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今日の賛美歌タイムは久しぶりに聖公会聖歌集から、374番「こころのとびら」、260番「マラナタ」を用いました。

今日の参加者さんには初めての曲だったようですが、気持ちが何となく落ち着いたみたい・・・(^_^)

何か、こう、心にスッと入り込むような、そんな感覚。

霊的な意味での乾いた心に浸み込んだというか、そんな解釈(つまらない。NGでした・・・(~_~))。

自然体でイエス・キリストの世界が広まるといいですね(^o^)/ (加藤)

【ヨハネによる福音書15:5-6】
15:5 わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。15:6 わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。

イエス様の時代、パレスチナ地方ではブドウが多く栽培されていました。ブドウ酒は聖書によく登場します。カナという場所でイエス様は水をぶどう酒に変えるという奇跡を行いました。最後の晩餐でもブドウ酒が飲まれます。

今日の聖書でイエス様は「ブドウの実が枝につながっていれば豊かに育つと同じように、あなた方も、私につながっていれば間違いない」とおっしゃっています。幼児は、お母さんや先生の手をしっかり握っているうちは大きく成長しますが、一度離れると大変なことになる・・・。そんな関係性がイエス様と私たちにあったらいい。

イエス様とともに歩んでいきましょう。(チャプレン 大西 修 主教)

クチナシ


きれいに満開です(^^♪

今年、命の種を引き継いだ園芸サークルの技術指導担当としては、内心ホッとしています(笑)

これで今年も、ふじ幼稚園さんやその関係者の皆さんと様々な思いを分かち合いできますね。

主に感謝です。

To be continued.(加藤)

 

人間関係は永遠のテーマです。聖書はこれにどう答えているのでしょうか。
今回は「バベルの塔」で有名な創世記の箇所を使ってのお話です。
コミュニケーションの視点から、きっと役にたつ知恵が得られると思います。
ご期待ください。お待ちしています。

●説教のテーマ:対人関係で悩んでいる人へ
●説教者:大西チャプレン
●聖書箇所:創世記11:1~8
11:1 世界中は同じ言葉を使って、同じように話していた。
11:2 東の方から移動してきた人々は、シンアルの地に平野を見つけ、そこに住み着いた。
11:3 彼らは、「れんがを作り、それをよく焼こう」と話し合った。石の代わりにれんがを、しっくいの代わりにアスファルトを用いた。
11:4 彼らは、「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう」と言った。
11:5 主は降って来て、人の子らが建てた、塔のあるこの町を見て、
11:6 言われた。「彼らは一つの民で、皆一つの言葉を話しているから、このようなことをし始めたのだ。これでは、彼らが何を企てても、妨げることはできない。
11:7 我々は降って行って、直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬようにしてしまおう。」
11:8 主は彼らをそこから全地に散らされたので、彼らはこの町の建設をやめた。

●日付:6月28日(水) 13:10~ 対象:保育科1年生・保育科2年生・専攻科学生・教職員
●礼拝形態:合同礼拝
●場所:チャペル
○予告
・7/5(水) 合同礼拝(チャペル)13:10~対象:保育科1年生・保育科2年生・専攻科学生・教職員
・7/12(水) 合同礼拝(チャペル) 13:10~対象:保育科1年生・保育科2年生・専攻科学生・教職員

【ルカによる福音書10:38-42】
10:38 一行が歩いて行くうち、イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。
10:39 彼女にはマリアという姉妹がいた。マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。
10:40 マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」
10:41 主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。10:42 しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」

「お忙しいですね、お忙しそうですね、ご多忙中、申し訳けございませんが」などと言われると、わたしたちは悪い気はしません。むしろ何となくいい気持になるのではないでしょうか。 「暇そうですね、暇なら手伝ってよ」などと言われると、あまりいい気持はしません。わたしたちは、いつの間にか「忙しいこと」は良いことで、「暇なこと」はあまり良いことではないという先入観にとらわれてしまっているのではないでしょうか。

