,行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」
イエス様の言葉はいつもわたしたちの予想しない思いがけない方向からやってきます。この青年は所有していた財産が、彼にとってあまりにも大きな前提になっていたので、そのことに気づかず生活していたのです。イエス様はこの青年に観念上の問題としてではなく、一番身近な物質の問題を投げかけ、彼が気づいていない点をつかれました。自分の身に何の痛みも危機も感じない愛の行為はないのです。青年は見事にここで挫折しました。多くの場合、予想していないときに挫折という事態が起こります。ですから事態が意外であればあるほど、挫折の傷跡は深いのです。この青年が悲しみながら立ち去った姿を想像することはさほど困難なことではありません。そして、この挫折が彼にとって実に貴重な体験であったということができます。今まで何の問題もなく上昇志向でいた人間が、ここで初めてつまずき倒れるという経験をしたのです。この挫折こそ、青年が真の人間になるために、どうしても必要な条件でした。おおよそ傷つくこともなく、痛みを感じたことのない人間はまだ子どもであり、青年とは言えません。この青年にとって、イエス様の言葉による挫折を契機として、一段と飛躍するエネルギーを燃え立たせることが彼の青春なのです。
彼はイエス様と出会うことによってつまずき、倒れ、突き放されてしまいました。けれども、イエス様に引きつけられた青年が、逆にイエス様によって突き放され、去って行くということは、表面的な、またその時点だけでのことです。イエス様による拒否とこの青年の挫折という出来事の中に、青年の新たな立ち直りが暗示されており、またイエス様によって受け入れられることが約束されています。そのことは「そうすれば、天に宝を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」という受け入れを約束する言葉が示しています。
さて、「若さ」の特徴を「焦燥感」と「挫折」というマイナスのイメージで語ってきましたが、積極的な面を挙げるならば、「自立」、自分で立つということにあると思います。
「自立」、「独立」こそ青年の積極的な面です。そしてそれは多くの場合、精神的な自立、独立を意味します。
現代の青年の多くはこの精神的な自立、独立という点でやや遅れているのではないかと思います。精神の植民地化ということが言われています。例えばそれは、親との関係に見られます。大学の入学試験、入学式、卒業式、そして就職などが親がかりでなされていないでしょうか。それだけでなく青年の精神が全く親の支配下にあるという事実に、皆さんは何とも感じませんか。親の言いなりなる子どもが一概に良い子どもとは言えません。勿論、親に反抗する子どもがいい子どもであると言っているのではありません。
イエス様の青年に対する応答の中に、おのずからこの青年の精神的な自立を促そうとする意図が働いていたのではないでしょうか。
わたしたちも自分自身をこの青年の立場において、イエス様の言葉をもう一度聞き直してみましょう。(チャプレン 大西 修 主教)
夏の花壇
(6/14と比較)