忙しい」という漢字は忙、りっしん偏に亡(ぼう)~なくなる、失う、滅びる~と書きます。りっしん偏は心を表しますから、忙しいとは、心を失うこと、心を滅ぼすことを意味しています。ですから本来の意味からすると、忙しいことは必ずしも良いことではありません。「多忙・忙殺・繁忙」はたくさん心を失うことであり、たくさん心を滅ぼしてしまう、心を殺してしまうことにもなりかねないことに注意する必要があります。

今読んでいただいた聖書の箇所(マルタとマリアの話)から、少し考えてみましょう。

マルタはおいで下さったイエス様をおもてなしし、喜んでいただくために、あれこれと心遣いをしながら、きびきびとした立ち居振る舞いをしています。とても素晴らしいことです。マリアはといえば、お話してくださるイエス様の真ん前に座りこみ、身動きもせず、一心にイエス様の話を聞こうとしています。

マルタがそんなマリアを見て、いらいらし、黙っていられなくなり、イエス様に不平不満をぶつけます。「こんなに忙しく立ち働いているわたしに気づきもせずに、マリアが座っていることを何ともお思いになりませんか?マリアにも私の手伝いをするようにおっしゃってください。」 それに対して「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を取り乱している。必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」こうマルタにイエス様は優しく言われました。

確かにマルタはとても忙しかったことでしょう。そこで彼女はどうしたのでしょうか。自分の忙しさを何とかカバーしてもらうために、マリアを利用しようとしたのです。自分の思いを実現するために、他人を自分の枠の中に引き込もうとしたのです。マリアが座り込んでイエス様の話を聞いていることが許せなかったのです。マルタは自分の忙しさのために、大切な心を失っていました。忙しさは人を自分のことしか考えられないような状況に追い込みます。マルタがそうでした。マリアの思い、その人格を無視し、マルタは自分の思うがままに相手を動かすことに意を用いたのです。マルタはイエス様を心からお迎えし、おもてなしすることに大きな喜びと幸せを感じていました。そのことは間違いないことでした。しかし、ほかの人も自分と同じように行動することを望んだところに問題がありました。

マルタに「もし、そんなことを言うならば、あなたもマリアと同じように、じっと座っていてイエス様の話を聞いたらどうですか?」と言ったならば、彼女にはそれは難しいことになるでしょう。忙しさを人の所為(せい)にしたり、また忙しさのために自分を見失ってしまうことのないようにしましょう。

マルタもマリアもそれぞれに神様から与えられた賜物(素晴らしい人格、個性、かけがえのないもの)をもっています。

わたしたちも同様に、個々に無くてはならない賜物が与えられています。その賜物をしっかり見つめ、それを活かしていきましょう。(チャプレン 大西 修 主教)

植えつけられた夏の花たち

先日終えたばかりの実習中の授業を補うため、保育科二年生は、土曜日の今日、授業がありました。

この日の賛美歌タイムは翼をふわり軽やかに、私自身の背につけてもらえた…そんな喜びを持つ記念すべき日となりました。

それは、二階席に上がり実施されたことで、チャペル全体を感じて、心に愛が溢れていたこと。

そしてタンバリンをMちゃんが楽しく♪歌に合わせ合奏してくれたことで、みなの喜びが包括され、ハーモニーに光が増し自由、解き放ちを、感じ入る気持ちとなったからでしょう♪

また本日は「翼をください」に加え「フリー」という楽曲も賛美歌タイムに仲間入りをしました。

ギターの音色と爽やかさに心が癒されます。

「どしゃぶりの雨があがるように
すきとおる
よごれた心が

十字架の勝利のしるしは
遠く海にかかる虹」

二階席からまっすぐと・・・。
瞳は、チャペルの十字架を見つめています。(岩付)

 


ネキリムシの被害の後、粒状の薬剤を使って再発に努めました。

結果、定植後3週間でここまで大きくなりました(^^♪

植えた時はまだ冬の花が残っていましたが、今は、夏の花にすっかり変わっているのが分かりますか?

ウチの花壇では位置的には脇役でも、花の存在感としては主役のヒマワリです。

他の花たちと仲良くスクスク育って欲しいです  )^o^(

To be continued.(加藤)

【ヨハネによる福音書15:12-13】
15:12 わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。15:13 友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。

人間が生きていくとき、そこにはいつも愛の関係が生まれます。人間は夫婦、親子、兄弟姉妹、友人、知人はもとより、多くの人々との出会いの中で、愛し合い、助け合い、支え合い、励まし合いながら生きていると言っていいのではないかと思います。

特にそんな中で、一人の男性と一人の女性が愛のうちに結ばれ、結婚を通して新たな命をこの世に生み出していくといった営みは、これからもずっと続いていくことでしょう。

けれども他方では、人間が生きていくとき必ずと言っていいほど愛せない悩みや、愛されていない苦しみのために、自ら傷つき、また他者を傷つけるという悲しい現実があることも見過ごすことができません。むしろ、このために悩み、苦しんでいる人々の多いことが現実の姿といえるかもしれません。

では、わたしたちが考えている愛、信じている愛は本当の愛なのでしょうか。本当の愛とはどのようなものなのでしょうか? 聖書では「神は愛です」(ヨハネの手紙1 4:16)、また「わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです」(同4:19)、

「イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました」(同3:16) 「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」(ヨハネ15:12-13)と教えています。

愛された経験のない人は愛することができません。どうすることが愛することなのかがわからないからです。暴言を吐かれ、殴られ、たたかれるような生活環境の中で、成長してきた子供が、親になったとき、同じような形で自分の子供に接するケースが多いと言われます。愛情表現がそのような歪んだ形でしか表せないのです。

人間の愛は自己中心的なものであり、自己愛がその根底にあります。「隣人を自分のように愛しなさい。」(マタイ22:39)という愛の戒めの中で、「自分のように」とは、人間のうちにある強い自己愛への思い、そのような思いをもって隣人を愛していくことが、神に愛されている者の生き方であるとされています。またそれは、ただ単に自己愛への思いという面だけではなく、神に愛され、受け入れられている自分を大切にすることによって、隣人のために自分を与えていくことにも繋がっていきています。

神の愛は隣人愛、他者志向の愛、与える愛です。自分の命を投げ出してまでも、他者を愛し、さらに敵をも愛し、無価値と思われている者、弱くて小さい者をも愛し抜いていきます。神の子であるイエス・キリストが十字架の上で、自己中心的で高慢な罪深い人間の身代わりとなり、犠牲の死を遂げられたことによって、神の愛がどれほど深く人間に注がれていたかを知ることができます。そこまで、愛を注いでくださったお方がほかにおられるでしょうか。このお方に愛されていることに気づき、このお方を愛し信頼して生きていくとき、神の愛をわたしたちも実践していくことができるようになります。人を愛せないこのわたしが、神に愛されていることに気づき、愛する喜びに生かされるように、造り変えられていくからです。(チャプレン 大西 修 主教)

●本日は礼拝後に、和気あいあいとした雰囲気の中、奨励奨学生表彰式が行なわれました。柳城の学生さんは頑張っています。

本日は園芸サークル♥マーガレットのメンバーの学生を中心に、いつも賛美歌タイムでギターを伴奏してくださる加藤さんの「誕生日会」を内緒で計画していました。

ところが当日は加藤さんの振替休日と分かり、急遽計画を変更し、サプライズでハッピーバースデーを歌い、その様子を動画にし誕生日プレゼントとして加藤さんに贈ろう~ということになったのです。

「動画を撮って早く喜んでもらいたい」そんな、はやる気持ちをおさえつつ、私たち学生は加藤さん不在の中でも讃美歌集を頼りに歌い始めました。

すると、なんとその時、お休みと聞いていた加藤さんが、突然現れたではないですか!

それにはメンバー全員びっくり\(◎o◎)/!

しかし、すぐに気を取り直し「ハッピーバースデー」を歌い、お祈りをした後は、加藤さんのギター伴奏に合わせて、オルガン、タンバリン、鈴を奏でながらパーティータイムさながらの賛美歌タイムが始まりました。

「賛美歌タイムはパーティータイム?」

これからも…楽しく爽やかに。

祈りとともに、賛美歌タイムを大学生活の価値ある場として、楽しんでいきたいと思います(^o^)/ (岩付)

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